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寝台脇の小机に荷物を下ろして、ジーナは改めて室内を見回した。
「うん。簡素だけど清潔で、いい宿だわ」
レイデリオンが紹介してくれたのは、領兵詰所近くにある中堅どころの宿だった。部屋は広くはないが湯を運んでもらえるし、馬屋番のいる厩舎もある。風馬は馬盗人などに捕まる心配はないが、フウセイアも落ち着いて休める方がいいだろう。
“闇”が現れた場所からここに来るまでの間に、ジーナはレイデリオンに近辺の領地の様子をざっと伝えていた。
彼女が通過してきた街のうち、既に半分ほどが“闇”の被害を受けている。まだ“闇”が出現していない街でも、荒廃が進んでいるところは多かった。
レイデリオンは、ジーナの話と、実際にこのテオラに出現した“闇”の報告をするために、いったん領兵詰所に戻っていった。後ほど一緒に食事をしようと言われている。ジーナも、この街の“闇”の様子について詳しく聞きたかったので、それを承知していた。
それまでは、しばらくの休憩だ。
まずはもらった湯で旅の埃を落とす。寝台に腰掛けて、濡れた髪が乾くのを待ちながら、荷物の整理を始めた。
鞄の中が片付いたところで、外套の隠しから、透明な玉を取り出す。先ほど子羊を助けるために使って、中の気が空になった封珠だ。これに気を注げば、また同じように焔が灯って、封珠として使えるようになる。
「今のうちに準備しておかないと、よね……」
中身が空なのを眺めながらそう呟いたジーナの声は、かなり気乗りしなさそうだった。
「後でもいいかな……でも、手持ちがこれだけしかないし……」
胸元の首飾りに連なる封珠を撫でる。その数は、十五個ほどだ。
魔術師であれば、どんなときでも自分の封珠を身に着けているものだ。一般的な力量の魔術師で、数十個。これ以上少なくなると、さすがに格好がつかない。
「仕方ない。一個だけだし、頑張るか」
なんとか決意して、ジーナは立ち上がった。
部屋の真ん中まで数歩進んで、右の手のひらに透明な玉を乗せる。左手は身体から少し離して、外側に向けた。
ちらりと部屋の扉に目をやり、鍵が掛かっていることを確認する。それから大きく息を吸った。
薄く目を細めて、透明な玉の中に意識を向ける。
そこに白金の焔が灯る様子を思い浮かべて、それを念じて、そのまま……十を数えても、玉の中に変化はなかった。
「……やっぱりダメか。仕方ない」
ジーナはため息をひとつ吐くと、いったん集中を解いた。
自分の周囲を見回して、すぐそばに燃えそうなものがないことを確認し、左手を軽く掲げて、再び息を吸う。
変化は、すぐに起こった。
左手のひらの少し上で、ゆらりと何かが揺らめく。直後に、ぶわっと大きな白金の焔が立ち上がった。
焔はジーナの髪を舞い上げる勢いで天井近くまで広がる。
白金の輝きが、室内を白く染める。
焔がジーナの身に届きそうなほどに勢いを増す。
そこでジーナの右手が動いた。
空の封珠を持ったまま、焔を包むように左手に被せる。ぐっと握りしめる。
それだけで、勢いの良かった焔は姿を消していた。室内には焔による影響は欠片もない。
ジーナも、直前まで間近に大きな焔があったとは思えない涼しげな顔でそっと手を開く。
手の上には、内に白金の焔を灯した封珠が乗っていた。
先ほどの焔の勢いの名残か、封珠の中の焔はゆらゆらと大きく揺れている。だが、やがてそれも落ち着いた。
それを待ってジーナはその封珠を指で摘まむ。そして、端に開けられた細い穴に糸を通すと、首飾りに追加した。
それから周囲を焦がしていないか念のため確かめる。幸い、被害は出していなかった。
再び寝台に腰を下ろす。連ねたばかりの封珠を目の前に持ち上げて眺めながら、ジーナは寝台に倒れこんだ。
「また、内側には灯せなかったわ……」
透明な玉の中でゆらり、と静かに燃える焔を見ながら、大きな溜め息がこぼれた。
首飾りに連なる封珠は十数個。そのどれもが今と同じように、いったん外で灯した焔を内側に閉じ込めて作ったものだ。
それは一般的な封珠の作り方とは異なる。普通の魔術師は、玉の内側に焔が灯る様子を思い浮かべて、実際に焔を発生させる。けれどジーナはその方法で焔を灯せたことがない。
いつの間にか、手は左耳の飾りに伸びていた。
「……兄さまに教えてもらったときから、進歩がないなぁ」
思い起こすのは、従兄の元で初めて封珠を作ったときのこと。
あのときも、いくら念じてみても玉の内側に焔は灯らなかった。自分には魔術の適正がないのだ、と涙ぐみ諦めかけて。けれど、思案していた従兄が言ったのだ。“玉のことはいったん忘れて、とりあえず焔を灯してみてごらん”と。
どうせできない、と思いながら意識を手のひらに集中し——変化はすぐに起こった。
『……っきゃあ!』
『ユーフィ!』
自分の髪と同じ白金色の焔は簡単に灯った。しかも、想像以上の勢いのよさで。
立ち上がる焔の勢いに負けて、幼かった自分は後ろに転がる。
だが、焔は手のひらを離れてなお燃え上がり、広い部屋の壁や天井に届かんとしていた。
呆然とそれを見上げるしかなかったジーナの前に、従兄がすっと入り込む。白金の焔に向かって、静かに右手を差し出した。
『***』
小声で素早く何かを唱えた、と思ったときには、従兄の右手に向かって焔が吸い込まれて小さくなっていった。ぎゅ、と拳を握りしめるのと同時に、焔も消えてなくなる。
『大丈夫だった? ユーフィ?』
座り込んだままだった彼女を、優しい灰色の瞳が覗きこんでくれる。
『うん……兄さまはっ? 火傷してない!?』
『少し熱かったけどね、何ともない』
ほら、と開いて見せられた右手のひらに異常がないことに安堵して、ジーナはその手を取って立ち上がる。
『今の焔は、わたしが出したの?』
『そう。ユーフィの“気”に、周囲に漂う火の“気”が応えて焔になった。風や土に比べて火の“気”は量が少ない。なのにこんなに大きな焔を、呪文なしに念じただけで生じさせられるんだから、ユーフィの魔術の力はとても素晴らしい』
少し興奮しているのか早口になっていた従兄の話す内容は、ジーナにはまだよくわからなかった。
『でも、封珠の中には、ちっとも焔が灯らないわ』
『そうだね……少し、私が手伝おう。今と同じように、ユーフィの手の上に焔を出してみてごらん。それを玉の中に閉じ込める方法にしてみよう』
そう言うと、従兄はジーナの背後に回って、彼女を包み込むように両腕を伸ばし、手に手を重ねる。
大きな胸の温かさに、ジーナは安心を感じて、素直に焔を出す気になれた。
そうして発生した二度目の焔を、従兄は透明な玉の中に移し込み、ようやくジーナの初めての封珠ができたのである。
そのときは初めての自分の封珠に夢中で、なぜ通常の方法で封珠を作れなかったのかには思い至らなかった。
しばらく後、本格的に魔術を学び始めるときになって、従兄に自分の能力の偏りを説明されて理解した。
『ユーフィの魔術は、外に放出する系統に特化しているみたいだ。逆に、内に念を集める系統は苦手なんだね。だから、あんな焔を容易く出せた一方で、封珠を作るのに手間取ってしまう』
『……それは、悪いこと? 魔術を使うのには向いてないのかしら?』
ジーナは魔術師を目指していたわけではないが、自分も魔術を扱えるようになりたかった。そうすれば、有能な魔術師であるが故に王族内で敬遠されがちな従兄に、もっと近付けると思っていた。
だから、偏った能力で魔術が使えない、と言われるのが怖かった。
自分に魔術が使えなかったら、この優しい従兄の側にいてはいけないということになってしまいそうだ。
けれどその恐れは、従兄が見せてくれた優しい微笑みが解消してくれる。
『そんなことはない。これは単にユーフィの魔術の個性であって、良いも悪いもないよ』
『本当? じゃあ、わたしでも魔術を使っていいのね?』
(兄さまの側にいられるのね?)という声は、心の裡だけに留めておいた。
『もちろん。ユーフィの得意な魔術を使えばいい』
『うん。ちゃんと使えるように学ぶわ!』
小さな拳を握って意気込んだジーナの頭を、嬉しそうな顔で撫でてくれた従兄。その拍子に、彼の白銀の髪がさらりと流れて、それがとても眩しかったことを今でも覚えている。
あの白銀の輝きを、もうどれくらい見ていないだろう——
魔術を使えるようになったからこそ、彼と対立することになるなんて、思ってもいなかった——
昏い思考に陥りかけて、慌てて意識を過去から引き剥がした。左手も耳元から離して広げる。
とにかく。魔術を学ぶ過程で、ジーナは気を内に集める系統の魔術も少しずつ扱えるようにはなった。封珠も、外側で発生させた焔を閉じ込めるという方法でなら、作れるようにはなった。
だが、相変わらず直接封珠の内に焔を灯すことはできないし、数多く作るのも苦手だ。得意な放出・拡散系の魔術でも、封珠があった方が効果が高いので、最低限の数を維持している、というところだった。
「街中でそうそう焔を出して封珠を作ってるわけにもいかないから、残りは大切に使わなきゃ」
首飾りの封珠を握って、ジーナは勢いよく身を起こした。
「さて。そろそろレイデリオンが来る頃かしら」
待ち合わせ場所はこの宿の一階にある食堂だ。多少早くても待っているのには困らない。
たまたま知り合ったが、レイデリオンは領主の息子というわりには気さくで親しみやすい青年だ。茶色の髪と焦茶の瞳の明るい笑顔の持ち主で、領兵たちにも好かれていた。
年若い少女の一人旅と見て、不埒なことをするようには思えないし、一緒に食事をしても問題ないだろう。
ジーナは乾いた髪を手早くひとつにまとめて、上着を羽織ると部屋を後にした。
領兵隊長室でレイデリオンがひと通りの報告をし、他の隊からも偵察の結果が伝えられると、話題は今後の対策に移った。
「……とはいえ、魔術が使えない我々には、たいしてできることはないんだがなぁ」
「また“闇”が出たらすぐに出動できるよう、魔術師たちには支所に詰めてもらってます」
「住民や家財の避難を手伝うくらいか」
力が及ばないことが歯痒そうな隊長に、レイデリオンも同じ気持ちだった。
魔術師たちをいったん支所に送っていった領兵が口を開く。
「支所から魔術庁の本部に、“闇”の出現は伝達されたそうです。魔術庁から王国軍に連絡が行けば、早々に魔術兵団が派遣されてくるのではないかと」
魔術を使える者は、通常は各地の魔術庁支所に登録され、そこで魔術師として生業をたてている。
だが、魔術を使いながらも兵士を目指す者、あるいは兵士になってから魔術の適正が明らかになった者もいる。そんな中から優秀な者を集めて部隊を編成したのが、ミコリア王国軍の配下にある魔術兵団である。
普通の魔術師よりも機動性が高い彼らは、“闇”に対抗するために各地に派遣されていた。テオラのような地方領地では、支所に登録されている魔術師の数が少ないので、魔術兵団の応援は大歓迎である。
「そうか。どれくらいで到着するだろう」
「転移の魔術陣がある隣領からは半日ほどですから、あとはどれだけ早く出発してくれるかですね」
「わかった。それまではとにかく我々は警戒を怠るな。“闇”の出現を察知したら、すぐに報告と周辺の避難に全力を注げ」
「はいっ!」
隊長室に集まっていた兵たちが声を揃えたところで、散会となった。
しばらくの休息に装備を外す者が多い中で、レイデリオンはそのまま領兵詰所の出口に向かう。
「あれ、レイデリオン様、出掛けるんですか?」
「ちょっと出てくる。飯食ったら戻ってくるから」
「あー、さっきの可愛い子ですか?」
「ああ! ここに戻ってくる前に世話してた女の子。レイデリオン様、相変わらず惚れっぽいから」
「まあ、地味な格好してたけど、この辺じゃそう見ない感じの美人でしたもんね」
「そんなんじゃない! 俺は、ちょっと情報収集をだな……っ」
「はいはい。わかりましたー。何かあったら呼びに行きますよ。そこの宿屋でしょう?」
「宿屋の食堂にいるからな!」
にやにやと笑う領兵たちに見送られながら、レイデリオンは詰所を飛び出した。
通りの人々は、日常の生活を送りながらもどこか落ち着かない空気が漂っている。またいつ“闇”が出現するかわからない状況では、それも仕方がない。
彼らに安心してもらう方法が自分にはないことに、もどかしさを感じながらレイデリオンは足を早めた。
ジーナに紹介した宿屋は、領兵詰所からそう離れていない場所にある。役所なども近い街区の宿なので、市場に近い場所よりも、少女が一人で泊まるには向いているはずだ。
宿の食堂は昼時を過ぎているにもかかわらず半分ほどの席が埋まっていた。“闇”に対する不安で、皆がなんとなく寄り集まっているのだろうか。
そんな食堂を入り口に立ってぐるりと見回す。厨房に近い右手の壁際に一人で座る小柄な姿はすぐに目に入った。
茶系の髪色の者が多いこの街の中では、彼女の白金の髪の眩しさは目に留まりやすい。
「すまん。待たせたか?」
「それほどでも」
ジーナが持っているカップからは、まだ軽く湯気が立っていた。漂うかすかな香りは、羊の乳に蜂蜜と香草を入れたものだろう。
ジーナの正面に座って、改めて彼女を見つめる。室内なので外套は着ていないが、その下の格好も飾り気はなかった。生成りの服にくすんだ緑色のズボンと上着。装飾品は封珠の首飾りと、先ほどは見えなかったが、左耳にも房を付けた封珠の耳飾りだけだ。
地味な格好ではあるが、快活な黄玉色の瞳と明るい表情は、とても魅力的だった。
つい、じっと魅入っていたレイデリオンは、ジーナに小首を傾げられて慌てて我に返る。
「あ、ああっ、えっと。遅くなったから腹が減ってるよな? ここの飯はけっこういけるんだ」
「じゃあ、レイデリオンにお任せするわ」
形良い口から名前を呼ばれて、それだけで軽く浮きあがった気分になる。レイデリオンは給仕にいくつか料理を注文することで、それをごまかした。
運ばれてきた料理を食べながら、ジーナが通過してきた街の様子を改めて聞く。テオラと同程度の地方領地を順に回っているらしい彼女が見てきた光景は、このテオラ領と変わらない荒れ具合のようだ。
「……どこの街も、苦しいんだな」
「“闇”期だからね。どの街も頑張って持ち堪えているけれど」
街の被害はけっして他人事ではないのだが、ジーナの曇った顔を明るくしたくて、レイデリオンは希望の持てる話題を探す。
「でも、もうすぐそれも終わるかもしれない。王都で“ミゼルコリアの花嫁”が選ばれたことだしな」
「っえ」
「あれ? 旅の途中だから知らなかったか? しばらく前に、国王陛下の妹姫が巫子として神殿に籠ったそうだ」
「あ、うん。そういえばちらりと耳にしたような……」
「巫子姫が神殿で祈りを捧げて、ミゼルコリア神の澱を浄化していってくれれば、そのうち“闇”も出なくなってくれるはずだ。とにかく、それまでの辛抱だ」
「……そうね」
レイデリオン自身も、“闇”期がどのように終わるのか詳しくは知らない。
古くから人々の間に伝えられている話によれば、特別な力を持った巫子が神殿でミゼルコリアに祈り続けることで、神の澱が浄化され、“闇”期は終わり、再び豊かで温和な生活が戻ってくるらしい。巫子は、本来は男女どちらでも構わないらしいが、たいていは女性が選ばれる。なので、その巫子は“ミゼルコリアの花嫁”と呼ばれているそうだ。
「今の国王陛下はまだ若いのに、一生懸命あちこちの“闇”に対応してくれてるし、その妹殿下も巫子姫になってくれたし、王家がこれだけ頑張ってるんだから、そのうちきっとなんとかなるさ」
「……ええ」
いささか楽観的に告げてみたが、ジーナの顔は思ったほど晴れなかった。
「巫子姫が若いのを心配してる? 確か妹殿下はまだ十六歳くらいだったし」
「そんなことはないわ。十六ならわたしも同じだし」
「そうか。そういえばジーナの名前は妹殿下から取られたの?」
妹姫の名前はユーフェルジーナという。それにあやかって、同じ頃に生まれた娘に“ジーナ”と名付けた親は多い。彼女と同じ年頃の娘で“ジーナ”という名はありふれていた。
「っう、うん。たぶん、そうよっ」
なぜか居心地の悪そうに目線を逸らしたジーナに、レイデリオンは自分の発言を後悔した。出自の話を振ったのはまずかっただろうか。
そこでレイデリオンはあることに気付いた。
二人とも会話をしながらも食事は進めていたのだが、ジーナの皿の上には、まだまだ料理が残っている。食べ続けているので、口に合わないわけでも極端に少食なわけでもない。食べるのがゆっくりなのだが、単に遅いのではなくて、食べ方が丁寧なのだ。
日頃は領兵たちとがさつに食事をかき込むことが多いレイデリオンだが、一応は領主の息子だ。基本的な食事の作法は覚えさせられている。その彼の目から見ても、ジーナの食べ方は綺麗だった。
おそらくジーナはそれなりの教育を受けているはずだ。
そのことに思い至って、レイデリオンは彼女の素性が気になり始めてしまった。
旅をしながら魔術を磨いたり、仕事を探したりする魔術師はいる。
年若い少女の一人旅も、出稼ぎなどの事情で、ないことはない。
上流階級の人間が旅をすることは、平穏な時期なら珍しくはない。
だが、それをすべてひっくるめて、ジーナのような少女がいるか、といえば、それはかなり稀なのだ。
良家の娘が一人で出歩くなどありえないし、上流出の魔術師なら仕事を探す必要はないし、ましてや今は旅には不向きな“闇”期である。
ジーナの話から推測されるのは、彼女は“闇”が出現するような荒れた地方ばかりを通過してきている、ということだ。
なぜ、という疑問は押さえ切れず、躊躇いながらも口をついて出てしまった。
「その……ジーナは、どうして旅を続けているんだ? 今は“闇”期なのに、わざわざ危険な街ばかりを」
その問いは拒絶されるかもしれない、と思っていた。あるいは、はぐらかされるか。
けれども、ジーナは少し目を見はって口をつぐんだものの、静かに答えてくれた。
「……人を、捜しているの」
「人捜し?」
「ええ。“闇”が出現する街を回れば、手掛かりが見つかるかもしれなくて」
「“闇”と関係がある人? 魔術師?」
「……ええ。とても優秀な魔術師だったわ」
何かを思い出すように目を伏せたジーナの頬に、長い睫毛の影が落ちる。
意識した動作ではなさそうだが、彼女の左手が左耳の飾りにそっと伸びた。
細い指が触れる耳元の封珠。ジーナの首に提がる封珠と同じだと思っていたが、よく見るとわずかに色が異なっている。
首飾りの封珠の中に灯る焔は、ジーナの髪と同じ、明るい陽光のような白金色だ。
一方、左耳の封珠は、それよりも冴えた白。月光のような白銀だった。
封珠が宿す焔はそれを作った魔術師の髪色と同じ、という話はレイデリオンも聞いたことがある。彼女の髪とは異なる白銀のそれは、捜している魔術師の物なのだろうか。
封珠は自分が作ったものしか役立たない。それなのに、他人の封珠を身に着けている、その意味は——考えかけて、きしり、と胸の奥が引っ掻かれた。
その人はジーナにとってどういう相手? とは、尋ねられなかった。
次の言葉が見つからないままに、ただ何となく口を開きかけたとき。
「レイデリオン様!」
慌ただしい足音と装備品のぶつかる音に、食堂中の注目が集まった。若い領兵が一人、レイデリオンの元に駆け寄ってくる。
周囲に気を遣って声をひそめた報告は、それでもやや上ずっていて、ジーナの耳にまで届いた。
「“闇”が再び出現しました!」
「どこだ!?」
「北西の城門の外です。思ったより城壁に近くて、もしかしたら侵入されるかもしれないと……」
「魔術師たちにも連絡したか!?」
「はい。隊長の指示で最初に現場に向かっています。領兵たちは住民の避難の手伝いに向かえ、と」
「俺もすぐに向かう!」
レイデリオンは上着を引っ掛けながら立ち上がった。
「悪い、ジーナ。続きはまた後で」
「わたしも行くわ」
「危険だ」
「魔術師は一人でも多い方がいいでしょ」
そう言われて、彼女と出会った場面を思い出す。確かに、ジーナなら“闇”に対抗できるのだ。
「わかった。だが、無茶はするなよ」
「ええ。あなたたちに迷惑はかけない」
頷きながらジーナも席を立つ。
「俺たちは馬で先に行ってる。北西の城門までは誰かに道を聞いてきてくれ」
「わたしも馬ですぐに追いかけるわ」
その言葉どおり、ジーナの行動は素早かった。
レイデリオンがいったん領兵詰所に戻って馬に跨がったところで、外套をまとって亜麻毛の馬に乗ったジーナが追い付く。そして領兵たちに遅れることなく馬を走らせ始める。
「いい馬だな」
隣に並んで駆けながら、レイデリオンは関心したように彼女の馬を眺めた。手綱を操るジーナの腕もさることながら、突然の事態にもかかわらず領兵馬と変わらない速度で走れる馬の方もたいしたものだ。体格が良いだけでなく、度胸も座っている馬らしい。
「フウセイアは賢いから」
駆ける馬のたてがみを軽く撫でながら、ジーナが微笑む。フウセイアというのが、馬の名前なのか。
「領兵馬に採用したいな」
「あいにく、大人しく命令に従う性格じゃないのよ」
そこでフウセイアが鼻を鳴らした。息が上がっている様子は少しもないので、まるでジーナの言葉に同調したかのようだ。
「それは残念」
軽口はそこで切り上げて、後は無言で城門を目指す。門を出てすぐのところで、異変は起こっていた。
北東に向かって伸びる街道の石畳を滑るように、真っ黒い霧がどろりとこちらに向かって来ている。城門までの距離は、数百歩ほどあるかないか。
“闇”はもちろん街道の上だけには留まっていない。横にもじわじわと広がって、道標や街道脇の植え込みも、置き去りにされた荷車や家畜も飲み込んでいる。
「近いな」
馬から降りながら、レイデリオンは眉をしかめた。
この城門は街で一番小さいものなので、門外に市場が開かれていなかったのは幸いだ。だが、それなりに人通りはあるし、門近くに住んでいる貧しい家々もある。闇深い霧の向こう側が見えないので、どれくらい飲み込まれているかすぐにはわからなかった。
わかるのは、このままいけば、そう待たないうちにあの“闇”が城門に辿り着くということだけだ。
けれども領兵たちにはそれを防ぐことはできない。唯一の希望である魔術師たちに、皆すがる視線を送る。
「お前たちはあっちに広がれ! 一列になって押し返すぞ!」
一足先に到着していた五人ほどの魔術師たちは、“闇”の手前で横に並んだところだった。彼らも“闇”に対峙するのは初めてのはずだ。その顔には緊張と恐れの色が見える。
「**********!」
それぞれが封珠を“闇”に向かって投げる。そしてレイデリオンには聞き取れない呪文を声高に叫ぶ。
封珠は、魔術師の髪色に合わせて、茶や赤の光を放ちながら飛んでいく。
その光は“闇”の黒々とした霧に触れ——すうっと飲み込まれた。
「……っなに!?」
レイデリオンは思わず声を上げていた。
(魔術師の封珠は“闇”に対抗できるんじゃなかったのか!?)
当の魔術師たちは、それほど意外そうな顔はしていなかった。また封珠を投げ、呪文を唱えることをひたすら繰り返す。彼らが何度も繰り返すことで、わずかに“闇”の進む速度が遅くなった。
「おお! やっぱり魔術師たちは“闇”に対抗できるんだ!」
希望を持った領兵たちの声が聞こえる中で、レイデリオンは一人だけ焦燥に駆られていた。
(あれが対抗しているといえるか!? せいぜい足掻いている程度だ。封珠一個で“闇”を退けたジーナと比べたら……!)
ジーナが“闇”を相手にしていた場面は、レイデリオンだけが見ていた。この華奢な少女は、たった一個の封珠を投げただけで、呪文も唱えずに“闇”を消していた。あの強烈な白金の輝きを覚えているレイデリオンにとって、眼前の魔術師たちが繰り出す封珠の光は弱々しくて頼りない。
ジーナはこの状況をどう見ているのだろう。隣に立っている少女に視線を動かす。
ジーナは無言で魔術師たちの奮闘を見つめていた。形良い眉が寄せられて、細い手も握りしめられている。
「あの“闇”は、最初のよりも強いのか?」
「……いいえ。“闇”に強弱はないわ。勢いは最初と同じ。ただ……」
何かを探るように、ジーナの目が細められる。
彼女の左耳の飾りが、細かく震え始めた。
はっ、と黄玉色の瞳が大きくなる。
「行くわ!」
短く言って、ジーナは駆け出した。その後をフウセイアが静かに続く。
「あ、おい! ジーナ! ……待て、俺も行く!」
「レイデリオン様! 危ない!」
「お前たちは来るなよ!」
馬の手綱を側にいた領兵に押し付けて、レイデリオンもジーナを追いかけた。
ジーナは苦戦する魔術師たちの前に回り込む。
「お前! 邪魔するなと言っただろう!」
「ごめんなさい。でも、危ないから、皆さんも下がってて!」
そして首飾りから自分の封珠を二個外すと、左右に一個ずつ投げた。
それが地面に落ちると同時に、強い光が立ち上がる。白金の光の壁は、“闇”の進みを止めていた。
“闇”を留める強烈な光に、魔術師たちは呆気にとられて立ち尽くす。ジーナはそんな彼らには少しも注意を払わず、“闇”を睨みつけていた。
光の壁が再び“闇”を挟み込んでくれるのか、そう期待を込めて見ていたレイデリオンだったが、前回とは少し様子が異なっていた。
壁の手前で止まっていた“闇”は、しばらくするとジーナの正面あたりにゆるゆると集まり始めた。どろりとした暗闇が積み重なって、その重さに耐えられなくなるように膨らみ、背丈を超えるほどになったところで——音もなく、その中心部が裂けた。
同時に、白金の光の壁が、すうっと立ち消える。
塞き止めていたものがなくなって、“闇”が溢れ出すかと思われたが、なぜか黒々とした霧はそれ以上は進んでこなかった。だが、レイデリオンも、その場の魔術師たちも領兵たちも、そのことに疑問を持つ余裕はない。
彼らの意識は、ぱっくりと裂けた“闇”の中に引き付けられていた。
「……人?」
“闇”の中には、ぽっかりと丸い空間があった。そしてその中に、ひとつの人影が浮かんでいた。
おそらくは、二十歳ほどの青年か。白の長衣。流れるように滑らかな白く輝く髪。整った白皙の顔。静かな微笑をたたえた白色の瞳が、こちらに向けられている。
それは、およそ現実味のない光景だった。
全てを飲み込み生命力を奪うはずの“闇”の中に、何事もないかのように存在している。その姿はまるで。
「……ミゼルコリア神……?」
誰かの呟きは、その場の多くの者たちの脳裏に浮かんだものを代表していた。
神ミゼルコリアの姿は、誰も見たことがない。神殿の祭壇にも、絵姿や偶像は置かれていない。ただ、伝えられている姿はある。それは、白い髪に白い瞳の、男性神である、と。
“闇”の中から突然現れたその姿に、皆が神の姿を思い浮かべたのも無理はない。けれども。
「違うわ! あれは、神なんかではない!」
鋭い声が、その呟きを否定する。
悲鳴のようなジーナの声に、最初に我に返ったのはレイデリオンだった。
改めて“闇”の中の人影を見直す。落ち着いて見てみれば、確かにそれは人間の青年のようだ。
髪は白っぽく輝いてはいるが灰色が混じっているし、瞳も明るい灰色だ。身体も浮いているとはいえ、人らしい重量感がある。そして何より、腰に提げられている飾りは、たくさんの封珠を連ねたもの。
「……魔術師」
その人物の持つ封珠の色に、レイデリオンの記憶が刺激される。あの色の封珠は……と思い当たって、レイデリオンは斜め前にいる少女に顔を向ける。
ジーナは、最初と変わらずに、真っ直ぐにそこに立っていた。“闇”を睨みつけていたのと同じ鋭い視線を、“闇”の中の人物にも向けている。けれど、その顔は泣き出すのを必死で堪えているようにも見えた。
やがて、その人物が動いた。
ふわりと長い髪を翻して、上体を屈める。白く長い手が、ジーナに伸ばされる。
「久々の再会だというのに、悲しい顔だな。……ユーフェルジーナ。“私の花嫁”」
それは、甘い響きをまとった声だった。まるで愛しい想い人に告げるような。
そしてその内容にレイデリオンは目を見開く。
(……再会? “ユーフェルジーナ”? “花嫁”!?)
だが沸き上がった疑問を口にすることはできなかった。
その人物の手がジーナの滑らかな頬に触れる直前、一陣の風が吹き荒ぶ。
突然の風にその場の皆が思わず一歩退いた隙間に、それまで停止していた“闇”がずるりと流れ込む。まるで、ジーナ一人をそこから切り離すように。
「! ……ジーナっ!」
レイデリオンが伸ばした腕は届かなかった。
流れてきた黒い霧が勢いよく上方に伸び上がり広がる。
ぽっかり開いていた空間を包み直し、閉じ込める。青年とジーナを内に取り込んだままに。
「ジーナっ!!」
“闇”に遮られて、レイデリオンの叫びに応えるものはなかった。