不遇職の噂
酒場は、夜になると少しだけ騒がしくなる。
昼間は依頼の話と装備の値段ばかりが飛び交う場所だが、夜は違う。
失敗談。
死にかけた話。
そして、誰も証明できない噂話。
リナは、壁際の席に座っていた。
背中を壁につけ、視界に入口を入れる位置。
癖になった座り方だ。
誰かが倒れたら、すぐ立てる場所。
テーブルには、薄い酒。
味はしない。
酔うためではなく、
「ここにいる理由」を作るための杯だった。
隣の卓で、男たちが笑っている。
声が大きい。
酒も進んでいる。
「――でさ、結局そいつ、戻ってこなかったんだよ」
「迷宮三層で? そりゃ無理だろ」
「ヒーラーが遅れたら終わりだよな」
リナの指が、杯の縁で止まる。
耳は、自然とそちらへ向いていた。
「いや、ヒーラーはいたんだ」
「じゃあなんで?」
「後ろにいた」
一瞬の沈黙。
次の瞬間、笑い声。
「それは……責められねえな」
「正しい位置だろ」
「前に出るヒーラーなんて、信用できねえし」
リナは、視線を落とした。
杯の中で、酒が小さく揺れる。
別の声が混じる。
少し年上の冒険者だ。
「でもよ、変な話もあるぞ」
「変?」
「魔王城の方でさ……」
リナの背筋が、わずかに伸びる。
「盾がいるらしい」
「盾?」
「ただの盾じゃねえ。
回復役なのに、前に立つ」
誰かが吹き出した。
「は?」
「それ死にに行ってるだろ」
男は、肩をすくめる。
「そう思うだろ。
でも、死んでねえらしい」
「盛りすぎだって」
「回復しながら殴られるって噂だぞ?」
笑い声。
完全に、冗談扱いだ。
だが、リナだけは笑わなかった。
回復しながら、殴られる。
前に立つ、回復役。
胸の奥で、
昨日まで言葉にならなかった感覚が、
ゆっくりと形を持ち始める。
「……それ、本当ですか」
気づけば、声を出していた。
卓の男たちが、一斉にこちらを見る。
驚きと、少しの戸惑い。
「あ? ああ……噂だよ、噂」
「魔王城なんて、話半分だ」
「誰も名前知らねえしな」
「でも――」
リナは、言葉を選びながら続ける。
「誰も倒れない、って……」
男の一人が、顎を撫でる。
「……そういう話は、ある」
「殺さないのに、壊滅しないって」
「変だろ?」
「普通、前に立ったら死ぬ」
「だから嘘だと思う」
正しい意見だ。
この世界では。
リナは、それ以上訊かなかった。
詮索すれば、噂は噂のまま消える。
だが、もう十分だった。
宿へ戻る道。
夜風が、少し冷たい。
リナは歩きながら、
自分の手を見た。
回復魔法を使うための手。
同時に、盾を持てる手。
「……不遇職、か」
誰かがそう呼ぶ声が、頭をよぎる。
前に立てない盾。
後ろに下がれないヒーラー。
中途半端。
評価されない。
昇格が遅れる。
でも――
「誰も倒れないなら」
その言葉を、リナは飲み込んだ。
今は、まだ言葉にしない。
部屋に戻ると、
壁に立てかけた盾が目に入る。
傷だらけで、重い。
正式な装備ですらない。
それでも。
あの瞬間、
自分が前に立った理由は、
もう一度、はっきりしていた。
「……前に出たから、生き残った」
正しいからじゃない。
評価されたからでもない。
間に合ったから。
リナは、静かに盾を持ち上げた。
腕に、ずしりと重さが乗る。
怖さは、ある。
でも、不思議と嫌ではなかった。
魔王城の噂は、
まだ笑い話だ。
誰も信じていない。
だが、リナの中では、
それはもう噂ではなかった。
「……生き残る方法は、
きっと一つじゃない」
盾を下ろし、
リナは息を整える。
評価されなくてもいい。
不遇と呼ばれてもいい。
それでも――
「次は、
もっと前に立とう」
酒場の笑い声は、
遠くで続いている。
その中で、
一人だけ、別の戦い方を選ぼうとする者がいた。
それが、
後に「異端」と呼ばれる型の、
最初の一歩だった。




