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神殿の裏庭で、フウセイアは楽しそうに風と戯れていた。
小さな風の渦に脚先を突っ込んでみたり、吹き上がる風と共に落ち葉を鼻先で舞わせてみたり。ジーナはそんな姿を目にする度に、実は意外とフウセイアは若いのではないか、と思ってしまう。——風馬に年齢という概念が当て嵌まれば、だが。
「ああやって風と遊んでいるのかしら。楽しそう」
ジーナの隣に腰掛けて一緒にフウセイアを見ていた少女が、くすり、と笑った。
ジーナたちをこの場に招き入れてくれた巫女見習いの少女は、リーラと名乗った。ずっとおどおどとしていたリーラが笑顔を見せてくれたことに、ジーナは安堵する。
「濃い風の気と触れ合うのが心地良いみたいよ」
「それも風馬の血が流れているからなのね。本当にキレイな馬」
感心したようにフウセイアを眺めているリーラに、ジーナは内心でそっと頭を下げた。
(嘘をついてごめんなさい。でも、さすがに、いきなりフウセイアが本当は風馬だとは言いづらくて)
“風馬の血が流れている馬”というのは、フウセイアを神殿の濃い神気に触れさせるために、ジーナが毎度使う言い訳だ。
実際にそんな馬がいるかどうかは知らない(フウセイアが否定しないので、まったく可能性のないことでもないのかもしれない、とは思っている)。とにかくそう言えば、馬を神殿に入れることを、納得してもらいやすかった。
今回もそう説明して、神殿の敷地内に入れてもらえないか尋ねた。リーラは少し迷ったようだったが、フウセイアに魅せられたのか、了承してくれた。「皆が祈りの広間に集まっている今のうちに、少しだけなら」と言って、裏門を開け、裏庭にジーナたちを導いてくれた。ここは裏庭ではあるものの、祈りの広間の真裏に当たるので、神気の濃さは十分だろう、ということだ。
その庭は半分ほどが薬草などを育てる畑、残り半分は井戸がある他は、雑草がところどころ生えているだけの空地になっていた。その空地の部分をフウセイアが歩き出すと、どこからともなく風が集まってきた。
人を困らせない穏やかな風なのに、フウセイアの近くになると急に強くなったり、向きを変えたり。まるで風たちも風の神獣の来訪を喜んでいるようだ。
ジーナたちは神殿の作業室だという部屋のすぐ外側に置かれていた薪の束に腰掛けて、そんなフウセイアを見ていた。脇にはリーラが淹れてくれた薬草茶がある。
「やっぱり、お邪魔して良かったのかしら? 来客があるなら、あなたも忙しいんでしょう?」
「ううん。あたしは表には出ないから大丈夫。だって、こんな姿を偉いお客様にお見せするわけにはいかないもの」
「……え?」
聖布を引っ張りながら顔を俯けた少女を、ジーナはまじまじと見返した。
痩せた身体には少し大きな巫女服だが、濃茶の髪はきちんと編まれているし、顔や目立つところに傷があるわけでもない。リーラが何を気にしているのかわからない。
「巫女見習いの人が表に出てはいけない決まりでもあるの?」
「いいえ」
「じゃあ、どうしてリーラは偉い人に姿を見せられないの? どこにもおかしなところはないのに」
とたんに、ばっとリーラの顔が上がった。眉が寄せられ、目元が赤くなって、今にも泣き出しそうだった。
「どこにも!? そんなことあるわけないじゃないっ! 誰が見たってすぐわかるわっ。この、不吉な、真っ黒い髪と目は!」
編み込んだ髪をぐっと握って、吐き捨てるように言ったリーラの勢いに、ジーナは目を見開く。
何が彼女に自分自身の色彩を“不吉”と言わせているかはまだわからなかったが、とにかくリーラが自身の外見をとても気にかけていることはわかった。なので、言葉を選びながらそっと話を続ける。
「えっと、あなたは真っ黒と言うけれど、わたしには濃いめの茶色の髪と、灰色の瞳に見えるけれど」
「それは、ここは陽の光があるから。暗いところだと忌まわしい黒になるの。まるで恐ろしい“闇”みたいに」
「そんなことないわ。“闇”は、もっとずっと暗い、黒々とした闇よ。リーラに限らず、人が身に持てる色じゃないわ!」
ジーナの力の籠った表現に、リーラはおじおじと目を動かす。
「……ジーナは、“闇”を見たことがあるの?」
「ええ。何度もあるわ。そのわたしが言うんだから間違いない。リーラ、あなたの髪も瞳も“闇”とは全然違う。真っ黒じゃないし、不吉でもないわ」
きっぱりと言い切ったジーナに、リーラの瞳が揺らいだ。
「……本当に? この髪も目も、黒じゃない? “闇”を呼ぶ色じゃない?」
「““闇”を呼ぶ”? 髪の色だけで、そんなことありえないわ」
「でも……だって、みんな言ってたもの。忌まわしい色だ、こんな真っ黒で“闇”みたいだ、いつか“闇”を招き寄せるんじゃないか、って」
リーラの告白に、ジーナは目を剥いた。
濃い髪色よりも明るい髪色の方が好まれる風潮があるのは知っていたが、濃い髪色をそこまで貶めるのは初めて聞いた。王都にも黒に近い髪色の人はいるが、そんなことを言われたり差別されたりはしていない。
少し髪色が濃いだけでこんな扱いを受けるのは、“闇”期に入って“闇”への恐れが増したからなのか。田舎の人々の思い込みか。あるいは小さな神殿内の閉鎖性ゆえか。
いずれにしろ、何の根拠もないことで、一人の少女をこんなに苦悩させているのは間違っていると思う。
「そんなこと、本当にないわ。たとえリーラがもっと真っ黒な髪だったとしても、それだけで“闇”が現れることは絶対にない。“闇”はどこにでも出てくる可能性があるし、それはきっとミゼルコリア神自身も制御しきれないことよ。だから、リーラ。自分の髪や瞳を、忌まわしいだなんて、悲しいことは思わないで」
「……そんなこと、誰も言ってくれなかった……」
黙って聞いていたリーラは、再び顔を伏せて肩を震わせだした。
ジーナは隣で、ただ彼女の涙が落ち着くのを待っていた。
細い少女の背中を見つめながら、以前にも似た状況があったことを、思い出す。
あれは——同じように暖かい陽の射す、王宮の庭だったか。ジーナの隣にあったのは、彼女よりも大きな背中で。けれど、今と同じように、その背も静かに震えていた。
幼かったジーナにはその涙の理由はわからなかった。ただ、傍にいてあげなければいけない、ということはわかっていた。
(……わたしの前で兄さまが泣いたのは、あのときが初めてだったわ)
そして、それ以外には、知らない。
『どうして、ロイ兄さまは一緒にお祝いできないの!?』
あれは何の祝いの場だったのか。大好きな従兄が同席してくれないことに、幼かったジーナは駄々をこねていた。
使用人たちの目を盗んで、身支度の途中で抜け出して。離れの館に一人でいたロイエルセルトの元に駆け込む。一緒に行こうと手を引いて庭まで連れ出して、けれど従兄はそれ以上先には進んでくれなかった。
『仕方ないんだ、ユーフィ。私が行くと、皆に余計な緊張を強いる。互いに嫌な思いはしない方がいいだろう』
『兄さまが強い魔力を持ってるから? それだけで嫌うなんておかしいわ!』
『嫌っているわけではない。ただ不安なんだろう。王族の男が魔術を扱えることに』
ミコリアの王族には、高い魔力を持つ者が少なかった。特に男性には、少ない魔力の持ち主すら滅多に現れない。そんな中で、桁違いに強い魔術を扱えるロイエルセルトは、確かに異質だった。
異質な存在には警戒心が働く。特に、前回の“闇”期から百五十年以上経って、いつ次の周期が始まるかという状況だったから、人々の神経も尖っていたのだろう。ロイエルセルトを、“闇”期の先触れではないか、などと言い出す輩もいた。
『せっかくの祝いの場なんだ。忌まわしいことを思い出させる私はいない方がいい』
ロイエルセルトは屈んでジーナに目線を合わせながら、静かに微笑んだ。彼の灰色の瞳は穏やかで、それがジーナにはかえって悲しかった。この従兄は、自分への理不尽な扱いを受け入れてしまっているんだ、ということが。
ジーナは唇を噛み締めて、ふるふると頭を振る。そして、ロイエルセルトの首にぎゅっと抱きついた。
『ユーフィ?』
『そんな悲しいことを言ったら嫌』
『ユーフィ』
『ロイ兄さまは、忌まわしくなんかない。男の人の魔術師なんて、いっぱいいるわ。兄さまが魔術を使えることは、悪いことじゃない』
従兄の肩に顔を埋めたまま、ジーナは必死で言葉を探した。
『……他の人たちが何を言っても、わたしは兄さまが不吉だなんて思わない。兄さまは、素敵な兄さまだわ』
それ以上はどう言ったらいいかわからなかった。ただ、ロイエルセルトに自分を卑下してほしくなくて。ジーナは彼のことをもっともっと大切なのだ、と伝えたくて。回した腕に力を込める。
やがて、ジーナの背にそっとロイエルセルトの手が添えられる。
『……ありがとう、ユーフィ』
擦れるほどに小さな声も、ジーナを包み込む肩も、微かに震えていた。
ロイエルセルトの顔は見えない。ただ、彼が泣いていると感じて、ジーナは黙っていた。自分よりずっと大人だと思っていた従兄でも泣くことがあるのだ、という衝撃よりも、彼を気遣う気持ちの方が大きかった。
そのままどれくらい経っただろう。
ジーナの肩に伏せられていたロイエルセルトの顔が上がって、ゆっくりとジーナから離れる。ジーナに向けられた瞳には、もう涙の名残はなく、いつもどおりに明るい灰色だった。
『さて。ユーフィはそろそろ戻らなければ』
『兄さまも一緒に行きましょう』
『いいや。やはり私は遠慮しておく。私を心配してくれたユーフィの気持ちだけで充分だ』
『……じゃあ、わたしもここに一緒にいるわ』
『ユーフィ』
『いいの! あっちにはたくさん人がいるから平気よ。だいたい、わたしは兄さまの側にいる方が楽しいもの』
そう言い張って、ジーナは従兄の隣から動かなかった。
捜しに来た使用人たちには号泣して抵抗し、最終的には兄王子が迎えに来て、それでも戻ろうとせず。妹に甘い兄は早々に根負けして、ロイエルセルトに同行を依頼し。ロイエルセルトも王太子の要請は断れずに、結局は皆で祝いの場に向かうことになったのだった。
遠い日の記憶は、そのときの陽射しのように暖かい。けれどその穏やかさが再び訪れることはないという事実が、胸の奥に重い痛みも同時にもたらす。
その痛みに眉が下がっていたジーナの視界に、亜麻毛の長い脚が入ってきた。いつの間にかフウセイアが近付いてきていた。
それに気付いたのだろう。リーラも顔を上げる。まだ目元は赤かったが、もう涙は止まっていた。
「満足したのかしら?」
フウセイアの方を向いて、照れを隠すようにそう言いながらリーラは立ち上がった。
「お茶が冷めちゃったわね。もう一回淹れてくるわ。ジーナはまだゆっくりしてて」
気を遣わないで、と伝える前に、リーラは室内に駆けていってしまう。
残されたジーナは、浮かしかけた腰を薪に戻した。リーラがいなくなったからか、フウセイアの声が頭に響いてきた。
< 我が傍にいるだけでは足りぬかな >
「……もうっ。フウセイアには筒抜けなんだから!」
頬を軽く膨らませて怒ったフリをして、だがジーナはすぐに苦笑して肩を竦めた。
「フウセイアが傍にいてくれるのは、もちろん嬉しいわよ。誰かと一緒にいられれば、それだけで心強いもの」
ふと脳裏に、真っ黒な霧の中に佇む、白い姿が浮かんだ。
彼はあの禍々しい“闇”に囲まれて独りきりでいる。それは寂しくないのだろうか。
神の澱を掠め取って邪な力を得ようなどと不遜なことを考える人物だ。そんな感情は、もうどこかに捨て去ってしまっただろうか。現に、先日ジーナの前に現れたときは、悠然としていたのだから。
けれど、遠い日にジーナの隣で震えていた背中を思い出してみて、強がっていた少年と、“闇”の中にいた青年が、どこかで重なる気がした。
(——重なってほしい、とわたしが望んでいるだけかもしれないけど)
無益な思考を振り払うように頭を振って、ジーナはフウセイアの首筋をゆっくりと撫でたのだった。
茶を淹れ直すために、リーラは作業室を出て炊事場へ向かった。
涙の名残がないように、目のまわりをこすっておく。その拍子に傾いた頭の聖布を深く引っ張ろうとして手が止まった。少し躊躇って、それから常よりもいくらか浅めに被り直す。
(ジーナは、不吉な色じゃない、って言ってくれたわ)
巫女見習いとしてこの神殿に入ってから数年、髪や目を貶されなかったのは初めてのことだった。出逢ったばかりの旅人の言葉であっても、リーラにとっては大きな出来事だ。編み込んだ髪の束が、心持ち軽くなった気がする。
小走りで炊事場に着くと先客がいた。年配の料理女が湯を沸かしているところだった。リーラは控えめに湯を分けてくれないか申し出る。
「いいですけど、リーラさんもその前にちょっと手伝ってくれませんかね。お祈りがひと段落して、神官長様たちにお茶を出さなきゃならないんです」
「え……でも、あたしがお客様の前に出るのは……」
「控えの間までなら巫女頭様も文句言われないでしょう。他の者はみんな泊まる部屋の準備に出払っちまってて、あたし一人で湯と器を持ってくのは大変なんですよ」
確かに、料理女一人では、ここと広間を何往復もしなければならない。そして先ほどジーナに言われたことが、彼女を後押しした。
「わかりました。どれを持ったらいいですか?」
指示されたポットを持ち、料理女の後について、広間脇の小部屋に向かった。
控えの小部屋と祈りの広間の境壁には、使用人が主たちの様子を察するための透かし彫りが何箇所か施してあって、小部屋から広間の様子が伺えるようになっている。小部屋のテーブルにポットを置き、茶の準備を手伝いながら、リーラはその壁のむこう側に意識を向けないではいられなかった。
先ほどはちらりと見えただけの神官長一行の様子が、この部屋からはよく見えた。
手前にルビナ神殿の神官や巫女頭がいて、その奥に神官長たちが座っている。神官服姿の数人と、護衛らしい濃紺のマント姿の数人。その中心にいるのが、高位を示す紫の神官服を着た人物。室内でも艶やかな濃い金髪が目を引く。秀でた額と通った鼻筋、穏やかに微笑む青年だった。
(神官長様って、あんなにお若い方だったんだ。もっとお爺さんだと思っていたわ)
だが、さすが王都の神官長を勤めている人物なだけある。緊張に上ずり気味な巫女頭のお喋りに応える声は、若々しいが落ち着いていた。
「こんな小さな神殿にわざわざ視察にお越しくださいまして、本当に光栄ですわ!」
「こちらの神殿は、重要な神気脈の途上にありますからね。“闇”の到達を予測するのに必要なことです」
「そうでしたか。……何でも、近くのテオラの街にも、先日“闇”が出現したとかで。恐ろしいことです」
「テオラの“闇”は、今日は護衛に付いてくれているこの魔術兵団が駆逐していますが、油断はできません。何か異常を関知したら、すぐに知らせてください。ここに“闇”が現れたら、王都に届くのもあと僅かなのです」
「かしこまりました。ああ、もちろん、そんなことが起こらないよう、わたくし共は毎日、神への祈りを欠かしておりませんので! 不吉なものは排除しますわ!」
巫女頭の甲高い声に、リーラは反射的に身を竦めた。聖布の縁に手が伸びて、それを引っ張る。
彼女に見咎められないうちにここを去ろう。そう思ったリーラだったが、続いて聞こえてきた神官長の言葉に、耳が吸い寄せられた。
「それから。“闇”が現れる前後に、白金の髪の少女と亜麻毛の馬を見掛けたら、それも報告していただけますか」
「少女と馬ですか? また、なぜその組み合わせを?」
「“闇”に関わる、重要な存在なのです。我々もずっと捜しているのですが……」
「ジーナのこと……?」
神官長たちが捜しているという人物の特徴と、つい先ほどまで裏庭で一緒にいた少女が重なる。
(重要って、どういうこと?)
動揺したからだろうか。膝先がカップのひとつに触れて、ぐらりと傾く。
しまった、と思ったときには遅かった。がしゃんっ、と大きな音が足元で鳴る。
「何をしているのですか……っまぁ! リーラ! どうして貴女がここにいるのですかっ。姿を見せるなとあれほど言ったというのに!」
音を聞き付けたのだろう巫女頭が、目尻を吊り上げて小部屋に入ってきた。そしてそこにリーラがいるのを見付けて、さらに視線が厳しくなる。
「奥にいろと言っておいたのに、のこのことこんな表に出てきて、しかも粗相をするなんて、本当にとんでもない! 貴女は自分がどんな存在か自覚がないのですか!? こんな真っ黒な髪と目で、忌まわしいっ!」
甲高い巫女頭の叱責に、いつものリーラだったら小さく項垂れてひたすら許しを乞うている。だが、今日は少し違った。自分を肯定してもらえた経験が、彼女に顔を上げる勇気をくれていた。
「カップのことは申し訳ありません。すぐに片付けます。でも……」
「“でも”、何です?」
「でも、あたしの髪は、真っ黒じゃない。忌まわしい色じゃないって、ジーナが言ってくれました!」
「“ジーナ”? 誰のことか知りませんが、忌まわしいに決まっているじゃないですか。どこが黒じゃない? こんなに黒々として、不吉な“闇”と同じです」
「違う、って。ジーナは実際に“闇”を見たことがあるから、全然違う色だって……」
「だから、そのジーナとやらは誰なんです。とにかく、貴女は神殿には相応しくない存在なの。奥で大人しくしているならまだしも、こんなところまで出てきて。神官長様のお目に触れたらどうするつもりですか!」
巫女頭にはリーラの話を聞く気はまったくなさそうだった。一方的に言い切ると、リーラの腕を掴んで力ずくで彼女を追い出そうとする。部屋の隅にいた料理女は、申し訳なさそうな顔をしつつも手助けできずに突っ立っている。
「不吉じゃない……っ」
目に涙が滲んできた。それでもリーラは、そのことだけは主張したかった。
これまで巫女頭からも他の神職たちからもずっと、お前は忌まわしい存在なのだと言われ続けて、自分でもそう思い込んでいた。
だが、ジーナにそんなことはないと言ってもらえて、とても救われた。ここでもう一度“忌まわしい”というのを受け入れてしまっては、ジーナに救われた気持ちを否定してしまう。だから、それだけはリーラは必死だった。
「ごちゃごちゃ言ってないで、早くここから出ていきなさい!」
「——取り込んでいるところにすみません」
巫女頭がいよいよリーラを部屋の外に押しやろうとしたとき、場違いなくらいに落ち着いた声が割って入った。
「神官長様!」
祈りの広間との境に立っていたのは、金髪の若い神官長だった。
思いがけず登場した客人に、巫女頭は慌てて取り繕う言葉を探す。
「お騒がせして申し訳ありません! お見苦しいところがございまして……」
巫女頭はわざとらしいほどの笑顔を貼り付けて言い訳を始める。だが、神官長は巫女頭を緩く遮った。
「すみません。私が尋ねたいのは、そちらの少女です。巫女見習いですか?」
神官長の視線が向けられたことに、リーラはとっさに身を竦めた。
やはり、自分の外見は不快なものだったのだろうか。巫女には不適切だと言われるのだろうか。
神官長がリーラに注目したことで、巫女頭はいっそう狼狽する。
「っこの娘は! 確かに巫女見習いの格好をしておりますが、わたくしの血縁で他に身寄りがないため仕方なくこの神殿に引き取っているだけで、特別なことをさせようというつもりはなく……申し訳ありません。このように真っ黒で汚らわしい者の姿をお目に触れさせまして!」
早口で捲し立てる巫女頭を、神官長は再び遮った。
「何かこの少女に不都合でも?」
「え……? 見ておわかりのとおり、この真っ黒な髪と目は、まるで“闇”のようで、神殿に仕える者としては不吉で相応しくないかと……」
「何を不条理なことを言っているのです。神に仕えるのに、見た目など何の関係もありません。そのようなことで差別する心根の方が、神職にはよほど相応しくない」
「……は?」
神官長は穏やかな微笑みを絶やさないまま、巫女頭を否定する。その辛辣さをすぐには飲み込めなかったのか、巫女頭はぽかん、と口を開いたまま停止している。
「だいたい、その少女の髪も瞳も、黒よりはよほど明るいではないですか。“闇”はもっとずっと暗くておぞましい、人がまとえる色ではありません」
リーラの方も、突然のことに理解がついていかず、目を見開いていた。
(神官長様も、ジーナと同じことを言ってくださってるの……?)
そのことに思い至って、縮こまっていた身体からじわじわと力が抜けていく。
そんなリーラに、神官長は優雅に近付いてきた。
「貴女に尋ねたいことがあるのですが、よろしいですか?」
「っは、はいっ」
「貴女は先ほど何度か“ジーナ”と言っていましたね。もしかして、白金の髪の少女と亜麻毛の馬に心当たりがあるのではないですか?」
「神官長様は、ジーナのことをご存知なのですか?」
「ええ。何度もお会いしたことがあります。ただ、旅に出られてからのことはわからないので、どうしておられるのだろうと気になっているのですよ」
神官長ほどの身分の人が、ジーナに対して敬語を使うことにわずかに違和感を覚える。しかし、神官長の柔らかな物腰と、何よりリーラの髪や目の色を否定しなかったことが、彼に対する疑念を払拭させていた。
「そうですか。ジーナだったら、今は裏庭にいます」
神官長の目が鋭くなって、背後にいた魔術兵団に向かって小さく頷いた。兵士の一人がそっとその場を離れる。だが、リーラはそのことに気付けなかった。
「裏庭に?」
「はい。彼女の馬に、濃い気をあげるためにって、しばらく前にやってきたんです。何でも彼女の馬は風馬の血を引くそうで……って、神官長様なら、それも知ってらっしゃいますか」
「ええ。なるほど、そういうわけで神殿にいたのですね。……リーラさんと言いましたね。久し振りに彼女に会いたいのですが、その裏庭に案内していただけませんか」
「それなら、ジーナをこちらに呼んできましょうか?」
「いいえ。私が伺います。こっそり行って、彼女を驚かせたいのです」
神官長はいたずらっぽく目を細めた。偉い人でもそんなことを考えるんだ、と親近感が湧いて、リーラは笑顔になって頷く。
「わかりました! それでは、裏手のごちゃごちゃしたところを通りますがお許しください」
「ありがとうございます」
さっそく、と身体の向きを変えたリーラには、神官長が口の端だけ持ち上げたのは見えなかった。