ヴィランズ
その花はまだ子供だったスタンリーを怖がらせた。
黒一色かと思えば、よく見ていると白い斑点のようなモノが中心の雄しべに向かってぽつぽつとまばらに散らばっていて不気味に思わせる。まるで出来の悪い蝶のようだ。
それでもその花がロックフォード家の至る所に飾られてあるのは、母リーザの趣味によるものだった。
母さんはどうしてこのような花が好きなんだろう。母さんは美人なんだからもっと綺麗な花のほうが似合うのに。
それが幼少期のスタンリーの疑問のひとつだった。
匂いが好きなのだろう? たしかにこの花はとてもいい匂いがする。でも、それだけだ。匂いが良かったところで、こんな不細工な模様はすべてを台無しにする。
「ねえ母さん。母さんはどうしてクロユキの花が好きなの?」
ある晴れた昼下がり。母と二人でロックフォード邸の庭を散歩していたスタンリーはリーザにそう尋ねた。
「なんか黒くて気味が悪くて、ぼくはあんまり好きじゃないな」
「あら、そうなの? 母さんはあの花、好きだけどな。夜中に降る雪みたいでとても綺麗で……ふふ」
朗らかに笑うリーザ。
「でも確かに見る人によっては気持ちのいい模様じゃないでしょうね」
こういう広い視野を持てるのがリーザの凄いところだ。
「人によっては、じゃなくて多くの人が多分そう感じてるよ」
スタンリーは母の手を強く握りながら呟く。
「怖がりなスタンリーだから余計にそう感じてるのね。でもね、一見不気味な模様をしているこの花も良いところもたくさんあるわ」
「におい、かな……?」
スタンリーは最初に思ったことを聞く。
「それもあるんだけど……ほら、人から見て恐ろしい模様をしてる花でも育てるのが難しかったり繊細だったり……。それって人間と同じみたいで素敵よ」
「人間と同じ……?」
スタンリーは目を丸くした。
「えぇ、そうよ」
そう言ったきり母は黙った。
その姿を見上げながらスタンリーは思った。
あのろくでなしのジョン・ロックフォードと結婚したのと、クロユキの花が好きな理由は似ているのだろうか。
スタンリーにとって父親のジョンはまさに悪魔だった。
毎晩のように酒を飲んで暴れ、スタンリーやリーザに手をあげるジョン。そんな彼にも長所はあって、それに惹かれたリーザはジョンと結婚したのだろうか。
はっきりとした理由はわからないが、スタンリーの心中ではどうもそのような気がしてきた。
「おかえりなさい、坊ちゃま」
夕暮れ、友達と遊んだ後帰宅し正面玄関を開けた先にいたベンジャミンは顔をほころばせながら挨拶した。
「うん、ただいま」
スタンリーも微笑してそう返す。
「手を洗ってください。食事の用意はもうできておりますぞ」
「あー……。いいよ。自分の部屋で食べる」
スタンリーは一日のうちの晩ごはんの時間が一番嫌いだ。酒に酔ったジョンに罵倒されるから。
ベンジャミンもそういうスタンリーの心中を察しすぐに、「かしこまりました」と言った。
ろくな父親を持っていないスタンリーにとってベンジャミンはまさに理想の父親像だった。悪いことをしたらきちんと叱ってくれるし、良い行いをしたら頭を撫で褒めてくれる。ジョンによる暴力が行き過ぎた場合、さすがに面と向かって主人には歯向かわないもののさり気ない救いの手を出してくれていた。
そんなベンジャミンは意外にも独身らしい。もうすっかり年も食っているので、今更結婚などは考えないそうだ。一体どこからああ言う父親的な要素が出てくるのか。クロユキの花を好むリーザと並ぶ、スタンリーの幼少期の疑問の一つだった。
しんと静まり返った部屋で黙々とシチューを食べる。もちろん話す相手は誰もいなかった。スタンリーは一人で食べる晩飯は寂しいと思う。一人で食べ始めたのはつい最近のことだが、どうしてもこれだけは慣れるものじゃないと予感していた。
なんでお金持ちであるはずのぼくが、こんな思いをして食べなきゃいけないんだ。セレブの食卓というものは、いつも家族と一緒で、もっと賑やかで華やかなものだろう。それなのに、なんたってこんなシーンとしたところで冷めたご飯を食べなきゃいけないんだ。ぼくだって学校の友達に聞かされるみたいに家族と笑いながら食べたいのに。
――すべてはあの父親のせいだ。
ジョンに対する憎悪を漲らせながら、味のしないシチューを思いっきりよくがっついた。
「スタン! おい、スタンリー!!」
部屋の外から罵声が聞こえ、スタンリーはぎょっとして食べる手を止める。ジョンの声だった。
「あなたやめて! スタンリーに近付かないで!」
「うるせぇ!」
制止するリーザの声と、ジョンの罵声、平手打ちの音が外から響き、スタンリーは混乱する。
ドアが遠慮なくバダンと開かれ、酔った目をしたジョンが部屋に踏み込んできた。
その目には若干の殺意が混じっていてスタンリーを怯えさせる。
どうした、スタンリー? お前はいつも思ってたじゃないか。この父親が憎いと。復讐したいと。さっきだってこいつに対する憎悪を燃やしていたじゃないか。なのにお前は何で、怯えているんだ?
自分にそう言い聞かせるが、結局は酔っ払った父親を前にして黙ってしまう。それが幼少期のスタンリー少年だったのだ。
「お前、なんで今日も食堂に来なかった?」
今にも掴みかかろうと震えているジョンが呟く。
「ひ、一人で食べたかったから……です」
恐怖のあまり泣き出したかったが、ぐっと堪えてなんとか答える。
「なぜだ?」
「……わ……から……」
震えながら言葉を出そうとするが、上手く発せなかった。
「答えろよ!」
物凄い剣幕になって怒鳴りつけるジョン。
「怖いから!」
スタンリーは自棄になり、怒鳴り返した。
自分でも驚くくらいはっきりと、大きく言えたものだ。
「なんだとてめぇ!」
ジョンが平手打ちを見舞おうと、右手を振り上げるが、何かがその手を掴んだ。
「あなたやめて!」
リーザだった。
その瞬間、ジョンの目が標的をリーザに変え、目をギロッと剥きながら振り向いた。
リーザの顎を掴み、突き飛ばす。
スタンリーは何かできないものかと自問した。
このままだとあの魔人は自分の母を殺してしまうだろう。それだけは避けたい。
スタンリーは背後にある自分の勉強机の引き出しの方に目を走らせる。あの中には旧式のエンフィールド社製リボルバー拳銃が収まっていた。父から身を守る為の自衛用として、ジョンの部屋から失敬したものだった。
スタンリーはジョンにバレないように、前を向いたまま机の引き出しを開け、中を弄った。指に鉄製の硬いものが触れると、それを掴み、ジョンの前に立ちはだかる。
自分でもどうしてこんな行動に出ているか不思議であった。おそらく先刻の反抗の時にタガが外れてしまったのだろう。
リボルバーをジョンに向け、スタンリーは感情の赴くままにこう叫んでいた。
「お母さんはぼくが守る!」
ジョンはそれを見て少し動じた表情は見せたものの、すぐに意地の悪い笑顔に変わった。
「お前に父親を殺せるのか、スタン坊や?」
ジョンはスタンリーを取り押さえようと手を伸ばす。
スタンリーは怖くて、映画の見よう見まねでリボルバーの撃鉄を起こしていた。
「撃つぞ! 本気だぞ!」
「なら撃て」
ジョンの意外な返事に目を丸くする。
ジョンは両手の指で自分の心臓の部分を指しながら、ニヤッと笑った。
「頭を空っぽにして、俺が父親であることも忘れて、引き金を絞れ。威力はない方だが、ちゃんと急所を狙えば死は免れん。さぁ、撃て!」
気が付くとリボルバーを握る手ががたがたと震えている事に気がついた。
その瞬間、ジョンは機敏な動きで向けられたリボルバーを取り上げ、背後に放り投げた。
呆気にとられたスタンリーの喉元がガシっと掴まれ、そのまま部屋のバスルームに引っ張られる。
「あなたやめて!!」
リーザの悲痛な叫びが聞こえた時には、ジョンは洗面ボールに水を溜めていた。
ジョンに掴まれていたスタンリーは自分が今からなにをされるのかわかった。
「放せ! 放して! いやだいやだ!」
掴まれた喉から抵抗の声を出すが、ジョンはやめようとはしない。
そしてスタンリーの後頭部を掴み、そして水の中に突っ込んだ。
「あなたやめて!! スタンが死んじゃう! スタンが死んじゃうわ!」
『外』からリーザの制止する声が聞こえる。
顔を上げようにも、後頭部が凄い力で押さえつけられている。それも当然のこと、子供のスタンリーに大人の力には抵抗できないのだ。
鼻と口に大量の水が入る。
息が吸いたかった。意識が朦朧としてくる。
気がつくと、バスルームの床で体を丸めて倒れていた。
その途端、意識を失う前に自分がされたことを思い出し、がばっと水を吐く。
どぅん、と銃声がすぐ近くから聞こえた。ふらつきながらも身を起こす。
嫌な予感がした。
しかし調べずにはいられなかったので、銃声が聞こえた隣の部屋に壁を支えにして歩く。
やめろ、それを見てはいけない。
自分の中のもう一人が制止する。
部屋が近づくに連れ、心臓が早鐘を打ち、息が詰まる思いだった。
それでもスタンリーは歩いた。
向かった先にあったのはリーザ、リーザだったモノの死体だった。
その顔は安らかで眠っているようでもあったが、左胸には赤黒いシミができていた。
『スタンは本当に乗り物好きね』
『スタン、誕生日プレゼントありがとう。お母さん、嬉しいわ。涙が出そう』
『ほら、起きて。今日はいい天気、いい陽気よ』
『大丈夫よ、スタン。なにかあったらお母さんに相談しなさい。わたしはいつもスタンの味方ですから』
『スタン』
スタンリーは絶叫した。
※
「スタンリー・ロックフォードってのはお前のことかい?」
英陸軍特殊部隊(SAS)に入隊した翌日の朝、基地の食堂で声をかけられ、スタンリーは澄んだ目をそちらの方へ向けた。
ガタイのいい、見ていてむさ苦しいほどの大男がそこにいた。
「あぁ。そうだ」
スタンリーは返事をする。
「ヒョウ! 驚いたな! 世界指折りの大企業の坊ちゃまがウチ(SAS)に入隊かよ! それ、なんて映画だ?」
見る者に威圧感を与える強面とは打って変わって、よく喋る男のようだった。
「まま、とりあえずここに座ってくれ」
大男が席につき、向かいの席を指差す。
スタンリーは持っていたハンバーガーの乗ったトレーをテーブルに置き、そこに座った。
「金持ちは映画で見るほど華やかな人生は歩んでないぞ」
スタンリーはそう言いながら、ハンバーガーの包みを開封し齧った。さすが軍基地の食堂というか、かなり味付けが濃く、しょっぱかった。
「んだな。俺もそこそこ裕福な家庭で育ったが、あれはやるなこれはするな言うわ、門限は厳守させられるわ、気に入らないことがあるとすぐムチで打たれるわで散々だよ」
ふん、とスタンリーは心のなかで嗤う。世の中には随分甘ったれた感性の持ち主がいるものだ。
俺は違う。そこらの坊ちゃまの比ではないほど、過酷で壮絶な人生を味わってきた。だから、こういうぬるま湯に浸かっている奴は許せない。
「そうか。それは辛い思いをしたな」
適当に相槌を打つ。
「なんだよー、その返事。お前も似たようなもんじゃないのか?」
「ずいぶん違うね。少なくとも君の人生はだいぶ甘い方だと思うが。俺から見ればね」
苛つきながらスタンリーは返す。
「『甘い』か……。そうだよなここまで聞けばそう見えるよな」
大男は不思議なくらい穏やかな顔でそう言った。
スタンリーはハンバーガーを齧る手を止め、男の方を見る。
「他に何か?」
「……女装趣味だよ。俺の親父、そういう異常性癖があったんだ」
フッと笑いながら、大男は声を潜めて言った。
「毎日夜な夜な女みたいな格好をさせられ、見たこともないような器具でたっぷり可愛がられてたぜ。俺がもういやだと言うと、更にサディスティックなことをさせられてたよ」
スタンリーは黙って聞いている。
「とても嫌でさ、家を飛び出す事ばかり毎日考えてた。そうした日々が十五年続いて、俺はとうとう家を飛び出した。それから孤児院に入って体を鍛え、もっと男っぽい職業に就きたいと思って軍人になって、今こうしてここにいる」
俺と同じか……。スタンリーは直感した。
過程は違えど、親がトラウマになっているところは同じだった。
「君、名前はなんという?」
スタンリーは思わずそう聞く。
大男は白い健康的な歯をにっと見せ、自己紹介をした。
「リペニーだ。マシュー・リペニー」
それから、スタンリーとリペニーは友人同士となった。
リペニーと過ごす日々はスタンリーにとって心地の良いものだった。スタンリーもリペニーも色々な事を語らい合った。好きな異性のタイプ、趣味、好物、生まれはどこか、今の目標は何か、好きなTV番組、好きな映画、好きな本……話せば話すほど両者の距離は縮まった。
数ヶ月が過ぎたある日、スタンリーとリペニーはロンドンをドライブしていた。
ドライバーのリペニーは話題を切り出した。
「俺たち今まで多くを語ってきたな、スタン」
助手席のスタンリーはリペニーのあらたまった切り出しに苦笑を浮かべて、
「どうしたんだ? 突然……」
「ずっと前……いつかは忘れたんだが、お前の家族のことを聞いたら、茶を濁してたろ? なんだ、ありゃ」
スタンリーの口から笑みが消えた。
横目で見ていたリペニーは慌てて、「別に深く詮索する気はないぜ? お前が言いたくなけりゃそれでいいんだ」と付け足した。
スタンリーは少し考えこんだ。
リーザが魔人に殺されたあの晩は記憶から消し去りたいような出来事だった。
軽はずみとはいえ、聞いてきたリペニーをスタンリーは一瞬恨み、そんな自分に嫌悪感を抱きもした。
そもそも自分の家庭は特殊で異常なんだ。親交が深まる中でリペニーがそれを聞いてくるのはある意味必然といえる。そこらの飲食店で親しげに会話している名も知れぬ友人らだって、過去に家族の会話があったかもしれないし、これからあるかもしれないのだ。
「……すまないな。最初会った時、お前は複雑な過去を匂わせただけで、詳しくは話してくれなかっただろ? でも俺の方は忌々しい過去を持っていることを話した。……こんなこと思っちゃいけないだろうが、ズルいと思ってたんだ」
弁解するリペニーにスタンリーは決心し、「いや、お前は正しい」と言葉を放つ。
スタンリーはすべてを話した。父親はひどい飲んだくれでいつも自分を虐待していたこと。リーザは酔っ払った自分の父親によって殺されたこと。守れなかった母に罪悪感を抱いていること。ある晩、父の酒に猛毒を盛ったこと。それによって父は病人となりトーキョーの病院で眠っていること。その病室に定期的に顔を出し、ドラッグを注射し永遠の苦しみを与えていること。今まで恥ずかしくてそれをお前には言えなかったこと。
スタンリーが話し終わると、黙って聞いていたリペニーは、
「結構スリリングな人生送ってきたんだな」
「……引いてるだろ?」
スタンリーはおそるおそる聞く。
聞いた途端リペニーは爆笑した。あまりに笑いすぎて、二人の乗っていたポルシェは脇道に一時停車せざるを得なかったほどだ。スタンリーは眉をひそめ、リペニーを見る。
「い、いや、引くとか引かないとかそういう問題でもねぇよ! お前にはそういう過去がある。それを俺に話してくれた。また友達二人の絆は深まった! スタンリーくんとマシューくんは死ぬまで仲良く暮らしましたとさ! 十分じゃないか? ん?」
そう吐き出し、また笑うリペニー。目元に涙が浮かんでいた。スタンリーは黙ってそのリペニーの太い肩を拳で思いっきり殴った。
「イテェ!? なんだよ!」
笑いながら、肩を擦るリペニー。
「笑いすぎだ、バカモノが」
そういうスタンリーも微笑していた。
――こいつとはいつまでも友達でいよう。
不運だったのはそれから一年後経っての事だった。
中東でリペニーが作戦中、消息を絶った。数ヶ月間捜索が続いたものの、なかなか見つからず司令部も諦めかけていたその時、司令部は一件の無線をキャッチした。なんでも、その声はリペニーのモノだったが男臭いと隊のみんなから評判のリペニーではなく、まるで女のような口調だったらしい。
女のような口調とはどういう意味なのだろうか。
その時のスタンリーの疑問は、救助されイギリスに帰り、病室でリペニーと再開した時に解消された。
「あら、スタンリーじゃない」
リペニーが女の口調で言う。
女の口調と言ってももちろん声変わり後のごつごつとした低音ボイスだ。
「その口ぶり……」
スタンリーはそこまで言って、どう返したらいいかわからず、発言に詰まった。
スタンリーが黙っているとリペニーはうふふ、と笑い、
「中東の捕虜収容所はホンットケダモノが多くてねぇ……。穴さえあれば男でも動物でも平気で手を出す変態どもが腐るほど居て……それから……」
「もういい」
スタンリーは遮り、まずベッドに座っているリペニーの筋肉質な肩に手を置き、それから強く抱擁した。
「もう、いいんだ」
リペニーはしばらく目をパチクリとさせていたが、しばらくしてわなわなと震えだし、
「ごめんなさい……ごめんなさい」
と何度も謝り、泣き崩れた。
俺の親友に酷い目を見せたこの世界は一体なにがしたいのだろう。スタンリーはそう思う。いつもそうだ。俺の母さんの時だって、今こうして悲しんでいるリペニーにしたって、未来はあったんだ。誰が望んで、何が目的でこんなことになったんだ。
結局、母さんの死亡は事故死という扱いを受けた。なんでもコネで解決してきたあの父親のやりそうなことだ。『復讐は神がする』と人は言うが、自分の身の回りの者がこれだけの思いをしておいて黙っていられるほど、スタンリーは忍耐強くなかったのだ。
俺に、俺の仲間に散々な思いをさせた世界に一撃報いたい。
スタンリーはそうやって徐々に存在意義を見出してきていた。
スタンリーはその後、リペニーと一緒に軍から退き、ロックフォード・ジャパン本社を率いることに決めた。スタンリーはリペニーを人間兵器で構成された私設特殊部隊『スカッド』の隊長に抜擢する。リペニー曰く「戦場がアタシの職場よ。いかなる所であれ『戦場』という単語から逃れることは、アタシにはできないし、する気もないわ」とのことだ。
「ここが俺のあらたなる家か」
運転してきた自分の黒いポルシェを降りながらスタンリーは独りごちる。目前に建っているのは新築で優雅な豪邸だった。
「お待ちしておりました、スタンリー坊ちゃま」
玄関の前で待機していたベンジャミンが微笑し、胸に手を当てお辞儀をした。先に東京にある邸宅で待機していろとスタンリーは命令していた。
「あぁ、ご苦労だったベンジャミン。わざわざ、すまないな」
「いえいえ、坊ちゃまがお望みならば、私は火の中水の中でも……」
「それ、よしてくれないか」
ベンジャミンのジョークを遮る形でスタンリーは言う。
「……?」
「坊ちゃま呼びだよ。俺は今度ロックフォードのトップに君臨するんだ。『好きに呼べばいい』と今まで言ってきたが、それも今日で終わりだ」
申し訳無さそうにそういうスタンリー。
「畏まりました。私としては馴染み深い呼び方ではありましたが、変えましょう。スタンリー様?」
「あぁ、それでいい」
スタンリーとベンジャミンは一緒に微笑み合うと、玄関から家の中に入った。木造建築独特の木の匂いが香ばしく、スタンリーは目をつむり深呼吸をした。
目を開け、最初に視界に入ったのは玄関先に飾ってある花を手入れするメイドの少女であった。黒い毒々しい花についてある葉を鋏で切っている。その姿を見てスタンリーはハッとした。自分の母親と同じ雰囲気をその少女は身にまとっていた。
「ベンジャミン、彼女は……?」
「これは大変申し訳ございません。シェリー!」
シェリーと呼ばれた少女は、ふわりと振り返る。その頭にもクロユキの花がヘッドドレスに挟んであった。
「こっちに来なさい」
ベンジャミンがそう命じると、シェリーはこちらに向かってきた。近づくにつれ、その容姿がわかってくる。
愛らしい顔立ちをしていたが、目には光が灯ってなく、それどころか瞬きひとつもしてないように見えた。その緑色の目には底抜けの闇が蠢いているようにも見える。愛らしい顔でもこの目……。まるでクロユキの花と同じだな。とスタンリーは少し怖じながら思った。
そう言えば……とスタンリーは思う。日本に来る少し前、自我を保った人間兵器を作り出すことに成功したとの研究者の報告があった。十五、六歳の白人の少女で、元はアメリカの孤児院にいたそうだ。
スタンリーは目の前の少女をジッと観察した。シェリーはスタンリーを睨むわけでもなく、怯えるわけでもなく、ただ魂の篭っていない人形のような目でこちらを見ていた。
「そうか……じゃあ君が……」
スタンリーは少し驚きながら呟く。
「……まだ精神調整が上手く行かず、感情は表しませんが、言葉は喋ります」と横に来たベンジャミンが言う。
「いや、それで良い」
そんなことはスタンリーにとってはどうでも良かった。
シェリーの頭についてあるクロユキの花を凝視する。
「……好きなのか? その花」
恐る恐るそう聞くとシェリーはコクンと頷き、たどたどしい口調でこういった。
「はイ……。ウツくしいモノを……キラいなヒトなド……イませン」
スタンリーはふつふつと自分の中で何かが燃え上がっていくのを感じた。
どうしてお前が、母親でもないお前がこの花を好むんだ? この花が好きなのは母さんだけだ。それなのにどうして。
我ながら自分勝手な感情だと思っていた。それでもスタンリーは許すことはできなかった。
スタンリーがシェリーをいたぶり出したのは、それからであった。
はじめは子供のいたずら程度の嫌がらせであったが、どんどん過激に陰湿にエスカレートしていく自分に嫌悪する。まるでジョンがリーザや自分をいたぶっていたのと同じように。
このまま行ったら、俺はシェリーを殺してしまうのではないか。
本当にそう思い始めていた時だった。
ある日、スタンリーは東欧の国『アリョリーニア』の戦場を訪れた。なんでも石油問題を抱えている紛争地帯らしく、荒れ果てた処であった。
スタンリーは政府軍の申し出で、その街を陰から見ていた。
「準備が整いました。ミスター・ロックフォード」
隣に来た政府軍兵士が報告する。
スタンリーは「やれ」と命じた。ちっぽけな街の上、灰色の空に無人爆撃機が轟音を立てて通り過ぎ、街は瞬く間に炎に包まれた。
その街は政府に反旗を翻す反政府軍のホームグラウンドだった。
ごう、ごうと燃える街の北部から政府軍が侵入する。
まさに芸術だ。とスタンリーは顔を笑顔で歪めつつ、街に入る。結局はこの混沌、この蹂躙こそが俺の生き甲斐ではないか。憎んできた世界が混沌に蹂躙されるのが。巣を壊された蟻のように、慌てて逃げゆく人びとの滑稽さ。モクモクと建物が燃えている時の迫力。悲鳴と絶叫が鼓膜を心地よく叩く。タンパク質の焦げる匂いと硝煙の匂いと焦げ臭い匂いが混ざった空気を深々と吸い込む。
スタンリーは感動のあまり涙していた。俺は生きてるんだ。そうだ、この時こそ俺は生きている。
我知らず歩きがスキップへと変わっていた。お気に入りの曲の鼻歌を歌いながらリズミカルにスキップをして、適当な家へ入る。気分はまさにミュージックビデオの歌手だ。
「お母さん!! 起きて! 火事だよ! 火事!」
寝室らしき部屋のドアから凛々しい娘の声が聞こえた。
スタンリーはそのドアに手をかけ、ガチャっとわざとらしく響く音で開けた。
「ひっ!」
ベッドの脇で母親をゆすっていた、銀髪の少女が振り向く。意志の強そうな青色の瞳をしていた。そしてなにより、その頭にはクロユキの花の髪飾りが挿してあった。
こんなところにまで……スタンリーはそう思うが、蹂躙のスリルを味わった今となっては目の前の小娘をどうやって食すかが問題だ。
「ハイ! お嬢さん」
スタンリーは口端を吊り上げ、挨拶をした。
「あなたは……」
聞き終わる前にスタンリーは旧式のエンフィールドリボルバー(あの例の晩の時と同じ銃だ)、を取り出し銃口を小娘に向けていた。
小娘はまた小さな悲鳴を上げる。
「私が何者であるかわかったね? 今度は君の自己紹介をしてもらおう」
小娘は怯えながらうつむき加減でこういった。
「い、イリーナ。お母さんとイヴァン兄さんとの三人暮らし……」
「そうか。でもお兄さんが見当たらないようだが……」
「さっき出かけた」
好都合だな。スタンリーはますます口端を吊り上げる。
「ではお母さんのほうにも自己紹介をしてもらおう」
スタンリーはそう言って、ベッドに近づき寝ている母親に手をかけようとするその前にイリーナは立ち塞がりこう叫んでいた。
「お母さんに触らないで!」
意思の強い目をしているとはいえ、ここまでされるのは予想外だ。しかし相手はただの小娘だ。
「お母さんは……」
イリーナはなおも続ける。
「お母さんは……あたしが守る!!」
その一言を発したイリーナと幼少期の自分が重なる。
スタンリーは激昂した。
「『守る』! 守るといったかこのアマ! 自分の立場も考えずによくそんなことが言えるな!」
イリーナに平手打ちを見舞い退けさせると、鋭利な軍用ナイフを取り出し母親の額に突き立てた。
赤黒い血が額の表面を流れる。
「あああ!! 人殺し! 死ね! ケダモノ!!」
見ていたイリーナの頬を再び打つ。
そのうるさい口にエンフィールドの銃口を突っ込んだ。
スタンリーはイリーナの服をビリビリと破く。
まだ発育していない乳房を揉みしだく。
イリーナの髪飾りの花がぱらぱらと散った。
「どうしました? ロックフォード? なんだか顔色が陰ってますよ?」
街を出た後、車の中で運転している政府軍兵士がそう聞いた。
「……楽しくありませんでした?」
「……戦場見学は私の趣味だ。楽しくないわけがないさ」
スタンリーは作り笑いを浮かべる。
心のなかに残ったのは後味の悪さだ。あの後、強姦が済んだ後、スタンリーはすすり泣くイリーナの頭をエンフィールドで撃ち抜き、殺した。その後、家の中にガソリンを撒きライターを投げ、その場を後にした。
あの時、幼少期の自分も殺したのではないか。何かを信じ、縋っていた自分を。
スタンリーは車窓に映る自分の目を見た。その瞳には、幼少の頃の純粋だった色も、青年の時の青臭さも、もうない。
あるのはドブのように濁った白に色褪せた青の円だけである。
スタンリー窓に写っている自分の向こう、外の景色から、眩い対向車のライトが近づいてくるのを認識した。
対向車とすれ違う直前、その車内がはっきりと見える。
イリーナと同じ青空の目をした銀髪の少年が、助手席に座っており先刻焼き払った街の方向へ過ぎて行った。
あいつが兄のイヴァンか。スタンリーはそう思い、これから彼が目撃する街の惨状を想像し、にやとほくそ笑んだ。
※
あれから五年が経った。スタンリーは今もこうして生きている。つまり、残酷非道に生きているということだ。
スタンリーは会社恒例のパーティに出席するために、新しく買ったベージュのスーツに着替え、髪を見栄え良く整髪した。
着替え終わるとベンジャミンと一緒にクローゼットを出て、その足で書斎に向かう。
途中でベンジャミンに車を準備するよう指示をし、別れると、ポケットから透明な液体……ポイゾを取り出し、書斎のドアを開けた。
メイドの少女……シェリー・チェインズがこちらを見る。
あれからシェリーは随分はっきりと、しっかりとした発音で喋れるようになったがまだまだ無口で無表情だった。
シェリーに父親に打つよう注射器を渡すと、書斎を後にし、玄関ホールの階段を降り、玄関のドアを勢い良く開けた。
ベンジャミンが車庫から持ってきたポルシェに乗る。
スタンリーは自分の髪型を確かめようと、バックミラーを自分の方へ向けた。ミラーに映った自分の瞳にはもはや冷たい氷のような青さしかなかった。




