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ミゼルコリアの澱を浄化する巫子は、その身に神聖なる証を宿すという。
どのようなものか人々には知られていないその証とは、特別な封珠である。
“闇”期に入るのとほぼ同時に、胸元に空の封珠が浮かび上がってきた者が、巫子となる。
魔術師が己の気を封珠に込めるのと同じように、巫子が祈って神の澱を封珠に閉じ込めることで、神の身の裡の澱を浄化するのだ。
事情を知る人々は、巫子の体に宿った神のための玉のことを「ミゼルコリアの封珠」と呼んでいる——
吹き過ぎる風に舞い上げられないよう、ジーナは白金の髪を押さえた。
髪の下、左耳の飾りも一緒に手で束ねてしまう。耳飾りが鳴る音は聞きたくなかった——耳飾りは風に揺れただけでは鳴らない、とわかっていても。
< 浮かぬ顔だな >
フウセイアの声に、ジーナは慌てて手を下ろした。
「そんなことないわっ。だいたい、そこからわたしの顔は見えないでしょ」
ジーナを背中に乗せて進むフウセイアの薄黄色の目は、街道の前に向いている。だが、神獣にとって物を“見る”ことは、その目にほとんど頼ってなどいない。もちろん、ジーナもそんなことは充分承知しているのだが。
だからフウセイアも、その文句には特に触れなかった。
< この先の街に向かうのは気が重いか? >
「だから、そんなことはないって。ルビナの街には神殿があるし、たまにはフウセイアも休みたいでしょう」
神や“気”に関わるのは同じでも、神殿と魔術庁では役割も系統も異なっている。神に仕えるのを第一に、祭事に携わるのが神殿であり、そこに属する神官や巫女たちだ。一方、世界に満ちる神の四気(風/水/火/土)と自らの気を混ぜて操る魔術師たちを束ねる機関が魔術庁である。魔術庁は人々の日々の生活を助けることが第一義になっている。
各街に設置されている魔術庁支所と違って、神殿がある街は限られている。神に祈りを伝えるため、神殿は神気脈が特に濃い地にしか建てられないからだ。
その神殿は、神獣にとっても英気を養うのに適した場だ。特に、あちこちの“気”が荒れている“闇”期の今は、穏やかな風の気を感じられる場所は少なかった。
< 我のことは気にしなくていい。我が姫を気に入って付き従っているだけなのだから。必要になったら、自ら必要な場所に赴く >
フウセイアがジーナの側に居着くようになったのは三年ほど前からだ。滅多に人に慣れないという風の神獣がどんな気紛れを起こしたのか。人の側にいても差し障りないように、わざわざ馬に模した姿までまとって、ジーナに従っていた。
だが、見た目は馬とはいえ、中身は風の加護を受けた神獣だ。他の人間に従うことはないし、背に乗せることもありえない。その声も、ジーナ本人か、あるいは高い魔力の気を扱える者にしか聞き取れない。
「でも、わたしがあなたを連れ回しているのには変わりがないから」
ジーナが巫子になり、籠められていた神殿から出奔する際、フウセイアを王都に残してくるつもりだった。それなのにフウセイアは彼女に付いてきてしまったのだ。
ふと、フウセイアの背中が揺れて、笑ったのが伝わってきた。
< 姫は面白いな。望むことのために自分の意志を貫いて王都を飛び出してきたというのに、些細なことには他者に気を遣うのか >
「……」
返す言葉かなくて、ジーナは口ごもってしまった。
フウセイアの指摘はその通りである。巫子への期待を裏切り、追いかけてくるサリュウたちからも逃げている段階で、皆に迷惑をかけていることはわかっている。それが自分の我が儘だということがわかっているからこそ、その罪悪感から、それ以外の部分ではできるだけ他者に無理を強いたくないと思ってしまうのだ。
「ルビナの街に寄ること自体は、本当に構わないの。ただ、ルビナに“闇”が出ないといいな、と思っているだけよ」
< あの魔術師に会いたくないのか >
「……わからない」
国中に溢れ始めた“闇”を退けながら、邪な望みを抱いて姿を消した従兄を捜し出し、連れ戻すつもりだった。
彼はジーナに迫るくらいの強大な気の持ち主である。そしてジーナと違って力に偏りはなく、更に修行も長く積んでいるので、魔術師としての技巧は敵う相手ではない。それでも何とかして対抗できると思っていた。
けれど、実際に従兄と対面してしまうと、“闇”の中でも平然としているその姿に、どうにかできる気がしなくなってしまった。
自分には、本当に彼の野望を阻むことなどできるのだろうか——
< まあ、このあたりの気はまだ潤っている方だ。この先の街に、今すぐ澱が溢れてくることはないだろう >
「わかったわ」
確かにフウセイアの言う通り、進んでいる街道の周囲は、まだいくらか緑も残っているし、風も湿り気を感じられる。
ジーナは頷いて、行き先の街に向かって背筋を伸ばした。
「早くなさい! 間もなく神官長様の御一行がお着きになる時間ですよ!」
いつもはすました話し方をする巫女頭が珍しく声を荒げるくらいに、ルビナ神殿は慌ただしい。
そんな中で、巫女見習いのリーラは所在なく佇んでいた。巫女たちが忙しなく祈りの広間に向かうのを、隅の方で見ているしかない。
最後の巫女が、頭の聖布の傾きを直しながら広間に駆け込んでいく。それを見届けた巫女頭は、広間の扉を閉めながら、扉の外で待つリーラに冷たい視線を向けた。
「貴女は奥の備品庫にでもいなさい。神官長様方に、不吉なその姿をお見せするわけにはまいりません。わかっていますね」
「……はい」
リーラは消えいりそうに小さく答えるしかできなかった。できるだけ髪が隠れるように聖布を引っ張って、瞳が見えないように顔を俯ける。
バタン、と扉が閉められて、周囲はとたんに静かになった。誰もいなくなった回廊を、リーラはとぼとぼと歩きだす。
今日はこのルビナ神殿に、王都の大神殿から神官長たちが査察に訪れる日だった。地方の小神殿にそんな高位の神官がやって来ることなど滅多にない。ルビナ神殿では、神官や巫女たちだけでなく数少ない使用人も一緒になって、数日前から準備に大わらわだった。
神官長一行を出迎えるのは、神殿正面から続く祈りの広間だ。神官と巫女はリーラを除いて全員が広間に入った。使用人たちも何かに備えて広間の脇の小部屋に控えている。神殿の奥に向かっているのはリーラだけだった。
回廊の端には水が流れる小さな手水盤がある。その水面に揺らいで映った自分の姿に、リーラは重い溜め息を吐き出した。
細っこい身体に身に着けた白色の巫女服。神官や巫女の制服はミゼルコリア神の色である白で統一されている。頭に被る聖布は巫女見習いなので、まだ短く肩にかかる長さ。その聖布の下から、二つに編んだ髪が伸びている。忌まわしい、黒茶色の髪だ。
そして、薄くそばかすが浮く頬の上には、暗い灰色の瞳が自信なさげにこちらを見つめている。
どちらも、白く光輝くミゼルコリアとは正反対。恐ろしい“闇”を思い起こす不吉な黒だ。
リーラはぎゅっと目をつぶって、手水盤の前を通り過ぎた。
そのまま回廊を出て、神殿裏手の作業室に向かう。そこは神殿内で育てた薬草を乾燥させたりするのに使う部屋で、今は誰もいない。リーラの持つ色に顔をしかめる人もいないはずだ。
そのとき、背後からざわついた気配が伝わってきた。どうやら神官長一行が到着したようだ。広間の窓から巫女たちが動いているのが見える。
自分の姿を見られてはいけない、と思いつつも、王都の神官長はどんな人なのか気になって、リーラはしばらくその場から広間の様子を窺っていた。
しばらくして、窓越しにルビナ神殿の人々が整列したのがわかる。その列の間を誰かがゆっくりと進んでいく。
リーラの位置からでは顔貌まではわからなかった。だがこの距離でもはっきりと見えたのは、神官長らしき人物の輝くような濃い金髪だった。
「……やっぱり、神官長様みたいな偉いお方は、綺麗な色の髪をお持ちなのね」
もう一度自分の聖布を引っ張ると、リーラは逃げるように作業室に入る。
作業室に広げられた干しかけの薬草を並べ直しながら、リーラは目にしたばかりの金色の髪のことを考えずにはいられなかった。
このミコリア国では、髪も瞳も茶色を中心とした明るい色彩の人が多い。その最たるのが王族の人々だ。リーラが実際に見たことはないが、話によると、ミゼルコリア神の白い髪と瞳にとても近い、輝くような髪色だそうだ。王族に近い有力な家系も、同じく明るい髪だそうで、先ほど垣間見た神官長も、その一族なのだろう。
もちろん市井の人たちにも明るい髪色の持ち主はいる。だから、金髪だというだけで地位が上がることはないけれども、一方で暗い色の髪色は忌避されていた。特に黒色は。
ミゼルコリアから吐き出される禍々しい澱、人々も森も畑も動物も害する“闇”。真っ黒だというその“闇”と同じ色を身に持つなど、嫌われても仕方がない。ましてや神に仕える巫女だというのに。
リーラ自身でさえも、暗がりで見る自分の髪がとても黒々としていて、我ながら忌まわしかった。
神殿の人々は、リーラが巫女頭の姪なのに気を遣ってあからさまに非難することはないものの、できるだけ彼女に関わらないようにしていた。巫女頭は、リーラが他に身寄りがないので仕方なく彼女を巫女見習いにしているが、疎ましい態度を隠そうともしない。
小さな神殿の中で、リーラは孤立しながら、小さく身をひそめて暮らしていた。
リーラがひと通り薬草を裏返した頃、こつこつ、と硬い音が鳴っているのに気が付いた。神殿裏口の扉の、呼び出し金具が打ち付けられている音だ。
使用人の誰かが出るだろうと思ったが、すぐに全員が広間の方に出払っていることに思い至る。慌ててリーラは裏口に向かった。
「お待たせしましたっ。今日はお客様があって、みなさん忙しくてっ」
裏口なので出入りの農夫か商人だろう、と軽い気持ちで扉を開けて、けれど目にしたのは予想外の人影。
「あら、それじゃあ、今日は遠慮した方がいいかしら」
ぽかん、と見上げるリーラの前で、明るい表情で小首を傾げていたのは、一人の少女だった。
地味な外套と旅装束を身に着け、可愛らしく整った顔立ちの少女はリーラよりも少し年上か。黄玉色の大きな瞳は親しみやすい雰囲気だ。そして何より印象的なのは、陽光が射したように明るく輝く白金の髪だった。
(さっきの神官長様よりも、もっとずっとキレイな髪だわ……)
そんな感想を浮かべながら、リーラはしばらく少女の長い髪に目を奪われていた。
だが、ぶるんっ、という嘶きが耳に入って、我に返る。
改めて見てみると、少女の背後には、亜麻色の毛の大きな馬が静かに控えていた。
(こっちの馬も、キレイな毛色。しかも、目の色も明るいのね)
出入りの業者とは明らかに違う組み合わせに、リーラはおずおずと尋ねる。
「あの、どのようなご用件でしょうか? お参りでしたら、来客中でも受け付けてますから、神殿正面に回っていただければ。厩もありますので……」
「裏口に回ってきたのには理由があるんです。参拝させていただきたいのはわたしじゃなくて、この馬の方なの」
「……え?」
想定外の申し出に、リーラは再び目を見開いたのだった。