間に合わなかった夜を越えて
街道は、夜になると音が変わる。
昼間は人の声と車輪の音が支配する道が、夜になると風と虫と、自分の足音だけになる。
静かになるのではない。
余計なものが削ぎ落とされるだけだ。
リナはランタンを腰に下げ、歩幅を一定に保って進んでいた。
前にミオ、右斜め前にラグ。
自分は、半歩後ろ。
後ろすぎない。
前に出すぎない。
今日の訓練で決めた距離だ。
「……ここだな」
ラグが足を止める。
街道脇、木立の影に沈む廃小屋。
壁は傾き、屋根は半分落ちている。
それでも、入口の前だけが妙に踏み固められていた。
人が来ている。
あるいは、人に似た何かが。
ミオが耳を澄ませる。
「……音は、今はない。でも、空気が重い」
リナは頷いた。
嫌な予感は、理由が分からなくても共有できる。
「私、ここで一回、距離測る」
ラグが眉をひそめる。
「中、入らないのか?」
「入る。でも、入る前に“戻れる位置”を作る」
ラグは納得したような、していないような顔で肩をすくめた。
「ケアラーって、ややこしいな」
リナは苦く笑った。
「ややこしくしないと、生き残れない」
◇
小屋に近づくにつれ、空気が変わった。
湿っている。
だが、水気ではない。
呼吸に引っかかる、生臭さ。
ラグが剣を抜く。
ミオが短剣を逆手に構える。
リナは、杖を握りながら一歩、危険圏へ。
足裏の感覚を確かめる。
(ここなら、戻れる)
そう判断した瞬間だった。
――ガタリ。
小屋の奥で、何かが動いた。
「来る!」
ミオの声と同時に、影が飛び出す。
人型だが、人ではない。
腕が長すぎる。
関節が逆に曲がっている。
目が、光っている。
「グール……!」
ラグが叫び、剣を振るう。
刃が当たる。
だが、浅い。
グールは止まらない。
ラグに体当たりし、二人まとめて地面に転がす。
「――っ!」
リナは動いた。
止まらない。
止まらずに詠唱する。
「《ヒール》!」
光は弱い。
だが、届く。
ラグの肩の裂傷が塞がる。
グールがリナを見る。
目が合う。
――来る。
距離が、詰まる。
リナは半歩戻る。
それだけで、爪が空を切る。
「今だ、ラグ!」
ラグが起き上がり、剣を振るう。
今度は深く入った。
グールがよろめく。
だが、倒れない。
ミオが背後から飛びかかる。
短剣が首筋に刺さる。
――ギィィ。
甲高い声。
そして、二体目が影から出てきた。
「……まだいる!」
リナの喉が鳴る。
想定より多い。
だが、逃げる判断には早い。
「ラグ、前出すぎないで!」
「分かってる!」
ラグは一歩踏みとどまり、盾代わりに剣を構える。
ミオは横に回る。
リナは、距離を保ったまま、次の詠唱に入る。
「《ヒール》!」
光がまた走る。
ミオの脚の浅い裂傷が閉じる。
だが、その瞬間――
グールの一体が、意図的にリナへ向きを変えた。
(来る)
リナは詠唱を切り、動いた。
危険圏から、安全圏へ。
爪が、あと少しで届く距離。
――間に合った。
その判断に、背中が冷える。
昨日は、これができなかった。
ラグが割り込む。
剣がグールの腕を落とす。
ミオが叫ぶ。
「もう一体、奥!」
小屋の影が、さらに動く。
数が増える。
リナは歯を食いしばった。
「……下がる。これ以上は、回復が足りない」
ラグが一瞬迷い、頷いた。
「撤退だ!」
三人は一斉に後退する。
リナは最後尾。
追ってくる気配。
距離が縮まる。
リナは、振り返らずに詠唱した。
「《ヒール》!」
光が、ラグの背中を包む。
足が止まらない。
止まらせない。
街道まで出た瞬間、グールたちは立ち止まった。
光の当たる場所を嫌っている。
「……助かった」
ラグが息を吐く。
ミオはその場に座り込んだ。
リナは、杖を握ったまま立っていた。
震えている。
でも、立っている。
◇
ギルドに戻ったのは、夜半だった。
報告を終え、任務札が回収される。
報酬は小。
だが、三人とも生きている。
受付が、珍しく何も言わなかった。
評価が、書記の手で淡々と記される。
「……全員帰還」
その一言が、胸に残る。
訓練場の裏で、コルドが待っていた。
「顔、まだ死んでないな」
リナは、かすかに笑った。
「……間に合いました」
コルドは短く頷く。
「一回だけだろ。だが、それでいい。次は二回だ」
リナは、その言葉を胸に刻む。
間に合わなかった夜は、消えない。
でも――
越えることは、できる。
リナは、自分の足の感覚を確かめながら、静かに息を吐いた。




