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自転車と観覧車

 「稀子! 説明してよ!」

 佐々木さんが出て行った後の部屋で、僕は喚いた。

『本当にまだ分かっていないのかい? まさか、さっきの質問の意味すら分かっていないんじゃあるまいな?』

「悪かったね!」

 稀子は重々しく僕の言葉を反芻し、頭の中でひとしきり転がした。片眼鏡の奥の瞳が、老人のように厳めしく眇められる。

『七海、君の頭の回転は観覧車より遅いんじゃないだろうか』

「余計なお世話! 説明してよ」

『説明してください、だろう』

 言いながら、稀子の瞳がきらきら輝いているのに気が付いた。謎が全部解けたときの、清々しい表情だ。

 稀子は静かにスマートフォンを置き、すうっと息を吸った。桜色の唇が開く。


「さて――」


 凛とした、小さいけれどよく通る声がした。久しぶりに聞く、稀子の声だ。

「昨夜の天気を思い出してみよう。昨日は夕方から雨、一時やみ、また降り出した。夏奈はちょうど、雨がやんだ時に転落した。――そうだね?」

 僕は頷く。

「七海が見たとき、ベランダには発泡スチロールの箱が転がっていた。竹製の物干し竿は外へ飛び出し、柵は凍りそうなほど冷たかった」

 そこまで整理すると稀子はぴん、と人差し指を立てた。

「氷は、どこへ行ったのだろうね?」

「……あ」

 そうだ。あのベランダに氷はなかった。でも、四十センチメートル四方の箱に入っていた大量の氷を屋内で処理するのは難しい。

「普通、氷を処理するには湯をかけたりするものだけど、生臭い魚と密着したせいですっかりにおいの移った氷を、屋内でわざわざ処理する人は少ないだろうね。昨日は少し蒸し暑かったのだし、佐々木さんはベランダに氷をぶちまけて、溶かそうとしたんじゃないだろうか」

 このマンションは、雨水を集めて流すパイプが各部屋に設置されている。ベランダに生臭い水をぶちまけたところで、誰にも迷惑はかからない。

「氷を溶かしていた小雨はすぐにやんでしまった。僅かに溶けかけた氷はまだ溶けていない周囲の氷によって冷やされ、再び凍りつく。春だからね、気温自体はそんなに低くなくても、そういう現象が起こってしまうことがあるんだ」

 稀子は立ち上がり、窓を開け放ってベランダに出た。足元を見つめ、僕にも見るように促す。

「分かるかい、七海?」

「傾斜がついてる? パイプに向かって雨が流れ込むように、傾いているんだ」

「そのとおりだ」

 舞台俳優のように手を広げ、稀子はまさに今自分が立っているところを示した。そこは、夏奈が転落する直前まで立っていたと思われる場所――。

「氷は傾斜がついたベランダを滑り、この付近で再び凍りつく。大きな塊となってね」

 白い手を、すうっと左から右へスライドさせる。

「物干し竿は、このベランダ全てを使うと三十センチメートル分ほど湾曲する。だが、塊となった氷がここを塞げば」

 物干し竿を手にとる。

「きっと、五十センチメートル分はゆうに曲がるだろうね」

 細腕にぐぐっと力をこめる。竹は簡単に曲がった。

「普段よりもずっと力を溜めた竹は、ほんの少しの衝撃で一気に弾け飛ぶ。さっき、実験しただろう」

 あれだけ大きく弾け飛んだ竹。もし、あの上に人がいたら。その人が、小柄で体重の軽い子供だったとしたら――!

「夏奈はおそらく、ベランダへ走りこんだ。『亡き父親からの手紙』に記された時間ぎりぎりだったのか、早く父に会いたかったのか」

 そこで一旦言葉を切り、何かを振り切るように空を見上げて、稀子はまた言葉を紡ぎだす。

「その足元には、たわめられた竹がある。夏奈が飛び乗った衝撃で竹は一気に力を爆発させて……」

 そこまで言えば十分だった。僕は無意識に両手を固く握り合わせる。

「夏奈の転落は事故であり、佐々木春佳は無実である」

 一瞬の後に開かれた瞳は、鮮やかな強い光を宿していた。

「以上が、私の導き出した結論だ。何か質問は?」

 僕は無言で首を振る。

 稀子は目を伏せて溜息をつき、その桜色をした唇を閉じた。



 まだ謎は残っている。あの『雅喜さんからの手紙』を、誰が書いたのかということだ。僕がそう尋ねると、稀子はちょっとだけ口元を緩めた。

『それは君に協力してもらって解くさ。私一人だけでは出来ないのでね』

 スマートフォンを片手に稀子は部屋を出て行った。僕は振り返り、複雑に絡まった毛糸みたいな気持ちを抱えてベランダを見つめた。それから鍵を閉め、稀子の後を追う。

 マンションのエントランスを出ると、じりじりと焼けつくような日差しが僕を襲った。稀子はちゃっかり、白いレースがたっぷりあしらわれた上品な日傘をさしている。避暑地のお嬢様みたいだ。

 これから、どこへ何を調べに行くのだろう。

「どこへ行くの?」

『七海、お腹が空かないか?』

「へ?」

 時刻を見ると、午後一時三十分。確かにお昼時ではある。

『ピエロへ行こう』

 稀子はそれだけ僕に伝えると、さっさと歩き出してしまった。僕はあっけにとられてぽかんとしたあと、

『史上稀に見るアホ面だぞ、七海』

 送られてきた稀子からのメールで我に返り、慌てて後を追う。

 いや、それにしても――

「……余計なお世話だよ」



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