言罪
「人の最初の罪を知っているか?」
コーヒーを片手に、彼は突然そう言った。
「なんだよ。突然」
「言葉を売り物にする私たちには、避けては通れない・・・かもしれない、面白い話しかなと思ってね」
まだゆらゆらと湯気の立つカップに口をつける。
「創作論の話か?それはこの前、まったく意味がないとお前が言ったばかりじゃないか」
「そうではないよ。ふとね、思ったんだ。私たち人間すべてが持つ、最初の人間から受け継がれた罪。原罪というやつだね」
俺もカップから口を離し、小さく息をつく。また始まったと呆れも込めてだ。
「最初の人類、アダムが神に禁じられた知恵の実を食べ、楽園を追放される。この時の、神に叛いた罪こそ、今でも私たち人間に遺伝し続ける原罪。では、罪状は、本当に神に叛いたことだけなのだろうか。私はそうは思わない」
コツンと一つの角砂糖を、豆が置いてあった皿に置く。
「人はあの時、神と同じになってしまったんだと思うんだ。歴史で言えば革命のようなものさ」
「神になった?」
「そう、私たちは神になった。神を作ることも壊すこともできるほどの力を手に入れたんだ」
俺は無意識にメモ帳を取り出し、ボールペンをノックした。
「楽しそうな話だろ?」
「興味深いな」
価値観が近い俺とこいつはよくこんな話を、この行きつけの喫茶でする。
長く作家業をやっていると、ネタに飢えてくる。だから互いに、友人としての楽しみも含めて会話をして、それを次の作品の糧にしたりもするわけだ。
今日も、使えるかわからないような話を、ためになるかわからない会話を数時間程度交わす。
「言霊、という言葉が日本には昔からあるだろ?」
「ああ、言葉に宿る霊力的な力で現実を動かすっていう・・・」
「そう、言ってしまえば結論はそれだ。もともと、神を神たらしめていたのは言葉だったんじゃないかと思うんだ。神による世界の創造。その始まりは『光あれ』の一言。それまでは神という概念と水による無だけ」
頭の中には真っ黒の空間と白い靄、そしてその中心から出でた眩い光。
「神は『光』という言葉から光というものを定義し、水を分け、天と地を存在するものとした。ないものを『ある』という言葉で固定して生みしたんだよ」
「つまり、神様のそれも、俺たちの言う言霊だと?」
「そういうことだ。神の持つ本当の力というのは、人間だれしもが使う『言葉』という現実にないものを表現し、世界に伝える力、他に干渉する力なんだよ」
納得しながら、要点だけをメモ帳に写す。
「それを、人間が手に入れてしまったと」
「そう。そして彼が食べた実は、神の本棚のようなものだったのではないかと思っている」
「食べる知識の宝庫・・・羨ましいな」
「確かに食べるだけで本の中身を理解できるのは羨ましいね。とても味気ない行為ではあるが」
文字を追って、紙をめくる行為は確かに素晴らしいが、時間が有限の俺たちにとって、短時間で数年分の知識を得られるのはとても魅力的だ。彼の言う通り本を読む良さを削る行為ではあるけれど。
そんな知識そのもののようなものを食べたアダムはいったい何を思ったのだろうか。よく聞く話であれば恥ずかしさが出たことであろうが、それより前、見えていた世界がどう変わり、もとはどう見えていたのか。言葉もなく、認識も定義もわからぬ世界とはどんな風に見えるのだろう。それはきっと、人になる前の、世に言う動物だったころの俺たちしか知らないのだろう。
「言葉の力は本当に創作に出てくる魔法のようだ。例えば私が君に『顔色が悪い、気分が悪いんじゃないか』と言えば、たとえ君でなくとも、大抵の人間は自分が体調が悪いのように錯覚する。そして人によっては本当に体調を悪くしてしまう。これは呪いともいう、大昔から行われてきた人間の言葉の力の典型だ」
「カウンセリング、洗脳、拷問、マインドコントロール・・・人を動かすものは大抵言葉が使われるな」
「わかってきたね。言葉は何も発する音だけではない。色や形、つまりは文字も言葉なんだよ」
やっと、スタートのこの話題の動機に繋がる。作家として、文字を操り売るものとしての、この話
「私たちが普段軽々と扱う言葉は、神からもぎ取ってしまった神の御業であり、その力は私たち現代人が思うよりずっと万能で、強力で、想像しきれない力なんだよ」
「だから原罪。悪いことという言葉で縛り、神は人を堕としたと」
「そういうことだ。神は恐れた。人によって、人の得た言葉によって自分が形作られてしまうことを」
そう考えれば、もう手遅れなのではないかと思う。遺伝し、薄まり、広がる神の偶像は、人によって幾度となく語られ、作られ、今や一人一人の中に神がいるような状態である。
「・・・神殺しは、とうに成されていたのか」
「面白い解釈だ。最初の神は、人間が、アダムが神を認識し、理解し、頭の中で構築した時点で死んでいる。別物になっているわけだ」
愉快そうに笑って、彼はもう湯気の立たないコーヒーに口をつけた。
俺もそれに合わせてコーヒーを飲み、また要点をメモ帳に書き写した。思えばこれもまた言葉によって過ぎ去るしかないはずの今この瞬間を紙に納めるという、ものすごいことをしている気がする。
「そんなことを考えて物を書くと、すごい優越感になりそうだな」
「ああ、全知全能になった気分だ」
神はもういない。俺たちの思う神しかいないのだ。俺たちに受け継がれる罪は殺しの罪。言葉を得たことによる神殺しの罪。そうとらえた。俺は紙にそう書いた。
彼は私たちが神になったことが罪だといった。成り代わったことが罪だと。それもまた、一つの可能性だ。
俺はメモ帳の殴り書きを一瞥し、コーヒーを飲んだ。
「この角砂糖、どうすんだよ」
「おっと、使おうと思ったら忘れていたよ。私も歳をとったかな」
同い年だし、まだに十代だろ・・・と頭の中でツッコミを入れる。
「そういうこと言うと、本当に歳とるぞ」
「おっと、そうだな。先ほどそういう話をしたばかりだというのに」
そう言って角砂糖をヒョイと口の中に入れて嚙み砕いた。
「よくそんなもん直接食えるな」
「頭を使う職だ。糖分は必要だぞ」
そのまま俺たちは席を立つ。お開きの合図だ。今日もずいぶん長く話した気がする。
「じゃあ、今日の支払いはよろしく頼むよ」
「はいはい。次はナポリタンとか食ってやる」
「ほどほどにしてくれたまえよ」
最後に、手に持ったメモ帳の下の方。少し空いた隙間に
今日の話の全てをまとめるように一つ、そこそこに大きな字で
『言罪』と書いて閉じ、バッグの中に入れた。