婚約破棄と言われたけれど、お菓子は食べたい大食い令嬢
「リーリア、悪いが婚約は破棄させてもらうぞ!」
公爵令息エドガーがティーテーブルから立ち上がり、婚約者のリーリアに人差し指を突きつけた。
リーリアは指を見つめて寄り目になる。油断した口元がわずかに開いているのがかわいらしかった。
「どうして婚約を破棄するとおっしゃいますの?」
きょとんとしながら彼女は尋ねた。当然の疑問である。
「まずひとつ!」
エドガーは鼻息荒く、人差し指を一本立てる。
「そこにあった俺のマドレーヌを食った!」
「はい、おいしそうでしたから」
「俺の皿だぞ!」
「そうでしたの、ごめんなさい」
エドガーが眉間に皺を寄せた。怒りをこらえるのに必死の様子だ。
「ふたつ! マドレーヌの前に食べようとしたラズベリーパイもひとりで全部食べやがった! 俺の分もあったはずだ!」
「はい。お腹が空いてましたので」
「俺は茶会の主賓だぞ! 主賓をほっといて食うやつがあるか!」
「我が家自慢のパティシエの新作でしたの。おいしかったですわ!」
「食べられないのにいらん報告をするなっ」
「でも……」
リーリアは薔薇色の頰に手を当てて、震える息を吐き出した。迷える乙女のため息だ。
「緊張するとお腹が空くのですわ…」
ぽん、と太鼓腹を叩く。大食いのリーリアはコルセットなどつけるはずもなく、腰の辺りをしめつけないゆるいシルエットのドレスを着ていた。つまりは初めからたくさん食べると知っていての確信犯なのである。
「みっつ!」
エドガーは三本指を立てた。
「おまえ、俺がいないならいないでどうでもいいと思ってるだろ! なんなら、俺がいない方が食い物独り占めできるとか思ってるだろっ。そんなやつと婚約なんぞできるか、あほっ!」
「あら……たしかに」
リーリアは驚いたように目を瞬いた。
「わたくし、思いもつかなかったわ。エドガーがいなくてもお茶会は開けるし、お菓子だって用意してもらえるのよね。そうだわ、たしかにひとりでお茶会してもいいわよね」
どうして、今まで思いつかなかったのかしら、とリーリアは不思議そうな顔をし、ふいにくすっと笑った。
「わたくし、お茶会といえばエドガーを誘わなくちゃと思い込んでいましたの。絶対にお茶会にはエドガーがいないといけないわ、って。昔から当然のように思っていたけれど、変な話よね。あ、でも……」
リーリアは少しだけ耳を赤くして、もじもじと下を見ながらこう言った。
「婚約破棄してもたまにはお茶会に誘ってもいいかしら? だって、エドガーがいるのが当たり前みたいになっちゃってね、いないならいないで落ち着かない気になるから……ね」
リーリアは不器用に笑ってみせる。
「なんなんだよ、それ」
エドガーは不満そうに唇を曲げる。
「しょ、しょうがねえからまた来てやるよ!」
「ありがとう」
「でも今日はもう帰る! じゃあな!」
肩を怒らせながらティーテーブルを後にする背中。
それを見送りながらもマカロンをもぐもぐ食べていたリーリアは、背後に控えていたメイドに、
「婚約破棄されてしまったみたいだけど、お父さまに叱られるかしら」
そう尋ねた。彼女はいいえ、と慎ましい返事をする。
「叱られることはないかと。エドガー様のことですから、またけろりとしてやって参りますよ……明後日ぐらいには」
よかった、と胸を撫で下ろすリーリア。
「婚約破棄になったらきっといろいろ大変だものね」
メイドは何も言わず、ただ微笑んだ。
◇
うちのお嬢様、めっちゃかわいいんだけど、どうしよう。
私はリーリアお嬢様のお顔を眺めながら鉄面皮を保つのに必死である。
侯爵家令嬢のリーリアお嬢様に仕えて三年、日々健やかに成長されているお嬢様の成長を眺めるのが密かな楽しみである。
初めて会った時には六歳だったのが、今はもう九歳になられた。美少女ぶりに磨きがかかり、婚約者のエドガー様もめろめろである……本人にツンデレの自覚はないだろうが。
リーリアお嬢様、九歳。
エドガー様、十歳。
まだまだどちらもお子様で、お茶会もおままごとの延長のようだけれど、一年を何度も重ねていくうちに二人の関係性も変わっていくのだろう。
憧れが、恋になり、愛へ。
私は育まれていく互いの気持ちを見守ることができる特等席にいられるのだ。孤児として生まれた私には、身に余るほどの優しい時間だ。だれにも譲れないと思う。
「アンヌ」
「はい、何でしょう、お嬢様」
「今度はシュトレンも食べたいわ。また作ってくれる?」
「よろこんで」
ただ、私の作るお菓子が喧嘩の種になっているのはやめてくださいね。美形お坊ちゃまの口から「婚約破棄」の単語が出てくるたびにひやっとさせられるしがないメイドですから。
「アンヌ!」
リーリアお嬢様がふいに庭の芝生を蹴るように走り出し、振り返りざまに、
「あなた、いつかお店を出したらいいわ! わたくしも手伝ってあげる! ふたりで王都のスイーツ王になりましょう!」
お嬢様は笑いながら屋敷へ駆けていく。ひらひらとした白いドレスの裾が翻って。
「何ですか、スイーツ王って……」
呆れたように笑う。リーリアお嬢様を追いかけて、スカートをたくしあげ、黒いブーツで地面を蹴った。
風が清々しかった。
ーーここには小さなお嬢様と、小さな夢がある。