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回復が、間に合わなかった

2作目です。前作でコピペ投稿時に行間が詰まってしまう問題があったため、執筆段階では◆を使って行間管理をしています。投稿時には◆を外し、通常の改行にしています。形式面の調整を含めた試作になります。


ギルドの壁は白く、いつも少し冷たい。

朝の光が石床に伸びているのに、空気は乾いていて、薄い薬草の匂いがした。

リナは受付前の長椅子に座り、膝の上の布袋をぎゅっと握っていた。

中身は包帯と小瓶――回復草を煎じた濃い液。あと、木札。身分証だ。これがなければギルドに出入りもできない。

向かいの壁には、ランク表が掲げられている。

F。訓練中。仮登録。

そこに自分の名前がある。

リナは目を逸らした。見続けると、変に息が詰まる。


今日の任務は、F級の中でも軽い部類だと受付嬢は言った。

街道脇の小型魔物の掃討。討伐ではなく、掃討。言葉が違うだけで、危険が消えるわけじゃないのに。


「リナさん、準備はいいですか?」


受付嬢の声に、リナは背筋を伸ばした。

「はい。……薬と包帯、あと、回復の触媒は揃ってます」

彼女が自分に言い聞かせるように答えると、受付嬢は小さく頷いた。


「今回は四人パーティです。前衛が二人、斥候が一人、支援があなた。……蘇生は、ありません。いつも通りですけど」


“いつも通り”。その言葉が嫌いだった。

この世界で“いつも通り”というのは、戦闘不能が戻らない、という意味を含んでいる。


リナは返事をした。声が硬い。

「分かっています」


受付嬢は紙束を差し出す。任務札と簡単な地図。最後に注意事項。

リナは読んで、目を閉じて、また読んだ。

風向き。退路。合図。

それでも、紙に書けないものがある。

――人は、前に出る。

回復があると信じた瞬間に。


     ◇


集合場所はギルド裏の荷車置き場だった。

前衛の二人はすでに装備を整え、斥候の青年は縄を束ねている。


「お、ケアラーか。助かる」


陽気に声をかけてきたのは、前衛の一人――ガイだった。

胸当てと革鎧の上からでも分かる、無駄のない体つき。剣は使い込まれている。

もう一人の前衛は、槍使いのラグ。

こちらは無口で、視線だけで周囲を測るタイプだった。


斥候の青年、ミオは、リナの足元の布袋を見て言った。

「回復草、多め? ……いいね。俺、血を見るの苦手なんだよね」

冗談のように言うが、目は笑っていない。

血が苦手で斥候になった人間はいない。たぶん、軽く言わないと怖さが出るだけだ。


リナは、いつものように短く自己紹介した。

「リナ。ケアラーです。……回復は、間に合わせます」


ガイが親指を立てた。

「頼むぜ。こっちは前で稼ぐからさ」


その言い方が、最初から何かを決めているように聞こえて、リナは頷くしかなかった。


出発前の確認。

合図は二種類。退く合図と、集まる合図。

隊列は前衛二人が先、斥候がその少し後ろ、リナは最後尾。


リナは最後尾に立つのが好きではなかった。

けれど、それが“正しい”と言われる位置だ。

ケアラーは後ろ。

前に出れば、回復が止まる。

回復が止まれば、全員が死ぬ。

その理屈は、分かる。

分かるのに――心が納得しない。


     ◇


街道を外れて少し行くと、森が濃くなった。

木々の間を抜ける風が、昼なのに冷たい。土の匂いが濃い。


ミオが手を上げた。

合図。止まれ。

「痕跡。……小型、三。四、いや、五」


リナは息を吸って、布袋の紐をほどく。指が少し震える。

回復液の栓を確認。包帯の端を出しやすい位置に。


ガイが剣を抜いた。

「五なら余裕だな」


余裕という言葉を、戦場で使うとき、人は必ずどこかを見誤る。


リナは言いかけた。慎重に、を。

でも飲み込んだ。口に出すと“弱い”と言われるのを知っている。


森の奥から、小さな影が跳ねてきた。

犬に似ているが、目が赤く、顎が広い。牙が不自然に長い。


ラグが槍を前に出して一歩で止める。

ガイがもう一体を斬る。

ミオが横から投げ縄で絡め取る。

――上手い。

リナは少しだけ安心しかけた。


その瞬間、影が増えた。

「六、いや……八だ!」

ミオの声が裏返る。


森の陰から次々に出てくる。さっきの数は、外に出ている分だけだった。


ガイが笑った。

「増えたって、問題ねえ!」


彼は踏み込む。

踏み込みが深い。剣の届く距離を稼ぐ代わりに、退路が削れる。


ラグが短く叫んだ。

「戻れ!」


でもガイは戻らない。

戻れと言われた人間が戻れるなら、最初から踏み込まない。


リナは、後ろから声を出す。

「ガイさん! 離れて――!」


間に合わない。

影の一体が、ガイの脇腹を噛んだ。


牙は浅くない。鎧の隙間を狙っている。

ガイが歯を食いしばって斬り落とす。

だが血が出た。赤い線が服に広がる。


それだけで、戦いの速度が変わる。動きが一瞬だけ鈍る。


リナは駆け出したい衝動を堪えた。

後ろで回復を――いや、前に行かなければ届かない。

この距離では、《ヒール》は薄い。

届いても“遅い”。


リナは走った。

言われている位置から、外れる。


「《ヒール》!」


手から淡い光が飛ぶ。

小さな回復。単体小回復。初期職の、最低限の支援。


光はガイの体に触れた。

だが傷口の奥まで届く前に、ガイの膝がわずかに沈む。


「……おい、マジか」


ガイが笑いながら言う。

笑い方が、軽すぎて怖い。


ラグが槍で影を押し返し、ガイの前に割り込む。

ミオが縄を引き、ガイを後ろへ引こうとする。


「リナ! 下がれ!」


誰かが叫ぶ。

リナは聞こえないふりをした。今は、回復が先だ。


もう一度。

「《ヒール》!」


光が重なる。

少し良くなる。ほんの少しだけ。


でも、影は待ってくれない。


影の一体が、リナの足元へ跳ぶ。

リナは反射で杖を振った。

叩けない。避けるだけ。ケアラーの杖は武器じゃない。


その一瞬の遅れ。

ガイが、ラグの槍の隙間から、もう一度噛まれた。

今度は首元。

鎧のない場所。


血が、目に見える量で噴いた。


リナの喉が詰まる。息ができない。


「《ヒール》!!」


叫んだ。

叫ぶのは、詠唱ではない。焦りの音だ。


光が飛ぶ。届く。触れる。

それでも――


ガイの目が、そこで初めて、驚いたように開いた。


「……あ」


声が落ちた。

膝が地面についた。剣が落ちた。


ラグが叫んだ。

「退く!」


ミオが必死に縄を引く。

リナはガイに駆け寄る。


首元を押さえる。血が指の隙間から漏れる。温かい。熱い。


「止まって……止まって……!」


包帯を当てる。押さえる。

《ヒール》をもう一度。もう一度。

小回復。小回復。


小回復では足りない。

蘇生はない。

大回復はケアラーにはない。

回復魔法は、血を“戻す”わけじゃない。治癒を促すだけだ。

失われた量が多いと、追いつかない。


ガイの視線が、どこか遠くを見る。

口が動く。


「……すまん。……前、出た」


その言葉が、最後だった。


リナは手を離せなかった。

押さえても、押さえても、指先の熱が減っていくのが分かる。

人が“冷えていく”感覚を、初めて知った。


ラグがリナの肩を強く掴んだ。

「リナ! 撤退だ!」


リナは首を振った。

振っただけ。声が出ない。


ミオが泣きそうな顔で言った。

「もう……もう無理だ。これ以上いたら、俺らも……!」


影がまた動く。

ラグが槍で押し返す。

退路へ、退路へ。


リナは、ガイの剣を拾えなかった。

ガイの手を握り直すこともできなかった。

ただ、立ち上がって、後ろへ走った。


背中に、何かが張り付くような重さが残る。

それが罪悪感なのか、恐怖なのか、分からない。


     ◇


街道へ戻ったとき、森の音が戻った。

鳥が鳴き、葉が擦れ、風が通る。

世界は何事もなかったように動いている。

さっきまでの死だけが、切り取られてそこにある。


ラグは立ち止まり、肩で息をした。

ミオは膝に手をつき、吐きそうに顔を歪める。

リナは、何も言えなかった。


任務は失敗だ。

撤退は成功だ。

でも一人、戻っていない。


「……リナ」


ラグが言う。声が低い。

リナは顔を上げた。

怒られるのだと思った。前に出たから。回復が遅れたから。


でもラグの目は、怒っていなかった。

ただ、疲れていた。

疲れているのに、どこか諦めている。


「お前のせいじゃない」


その言葉が、リナの胸をえぐった。

責められるほうが楽だった。

責められれば、次は頑張れる気がする。


でも「せいじゃない」と言われると、世界が固定される。

――仕方ない。

――いつも通り。

――蘇生はない。

そうやって、人は死に慣れていく。


ミオが震える声で言った。

「回復、来てたよ……ちゃんと。……俺、見てた」


リナは頷けなかった。

“来ていた”では足りないのだ。

“間に合う”でなければ意味がない。


帰り道、リナは何度も自分の足音を数えた。

足音が四つから三つに減っているのが、脳の奥でずっと鳴っている。


     ◇


ギルドに戻ると、受付嬢は表情を崩さなかった。

崩さないように訓練されている。

冒険者の戻りを待つ顔は、希望よりも先に“確認”が来る。


「……お帰りなさい。人数、減りましたね」


淡々とした声。

それでも、少しだけ柔らかい。


ラグが短く報告した。

「遭遇数が多かった。……一人、ロスト」


“ロスト”。

その言葉は便利だ。死という現実を紙に落とす言葉だ。


受付嬢は頷き、記録の紙を差し出した。

「報告書、お願いします。遺体の回収は……」


ラグが首を振る。

「無理だ。あそこは今、戻れない」


受付嬢はそれ以上聞かなかった。

聞けば、誰かが壊れると知っている顔だった。


リナは、震える手で報告書の欄に名前を書いた。

自分の名前。ラグ。ミオ。


そして――ガイの欄だけが、空欄になる。


空欄が、紙の上でやけに白い。


リナはペンを握りしめ、息を吐いた。

吐いた息が、少し震えた。


「……私」


声が出た。小さい。


受付嬢が顔を上げる。

「はい?」


リナは言葉を探した。

探して、見つからない。


結局、出てきたのは、実感だけだった。


「回復が、間に合わなかった」


受付嬢は一瞬だけ目を伏せた。

それから、静かに言う。


「……間に合わない日も、あります」


優しい言葉だった。

でもリナは、その優しさに頷けなかった。


リナの中で、何かが決まった。


――後ろにいるだけでは、間に合わない。

――前に出るなら、もっと違う形が必要だ。

――回復があるから前に出る、ではなく。

――前に立つから、生き残る、という形。


リナは木札を握り直した。

手の中の硬い木が、現実の重さを返してくる。


この世界で、生き残るというのは、

運でも祈りでもなく――型を選ぶことだ。


リナは、ギルドの白い壁を見上げた。

そこにあるのは、ランク表。規則。正しさ。


でも、正しさは人を守らないと知ってしまった。

守るのは――立つことだ。


リナは、報告書の空欄を最後にもう一度見た。

そして、視線を外した。


空欄は埋まらない。

だから次は、空欄を増やさない。


そのために必要なら、

世界が“中途半端”と笑う道へ行く。


リナは、まだ知らない。

その道の先に「異端の盾」という噂があることを。


ただ、今日の空欄が、彼女の足を動かし始めた。


ギルドの扉の外は、冬の匂いがした。

 本作は全20話構成で、執筆は完了しています。

 更新は順次行います。

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