3
気付いたときには、真っ黒な霧に囲まれていた。
“闇”に取り込まれたはずだが、周囲には一定の空間があって、身を害されることはなかった。どちらが上か下かもわからない空間でも、身体は落下することなく保たれている。真っ暗な霧の中のはずなのに、自分ともう一人の姿だけは不思議とはっきり見えた。
ジーナは自分をここに引き込んだ人物に険しい視線を向ける。
その青年は彼女から少し離れたところに立っていた。現れたときと変わらない、静かな微笑を整った顔に浮かべている。
「こんなところに閉じ込めて、どうするつもりですか?」
「あの場では騒がしい。静かなところでゆっくりお前と語らいたかったのだ」
「わたしには、あなたと話すことなどありません。ロイエルセルト様」
言い切って顔を背けたジーナだったが、横目で青年を探ることはやめられなかった。
流れる艶やかな白銀の髪は、光のない暗い場所だからだろうか、記憶にあるよりも灰味がかって見える。灰色の瞳には、以前と同じ柔らかい微笑み。だが笑っているはずなのに、受け取る印象はとても冷たい。
「つれないことだな。私の花嫁は」
「……っあなたの、花嫁になどなった記憶はありませんっ! わたしは……」
「“ミゼルコリアの花嫁”なのだろう。だったら大人しく神殿に籠っていたらどうだ」
揶揄を含んだロイエルセルトの声音に、ジーナは唇を噛む。
「あなたはご存知でしょう。わたしには念じたり祈ったりする能力が著しく欠けていることを。力が足りないのに神殿の中で祈っているよりも、外に出て“闇”を退けるのを手伝う方が、わたしの力を人々の役に立てられます」
ジーナ——ユーフェルジーナが神の澱を浄化する巫子として選ばれたのは、半年ほど前。国王の妹姫の選出に人々の期待は高まった。強大な魔術を操れる姫が巫子になれば、“闇”期の終焉も早いだろう、と。
人々は知らないのだ。巫子姫の力が偏っていることを。それを欺いて、安全な神殿の中に籠っていることに、ジーナは耐えられなかった。
「だが、お前が巫子であることに変わりはない」
離れていたはずのロイエルセルトが、いつの間にかすぐ目の前にいた。
ぐい、と片腕が背中にまわり、もう片方の手がジーナの胸元に伸びる。外套ごと、服の襟元を引き下げられた。
「っやめ……っ」
「ほら。ここにその証が」
ジーナの制止は間に合わなかった。
大きく広げられた襟元から白く滑らかな肌が覗く。だが、華奢な鎖骨が交わる少し下辺りに、その肌とは異質なモノが埋まっていた。
それは、透明な玉。
普通の封珠をふた回りほど大きくしたものが、肌の奥から半分ほど浮き上がっている。
「神の澱を封じる特別な封珠。これを身に宿しているお前は、どう逃れたところで、巫子に変わりない」
ロイエルセルトの長い指が、ジーナの肌に埋まった封珠を撫でる。その手が少しずれて、鎖骨の辺りをわずかになぞった。
冷たい指の感触に、ジーナはびくり、と身を竦める。指は確かに冷たいのに、炎に触れられたかのような熱を感じて、思わず目を閉じた。
そんなジーナの反応をどう捉えたのか。背にまわっていたロイエルセルトの腕に力が加わる。
「お前は“ミゼルコリアの花嫁”なのだ。そして、私がこの手に神の力を収めれば、すなわち我が花嫁となるのだよ。ユーフェルジーナ」
襟元を引っ張っていた手がジーナの頬にかかった白金の髪を払う。その弾みに、左耳の飾りが揺れる。
「こんな封珠一個を頼りに私を追い求めなくても、神殿で大人しく待っていれば、そのうち迎えにいってやるのに」
ロイエルセルトの指が耳飾りに触れそうになって、ジーナは慌てて顔を背けた。
「……違います! わたしがあなたを追っているのは、その大それた望みを打ち砕くため。あなたを待ち望むことなどありません!」
思い切り身を捩ると、意外とあっさり拘束は外れた。
手早く襟元の乱れを直して、改めてロイエルセルトを睨み据える。
「あなたに懐き、魔術の教えを請うていたのは、もう過去のことです。神の力を掠め取ろうとし、“闇”期を長引かせ、国を混乱させようとしているあなたに、寄り添うことなんてできない! 巫子の役割を全うできない代わりに、わたしはあなたの野望を阻止してみせます!」
「勇ましいことだが、現実を見るがいい。お前一人でどこまでのことができる? これまで辿ってきた街のうち、いくつの街を救えた?」
「……っ。それは……っ!」
「無謀なことはしないでおくものだ。私の花嫁」
ロイエルセルトの口から紡がれるのは愛おしむ声音なのに、ジーナにとっては重い鎖のように感じられた。それに耐えるように、ジーナは指先が白くなるほど手を握りしめて立ち尽くす。
そんな彼女を最初と変わらない微笑みで見つめていたロイエルセルトの手が、ジーナの白金の髪に伸びてきた。ジーナは身を硬くして構える。だが、長い指は髪に触れる直前に止まって下ろされた。
「もっとゆっくりと再会を楽しみたかったのだが、どうやら邪魔が入りそうだ」
何かに耳をそばだてるように視線を逸らし、すう、とジーナから離れていく。
「また会おう、私の花嫁」
「待っ……!」
縋る言葉は最後まで言えなかった。
前に踏み出そうとしたところで、突然に足場を失う。
ふわりと身体が浮遊した感覚があって。
次の瞬間には、吐き出されるように急速に、周囲から暗い闇が引き消えていった。
「ジーナ!」
レイデリオンの叫びに、少女と青年を飲み込んだ“闇”は何の反応も見せなかった。
黒々とした霧がどろどろと渦を巻くのを、ただ見つめるしかできない。そこに自分も近付こうとは思えなかった。理性はジーナを助けるべきだと訴えていても、本能が“闇”に抗うことを拒否している。
「ジーナ! おいっ。魔術師のセンセイたち! 何なんだ、あれは? なんで、“闇”の中から人が出てくるんだよ!? 引きずりこまれたジーナはどうなるんだ!?」
「……いや、我々にも、何がなんだか……“闇”に触れて平気な物や人がいるなんて、聞いたこともない」
役に立たない魔術師たちに、レイデリオンは舌打ちする。
何か助けになるものはないかと周囲を見回して、残されていたジーナの大きな馬が目に入った。
亜麻毛の馬は主人が連れ去られたことを理解しているのか、凛々しい顔を“闇”の方にじっと向けている。獣の本能もあるだろうに、“闇”を恐れていないその姿に頼もしさを感じて、レイデリオンはフウセイアに近付いた。
「なあ、お前のご主人を助けるにはどうすればいいだろうな」
レイデリオンの言葉が通じたわけではないだろうが、そのときフウセイアが東の方に鼻を向けて嘶いた。
「何だ?」
その答えは、すぐに明らかになった。
レイデリオンが首を伸ばしたときには、東の街道から城壁沿いに、騎馬の一団が駆け寄ってきていた。
背に翻るマントは、“闇”避けの魔術陣が刺繍された揃いの濃紺。剣とともに腰に提げているのは、内に焔を宿した玉の連なり。先頭に掲げるのは、ミコリア王国軍の紋章旗。
「魔術兵団!」
希望を見出だした誰かの叫びは、その場の皆の気持ちを代弁していた。
“闇”に対抗するための待望の集団は、十数人の魔術兵士たちだった。彼らは“闇”を目にしても慌てたり怯えたりする気配はなく、馬から降りて整然と並ぶ。
中心にいた団長らしき若い男が、進み出て領兵たちに敬礼した。
「我々はミコリア王国軍魔術兵団だ。魔術庁の要請に基づき、“闇”の排除にやって来た」
「助かった! 早々の到着に感謝する。我らや支所の魔術師では手に負えない状況だったんだ」
領兵隊長が心底ほっとした顔で、団長の青年に歩み寄る。
「では、さっそく行動に移る。皆は離れていてくれ」
そう言いながら、団長が仲間たちに指示を出そうとしたところに、レイデリオンは慌てて割り入った。
「待ってくれ! まだジーナが中に捕まったままだ! それに、“闇”の中から出てきたあの男も……」
「……ジーナ?」
団長の青色の瞳が、険しく細められた。
「魔術師の女の子が、“闇”の中から出てきた男に捕まったんだ! そいつは、“闇”の中にいても平気な顔してて、だからきっとジーナも、“闇”に吸い込まれずにいるんじゃないかと……」
「団長!」
レイデリオンの説明は途中で遮られた。魔術兵団の一人が指差した先で、“闇”が大きく波打ち始めている。
「すぐに抑えに入れ!」
「だから、待ってくれって!」
マントを掴んで引き止めようとしたレイデリオンに対して、団長は落ち着いた眼差しを返した。
「恐らく、その少女なら問題ない」
「え?」
そう言い切る根拠を尋ねることはできなかった。
背後で、“闇”の動きがいっそう大きくなる。団長はもうレイデリオンには構わず、団員たちとともに“闇”に対峙していた。
そんな魔術兵団の前で、“闇”の中心部、先ほどぱっくりと割れてジーナと男を飲み込んだあたりが、ひときわ大きく膨らんだ。かと思うと、一部が腕のように長く伸びて魔術兵団の頭上を越える。見守っていた領兵たちが慌てて後ずさった。
そうしてできた空間に伸びた“闇”の先から、何かが振り落とされた。
「! ……ジーナ!」
それが白金の髪の少女だといち早く気付いたレイデリオンが、真っ先に駆け寄る。ほぼ同時に、亜麻毛の馬も寄ってきた。
その様子を確認して魔術兵団の面々は布陣を広げる。
「*****!」
呪文を唱えながら各人が封珠を投げると、それぞれの髪色の光が立ち上がる。
その光が合わさって白色に近付くと、“闇”の動きが明らかに鈍くなった。
「封珠追加!」
団長の号令に合わせて、団員がいくつもの封珠を投げ、さらに光が広がる。
その光は、“闇”を端から少しずつ包み始めた。それに押されて、“闇”が目に見えて後退していく。それを追って魔術兵団は少しずつ前進する。
「そのまま“闇”を出現箇所まで押し戻せ。出現箇所が判明したら、そこを封印するぞ!」
団員たちの額には汗が浮かび始めていたが、団長の命令に頷いて呪文と封珠を追加し、“闇”に対抗し続けていた。
それを横目に見ながら、レイデリオンは地面に横たわっていたジーナを助け起こす。
幸いジーナの意識はあったし、見た限りでは身体にも異常はなさそうだった。
「大丈夫か? ジーナ」
「……レイデリオン。ええ、わたしは特に問題ないわ」
身を起こしながら、ジーナは周囲を見回す。魔術兵団が“闇”と対峙しているのを見て、訝しげに眉が寄った。
「王国軍の魔術兵団が到着したんだ」
「そう。それなら“闇”はもう彼らに任せてしまっていいわね」
そう言っている間にも、魔術兵団に追われて“闇”はどんどんと遠く小さくなっていっていた。
立ち上がって服の土埃を払うジーナに、レイデリオンは躊躇いながら声を掛ける。
「……ジーナ。その。さっきの男は、魔術師だったようだけど、もしかして」
「ええ。わたしが捜していた人よ」
消えていく“闇”の方を見つめたまま、ジーナは静かに答えた。今までの彼女と違って、声にも顔にも何の表情もないことが、かえって内に抱え込んだ想いの大きさを伺わせる。
「持っていた封珠が、かなり多かった」
「彼は、魔術庁の元魔術師長——この国一番の魔術師だったわ」
「そんな人がどうして“闇”の中にいたんだ?」
「……彼は、“闇”を取り込んで、自分の力に変えようとしているの。“闇”は、害なすものとはいえ、元々はミゼルコリアの裡にあったもの。彼は、神の力を掠め取ろうとしているのよ」
触れるだけで生命力を奪われるはずの“闇”なのに、どこをどうしたらそんなことができるのか、レイデリオンには想像もつかなかった。ただ、あの白っぽい長髪の男が、とんでもない魔術の操り手なのだろう、ということだけは察せられる。
「それから、あの男が君のことを“花嫁”と呼んでいたのは……?」
その問いに、ジーナの顔が痛みを抱えたように歪んだ。
「それは……」
言いにくそうに、それでもジーナが口を開いてくれたとき、二人の間に割って入る声があった。
「ユーフェルジーナ殿下!」
「……サリュウ」
離れたところから駆け寄ってきたのは、魔術兵団長の青年だった。
その青年を見て、ジーナの顔が明らかに“しまった”という色になる。
「だ、団長のあなたが“闇”を放り出してきていいのっ?」
「もうじき出現箇所の封印が終わります。私の手はもうなくても大丈夫です。それより殿下、貴女こそまた、こんなところをふらふらと……!」
サリュウと呼ばれた団長が向ける咎める視線と叱責の言葉に、ジーナは気まずそうに顔を逸らす。
「“ユーフェルジーナ”? “殿下”?」
恐る恐るレイデリオンが問いかけると、サリュウは深々と溜め息をついた。
「この方は、現国王陛下の妹君、ユーフェルジーナ姫だ」
サリュウの宣言に、当のジーナは視線を逸らしたまま馬の首を撫でている。否定はしないらしい。
そして彼女の正体を聞いたレイデリオンにしても驚きはなかった。やはり、という感覚の方が大きい。それでも気になることはいくつもある。
「ユーフェルジーナ姫って……“ミゼルコリアの花嫁”だろ? 神殿に籠ってる巫子だろ? なんでそんなたいそうな方が、一人でふらふらと旅なんかして、“闇”を相手にしてるんだ?」
「それは、わたしなりに理由があって……」
「この領兵の言うとおりです! あちこちの“闇”出現箇所でお会いするたびに申し上げているように、殿下のお役目は神殿で祈っていただくことです。どうぞ王都にお戻りください。国王陛下も殿下の身を案じておられます」
「だから、サリュウ。何度も言うけど、わたしには巫子は務まらないのよ」
「それは私には与り知らないことです。私はただ殿下を王都に安全にお連れするよう言われているのみ。大人しく従っていただけないならば、失礼ながら少々強引にならざるをえません」
サリュウの勢いに押されて、ジーナはかなり困っていた。
脇で成り行きを窺っているしかできなかったレイデリオンから見ても、サリュウは真面目で職務に忠実そうなだけに、反論するには手強そうだ。心情はジーナに加担してやりたいが、彼女の役割を考えると適切な助言は思い付かない。
「さあ。今日こそ我々と共にお戻りいただきます」
サリュウが青色の瞳を見据えて一歩身を乗り出した。つられてジーナが一歩下がる。そして。
「フウセイア!」
亜麻毛の馬の名を呼んだ。
「っ待……!」
サリュウの制止は、突然沸き起こった風に掻き消される。
砂粒を舞い上げる風は、ジーナと彼女の馬を中心に発生していた。その風の向こうに見えた光景に、レイデリオンは目を見張る。
「……風、馬?」
フウセイアの長い脚元、その距毛あたりから大きな翼が広がっていた。
毛色と同じ亜麻色の翼は四本の脚にそれぞれ一枚ずつ。身体を隠すほど大きな翼だが、半透明に透けていて重さを感じさせない。その翼だけでなく、馬の大きな身体全体が淡く輝いているようだ。
その姿を実際に見るのは初めてだが、神殿の石盤や壁絵に描かれているものは知っている。脚に四枚の翼を持ち、風を従えて空を駆ける、風の加護を受けた神獣。その神獣が、なぜこんなところに、と訝るあいだに事態は進んでいた。
その神獣の背に、ジーナがひらりと跳び乗る。
「ごめんなさい、サリュウ。わたしは目的が適うまでは王都には戻らない!」
軽やかな声音でそう告げると同時に、フウセイアの翼が力強く羽ばたいた。
ふわり、とジーナを乗せた風馬の体が浮き上がる。
「殿下! また、あなたはお逃げになる……!」
「ジーナ!」
「レイデリオン、慌ただしくてごめんなさいね。親切にしてくれて助かったわ。ありがとう!」
見上げるレイデリオンに馬上から笑顔を見せて、ジーナは小さく手を振る。そしてそのまま手綱を握った。
それに合わせて、フウセイアが空を蹴る。翼が風を切る。
あっという間に一人と一頭の姿は手の届かない上空に昇り、遠くの空へ向けて小さくなっていく。
レイデリオンとサリュウを始め、その場に残された人々は、ただ頭上を仰いで見送ることしかできなかった。