報道と『真実』
翌朝。
昨日の天気が嘘のように空は晴れ渡り、朝だというのにじりじりと暑かった。
食欲がわかない。昨日の夕方から、固形物は何も食べていなかったけれど、腹は全く空いていなかった。コップにぬるい水道水を注いで、一気にあおる。
のろのろと着替えてからテレビをつけると、ちょうど八時のニュースが始まった。昨夜のことに関する報道はない。今は、まだ。
稀子が来るのは十時の約束だ。随分と長い時間迷った挙句、僕は鍵を持って立ち上がった。
キィキィと危なっかしい音を立てるエレベーターで一階へ。駐輪場に置かれた愛用の自転車にまたがり、僕は全力でペダルを踏む。
このあたりでは一番大きい病院に着いた頃には、全身が汗だくになっていた。自転車をとめるのももどかしく、大きなエントランスへ駆け込む。
「春佳さん。柴崎です」
「どうぞ」
憔悴した、小さな声が聞こえた。
僕はお見舞いの小さな花束を、黙って春佳さんに差し出した。春佳さんは微かに口元をほころばせて、花瓶を手に病室を出ていく。
「夏奈」
ベッドの海に沈む夏奈は、とても小さく見えた。様々なチューブやコードが機械に繋がって伸びている。頭をすっぽり包む白いネットと包帯は、眩しくて痛々しかった。
「夏奈……」
夏奈は一命を取り留めたものの、意識を取り戻さない。長いまつげに縁どられた瞳はぐったりと閉じられたままだ。
手を握っても、名前を呼んでも、夏奈は目を覚まさない。
「なつ、な」
歯を食いしばったけれど、駄目だった。後から後からこぼれ落ちてくる涙を佐々木さんに見られたくなくて、見せられなくて、僕は病室を出た。
でも、タイミング悪く佐々木さんと廊下で鉢合わせてしまう。もう誤魔化せない。
「また来ます」
「ありがとう、七海くん」
春佳さんの声も潤んでいた。けれど、彼女の頬は乾き、強張っていた。
何となく力が抜けてしまって、のろのろと自転車をこぎながらマンションへ戻った。
僕なんかよりもずっと辛いはずの佐々木さんは、少なくとも僕がいる間は泣かなかった。一時は本当に危なかったらしく、奇跡的に命を繋ぎ止めた夏奈は今も危険な状態なのだという。
なぜ夏奈の意識が戻らないのか、その原因が分からない。佐々木さんは、夏奈を見守ってきた人たちの声が、彼女を死の花畑から呼び戻してくれることに賭けているのだ。
僕は暗い気持ちで、昨夜の稀子の言葉を思い出していた。
――『この事件は、傍から見れば犯人が分かりやすい殺人未遂なのだろうな。なにせ、夏奈は自力で落ちることがほぼ不可能。転落の瞬間には母親がいた』
――犯人は佐々木さんだって言いたいの?
稀子は悲しげに首を振った。
――『傍から見れば、と言っただろう? 世間はきっと、佐々木春佳を犯人としてセンセーショナルに追い立てるのだろうな』
それまでむっつりと黙っていた金本さんが、口を挟んだ。
――「大衆ほど躍らせやすいものはない。本当のことを明かして、目の前に突きつけてやらない限り、奴らは暴走するんだよ」
それを煽るのは報道者だけどな、と吐き捨てて、金本さんは冷めてしまったブラックコーヒーを一気に飲み干した。
結局、金本さんと稀子の読みは当たってしまったようだ。
マンションの前では、悲痛な面持ちの女性レポーターがなにやらカメラに向かって話している。彼女が立っているのは、夏奈が転落した植え込みだった。
一瞬、レポーターの足元に真っ赤な血溜まりが見えた気がして、僕はまた胃が捻りあげられるような感覚に襲われる。
駐輪場からは遠くて、言葉を聞き取れなかったけれど、おおかた予想はついた。今からでも取材陣の中に割り込んで、佐々木さんはそんなことをする人じゃないと怒鳴ってやりたい。だけど、そんなことをすればマスコミはますます事件を大きく取り上げ、毎日毎日佐々木さんを追い回すだろう。僕はむかむかする胃を抱えて、駐輪場に背を向けた。
と、背後に不穏な空気を感じる。同時に肩に不吉な重み。咄嗟に悲鳴を上げかけて、慌てて振り返る。こんなことをしてくる人間に心当たりがあったからだ。案の定、中年オヤジの素敵な笑顔とかち合う。
「おう、七海」
「長谷川さん」
僕の肩をがっしり掴んで笑顔を浮かべていたのは、スーツを着た凸凹コンビの小さい方だった。
小さい方――長谷川さんはベテランの警察官だ。いつ見てもよれよれのスーツに擦り切れた革靴。眼光は鋭く、髪を剃りあげてしまっているため、ぱっと見ただけでは『その筋の人』に見える。
対して、腕組みをして僕を睨んでいる大きい方――高梨さんは、いつ見ても某有名ブランドのスーツに某高級ブランドの革靴を合わせた、細身の若い警察官。モデルのように引き締まった長身、女の子がほうっとなるような甘いマスク。ぱっと見ただけでは『その世界の人』に見える。
「せめて、肩を掴む前に声をかけてください」
心臓に悪すぎるんだよ。というか、報道関係の方々の視線が痛いので、その親しげな笑顔と仏頂面をやめてください。
長谷川さんは笑って肩をすくめる。こんな仕草をするとちょっとユーモラスで、なんというか、人懐こい妖怪っぽい。
「悪いね。職業病だから諦めろ」
僕は何度も警察の方にお世話になっていて、彼らにも幾度か救ってもらった、と言うと、ちょっと誤解を招くかもしれない。稀子と一緒にいると、なぜかそういったものに巻き込まれてしまうのだ。
「君、佐々木春佳さんと親しいか?」
「ええ、まあそれなりには」
長谷川さんは高梨さんに目配せをした。高梨さんは手帳を取り出し、メモの用意を始める。
「佐々木さんは、どういう人なんだい?」
なるべく安心させようとしてくれているんだろうけれど、この顔でははっきりいって効果が無い。僕はわざと大きめの声を出す。
「優しい人です。僕にもよく声をかけてくれたり、残り物のおかずをくれたり。夏奈とも仲が良くて、いい親子でした」
長谷川さんは、うんうんと頷く。僕が言外に含ませたことを、正確に読み取ってくれたようだ。他にもいくつか当たり障りのない質問をしたあとで、彼らはメモを閉じた。
「ありがとな」
質問は本当に形だけのものだった。本題が別にあるからだろう。
長谷川さんは、もう一度高梨さんにアイコンタクト。ぱちぱちっと瞬きをしている。それを受けた高梨さんは、夕食にピーマンが出てきたときの幼稚園児みたいな顔で目をぱちぱち。
長谷川さんもぱちぱち。負けじと高梨さんもぱちぱち。
ぱちぱち、ぱちぱち、ぱち、ぱちぱちぱち、ぱちぱち、ぱち……。
正直なところ、真昼間から男二人が見つめ合って目を瞬かせているのを眺めるのは気持ちが悪い。
「僕、これから稀子と約束があるので失礼しますね」
諦めて、僕は彼らが押し付けあっていた言葉を代弁してやった。稀子の持つ推理能力――というか、ほとんど超能力に近い思考力を二人は大いに信頼している。早い話、厄介そうなこの事件を稀子に解かせたがっているのだ。それがいいことなのか、僕は警察組織に詳しくないので分からないのだけれど。
案の定、二人は僕に向き直って満面の笑顔を輝かせている。子供か。
「我々も同行するよ」
僕は盛大に溜息をついて、エレベーターへと歩き出した。