仮面を引き剥がして
その家は木造の二階建てで、経てきた長い年月のせいか、何もかもがうっすらとくすんで見えた。その軒先にぽつんと一つ、異質にビビットなピンクがある。子供用の自転車だ。この家に子供はいただろうか。
「ここだね」
『そうだな』
北川と書かれた古い表札。僕は慎重に今にも壊れそうなインターフォンを押す。
案の定音が出なかったので、家に向かって怒鳴った。
「すみません、向かいの柴崎ですけど!」
マンションを向かいと言っていいのかは分からないけれど、嘘は言っていない。北川さんの家は僕の部屋の、ちょうど向かいに位置しているからだ。
「はいはい」
出てきたのは優しそうなお婆さんだった。地味な男子高校生と片眼鏡をかけた綺麗な女の子という、少々奇妙な二人組にちょっと驚いたようだが、すぐに笑顔になって部屋に上げてくれる。
「主人も子ども好きでね、きっと喜びますよぅ」
稀子に向けて、にっこり。お婆さんはおそらく、稀子を小学生くらいだと思っているのだろう。思わず吹き出すと、稀子にすごい目で睨まれた。怖い。
何本もの釣竿や、からからに干からびた何かの入った袋がまとめて置いてある廊下を抜ける。壁には『男の浪漫』と書かれた大きなポスターが貼ってあった。がっしりした壮年の男性が、しなる竿を懸命に引いている。どこかの海だろうか。
子ども好き――。
「あなたー?」
お婆さんの若々しい叫び声に反応することもなく、綺麗に整頓された居間にかなり大柄な老人が座り込んでいる。ぴくりとも動かないが、よく見ると小刻みに震えているようだ。
「夏奈ちゃんのことがあって、落ち込んでるみたいなのよ。家から一歩も出なくて。あなた、夏奈ちゃんの同級生かしら? 元気付けてあげてね」
笑顔でまくしたてて、お婆さんは居間を出て行った。
――と思ったら、ひょこっと顔を出した。手には麦茶とコップ三つが乗ったトレイ。
「ごゆっくり」
ぱたぱたと出て行ってしまう。今度は戻ってこなかった。
「あの……」
「……」
会話の糸口が掴めない。
つんつん、と僕の服の袖が引かれた。稀子だ。ちゃぶ台の下にはスマートフォンの画面。
『いいお天気ですね。昨日よりも釣り日和じゃないですか』
読め、ということか。よく分からないけれど、僕はなるべく自然なふうを装って声をかける。
「いいお天気ですね。昨日よりも釣り日和じゃないですか」
とたん、がばっと北川さんが僕のほうを向いた。僕の肩がはねる。
稀子がギロッと僕を睨んだ。不自然だからビビるな、ということか。
『昨日の海はどうでしたか? 大物が釣れたんでしょ』
「昨日の海はどうでしたか? 大物が釣れたんでしょ」
稀子はどうしてそんなことが分かるんだ。
北川さんは血走った目で僕を睨む。思わず背筋が凍った。
『夏奈は魚が好きなんでしたね。あなたは夏奈ちゃんと仲が良かったようですし、プレゼントをしたんでしょう。昨日、佐々木さんの家に行きましたね?』
「夏奈は魚が好きなんでしたね。あなたは夏奈ちゃんと仲が良かったようですし、プレゼントをしたんでしょう。昨日、佐々木さんの家に行きましたね?」
「うるさい!」
突然、北川さんが怒鳴った。何かに追い詰められているような顔で、僕に掴みかからんばかりに震えている。稀子はそんな北川さんを冷静な眼差しで見つめていた。
「北川さん。なぜ、そんなに焦っていらっしゃるんですか?」
僕と北川さんは、はっとして小さな女の子を見つめる。
高価なビスクドールのように綺麗で、ちょっと浮世離れした片眼鏡の小さな女の子は、そんな僕らを意に介さず桜色の口だけを機械のように動かし続ける。
「何もおかしな事は言っていない筈です。お婆さんに訊いたんですよ」
実際は訊いてなんかない。相手を焦らせるための、稀子の罠だ。
「プレゼントなんか、渡していない」
稀子の目が光る。
「確かに魚は発泡スチロールに入れて、奥さんに渡した。でも、プレゼントなんかしていない!」
北川さんは何を言っているんだろう。稀子が言うプレゼントとは、おすそ分けの魚を指していたんじゃなかったのか。
「七海」
稀子が北川さんを見据えたまま、僕を呼ぶ。
「昨夜、君がマンションに帰ったとき、植え込みの傍に不審な影がなかったかい?」
仮面を、引き剥がす。
致命的な手応えも、情けない迷いも、罵声の幻聴もみんな叩き潰して、目を閉じる。
記憶の中を探る。
「……ああ、あった。大人一人分の影が、マンションから遠ざかるように動いていた」
稀子が続けざまに言う。
「野次馬の中に彼の姿はあったかい?」
「なかった。僕が駐車場を出るまで、北川さんの姿はなかったよ」
北川さんが、両手で思い切りちゃぶ台を叩いた。麦茶のコップが跳ね、こぼれたお茶が小さな水溜りをつくる。
「馬鹿なことを言うな! そんなの分かるはずがないだろう! 路地は暗いし、野次馬はここから見ただけでも軽く三十人はいたんだぞ」
北川さんが喚く。ずきん、と胸が痛む。
「七海には分かります。彼は、自分が見た風景を写真並みに正確に記憶することが出来るんです。意識するしないに関わらず、手当たり次第に全てを」
「嘘だ」
「七海、廊下にあった物を全て教えてくれ」
稀子が冷たく告げる。死刑を宣告する裁判官のようだ。
「釣竿が五本。それぞれ右から赤、赤、黒、深緑、シルバー。からからに乾いた何か――沖あみパンって書いてあったな。それと、『男の浪漫』って書かれたポスター。壁に大きめのしみが二つと、埃をかぶった鍵が隅に落ちてたよ」
気味が悪い、と。
北川さんの目が、そう語っていた。さっきよりもずっとずっと強く、ずきん、と胸が痛む。息が上手く吸えなくなって、頭の芯がすうっと冷たくなった。
そうして僕は、あの瞬間に引き戻されていく。
その数秒間に、音は三つしかなかった。けたたましいブレーキ音と、誰かが僕の名前を叫ぶ声――そして、何かのスイッチが入ったような、致命的でささやかな音。
当時小学生だった僕が横断歩道を渡っているとき、信号無視のトラックが突っ込んできた。そこに偶然居合わせた雅喜さんが飛び込んで、僕を突き飛ばし――自分はトラックに跳ね飛ばされた。
その瞬間を、僕は連続写真のようにはっきりと記憶している。ありえてはいけない方向に体が捩れ、その裂けた背中から真っ赤な血が溢れて、僕の顔にも飛沫がべったりとかかって。走り去るトラック、そのナンバープレート。コンクリートに埋まる顔、三羽のカラス。
前後のことは全く覚えていないのに、それだけは記憶していた。呆然とした状態の僕がうわ言のように呟いていたナンバーが決め手となり、運転手は逮捕された。まだ二十歳の、若い男だった。
雅喜さんは即死だった。もう二度と動かない雅喜さんの隣で、春佳さんが泣いていた。その背中に幼い夏奈を背負っていた。
それ以来僕は、風景の全てを無意識に記憶するようになった。そして、それら全てを絶対に忘れなくなった。
まさに呪いだった。永久の拷問。どんな悪夢のような光景も、目をそらし忘れることは叶わない。
そして、周りの親しい人々が『それ』を知った瞬間の表情を忘れることも、決して叶わなかった。
最初は胡散臭いと囁く程度だった。やがてそれは、『子供の嘘』ではいられなくなる。
――『気味が悪い』と。
彼らの瞳はそう語っていた。
母が、父が、祖父が、祖母が、親戚が、友人が。皆の眼差しが、『気味が悪い』と叫んでいた。