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メイスを持つ理由

任務掲示板の前は、いつも同じ匂いがした。

乾いた紙と、古い木と、インクの苦さ。

それに、汗の匂いが混ざる。

任務を選ぶ匂いではなく、選ばされる匂いだ。


リナは、紙の列を上から順に追った。

F級。E級。D級。

自分の指は、自然とD級の列で止まる。

止まって、動かない。


掲示板の隣で、別の指が動いた。

分厚い指。爪の間に黒い汚れが残る、前線の手。

その指が、同じ紙を剥がした。


「……これ、空いてる?」

声は男だった。

若くはない。老いてもいない。

武器を握ることに慣れた声。


リナは反射で身を引きかけて、やめた。

怖いのは相手ではない。

自分の反射だ。

後ろに下がる癖。


「空いてます」

リナが答えると、男は紙を持ち上げたまま、少しだけ首を傾げた。

「ケアラー?」


「……はい」

「じゃあ、こっちもケアラーが一人足りない。来る?」


リナは紙を読む。

《交易路脇・倒木撤去および小型魔物排除》

難度はD。

だが備考欄に太い字で書かれている。

《追加:負傷者が出た場合、自己完結できる支援職歓迎》


“自己完結”。

それは、この世界で一番重い言葉だ。

誰にも頼れない、という意味だから。


「……行きます」

リナが言うと、男は簡単に頷いた。

「助かる。俺はハルド。ライトメイスだ」


ライトメイス。

前に出るヒーラー系支援の初期職。

回復は少ないが、殴って止める。

そして、たいてい盾がない。


リナは、その単語だけで胸の内側がざわつくのを感じた。

前に出る支援。

“あの型”に近い匂い。

魔王城の噂に出てくる、変な盾。

回復しながら殴られる、というあれ。


「リナ」

名だけ告げる。

それ以上は言わない。

評価の話もしない。

言えば、軽くなる。


集合は朝。

日が昇る前に支部ギルド前へ集まった。

ハルドのほかに、弓手が一人、剣士が一人。

そして荷役が二人。

護衛というより、仕事の延長だ。


ハルドは、準備が早かった。

鎧は軽い。

だがメイスの柄が太い。

殴るための重さが、最初から腕に乗っている。


「ケアラーって、後ろの人だろ?」

剣士が軽く言う。

責める声ではない。

確認する声だ。


リナは頷きかけて、止めた。

頷けば、また戻る。

戻って、間に合わない。


「基本は、そうです」

言葉を選んだ。

否定ではなく、逃げでもない言い方。


剣士はそれで納得したように笑い、弓手は無言で弦を確かめた。

ハルドだけが、ちらりとリナを見る。

見て、何も言わない。


交易路を外れ、森に入る。

倒木は大きく、幹が裂けている。

その裂け目に湿った黒が溜まり、小型魔物が巣にしている。


数は多くない。

問題は、地面だ。

ぬかるみ。

足を取られれば、前衛が止まる。

止まれば、噛まれる。

噛まれれば、ロストが近い。

蘇生はない。


「行くぞ」

ハルドが短く言う。

剣士が前へ。

弓手が斜め後ろへ。

荷役は倒木に取り付く。


リナは、いつもの位置に立てた。

後ろ。

少し離れた場所。

回復の射程に入る位置。

安全な位置。


—安全な位置。


その言葉が、喉に引っかかる。


戦闘は始まった。

小型魔物は、湿った地面から這い上がる。

泥で光が鈍る。

目が白い。

動きだけが速い。


剣士が一体を斬る。

弓手が二体目を射る。


数は減る。

だが、足場が悪い。


剣士の足が、ぬかるみに沈む。


その瞬間、魔物が一体、横から滑り込んだ。

狙いは剣士の脛。

防具の隙間。


リナの身体が、勝手に動いた。

後ろから回復を投げるより先に。


「——っ」

声にならない息。

リナは前へ出た。


一歩。

二歩。


泥に足を取られないように、足裏全体を置く。

重心を低くする。

あのとき盾を拾ったときの感覚。


盾が、腕にない。

部屋に置いてある盾。

今はない。

それでも、身体は前へ。


「《ヒール》!」

回復は飛ぶ。

間に合う。

剣士の脛の肉が裂ける直前に、痛みを薄くする。

だが——


回復だけでは止まらない。

魔物は回復では止まらない。


そこでハルドが入った。

剣士の前へ。

盾はない。

だがメイスがある。


「どけ!」

怒鳴りではなく、合図だった。


ハルドは半歩で距離を詰め、メイスを振り下ろした。

狙いは頭ではない。

胴でもない。


足。


鈍い音。


骨が砕けるというより、関節が外れる音。

魔物の突進が止まる。

止まった瞬間、剣士が呼吸を取り戻す。


「……助かった」

剣士が短く言う。

謝罪でも礼でもない。

生存報告に近い。


リナは、その一拍を見逃さなかった。

回復が間に合ったのは、前に出たからだ。

止められたのは、殴ったからだ。


——回復だけじゃ、止まらない。


——止めるだけじゃ、続かない。


残りの魔物が、荷役へ向かう。

荷役は武器を持たない。

倒木を動かす手は、武器より遅い。


弓手が射る。

当たる。

だが倒れない。

小型でも数が重なると、刃は通らない。


ハルドが走る。

盾がない。

身体で止めに行く。

止めれば、噛まれる。

噛まれれば、終わる。


リナは息を呑む。

そして、理解する。


ライトメイスは、前に出る。

だが守る面がない。


「《ヒール》!」


リナは回復を投げる。

間に合う。

噛まれた腕の裂傷が閉じる。

だが、次が来る。


ハルドはもう一度、殴る。


止める。


止めるが、押し返せない。

盾がないから、押し返せない。


魔物が、体当たりしてくる。

小さいのに重い。

ぬかるみで踏ん張れない。

ハルドの足が滑る。


滑った瞬間、隊列が崩れる。


リナの中で、嫌な記憶が噛み合った。


“回復がある限り、人は前に出て死ぬ”

それと同じ種類の絶望。


守る面がない限り、支援は崩れて死ぬ。


「……っ」


リナは叫ばなかった。

叫ぶと遅れる。


彼女は走った。

回復役としてではない。

止める役としてでもない。

ただ、間に合う場所へ。


手に武器はない。

あるのは、短剣だけ。

ケアラーの護身用。


短剣で止められない。

止められないが、触れることはできる。


リナは魔物の横腹へ短剣を当て、押した。

刺さない。

刺せば血が出る。

血が出れば足場が滑る。

滑れば、倒れる。


押す。


押すだけ。


だがその一瞬で、魔物の重心がずれる。


ハルドが、そのずれに合わせてメイスを振る。


「《頭にどーん》!」


言葉が、軽い。

だが腕は軽くない。


メイスが頭部を叩いた。

小型魔物の動きが止まる。

倒れない。

ただ止まる。

スタン。


弓手が矢を打ち込む。


剣士が斬る。


荷役が逃げる。


戦線が戻る。


戦闘は、終わった。

倒木も片づき、交易路は開けた。

依頼は達成。

全員生還。


帰路。

ハルドは、何度か腕をさすった。

噛まれた場所だ。

回復で閉じたが、痛みは残る。

残った痛みが、現実だ。

蘇生のない世界の現実。


「リナ」


ハルドが呼んだ。


「はい」


「さっきの、前に出るやつ……怖くないのか」


怖い。

怖いに決まっている。

殴られるのも、噛まれるのも。

自分の回復が間に合わない未来も。

怖い。


それでもリナは、正直に言った。


「怖いです」


ハルドは少し笑った。


「だよな」


リナは続けた。


「でも、後ろで見てる方が……もっと怖い」


その言葉に、ハルドは笑わなかった。

笑えない種類の言葉だと分かったのだ。


支部ギルドに戻り、報告を出す。

書記は淡々と記録する。


任務達成。

戦闘短縮。

負傷軽微。


だが評価欄は、動かない。

リナの名前の横には、また小さな注記がつく。

《危険圏侵入あり》


その紙を見た瞬間、リナは怒りより先に、冷えた理解をした。

評価は、変わらない。

正しさに沿っている限り。


宿へ戻る。


部屋の隅。


そこに盾がある。


あのとき拾って持ち帰った、あの盾。

まだ正式装備ではない。


でも、捨てられない。


リナは盾の縁に触れた。


冷たいはずの金属が、少しだけ温い。

今日の戦いを、覚えているみたいに。


そして、思った。

ライトメイスは前に出る。

でも守る面がない。

ケアラーは回復できる。

でも止める手がない。


なら、

盾があれば、続けられる。

メイスがあれば、止められる。


リナは、盾を見つめたまま、静かに言った。


「……私、殴る手がない」


殴る手がない。

それは、暴力が欲しいという意味ではない。

“止める手段がない”という意味だった。


止められない支援は、

いつか必ず間に合わなくなる。


リナは盾から手を離し、手のひらを見た。

震えてはいない。


だが、今日の泥の感触が残っている。


前に出た感触。

間に合った感触。


窓の外から、酒場の笑い声が聞こえた。

「魔王城の変な盾、ほんとにいるのかよ」

「ヒーラーが前にいるとか、死にたいだけだろ」


リナは、その声に耳を澄ませる。

笑い声の中に、真実の匂いが混じっている。


「……盾はある」


小さく呟く。


そして、次の言葉は、まだ声にしなかった。

声にした瞬間、戻れなくなるから。


——メイスが、必要だ。


リナは灯りを落とし、盾のそばに座った。

今日も評価は動かない。

昇格は遠い。

だが、生き残った。


生き残った理由は、また紙には載らない。

でも確かに、今日もそこにあった。

それだけで、今夜も眠れる。


そして眠りの手前で、

リナは初めて、噂の“異端の盾”を、

遠い誰かではなく、

“戦い方”として想像した。


回復しながら殴られる。

殴られながら回復する。


その矛盾の中に、

この世界の生存があるのかもしれない。


リナは盾に背を預け、目を閉じた。

明日、掲示板を見る。


そしてまた、間に合う場所を探す。


その先に、メイスがあるなら。


それは武器ではなく、

生き残り方の形になる。

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