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幸せとは脆く儚いものである

 幸せとは、脆く儚いものである。

 僕はそう信じているし、少なくとも十六年間という短いようで意外と長い僕の人生においてそれは紛れもない真理なのだ。どんな幸福も長くは続かない。胸踊るほど大きくても、些細でちっぽけなものでも。

 そう、例えば今がそうだ。それもひとえに――

「金本さん。いい加減にしてください」

 この男のせいである。

 年齢不明の渋い二枚目。男らしい筋肉のついた長身をダークグレーのスーツに包み、薫り高いコーヒーをゆったりと愉しんでいる。それが憎らしいほど様になる。おまけに、王手の雑誌で編集長までしていたりする……んだけど、独り身。『黙っていればモテる男』の代表格なんじゃないだろうか、この人。

「いいじゃあないか。俺と七海の仲だろ」

「そんな親しい仲になった覚えはありません。いいから返してください」

「いいじゃんケチ」

「いい訳ないでしょあんた何個目食ってんですか! しかも僕の!」

 とうとう、僕が吼えた。

 美玖さんと金本さんがびっくりして僕を見る。もっとも、美玖さんは『目が若干見開かれているように見える』という程度の変化だから、本当にびっくりしているのか定かではない。櫻井さんは後ろ向きでグラスを拭いているけれど、体が不自然に細かく揺れていた。櫻井さんは絶対楽しんでるよな……。

 この男、大の甘党なのだ。今も子どものようにむくれながら、決してフォークを放そうとしない。広い背中を丸め、現在(推定)六つ目のマーブルケーキを守るのに必死だ。妙な色気のある口の端に、白い粉砂糖がたっぷり付いてしまっている。

「いいから返してください! お金は金本さんが払ってくださいね!」

 怒りは全く収まらないが、今は何よりケーキだ。何しろ一口食べたところで金本さんが来店し、挨拶もそこそこに僕のケーキを掻っ攫っていった。元高校球児の屈強な腕力に、ひ弱な文化部の僕が敵うはずもない。自分のケーキを他人が非常に美味そうに食べるのを見ながら、零れそうになる涙を懸命に堪える辛さを是非想像してみて欲しい。きっと全米が涙する。

「ちぇっ。分かったよぅ」

 名残惜しそうに皿を渡す金本さん。半ば予想していたことだが、ケーキは欠片も残っていない。さっきまでまるまる残ってたのに、いつの間に食べたんだろうか。

 僕は溜息を吐きつつ、櫻井さんにもう一度ケーキを注文する。櫻井さんの顔が、一瞬焦ったように引きつったのは気のせいだろうか。

「あの……」

 ちょっとハスキーで甘い、小さな声。美玖さんだ。彼女が自分から声をかけてくるのは珍しい。美玖さんは形のいい眉を下げ、心底申し訳なさそうな顔で僕を見た。図らずも上目遣いになっているのが、とってもよろしい。僕は意に反して赤くなりそうな頬を隠すため、顔だけで金本さんの席の方を向いた。

 金本さんは僕らから顔を背けるようにして窓の外を見つめていた。そんな姿も俳優のようにキマっているが、見ようによっては、子どもが悪戯の発覚を予感して必死に無関係を装っているようにも見える。

 ――まさか。

「ケーキ、もうなくなっちゃって……」

 幸せとは、脆く儚いものである。


 


 からん、ころん――。


「またおいで」

 来たときと同じ、可愛いドアベルの音と櫻井さんの声。僕はいつもするように、軽い会釈をして店を出た。

 雨はやんでいたけれど、重苦しい空模様は続いていた。七時過ぎともなれば日はすっかり落ちて、元々薄暗い路地は足元すらはっきりとは見えなくなる。

 結局、心優しい美玖さんがもう一度シフォンケーキを焼いてくれて、僕は念願のケーキにありつく事が出来た。料金はもちろん、どこかのガキっぽい大甘党に払わせた。これで結果オーライだ。

 『喫茶 ピエロ』のケーキや飲み物の料金は、他店と比べてずっと財布に優しい。それでも、僕一つ、食べられたマーブルケーキ六つ、食べ足りないどこかの精神年齢小学生が素知らぬ顔で食べたシフォンケーキ一つの合計八つは正直辛い。それにしても、シフォンケーキは凄く美味しかったな。

 ふと、こんな日常の一片に安堵している自分を見つけて、僕は一人苦笑した。街灯の黄色っぽいぼやけた光が、僕を嘲笑うように瞬く。

 『喫茶 ピエロ』を訪れる人間は、みんな『道化師』だ。表の顔と裏の顔があって、日常の中で危うい道化を演じ続けている。例えば普通の男子高校生として。例えば普通の雑誌編集長として。他にも色々な仮面を被り、周囲を欺くピエロのメイクをして、必死に自らを守り続ける。同時に生きながらにして自らを削り、血を一滴ずつ腐らせながら。

 僕らは弱かった。どうしても外界の軋轢に耐え切れなくて、嘘で作り上げた滑稽な仮面を被って。そうして、誰にも気付かれないようにと道化師のように『普通』を演じながら、日々を生き抜いていく。そして、それが崩れていないこと――嘘で出来た仮面も、薄氷の上の日常も、僅かに残った『本当』も崩れていないことに、僕は安堵するのだ。

 まさに、必死で滑稽な道化。あまりに危うくて哀しい、永久に続く拷問。


 それを終わらせる方法がたった一つしかないことを、僕らは知っている。


 ああ、まただ。

 暗い思考の中にずぶずぶと沈んでいく、吐きそうになるほどの嫌な感覚。それは僕の足を絡めとり、茨のように僕をその場に縛り付ける。

 足が動かない。頭から一気に血の気が引き、一瞬目の前から光が消える。銀砂が散り、腕が命令を聞かなくなる。呼吸が浅い。噴き出した汗がべたべたして気持ち悪い。不定期的に僕を襲う、この感覚。

 この感覚を的確に表す言葉を僕は知らない。金本さんは『嫌悪』だと言い、櫻井さんは『恐怖』だと言った。そのどれもしっくりこなくて、僕はまだ、言い表すことが出来ないままだ。出会ったばかりの頃、金本さんが言っていた。


 ――『名前をつけることは、人にとって克服や征服を表す。名前をつけるだけで、俺たちはそれを知り、克服した気になるんだぜ』


 だから、早く名前を見つけろ。そう言っていた。あのときの僕はどうしようもなく愚かで馬鹿で、甘かった。永久の拷問から抜け出すことを毎日夢見ていた。普通から道化へと転落した『あの日』以来、僕は全てが怖くなった。

 永久の拷問。道化の毎日。そんなものを抱え込んでいるのは僕だけだ、なんて甘ったれた勘違いをしていた。

 そんなとき、偶然『最近の若者の自殺』というテーマを追っていた雑誌記者の金本さんと出逢い、一発ぶん殴られ、『喫茶 ピエロ』に連れて行かれた。そこで色々な人に出逢い、色々な事を知った。

 そして、『喫茶 ピエロ』の皆が僕と同じ道化師であることを知った。

 皆、周囲とは違うばかりに外れてしまった人たちだった。僕は皆が抱える、ほんのちょっとの『異質』に触れた。

 僕は相変わらず全てが怖かったけれど、全てが嫌ではなくなった。一人じゃないということが、どんなに救いになることなのか。それが分かった今は、拷問から逃れる方法を考えようとはしなくなった。しっかり生き抜いて、それで死んだら、神様にうんと文句を言ってやる。それが、みんなと、そして自分との約束。

 思考を覆っていた厚い雲が晴れていく。僕はいつの間にか頬を伝っていた涙を指で弾く。大丈夫、ちゃんと歩ける。

 弱いままでもいい。どんなに弱くても、僕らはちゃんと前を向ける。一ミリでも、前進は前進なんだ。これも、金本さんに教えてもらったこと。

 やっと、止まっていた次の一歩を踏み出した瞬間――。


 いやああああああああぁぁぁ!


 長く尾を引く金属質な女の悲鳴が、僕のすぐ前にあるマンションから響いてきた。

僕の住んでいるマンションだ。鉛を括り付けられたような足を無理矢理動かして、僕はマンションへと駆け込んだ。


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