追いつくための距離
ギルドの裏口を出た瞬間、冷たい風が顔を叩いた。
昼間の森より、街の風のほうがずっと乾いている。血の匂いが混ざらないからだ。
リナは歩きながら、指先を見た。
昨日の血はもう落ちている。爪の隙間も、皮膚の皺も、洗って擦った。
それでも、感覚だけが残っている。
温かい。熱い。ぬるい。冷える。
押さえる。押さえても漏れる。
《ヒール》が届く。届いても足りない。
それらは記憶ではなく、手の中に残った“手順”だった。
リナはギルドの正面に回らず、裏の訓練場へ向かった。
今から剣を握る気はない。
でも、何もしないで帰る気もしなかった。
◇
訓練場は朝から騒がしい。
木剣の打ち合う乾いた音、盾が受ける鈍い音、掛け声。
汗の匂い。土の匂い。薬草の匂い。
全部が混ざって、戦場に一番近い場所を作っている。
リナが歩いていくと、木柵の向こうで、二人組が目を向けた。
訓練生――F級の若い連中だ。
視線の端に、言葉が乗る。
「昨日、戻りが三人だったって」
「ケアラー、女の子だったよな」
「前に出たらしいよ」
「前に出ても間に合わないって、怖いな……」
噂は早い。海より早い。
リナは何も言わずに通り過ぎた。
“前に出た”という事実だけが独り歩きする。
“なぜ前に出たか”は、誰も聞かない。
訓練場の奥に、薬草箱を並べた小さな台がある。
そこにはギルド雇いの訓練士――コルドがいた。
背は低い。
筋肉というより骨が太い。
髪は短く刈られ、目だけが妙に鋭い。
彼はリナを見るなり、言った。
「ケアラー。顔が死んでる」
リナは足を止めた。
「……訓練、お願いできますか」
コルドは一瞬、リナの装備を見た。
薄い革鎧。杖。小さな布袋。
そして、足元の立ち方。
「訓練生の列に並ぶ気か」
「違います」
「じゃあ何だ。復讐か」
リナの喉が動いた。
復讐ではない。誰も殺していない。殺したのは世界のルールだ。
でも、言い返せる言葉がない。
だからリナは、現実だけを言った。
「間に合わせたいんです」
コルドは、短く鼻で笑った。
嘲りではなく、乾いた確認だった。
「回復を?」
「……はい」
「間に合わない理由は?」
リナはすぐ答えられなかった。
理由は一つではない。
数。距離。判断。前衛の癖。自分の癖。
でも結局、突き刺さるのは一つだ。
「届くのが遅い」
コルドは頷いた。
「正直だな。じゃあ聞く。ケアラーはどこに立つ?」
「後ろです」
「どうして?」
「……倒れたら終わるから」
「それは“終わる”じゃなく“増える”だ。ロストが増える。で、後ろに立つとどうなる?」
「届くのが遅い」
コルドは手を広げた。
まるで、答えが最初からここにあったみたいに。
「じゃあ、間に合わせたいなら――位置を変えるしかない」
リナは息を呑んだ。
「前に出る……ってことですか」
「前に出る、は雑だ」
コルドは言い切った。
「前に出て死ぬのは、よくある話だ。あんた、昨日それを見た」
リナの胸が痛む。
見た。自分の手が届かなかった死を見た。
コルドは続ける。
「必要なのは距離の管理だ。近づくんじゃない。近づいても戻れる。戻れる形で近づく。――ケアラーは、それが一番下手だ」
リナは拳を握った。
「……教えてください」
コルドは顎で訓練場の端を指した。
「そこ。木杭が三本刺さってるだろ。あれを“線”だと思え。後ろの杭が安全圏。真ん中が危険圏。前が死亡圏。お前は今日、線の上を歩く」
「歩くだけですか」
「歩くだけだ。歩けないなら、回復を撃つ資格がない」
言葉が厳しい。
でもその厳しさが、リナの中の空欄に刺さる。
正しさではなく、手順として刺さる。
◇
訓練は単純だった。
ただ、歩く。
安全圏から危険圏へ。
危険圏から安全圏へ。
木杭の線を、何度も跨ぐ。
最初は簡単に思えた。
けれど、五回目で分かった。
歩くというのは、判断だ。
踏み出すタイミング。戻るタイミング。止まるタイミング。
それを間違えると、届かないか、死ぬか、どちらかになる。
コルドは途中で、木剣を持った訓練生を一人呼んだ。
若い男。リナより少し年上。
コルドは言った。
「お前、剣でリナの肩を狙え。強くは打つな。触れたら負けだ」
リナは目を見開いた。
「え、待ってください」
「待てない。戦場は待たない」
訓練生が構える。
リナは杖を握る。
杖を武器にする気はない。守れない。
だから――足だ。
リナは一歩、危険圏へ。
訓練生が踏み込む。木剣が来る。
リナは半歩戻る。
木剣が空を切る。
それだけなのに、背中に汗が出る。
呼吸が浅くなる。
距離が怖い。
コルドが言う。
「今のお前は、“当てられないために逃げた”だけだ。違う。お前は“当てられない位置に立った”んだ」
言い方が違うだけで、意味が変わる。
逃げるのは怖い。
立つのは、怖くてもできる。
訓練は続いた。
木剣は肩、腕、足。
リナはそのたびに線を跨ぐ。
そして、コルドが突然言った。
「今、回復」
「え?」
「《ヒール》を撃て。動きながらだ」
リナは反射で詠唱を口にした。
「《ヒール》!」
光が飛ぶ。
しかし、その瞬間、木剣が来た。
リナは避けた。
詠唱は乱れ、光が薄くなる。
撃ったのに、届かない。届いても弱い。
コルドは容赦なく言った。
「それだ。お前らケアラーは、“回復を撃つ瞬間に止まる”。止まるから当たる。止まるから遅れる。止まるから間に合わない」
リナは息を整えながら、言った。
「……でも、動いたら詠唱が乱れます」
「だから、お前は今、Fだ」
コルドは指を一本立てた。
「動いて撃て。乱れてもいい。弱くてもいい。間に合うための“最初の一発”は、完璧じゃなくていい」
リナは、ガイの首元を思い出した。
完璧な回復など、間に合わない場面では意味がない。
最初の一発が遅れたことが、終わりを作った。
リナはもう一度、線の上に立った。
訓練生が踏み込む。
木剣が来る。
リナは半歩移動しながら、詠唱を口にする。
「《ヒール》!」
光が薄い。
でも、途切れない。
動きながら撃てた。
コルドが、そこで初めて少しだけ頷いた。
「よし。今のは“撃てた”だ。次は“届かせろ”」
◇
昼が過ぎ、訓練場の影が長くなる頃。
リナは膝に手をつき、息を吐いた。
足が重い。
腕が震える。
喉が乾く。
けれど、頭の中が少しだけ整理されていた。
間に合わない理由が、霧ではなく形になってきた。
距離。
止まる癖。
後ろにいることが正しいという思い込み。
そして、前衛が“回復がある”と思った瞬間に踏み込みが深くなる現実。
コルドは水袋を投げて寄こした。
リナは受け取り、飲む。水が喉を刺す。
「……コルドさん」
「何だ」
リナは迷ってから言った。
「ケアラーで、前に出る形って……あるんですか」
コルドは少しだけ黙った。
黙り方が、言葉を選んでいる黙りではなく、確認している黙りだった。
「ある」
短い。
「でも、支部ギルドじゃ教えない。嫌われるからだ。中途半端だって言われる」
リナの心臓が跳ねた。
「中途半端……?」
「盾なのか、癒しなのか分からない。前にも後ろにも収まらない。だから信用されない。だから数が少ない。だから――生き残る」
最後の言葉が、リナの胸に落ちた。
「……それ、何て呼ばれるんですか」
コルドは水袋を持ち直し、少しだけ顔を背けた。
「上位職の話だ。今のお前には早い」
リナは食い下がった。
「でも、目標がないと……」
コルドは、ため息をついた。
そして、訓練場の壁に貼られた古い求人札の方を指した。
そこには、誰かの手書きで雑に書かれた噂話があった。
任務募集ではない。
ただの紙切れだ。
でも、訓練生たちは妙に気にしている。
――魔王城の異端の盾。
――盾なのに癒す。癒すのに前で立つ。
――風の加護を持つ。
――ドラゴンを倒した。
――ギルドと教会が嫌う。
リナは、その紙切れを見たことがある。
笑い話だと思っていた。
遠い世界の、遠い英雄譚。
コルドは言った。
「そういうのがいる。噂が本当かどうかは知らん。だが“型”は存在する。――メイス盾」
リナは息を吸った。
「……メイス盾」
口にした瞬間、言葉が重くなる。
盾。癒し。前。後ろ。
全部が混ざって、でも一本の線になる。
コルドは冷たく付け足した。
「勘違いするな。メイス盾になれば救える、じゃない。救えない場面は救えない。蘇生はない。だが――」
リナは続きを待った。
「立っていられる時間が伸びる。届く距離が伸びる。……それだけで、空欄が一つ減る」
空欄。
ガイの欄。
あの白さ。
リナは、紙切れを見つめたまま、小さく言った。
「……私、行きたいです。本部級ギルドへ。上位職の申請を」
コルドは一瞬だけ目を細めた。
それは驚きではなく、測る目だった。
「お前、初期職Lv20は?」
「……まだです。今、Lv14です」
「じゃあまずはLv20だ。実地試験の資格がない」
リナは頷いた。
分かっている。分かっているのに――急ぎたい。
でも急ぐほど、足が止まる。
足が止まるほど、間に合わない。
コルドは言った。
「次の任務、選べ。お前が“回復の距離”を学べる任務だ。安全なやつはやめろ。死ぬほど危ないやつもやめろ。ぎりぎりのやつだ」
リナは苦く笑った。
「……そんなの、どうやって選ぶんですか」
コルドは肩をすくめた。
「受付の顔を見る。『戻りが減る』って顔をする任務は、だいたいぎりぎりだ」
そんな基準があるのが、この世界だ。
でも、リナはその現実を嫌い切れなかった。
現実には、手順がある。
◇
夕方、ギルドの掲示板の前で、リナは任務札を見上げていた。
F級の札が並ぶ。
荷運び。巡回。採取。
しかし、その中に一枚だけ、微妙に紙質の違う札が混じっている。
「街道脇の廃小屋付近、夜間に“音”あり。
小型魔物の可能性。調査兼掃討。
依頼主:街道監視役。
報酬:小。危険度:不明。」
危険度:不明。
それが、ギルドの言葉で一番怖い。
リナは札を剥がした。
後ろから声がする。
「……それ、やるの?」
振り返ると、昨日の斥候――ミオが立っていた。
顔色がまだ悪い。目の下が青い。
リナは札を握った。
「やります。Lv20まで、待てない」
ミオは唇を噛んだ。
それから、意外なことを言った。
「俺も行く。……昨日、引きずったの俺だし。あれ、忘れたくない」
リナはミオを見た。
拒む理由はない。
一人で行くほど強くない。
でも、誰かと組むことがまた怖い。
その怖さを、飲み込む。
「……ありがとう。じゃあ、もう一人――前衛が欲しい」
ミオが掲示板を見回し、低い声で言った。
「ラグ、来るかな」
リナは答えなかった。
来てほしい、とも言えない。
来なくていい、とも言えない。
ただ、札の紙の硬さを確かめるみたいに握り直した。
間に合わせるための距離。
その距離を、今日から自分で選ぶ。
リナはそう決めて、受付へ向かった。
この世界の“いつも通り”を、少しでも削るために。




