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ぽつぽつと降りしきる雪の中、レイとの無線を切ったイヴァンは大型二輪車のタイヤと地面を擦らせ、華麗にUターンをし、アクセルを吹かしながらオートバイを発進させた。
このオートバイ……、ランボルギーニ・デザイン90は八〇年代に製造された、ランボルギーニ社唯一のスポーツオートバイである。セーフハウスの地下にある車庫に眠っていたところを、イヴァンが選び乗ったのだ。イヴァンは黒を基調としたシティ迷彩が彩られた野戦服に、バラクラバを頭に覆わせ、更にその上からバイク用のフルフェイスヘルメットを被っていた。
PDWはベルトで腰に下げ、大腿部のホルスターの中にはステアーが納まっている。
大きな橋にさしかかり、アパートまであと十キロと言うところで無線が鳴った。
(イヴァン、フェネクスだ)
無線から緊迫した様子のデチャンスの声が聞こえる。
「フェネクスか、どうした」
イヴァンはヘルメットの中に内蔵された無線用マイクを通して、応答した。
(アパートの位置情報はわかっているな? 最終確認を取りたい。彼、悪霊はアパートの二〇三号室に住んでいる。悪霊の本名は宇佐美陽。都内の大学、『豊月大学』に通う大学三年生だ)
イヴァンの脳裏に再びあの軽薄そうな青年の顔がチラついた。
「アパートの二〇三号室、だな。わかった」
考えを振り払うかのようにイヴァンは声を張り上げた。
(できるだけ俺も無線で協力はしてやる。ただ一人で行く以上、腹はくくっておけ。いいな?)
「あぁ、わかってるぜ」
無線を切るとイヴァンはオートバイを加速させ、目的地へ急いだ。
※
陽はレインボーブリッジから自宅のアパートまで徒歩で走破していた。
ナノが認識しないおかげで、電車もタクシーもバスも、あらゆる交通手段が使えなかった。
それでも陽が走ってアパートにまで辿り着いたのは、生きようとする意思があったのかもしれない。
これほど走った中で街中に徘徊しているロックフォード製の無人探査機に見つからなかったのは奇跡的と言っていいだろう。
アパートの前の通りに差し掛かると、陽は減速し、歩き始めた。
「芽衣……」
陽は我知らず幼なじみの名前を呟く。
こんなことになるくらいなら、もっと早く彼女に想いを伝えるべきだったのだろうか。今更こんなこと考えても、仕方がないが、それでも陽は考えずにはいられなかった。
彼女に告白して、初デートも初キスも済ませて、それからその先も……。
そこまで考えて陽は自分が性的に興奮していることがわかった。
「……こんな時に何を考えてる……俺」
人は死の危機に瀕すると繁殖本能が高まるとは聞いたことがあるが、まさか本当にそうだとは陽は思わなかった。
アパートの前に着くと陽は被っていた帽子を脱ぎ、その帽子を振った。
三回振った後で、何かが陽の手のひらに落ちた。この部屋の合鍵だ。帽子に隠し持っていて、捕まり、護送車に乗る前の持ち物チェックで奇跡的に没収を免れたものだった。
それをドアに差し、ロックを解除する。
このロックまでもがナノで識別する錠じゃなくて本当に良かったな、と陽は思った。実際、そう言うロックのタイプは増えてきているらしいが、陽のアパートは古くさい建築物なのでそう言う贅沢品は備え付けられていなかったのだ。
ドアを開け、アパートに足を踏み入れた途端、戦闘服に身を包んだ男に陽は羽交い絞めにされていた。
※
「やはり中に潜んでいたか」
熱源計測装置付きの双眼鏡でアパートの二階の一室の窓を覗きこみつつ、イヴァンは舌打ちをしていた。
双眼鏡には赤い人型が模られたモノがもう一人の熱源を羽交い締めにして動けなくしていた。
イヴァンは双眼鏡から目を離すと、オートバイを加速していた。その先にあったのは……。
大きな長い坂だった。この勢いであの坂に突っ込んだら、上りきる時には、オートバイは空高く舞っているだろう。
それがイヴァンの狙いであった。斜面を利用してジャンプし、アパートの窓を突き破って突入すると言う強行策に出たのだ。
坂が目の前に迫り、そしてオートバイは凄まじい勢いで坂を登り始めた。
それに連れて、目の前にアパートがどんどん迫ってくる。アパートの一室は暗くなっており、中で何が起こっているかは今のイヴァンにはわからない。
坂が終わると、イヴァンの予想通り、オートバイはジャンプしていた。
空中でイヴァンの体がオートバイから離れる。
アパートの二〇三号室の窓が目の前に迫ってきた。
そして……。
※
あまりにも突然すぎる出来事の連続であった。
陽は部屋に入った途端、ロックフォード社の私兵部隊の男に羽交い締めにされて、そのままリビングにまで押し進められ、窓の横の壁に頭を押し付けられていた。
何が起こったのかよくわからないまま、カチャっという撃鉄を倒す音と、後頭部に冷たい鉄の感触を感じた。
殺られる……。陽はそう知覚していた。
その時、窓の外が一瞬眩い光が反射していた。
そしてバリンとガラスの割れる音が聞こえ、陽と私兵部隊の男は思わず後ずさりしていた。
床に尻餅をついた陽は、一拍置いて窓の方を見やった。
そこには一人の男性体型の者がいた。スモーク張りのフルフェイスヘルメットで顔はわからなかったが、体格から男性だとわかる。服は迷彩柄の戦闘服を着ていて、腰には重々しいサブマシンガン、腿にはホルスターが付いていてそこからは拳銃が覗いていた。
私兵部隊の男は立ち上がると胸部にあるナイフを抜いた。
ヘルメットの男もナイフの柄を取り出し、刃を出した。鎌状の、まさに人体の一部をえぐり取るために造られたような凶悪的なナイフだった。
二人はナイフを持ち暫く睨み合っていたが、私兵部隊の男の方から地面を蹴ると、ヘルメットの男はナイフを構え直し相手の出方を待った。
陽は思わず目をそらしていた。
室内に、ぐしゃっという泥水の入った袋を刃物で刺すような音が響いた。
陽は意を決して目を向けると、そこにはヘルメットの男が立っていた。
その後ろには、先刻、陽を締めていた男の死体が転がっている。その下からは赤黒い液体が流れ出していた。
思わず嘔吐感を覚え、陽はヘルメットの男を見上げた。
「き、君は……」
陽が震えながら声を出す。口内がカラカラに乾いていて上手くろれつが回っていたかどうかも怪しかった。
ヘルメットの男は黙って陽を見ていた。そして、血しぶきを浴びたヘルメットを外すと、中に着ていたマスク(バラクラバ)も外し、素顔を見せた。
透き通るような銀髪、青色の瞳、東欧系の堀の深い顔。あの飛行機の中で会った男だった。
その童話の王子様のように整った顔には、殺気立った表情が浮かんでいた。
特に目だ。目尻は釣り上がっており、瞳には底知れないどす黒き色が浮かんでいて、陽は昔美術館で見た悪霊の顔を連想していた。
「お前は誰だ。どうしてお前がここに居る?」
男が初めて口を開くと、陽は「ひっ」と小さな悲鳴を上げた。
男が諦め、耳に手を当て誰かと通信しはじめた。
「Phenex, are you sure he is the one?」
男が英語で話す。陽は混乱した脳内でもそれを翻訳していた。
「……間違いない、か。あんまりだな」
男はそう言って、陽をじろりと睨んだ。
※
これはCIA工作員であるイヴァンと、凄腕のハッカーである陽の、二人の物語である。
Evil Spirit ~二人の悪霊~ START!!




