道化師の笑顔
気を抜くともつれそうになる足を全力で駆って、マンションの薄気味悪いエントランスを抜ける。
「ナツナァ! ナツナアアァ!」
ほとんど意味を聞き取れない叫び声が何度も何度も、無機質なリノリウムの階段を駆け巡っていく。隣の部屋の佐々木さんの声だ。夏奈は彼女の一人娘の名前で、佐々木さんの部屋は三階の北側。階段の方が速い。
じっとりと滲んできた汗でシャツが張り付く。息がかなり上がっていた。
「どうしたんですか!」
叫びながら部屋に駆け込む。ドアの鍵はかかっておらず、部屋の中のベランダに通じる窓が開け放たれているのが見えた。狂ったように翻るカーテンの向こうで、佐々木さんの背中が今にも落ちそうなほど乗り出されている。
混乱のあまり、僕の姿は目に入っていないようだ。下にある何かに向かって叫び続けている。このままでは、いずれ彼女は真っ逆さまに落ちてしまうだろう。僕は彼女を柵から引き剥がそうと靴のままで走り寄るけれど、あまりの散乱状態のために近付くことが出来ない。
「夏奈ぁ!」
夏奈は佐々木さんの娘の名前だ。小柄な女の子で、たしか小学生だったはず。ほとんど確信に近い予想をむりやり飲みこんで、叫ぶ。
「佐々木さん! どうしたんですか!」
「いやあっ」
佐々木さんは僕を突き飛ばし、非常階段へと走り出した。他人の声なんか耳に入っていない。僕はベランダに駆け寄り、若竹の洗濯竿を蹴り飛ばして下を覗き込む。
「う……あ……」
夏奈がいた。非常階段脇の小さな植え込みに、半ば埋もれるようにして夏奈が体を投げ出していた。
長い髪が海草のように広がって小さな体に絡みつき、手足があらぬ方向へ向いてしまっている。新緑の柔らかな葉の上に、鮮烈でおぞましい赤が散っていた。けれどそこまで変わり果ててなお、『それ』が夏奈だと分かる。分かってしまう。真っ白い顔には傷一つ無かったからだ。頭部の傷は激しくない……かもしれない。
何が起きたのか、容易に想像することが出来た。
足が、腰が砕ける。凍りそうに冷たい柵を掴んで辛うじて堪え、よろけながらドアへと走る。胃がひっくり返ったように痙攣を繰り返した。
「夏奈」
僕は佐々木さんを追って、非常階段を駆け下りた。
救急車の赤いランプが物々しくあたりを照らす中、夏奈は病院へ搬送されていった。
騒然とした空気。騒ぎを聞きつけた野次馬が、しきりに何か囁きあっては顔をしかめている。先ほどまで救急車の止まっていた駐車場には誰も足を踏み入れない。まるで見えない結界でも張ってあるかのようだ。
夏奈を送り出すまでが限界だった。付き添いで同乗した佐々木さんが行ってしまうと、僕は膝から崩れ落ちて、濡れた駐車場に座り込んだ。頭が割れるような頭痛に耐え切れず、頭を抱え込んで歯を食いしばる。生ぬるい雨水が膝に滲みていく。胃袋がねじれてひっくりかえりそうだ。
周囲の音が遠い。妙に明るく浮き上がった視界。頭蓋骨の内側で、奇妙な音が反響している。酷く現実感を欠いた世界。
ああ、『あの日』と同じだ。
「雅喜さん」
親しい人は皆、僕を置いて遠くへいってしまう。
「雅喜さん――ゆるして」
僕の目の前で、僕のこの手が一人の人間の命を散らせたときから。僕は亡くすことが、奪うことが――置いていかれることが、どうしようもなく怖くなった。
こんな恐怖に、僕は耐えられない!
そのまま意識を手放しそうになった時、大きな手が僕の肩をポンと叩いた。
「……金本さん」
「おう。大丈夫か? 情けなく座り込んじまって」
僕は頷いて、ゆっくり立ち上がる。徐々に、世界の色が、音が、現実が戻ってくる。
「夏奈が、マンションの三階ベランダから、植え込みの一角へ転落しました」
それでも、絞り出した声は自分の声だとは思えないほど掠れきっていた。手足の震えはまだ治まらない。
よっぽど酷い顔をしていたのだろう。金本さんは無言であごをしゃくり、ついてくるように合図した。僕は黙ってそれに従い、闇に沈む迷路道を歩き出した。
『喫茶 ピエロ』の看板は裏返され、洒落た飾り文字でclosedと書かれていた。しかし店内には明かりが灯っていて、カウンター席の向こうで仕事をする櫻井さんたちが見える。金本さんは、いかにも当然といった調子でドアを押した。
からん、ころん――。
「いらっしゃい」
いつも通り出迎えてくれるドアベルの音、櫻井さんの穏やかな声。あまりにいつも通りすぎて、さっきまでの出来事全てが悪い夢だったんじゃないか――なんて、思ってしまう。そう思いたいだけだということは僕が一番分かっているんだけれど。
金本さんは無言のまま、七つあるカウンター席の一番端に座った。彼の特等席だ。僕も黙って隣に腰を下ろす。今更だけど、いいのか。閉店の札も下がってるのに。
けれど、立ち上がる気にはなれなかった。一度張り詰めていた緊張が緩んでしまうと、もう指一本動かすことさえ億劫になってしまう。僕はなんとか口を開いて、からからの声を押し出す。
金本さんは何で、僕をここに連れてきたんだろう。
「金本さん」
「稀子が、話を聞きたいんだとよ」
僕の疑問を先回りして金本さんが答える。僕は驚いて店内を見回した。
いた。僕らの後ろ、テーブル席の一番奥に、小さな女の子が座っていた。
ちょっと心配になるほど細い身体を紺と白のボーダーワンピースに包み、つやつやした黒い髪を背中に流している。日に当たったことがないんじゃないかと思うほど白い肌、人形じみた端正な顔立ち。
そしてこの美貌を『完全に』『完璧に』『盛大に』『完膚なきまでに』ぶち壊す、ゴツくてぶ厚い片眼鏡。まるで顕微鏡を分解して取り出したかのようだ。アンバランスすぎて、かえって違和感なく映ってしまう。『喫茶 ピエロ』の一番の変わり者の、陶人形のような少女。
稀子は無表情にパソコンを睨んでいた。
『先程のことを話して欲しい。出来る限り詳しく』
稀子のパソコン画面に現れた文字。稀子と僕らの会話は、普段こうやって成立する。気を使ってこないのは逆にありがたかった。こっちも事務的に物事を見ることができるから。
「僕は後から駆けつけたから、その瞬間は見ていないんだけど――」
僕は夏奈の事件のことを、順を追って出来る限り細かく説明していく。細かく、細かく。それこそ、佐々木さんの背格好からベランダの様子、天候、野次馬のメンバーまで。話していくうちに、ふつふつと不安がこみ上げてくる。夏奈は無事だろうか。
全て話し終えると、稀子は僕が話す間ずっと閉じていた目を開いた。ガラス玉のような目が僕を真っ直ぐに射抜く。キーボードの上を、細い指が滑る。
『ベランダの様子をもう一度、話してくれ。どんな些細なことでも構わない。七海が触ったものがあったらそれも』
「今日は風が強くて、カーテンが部屋の方になびいていた。ベランダにあったのは、古そうな洗濯ばさみと四十センチメートル四方くらいの発泡スチロールの箱、若竹の物干し竿。ベランダの柵は凄く冷たくて、凍りそうになっていたよ」
『それだけか? 佐々木夏奈の年齢と、身長は?』
「夏奈は小学校二年生で、身長は稀子より少し小さいくらいだから、大体百二十五センチくらいかな」
『十五センチくらい差があるぞ。それを少しとは言わない』
稀子の陶器のような頬が、ぷっくりと膨らんでいる。こいつ、無表情だけど感情豊かなのだ。なんか矛盾してるけど。
『それはともかく、その身長の女の子が届くくらい低い柵なのか?』
「ううん。高さは僕の胸上くらいだし、台みたいな物も無かった」
『つまり、自力で落ちるのは難しいということか』
夏奈と柵の高さの差は約十五センチメートル。発泡スチロールに乗ったところで、せいぜい頭や首が出るくらいだろうから、落ちるのはかなり難しい。誤って落ちるためには、少なくとも胸くらいまでは柵を越えていないといけない。
『夏奈の家の家族構成は?』
しばらく沈黙してから、稀子が問う。僕はごろりとした唾を飲み込んで、話し出した。
「お母さんの春佳さんと娘の夏奈の二人。……お父さんの雅喜さんは、交通事故で亡くなってる」
『確かか?』
稀子が、探るような目で僕を覗き込む。僕の呼吸はほんの少し浅くなる。
「うん。僕が、この目で見たから」
沈黙が降りた。
『そうか。すまなかった』
稀子が目を伏せ、そっと頭を下げる。髪が肩を滑り落ち、稀子の顔を隠した。稀子は誰かから聞いて、僕が『道化師』になったきっかけがそれだと知っていたんだろう。雅喜さんを――夏奈のお父さんを殺してしまったのは、僕だ。
金本さんはさっきから何もしゃべらない。
何となく空気が重くなったところで、僕らの目の前にコーヒーやミルクティーのカップが置かれた。
「特別ですよ」
カップから視線を上げると、ウィンクして微笑む櫻井さんが見えた。僕は頭を下げ、カップを両手で包むようにして持つ。
訳もなく涙が出そうになった。
『とにかく、明日は七海のマンションに行ってみよう。部屋ごとのレイアウトは全ての部屋がほとんど同じなんだね?』
「うん」
稀子がちょっと笑った。影のある、あんまり笑っているように見えない笑み。作り物めいた笑顔のせいで、ますますビスクドールっぽさが増して見える。
『ありがとう。では、解散しようか』
「うん、おやすみ。稀子、櫻井さん、美玖さん、金本さん」
心の中で、ありがとうと付け加える。
「俺も一緒に出るか」
金本さんも一緒に腰を上げた。確かに、閉店後の店に居座るのは申し訳ない。
「またおいで」
櫻井さんの声が、僕らを追ってドアを滑り出た。
二人で歩く間、金本さんは何度も何か言いたげに僕を見たけれど、結局口を開かなかった。僕も何も言わなかった。
ずっと心に夏奈の面影が漂っていて、つかえたように重苦しかった。きっと金本さんや稀子も同じだろう。夏奈のお母さんである佐々木春佳さんも『道化師』だったから、よく夏奈に内緒で店を訪れていたのだ。
自分たちの生活のために働かなくてはならなかった春佳さんは、悲しみを押し込めて暮らしていた。悲しんでいる暇などなかったと言っていたけれど、夏奈にそんな自分の姿を見せないためでもあったのだろう。雅喜さんの分まで夏奈を幸せに――そのために、彼女は自分の心を押し殺した。世間を、夏奈を、自分を欺く『道化師』となったのだ。
――僕の、せいで。
彼女は本当に、僕を恨んでいないのかな。
金本さんと別れ、未だぼんやりとした熱の残るマンションに帰る。三階の自分の部屋に入ると、つんと鼻の奥が熱くなった。
「夏奈」
夏奈は、無事だろうか。目を覚ますだろうか。
何をしていても夏奈のことが頭に浮かんで、その夜はほとんど眠れなかった。