転職条件
支部ギルドの掲示板は、朝だと少し静かだった。
昼を過ぎれば、人が集まり、
紙の前には自然と輪ができる。
評価の話。
昇格の話。
推薦の話。
そういう話題は、
人の声を少しだけ大きくする。
リナは、それを避けるように、
朝の早い時間を選んでいた。
誰にも見られずに、
見るだけでいい。
今日は、それだけのつもりだった。
掲示板の端。
新しい依頼書の列の下。
少し色の違う紙が、一枚だけ貼られている。
《上位職 申請案内》
リナは、その文字を見た瞬間、
足を止めた。
申請。
推薦。
承認。
それらは、
いつも自分の手の届かない場所にある言葉だった。
ケアラーは、育つ職だ。
支える職だ。
誰かが前に出られるように、
後ろから整える職。
上位職に進む者もいる。
だが、それは「より良い後方支援」になるためだ。
前に出るためではない。
リナは、紙に近づいた。
《初期職Lv20達成後、支部ギルドへ上位職申請可能》
《実地試験あり》
《支部推薦必須》
《最終承認:本部級ギルド》
淡々とした条件。
誰にでも同じように書かれている。
だが、その下に。
《メイス盾(Mace Shield)》
《出現率:1%》
指先が、わずかに冷えた。
数字の問題じゃない。
この世界で、
「1%」が何を意味するかを、
リナはよく知っている。
通らない。
ほとんどの場合、最初から選択肢に入らない。
「……やっぱり」
声に出して、
自分を落ち着かせる。
そのとき、背後から声がした。
「そこ、あんまり見ない人多いよ」
振り返ると、
訓練士の女性が立っていた。
年配だが、背筋がまっすぐで、
目だけが鋭い。
長く前線を見てきた人の目だった。
「メイス盾?」
訓練士は紙を覗き込む。
「ああ……」
短く息を吐く。
「殴られる支援職だ」
嘲笑でも、否定でもない。
ただの事実だった。
「普通は勧めない」
「選ぶ人も、ほとんどいない」
リナは、ゆっくり頷いた。
「……はい」
それで終わるはずだった。
だが、訓練士は去らなかった。
紙から目を離し、
リナの立ち方を見る。
「最近、前に出てるだろ」
責める声ではない。
確認する声だった。
「……はい」
「怖くない?」
少しだけ、
戦術ではない問いだった。
リナは、正直に答えた。
「怖いです」
即答だった。
訓練士は、少しだけ目を細めた。
「それで前に出るのは、
女の子としては損だよ」
その言葉に、
リナの呼吸が一瞬、浅くなる。
女の子。
久しぶりに、
そう呼ばれた気がした。
リナは、自分の手を見る。
指は細い。
爪は短く、整えている。
回復魔法の精度を落とさないためだ。
「……損でも」
言葉を選ぶ。
「倒れるより、ましです」
訓練士は、ふっと笑った。
「強いね」
褒め言葉ではない。
評価でもない。
ただの感想。
「申請する?」
リナは、少しだけ迷った。
怖いのではない。
戻れなくなるのが、怖かった。
それでも、頷いた。
「はい」
訓練士は、厚めの紙を取り出す。
申請書。
名前を書く欄が、やけに小さい。
「推薦は、簡単には出ないよ」
「特に、あんたみたいなのは」
「分かってます」
紙を受け取る。
指が、ほんの少し震えた。
部屋に戻る。
壁際に、盾が立てかけてある。
拾っただけの盾。
正式な装備ではない。
リナは、椅子に腰を下ろし、
盾に背を向けた。
今日は、触らない。
触ると、決意が固まってしまう。
申請書を見る。
《希望上位職》
空欄。
そこに書くだけで、
自分の立ち位置が変わる。
前に立つということは、
殴られるということだ。
殴られれば、痛い。
それは、男女で変わらない。
だが――
傷が残るかもしれない。
顔に。
腕に。
身体に。
一瞬、
とても現実的な不安がよぎる。
リナは、目を閉じた。
思い出す。
倒れかけた剣士の顔。
怯えた荷役の背中。
間に合った、あの一拍。
「……」
ペンを取る。
《メイス盾》
文字は、まっすぐだった。
迷いは、線に出なかった。
書き終えた瞬間、
胸の奥が、少しだけ軽くなる。
同時に、
もう後ろには戻れない、
という感覚が広がった。
夕方。
訓練士が申請書を受け取る。
紙を見て、何も言わない。
ただ、頷く。
「実地試験は、非公式になる」
「人は集めない」
「記録も、最小限」
「……はい」
「生き残ったら、話は聞いてもらえる」
条件ではない。
現実だった。
夜。
宿の部屋。
リナは、髪をほどき、
ゆっくりと指で整えた。
明日は、何も変わらない。
だが――
自分だけは、もう戻らない。
盾は、まだ静かに壁に立っている。
その前に立つ日が、
近づいていることを、
リナははっきりと感じていた。




