21, 眠る少年
キャンピングカーはゆっくりと速度を落とし、黒い山の麓で静かに止まった。
ドアを開けた瞬間、ひんやりと乾いた風が頬を撫でる。
思わず顔を上げた。
静寂を湛えるように火山岩や暗色の鉱物に覆われた黒い岩肌は、傾き始めた日の光を浴びて紫や赤褐色に反射し、美しい陰影を作り出していた。
綺麗……そう思った次の瞬間、背筋を冷たいものが這い上がる。
神秘的というよりはどこか異質で、畏敬の念を抱かせるその姿はこれ以上先に進むことを阻んでいるような気さえした。
『こっちじゃ』
シルマが真っ先にキャンピングカーから飛び立つ。
私の目線ほどの高さを保ったまま、器用に宙を滑るように進み、途中で振り返って小さく翼を振った。
ベガがトコトコとシルマの方へ駆けていく。
私は息を一つ吐き、その後を追った。
黒い岩肌へ近づくたび、その異様さは増していく。
首が痛くなるほど見上げても、頂は雲に溶け込んで見えない。
圧倒的な質量。
自分が砂粒ほど小さく思えた。
靴底が岩を踏むたび、乾いた音だけが辺りに響く。
風が吹く音も鳥の声もしない。
静かすぎる。
数分歩くと、岩壁の一角が大きく裂けたような場所が見えてきた。
洞窟――そこだけぽっかりと闇が口を開けている。
奥から流れてくる空気は冷たく、石と湿った土の匂いを運んできた。
腕に鳥肌が立つ。
『この奥じゃ』
シルマが洞窟を見つめながら静かに言う。
『レイトは結界に護られたまま、この先で眠っておる。道しるべとして小さな霊元石を並べてある。レーナの血を引くお主なら、その光が見えるはずじゃ』
恐る恐る一歩、中へ足を踏み入れる。
外の光が背後で細くなり、薄闇が私たちを包み込んだ。
見える……
洞窟の奥へと続く道に、小さな緑色の灯がぽつり、ぽつりと浮かんでいる。
まるで「こちらだ」と囁くように。
柔らかな光は暗闇の中でも不思議とはっきり見え、その先へ、そのまた先へと途切れることなく続いていた。
私は無意識に息を呑み、その光に導かれるように一歩ずつ奥へと歩き始めた。
岩肌には無数の筋や窪みが幾重にも刻まれていた。
昔、水が流れ続けて削った跡なのだろうか。
自然が何百年、何千年もの時をかけて彫り上げた彫刻みたいだった。
ひゅう――どこからともなく風が吹き抜ける。
冷たい空気が首筋を撫で、思わず肩をすくめた。
「うっ……寒い」
腕をさすると、鳥肌がびっしり立っている。
シャツ一枚にジーンズ……何か羽織ってくるべきだった。
そういえば以前、旅行先で洞窟へ入ったことがあった。
真夏だったのに、中は驚くほど冷えていて震えたっけ。
異世界でも同じなんだ。
「洞窟の中って、やっぱり寒いのね……すっかり忘れてた」
『すまぬな、アマネ』
シルマが申し訳なさそうに耳を伏せた。
『妾たち聖霊獣は暑さも寒さも感じぬゆえ、人の身にはこの冷気が堪えることを失念しておった』
『アマネ』
ベガが私を見上げる。
『少し待っておれ』
「え?」
返事をする間もなかった。
銀色の影が風のように駆け抜け、あっという間に闇へ消える。
「ベガ……?」
洞窟に私の声だけが反響する。
数分後――軽い足音とともに銀色の柴犬が戻ってきた。
口には見覚えのあるライトダウンをくわえている。
キャンピングカーに置いていたものだ。
「ベガ!」
思わずしゃがみ込む。
「ありがとう!」
もふっとした身体を両腕で抱きしめると、柔らかな毛並みが頬に触れた。
ほんのり温かい。
『な、何をする』
そう言いながらも、ベガは抵抗しない。
『吾輩は其方の守護聖霊獣なのだ。当然のことをしたまでだ』
言葉は相変わらず偉そうなのに、ふさふさの尻尾だけは隠しきれずにぶんぶん左右へ揺れている。
……嬉しいんだ。
思わず笑みがこぼれた。
「ありがとう、本当に助かった」
ライトダウンを羽織る。
冷え切っていた身体が少しずつ温もりを取り戻し、こわばっていた肩から力が抜けていく。
私はダウンの襟元をぎゅっと握り直し、再び洞窟の奥へと視線を向けた。
足元の小石が、こつり、と乾いた音を立てる。
その音だけが、静まり返った洞窟の奥へ吸い込まれていく。
緑色の光を辿りながら歩き続けると、不意に視界が開けた。
八畳ほどだろうか。
ここだけ空気が少し違う。
岩の裂け目から差し込む細い陽光が、闇を一本の剣のように切り裂き、淡い光を洞内へ落としていた。
舞い上がる細かな塵が、その光の中でゆっくりと揺れている。
そして――その奥にある透明な結晶。
いや、クリスタルだ。
人ひとりを包み込めるほどの大きさのそれは、淡い緑銀色の光を内側から滲ませるように静かに輝いていた。
『レイトはここで眠っておる』
シルマの声が、ひどく遠く聞こえた。
私は息を殺したまま、一歩、また一歩と近づいていく。
鼓動だけが耳の奥でやけに大きい。
クリスタルの前で足が止まった。
「……っ」
思わず息を呑む。
透明な結晶の中で、小さな少年が静かに眠っていた。
緑がかった銀色の髪は絹糸のように柔らかく頬へ流れ、小さな睫毛は影を落としている。
唇はわずかに開き、規則正しく眠っているだけ――そう錯覚してしまうほど穏やかな寝顔だった。
胸の前で重ねられた小さな両手。
指先は透けるほど白く、ほんの少し触れただけで壊れてしまいそうに細い。
クリスタルを透した光が頬を淡く照らし、その輪郭を柔らかく縁取っていた。
百年――この子は、この姿のまま百年も眠り続けていたの……?
喉が詰まる。
胸の奥がぎゅっと締めつけられ、自然と手がクリスタルへ伸びた。
けれど、あと少しというところで止まる。
触れていいのか分からなかった。
静かに眠る小さな従兄をただ見つめる。
今にも長い睫毛が震え、ゆっくり目を開いて「おはよう」と笑いかけてきそうなほど、その寝顔には温もりが残っていた。
シルマの言葉を思い出す。
――万が一、本当に命が危ぶまれる時だけ発動する、最後の護り。
……どうしてこんなに幼い子が命を危ぶまれる必要があったのだろう?
この子が何をしたというのだろう?
百年もの間、誰にも触れられず、誰にも起こされず、こんな冷たい洞窟で眠り続けなければならなかったなんて。
シルマしかこの子を守る者はいなかったの?
母親は?
周りの大人たちは?
胸の奥で何かが渦巻き、やるせなさが心を締め付ける。
眠るレイトの頬を見つめる。
穏やかな寝顔。
苦しそうな様子はない。
だからこそ、余計につらかった。
この子は愛されていたのだろうか。
抱きしめてもらえたのだろうか。
笑って過ごした日はあったのだろうか。
考えた瞬間、胸の奥から熱いものが込み上げる。
もし本当に守られていたのなら、こんな結界が必要になることなんて、きっとなかった。
視界が滲む。
自分でも気づかないうちに涙が頬を伝い、ぽたり、と岩の床へ落ちた。
理不尽――その言葉だけが頭を巡る。
世界が違っても変わらない。
傷つくのは、いつだって力のない子どもだ。
叔父の家で肩身の狭い思いをしていた頃の自分が、ふと脳裏をよぎる。
私は命を脅かされることなんてなかった。
それに父を亡くしたのは十歳で、母がいなくなったのは十三歳。
この子と同じ年のころはちゃんと両親が揃っていて幸せに暮らしていた。
でも、この子は違う。
こんなに幼くてたった一人で……眠り続けていたとしても百年もの間ずっと一人ぼっちで……
唇を強く噛み締めた。
『アマネ、落ち着け。まずはレイトの結界を解除するのだ』
ベガの低い声に、はっと息をのむ。
震えていた肩がわずかに止まる。
『そうじゃ、アマネ。レイトを救えるのは其方だけじゃ。あの女がレーナから盗み出した霊元石も、レイトを運ぶときに一緒に取り返しておる。それを使えば、レイトは目を覚ますじゃろう』
「……シルマ」
私に……救える。
そうだ。
泣いている場合じゃない。
この子を起こせるのは、私しかいない。
シルマはクリスタルの脇に置かれていた革袋を静かに差し出した。
『その中に霊元石が入っておる。一番大きいものを使うのじゃ』
袋を開く。
ピンポン玉ほどのものから指先ほどのものまで、大きさの違う霊元石がぎっしりと収められていた。
その中から、一番大きな石を取り上げる。
掌にずしりと重みが伝わる。
キャンピングカーに積まれていた霊元石と、ほぼ同じ大きさだった。
深く息を吸う。
冷えた洞窟の空気が肺を満たした。
左手で霊元石を握り締める。
右手を、レイトを包む透明な結晶へゆっくりと差し伸べた。




