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Hello,monochrome clown

 雨が降ってきた。

 この世界の何よりも繊細な銀色の糸が、迷路のように入り組んだ路地を霞ませていく。あたたかくて柔らかな、五月の雨。むうっとした優しい匂いが僕を包む。

「――降ってきちゃったな」

 目的の店まであと少しだから、そんなに急がなくてもいいだろう。雨は好きだ。傘を忘れていなかったら、もっとゆっくり雨の中の散策を楽しめたのに。

 いつもとほんの少し色合いを変えた街路樹やアスファルトの地面を眺めながら、つま先をそっと蹴り出して靴の先にとまった雫を払う。都会とも田舎とも言えない中途半端な町並みと、どこにでもありそうなぼろいアパート。やたらとカーブの多い道。僕の目的地は、この迷路みたいな路地の先にある。

 ゆっくり歩いたのが災いしたのか、店の前に着くころにはかなり濡れてしまっていた。上着も靴も水を吸って、すっかり色が変わっている。髪もシャワーを浴びたように濡れてしょんぼりと頬や額に張り付いていた。どうも、叱られて水をかけられた犬になった気分だ。

 そんな僕の目の前にある看板のなか、『喫茶 ピエロ』の文字の上で、鼻だけが赤いモノクロのピエロが笑っている。愛嬌のあるヤツなのだけれど、今日はなんだかびしょぬれになった僕を笑っているように見えなくもない。軽く頭を振って水を払い、ついでに嫌な考えも払って、カントリー調の飾りのついたドアを押した。


 からん、ころん――。


「いらっしゃい」

 可愛いドアベルの音と穏やかな声が僕を出迎える。部屋の中はほんのりとあたたかくて、甘いにおいがした。お茶や焼き菓子のにおいと、やさしい木のにおい。

「こんにちは。櫻井さん、美玖さん」

 微笑みを返してくれたのは店主の櫻井さんだけ。これはいつものことだから、落ち込んだりはしない。カウンター席に座り、ちらっと美玖さんを盗み見る。

 色白でほっそりした、髪の長い綺麗な人だ。今日もその整った顔に表情らしい表情は浮かんでおらず、一心にオーブンを見つめている。僕は彼女が大声で話したり、笑ったりするところを一度も見たことがない。

 それにしても困った。こんなに濡れていると、席に座るのがものすごく申し訳ない。

「途中で降られてしまったようですね」

 櫻井さんが新しいクリーム色のタオルを渡してくれた。まさに絶妙のタイミングだ。

 僕はちょっと曖昧に返事をする。ここまで濡れたのは、自業自得といえば自業自得だ。もごもごと御礼を言ってタオルを渡すと、櫻井さんは悪戯っぽい笑みを浮かべて僕を見ていた。

「雨の迷路道も、中々いいものでしょう?」

 何でもお見通し、といった感じだ。この若店主、呆れるほど洞察力が鋭いのである。まあ、この格好を見れば、誰でも分かるかもしれないけど。僕は黙ってそっぽを向くしかない。

 櫻井さんはまだくつくつ笑っている。端的に言って、めちゃくちゃ恥ずかしい。

「今日は他の皆さん、いらっしゃらないんですね」

 気を取り直してきょろきょろしながら言うと、櫻井さんがちょっと寂しげに頷いた。

「ゴールデンウィーク中といっても、忙しいみたいですね。美玖さんも寂しそうです」

 僕は驚いて、美玖さんの華奢な後姿を凝視する。櫻井さんの言葉を聞いた美玖さんは、やっぱり何も読み取れない顔で振り返り、こくん、と一つ頷いた。どうやら櫻井さんには、美玖さんのナノ単位の表情の変化が分かるらしい。

 僕がしきりに感心していると、チンっと軽い音がした。オーブンのタイマーだ。心なしか弾んだ歩調で、美玖さんがオーブンへと向かう。

 美玖さんがオーブンを開くと、ふわぁっと甘い香りが流れ出した。ココアのマーブルケーキ。

「七海さんはミルクティーですか?」

 櫻井さん、すでにミルクティーを淹れ始めている。恐るべし。

「はい」

 櫻井さんの綺麗な手が、白色よりもあたたかみのあるミルク色をしたカップをそっと掴んだ。茶を基調とした店内で、彼らはまるで一枚の絵画のように馴染む。櫻井さんは――見た目だけならば――真っ直ぐな黒髪の、知的で優しそうな美青年。美玖さんと並ぶと、さながら映画のワンシーンだ。二人の黒いエプロンすら、舞台衣装のように溶け込んでいる。

 そんなことをぼんやり考えていると、櫻井さんと目があった。眼鏡の奥の優しい目が、僕を見てまた悪戯っぽく笑う。

「そう急かさなくても、すぐに出来ますよ」

 別に急かしてないよ。……いや、急かしてないからね? ちょっと美玖さん、肩震えてません? もしかして笑ってる?

「マーブルケーキもいかがですか?」

 櫻井さんは慌てる僕の抗議をさらっと聞きながして、美玖さんの焼いたケーキを切り分けてくれた。ほんの少し蜂蜜をたらしたミルクティーと共に、僕の前へと運んでくれる。

「どうぞ」

「いただきます」

 ケーキをフォークで小さく切って口へ運ぶ。いつもと同じ、ふわふわした幸せな味。


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