いつか貴女の手を引けるように。
何処まで行っても、予備は予備なのだと思い知らされた──。
人間は弱いようでいて、存外丈夫に出来ていて、オレは何度目かの絶望を味わっていた。
目の前で、兄とオレの婚約者が寝台にいて、何も肌に身に付けていないのだ。
血と言う血、熱と言う熱が奪われたかのように、身体が冷えて、縫い付けられたようにその場から動けなかった。
オレを見て慌てて肌を隠し、兄の背に隠れる婚約者と、ため息を吐く兄。
呆然とするオレの後ろで、バタバタと足音がして、直ぐに両親がやって来た。
「ジリアン、これはどう言う事だ」
父の声には怒りが滲んでいた。母は室内の様子を見るなり、息を吸った。
兄であるジリアンは悪びれた様子もなく、寝台から身体を起き上がらせると、参ったなと言わんばかりの表情だった。
「レティシアが、トスカとの婚姻の前に思い出が欲しいと言うので」
「だからと言って弟の婚約者に手を出すなど!」
婚約者のレティシアは震えながら俯いている。大した人だ。罪を犯していながら、被害者かのように震えているのだから。
レティシアは不貞を働いた。婚約者の兄と。
その兄は来月にも王女と婚姻を結ぶ。これは何があろうと揺るがない。
当家とレティシアの生家である伯爵家との話し合いは難航した。破談にしようとする当家と、娘を傷物にした責任を取れと迫る伯爵家。まったく望みが噛み合わないのだから仕様が無い。
そうしてる間に新たな火薬が投下される。
レティシアの妊娠が発覚した。たった一度の過ちで身篭るものなのか、それとも以前から関係があったのかは分からない。
父はレティシアの腹に宿る命が兄の子である事を疑った。別の男との間に出来た子を押し付けて来ようとしているのではないかと。
そもそも兄に押し付けるのはおかしいと、冷静になってからなら思えたが、あの時は誰もが正常な判断が出来なかった。
だが、兄がレティシアは乙女だったと証言する。
オレはレティシアと結婚する事になった。
兄の子を孕んだ、幼馴染みであり、初恋の相手であり、婚約者でありながら不貞を働いた穢れた女と。
信じられない事に、レティシアはオレとの婚姻を望んだ。それは彼女の心からの望みでは無いかも知れないが、子を孕んでしまったのだ。何も無かった事には出来ないと考えたのかも知れない。
兄とは絶対に結ばれる事はない。オレの側にいれば義妹としてこれからも接点を持てると思ったのかも知れない。
彼女が何を考えてオレとの婚姻を望んだのか、真意を確かめはしなかった。
どちらにしろ、彼女との婚約が解消出来ないのであれば、レティシアの妊娠は有難い事だった。夫の義務を果たさずに済む。
顔を見るのも声を聞くのも、何もかもが嫌だ。汚らわしい。彼女との間に子をもうけるなど、考えるだに吐き気がする。
出来れば生まれてくる子は男子であって欲しい。
本来我が家を継ぐのは兄だった。それが王女に見染められた事で兄の代わりにオレが家を継ぐ事になっただけの事なのだから。
子が男子なら、憎い程に優秀な兄の血を引いた人間が後を継ぐのだ。これに勝るものはないだろう。
いつもいつも優れた兄と比較されてきた。叱咤されてきた。それでも腐らないでこられたのは、レティシアの存在があったからだった。
貴方には貴方の良さがある。
そう言って慰めてくれた彼女が、愛おしかった。彼女を幸せにしたくて、どれだけ辛くても必死に耐えた。たとえ報われなくとも。親に貶されても。
とんだ茶番だ。
オレに慰めの言葉を吐いた口で、兄に愛を囁いていたのだから。
君だけはオレを裏切らないと思っていたのに。
勝手に信じたオレが、愚かなだけだったのか。
あの笑顔の裏では一体何を考えていたのか。
オレを、嘲笑っていたのか……?
「トスカ様、お茶が入りました」
「……名を」
手元の本を見つめながらレティシアに声をかける。
あれからまともに口を利いていなかったオレが反応した事に、レティシアは喜んでいた。そんな空気が彼女からする。
婚姻を結び、彼女はオレのいる屋敷に移り住んだ。
寝室は当然別だ。食事を共にする必要も感じない。
避けていると言えば避けている訳だが、そもそも接点を持つ必要がない。
「名を呼ばないで欲しい。茶なら侍女が淹れる」
視界に彼女のスカートが入っている為、彼女の白く細い手が、スカートを握りしめているのが見える。
「お怒りは、ごもっともですが……私達は夫婦になったのですから……」
夫婦という言葉に思わず失笑する。
「私はただの当主代理だ。貴女が産んだ兄の子が次の当主になる。それまでの間、代わりを務めるだけの立場に過ぎない」
両親は家を出て領地に引っ込んだ。
不貞を働いた嫁であるレティシアに、彼らが以前のように親しげに接する事は無い。かと言って不貞の相手が自分達の息子なのだ。頭が痛かったのだろう。
それはもう、逃げるように領地に向かった。
手塩にかけて育てた息子が、弟の婚約者に手を出した。なんと言う醜聞だろうか。
本来なら兄とレティシアを結婚させるべきだが、王族との婚姻を反故にすると言う選択肢はない。
その尻拭いを、ずっと軽んじてきていた次男にさせる事に、さすがの両親も良心が咎めたのか、面倒だったのかは分からない。
レティシアの弟は、不貞を働いた姉を疎ましく思っており、彼女が実家を訪れる事をよしとしない。
はいつくばってでもオレの怒りを解け、そう言われていた。何故そんな事を知ってるかと言えば、婚姻の為の式の後、親族だけで集まった際に目の前で言われていたからだ。
彼女は助けを求めるようにオレを見た。多分それは、癖でもあったのだろう。
かつてのオレは、いつも彼女を守った。たとえ己が不利な状況であっても、彼女を傷付ける全てのものから守る事が自分の役目だと思っていたし、そう出来る立場にある事が嬉しかった。
オレが助けなかった事で、彼女があんなにも傷付いた顔をする意味が分からない。何故助けてもらえると思っているのかも不思議でならない。理解に苦しむ。
レティシアが兄に無理に関係を強いられたのではないかと、あの事件の後、調べた。多分、信じたかったのだ、オレは。裏切られていないと思いたかったのだ。
結果、彼女は真っ黒だった。
兄の部屋からレティシアの筆跡の恋文がいくつも見つかったし、彼女の部屋からも書きかけの兄への恋文が見つかったのだから。
兄から彼女への手紙は見つからなかった。
オレとの婚約が決まって間もなくの日付が記された手紙には、貴方の婚約者になりたかったと書いてあった。オレには、貴方の婚約者になれた私は幸せ者よ、そう言っていたのに。
定期的に届けられていた彼女から兄への手紙には、愛しているのは貴方だけ、と書かれていた。
オレ(トスカ)の事は家族として愛している、と。
──今日はトスカと喜劇を観に行った。トスカではなく、貴方だったら良かったのに。
──今日はトスカと夜会に参加した。エスコートしてくれたのが貴方だったなら良かったのに。
手紙には必ずと言っていい程に、オレではなく、ジリアンだったならと書いてあるのだ。オレとの思い出を全否定するように。
──貴方を愛してる。
──愛してるのは貴方だけ。
オレが一度としてもらった事のない、情熱的な内容が書かれた手紙は、両親によって焼き尽くされた。
長い時間をかけて育まれ、途切れる事のなかった兄への熱い想いは、火の中に消えた。
使用人達はレティシアに最低限の礼儀は払っても、それ以上の対応をする者は皆無だった。
次期当主となるオレの機嫌を損ねて職を失いたくないからだろう。
彼女は屋敷の中で孤独だった。嫁入りに際して侍女を連れて来ると言う話だったが、単身でやって来た。聞けば弟が許さなかったのだと言う。
「ですが……」
「同じ事を二度も言われないと分からない程、君は愚かではなかったと思うのだが」
それでも部屋から出て行こうとしない彼女を、執事長が退室を促す。
「下げてくれ」
侍女にレティシアが淹れた茶を下げさせる。
笑ってくれ、腰抜けと。
あの後、オレは彼女を許そうと試みたのだ。
憎しみはあった。彼女への愛情は尽きた。それでも、情はあったのだ。捨てきれない程の年月もあった。
だが、彼女が妊娠している事が分かった瞬間に、激しい嘔吐を繰り返し、何もかもがなくなった。
全てが弾けた。
そもそも、あったと言えたのだろうか。
幻は消えた。泡のように弾けた。
彼女は男子を産んだ。
心底安堵した。これで夫としての義務を押し付けられる事はない。
名を付けて欲しいと彼女はオレに言った。
だから兄に手紙を送った。貴方の子が生まれたから、是非とも名を付けてくれ、と。
返事は来なかった。
子に罪はない。よく言われる言葉だ。だがオレからすれば罪の結晶だ。それがたった一度の事だったとしても。
オレを裏切り続けた彼女と、オレを弟とも思っていない兄との間の子。
気が付けば名前が付けられていた。聞けば父が付けたのだそうだ。
レティシアは子供とオレの接点を増やそうとした。
赤子を見れば絆されるとでも思ったのだろうか。何と幸せな頭なのだろう。
「君が二人分の愛情を注ぐと良い」
何故君は毎回、被害者のような顔をするのか。
何故自分のした事をオレが許すと思っているのか。
レティシアと婚姻を結んでから三年が経った。
彼女との関係は変わらない。
諦めない彼女はオレと彼女の息子を近付けようとするが、執事長や侍女達に阻まれている。
最初の頃は、それでも彼女に同情する者もいた。
それが一人もいなくなったのは、両親が領地から王都にあるこの屋敷に来た際に、兄も屋敷にやって来た時の事が原因だ。
彼女には学習能力と言うものがないのか、切羽詰まっていたのか分からない。分からないが、彼女は兄に縋って言ったのだ。
自分を連れて逃げて、と。
オレの不運は、それを人伝に聞いたのではなく、己の目で目撃してしまった事にある。
前回もそうだった。今回もそうだ。
兄は相手にしないどころか、珍しくオレに言い訳をしていた。後に兄と姫の関係が上手くいってなかった所為だと知るが、どうでも良い事だった。
そんな事があって、彼女の味方は一人もいなくなった。
兄は逃げるように、妻である姫のいる離宮に戻って行った。両親も何かを思い出したと言って去って行った。
誰も彼もが、逃げていた。両親も、兄も、オレも。
唯一逃げていなかったのは彼女だけだった。逃げられない、が正しかったかも知れない。
「どうしたら、許して下さるのですか……」
泣きながら許しを乞う君は、穢れていてもなお、美しい。それは、真に苦しんでいないからだろう。
あの事があってから、オレは実際の年齢よりも十は上に見られるようになったと言うのに。
「許すも許さぬもない。君は自由だ」
オレの言葉の真意をはかりかねて、涙に濡れた目で見つめて来る。
「子は生まれた。この家に君がいる理由は無い。実家に帰るなり、好きにすれば良い。未来の当主とすべく乳母も付いている。なんだったら両親の元で育てても良い」
彼女に帰る生家などはない。だがそんな事は知った事ではない。
これまでなら家から追い出すなどは出来なかったが、他ならぬ彼女がこの家から出たいと望むのだから。
「それ……は……旦那様が……私を疎ましく思ってらっしゃるから……」
その言葉に思わず笑ってしまった。オレが笑い出した事に彼女は驚いている。
「疎ましく思っていたのは貴女だろう」
グラスを持ち上げると、侍女がワインを注いだ。それをぐっと飲み干す。咽喉の渇きを潤す為に飲み干したのに、渇きは消えなかった。
「兄と比べられて辛いと泣き言を言うオレの相手は煩わしかっただろう? さぞや手間だったろう? 君の心はずっと兄にあったのだから」
グラスをサイドテーブルに置く。
「婚約者として、確かな信頼と愛情を育んでいたと思っていたのは幻想だったと教えてくれたのは、君だ。
全ては偽りだった」
「ちが……っ」
「これ以上の嘘は不要だ」
否定しようとするのを、止める。
「安心すると良い。君とオレの不仲は有名だ。子を置いて離縁したとしても、多少の噂にはなろうと大した事にはならない」
かつてのオレは彼女が全てだった。
そんなオレが手のひらを返したように素っ気なくするのだ。何も話さずとも皆、感じるものがある。
両親や彼女の父には、表面上でも仲睦まじくして欲しいと言われた。
あぁ、そうしようとしたさ。
頭では理解しても身体が受け付けない。彼女を見れば胸が抉れるように痛んだし、声を聞けば鳥肌がたち、触れられた時には嘔吐した。
頑ななオレの態度。予定よりも早い結婚式。
誰が裏切り、誰が裏切られたのかなんて、わざわざ口にする必要などなかっただろう。
彼女を慰める友人だっていない事もなかった。
生まれてきた子供は、兄によく似ていた。それが決定打になり、彼女は友人も失った。
愚鈍なオレよりも、優秀な兄に憧れる彼女の気持ちを理解する友人はいたようだ。だが、それを現実のものにしようと思う者は殆どいない。そこまでの愚挙は犯さないものだ。
運命の神は、つくづく悪戯がお好きと見える。
兄ジリアンは姫に愛想を尽かされて離縁された。
戻って来た兄を両親は責め立てた。家にも入れないようにした。さすがに外聞が悪いと思ったのだろう。
弟の婚約者を寝取ったというのは、公然の秘密だった。
予想の上をいく発言を兄はした。これには両親も、彼女の両親も弟も、言葉を失った。
「私が家を継ぐ。本来そうであったのだから。なんならレティシアも妻にしよう。子は私の血を引いているのだから何の問題も無い」
なんなら、などと言っているが、兄は自分が社交界でどう噂されているかを知っている。
このままでは継ぐ家もなく平民に落ちてしまう。それは高い自尊心が許さなかったのだろう。
かと言って妻を持たないのも外聞が悪い。
陰であれこれ言われるよりも、実を取る事にしたのだ。
兄はそう言う人間だ。
「馬鹿な事を! 家はもうトスカが継いでいる! おまえのいる場所などない!」
父は怒りのままに叫び、母は目眩を堪えるように座り込んだ。彼女の父は信じられないものを見るように兄を見た。彼女の弟は今にも殺しそうな目で兄を睨んでいる。
「レティシア、あの時の約束を果たそう」
蕩けるような甘い声を向けられた彼女は、身体を硬直させる。
「私が家を継ぐ。あの日私に愛を捧げてくれた君を、ようやく妻に迎えられる。どうか手を取ってくれ、愛しい人」
皆の目がレティシアに向けられる。
「わた……私……は……」
俯いて答えられない彼女に向けられる視線は、徐々に厳しいものになっていく。
なんて素直なんだろう、君は。
きっと幼い頃に、オレの為に嘘を吐き過ぎた所為で、一生分の嘘を使い果たしたのだろう。
オレの妻でありたいと言えば、間違いなく貴女の株は上がるのに。
長い沈黙を破ったのはオレだった。
いくら待っても無駄な事を知っている。彼女は答えないのだから。
「父上、私を除籍して下さい」
オレの言葉に、皆が鳩が豆鉄砲を食ったような顔になる。
もう茶番は終わりにしたい。
さすがに疲れた。
本物が戻って来たのだから、予備は速やかに退場すべきだろう。
「トスカ、おまえ、何を言って……」
「私は婚姻が早まった所為で学院を休学しています。もう一度学び直したい」
オレとレティシアの婚姻は、本来もう少し先、オレが学院を卒業してからの予定だった。
それが予定外の妊娠で休学を余儀なくされた。
「自分の人生を取り戻したい。この二人に壊された人生ではなく」
はっきりと言葉にすると、さすがの兄も顔色をなくした。相変わらず傷付いた顔でレティシアはオレを見る。
「もうこんな、茶番は終わりにさせて欲しい」
オレの人生の主役はいつも兄で。
別の舞台に立った筈の兄はまた、オレの舞台を壊そうとする。
もう沢山だ。
除籍はされなかった。
ただ、学院への復学は許された。
レティシアとオレは離縁し、彼女は兄と婚姻を結び直した。
望み通りの展開なのに、彼女の表情は暗いままだった。かと言ってオレの妻でいたいと言う訳ではない。
オレには最後まで彼女の気持ちが分からない。
当然の如く二人の婚姻は社交界の話題になった。
恥知らずと裏で言われていたが、兄は恥ずかしげもなく彼女を伴って夜会に出かけて行った。
だが、それもこれも、オレにとってはどうでも良い事だった。
誰に憚る事なく、ずっとやりたかった植物の研究に没頭した。
両親は止めなかった。金銭的な援助もしてくれた。
それが彼らなりの贖罪なのかも知れないが、援助を断ち切られても何も困らない。
いつ死んでも構わないのだから。
*****
月日の経つのは早いもので、あれから四年が経過した。
学院の最終学年を終えたオレは、教授の手伝いとして二年、学院に多く在籍していた。
先々の事など、何も考えずに。
「トスカ」
温室にいたオレに声をかけてきたのは、隣国から遊学に来ているフローリア姫だった。
末の姫だけあって大切に育てられてきたのだろう。人懐こく物怖じしない。
「また植物の世話をしていたのか?」
姫は不思議な事に男のような言葉で喋る。
「えぇ、生育状況を確認するのは大事な事です」
レティシアと婚姻を結ぶまで、学院では植物を専攻していた。家の領地は緑も多く、植生は豊かではあったが難しい面もあった。
領地を経営する兄の手伝いとしても、植物を専攻する事は無駄ではなかったのだ。
愛する人を妻とし、兄を助けていくのだと信じて植物と向き合っていた。
今は、全く違う理由で植物を相手にしている。
植物は人のように嘘を吐いたり騙したりしない。
かけた手間の分だけ健やかに育ってくれる。
オレを、裏切らない。
「人にやらせれば良いのに。そなた、まだ勤める先も決めていないと聞いたぞ」
フローリア姫の生まれた国は、国土こそ広いが荒地が多く農地が少ない。
その所為で他国から食料を買い入れなければならない。
鉱物資源は豊富であるから国庫は潤っていると聞くが、鉱物とて有限だ。
「学院を卒業する時には私も歳です。何の功績があるでも無い私を受け入れる物好きを探すのは難しい」
苦笑いを浮かべながら答えると、姫は不服そうな顔を見せる。
姫と接点を持ったのは、姫がこの国に来て直ぐの事だった。
王族の暇つぶしかと思いきや、姫は自国を少しでも助けたいと考えて、父王に我が儘を言ってやって来ていた。
それから四年の付き合いになる。
姫の国の気候や、土壌についての相談に乗る内に、見た事も行った事もないのに、自国よりも詳しくなった。
どれだけ本気で姫が取り組んでいるのかも、誰よりも知っていた。だからこそ、是非上手くいって欲しい。心からそう思う。
「だが、そなたは優秀だ。目をかける者はあろう」
「では姫の国で雇って下さい」
それはいつもの、何気ない軽口だった。
オレと姫はくだらない事を言って笑いあえる程には話があった。
普段通りの冗談であったのに、姫は先程までとはうって変わって笑顔になった。
「おお、その手があったか!」
嬉しそうな声を上げて、姫はオレの手を取る。慌てて手を離すが、まったく気にしていないようだ。
本来ならこんな風に二人でいるのも良くはない。
この温室が全面硝子張りで、外にいる護衛からも見えるから見逃されているだけだ。
身に覚えの無い事で罰せられては堪らない。なにより、姫にとって不利益になるような事はしたくなかった。
「トスカ、そなた、私の国に仕えよ! お父様に早速手紙を送らねば!」
言うだけ言うと、来た時と同じように姫は消えた。
いつもいつも、風のように自由な方だ、本当に。
姫はあのようにオレを雇うなどと言っていたが、不可能だ。大切な末の姫に、余計な虫など付けたくは無いだろうから。
薄汚れたオレには眩しい程に、きらきらしく、姫といる時は己の穢れが浄化されるような気持ちになる。
それが、どれだけオレの心を救ったか。
姫の卒業まであとわずか。そうなれば姫と会う事も叶わなくなる。同じ時にオレも学院を卒業する。
身の処し方を考えなくてはならない。分かっている。
あれから四年も経ったのに、オレはまだ立ち止まったままだ。
何をどうしたい、と言う気持ちがわいて来ない。ただ、今は姫がこの国で何かを見出して帰ってもらえたら良いと思う。
屈み、目の前の植物の葉を手に取り、状態を確認する。虫には強いものの、すぐに葉に白い斑が出来てしまうが、貧しい土にも根を伸ばす。
葉は乾燥させて粉にしておけば日持ちもするし、腹を下した時に使える。根は膨らんでいって実のように丸くなる。あまり大きくはならないが、食用にもなる。
姫の国にはない植物だと言う。元来の植生の妨げにならないようにするのが大前提だが、持って帰るのに良いのではないかと思っている。
国土の全てが似た土壌では無い。他の土地に適していると思われる植物も育てていた。
泥の中で根を張るような植物などもある。
オレはとにかく、姫に喜んでもらいたかった。
日の下にばかりいるものだから、焼けてしまった肌は、とても一国の姫とは思えない。見た目など気にする事なく、民の為にと植物を熱心に育て、研究し、虫を見ては逃げる姫に、両手いっぱいの植物を持って帰って欲しい。
その後は、どうでも良い。
学院には誇るべきものがいくつも存在するが、その一つはこの食堂だろう。
平民も貴族も分け隔てなく受け入れる学院の食堂は、平民であっても手を出せる安価な値段で提供され、味も良いし量もある。
家を出て部屋を借りて暮らすオレにとっても、大変貴重な場所だ。
料理など出来ないオレは、ここでの食事で最低限の栄養を補充している。
紅茶と軽食を口にしながら、朝一で確認した植物の状況を書き記していく。
「トスカ様」
聞き覚えのある──数え切れない程に耳にした声──二度と耳にしたく無い声が、オレの名を呼んだ。
胸が騒つくのを必死に抑えながら顔を上げると、テーブルの前に彼女が──レティシアが立っていた。
「手紙を送ってもお返事をいただけませんし、お部屋にいつお邪魔してもいらっしゃらないので、失礼とは思いましたが、学院にお邪魔致しましたの」
直ぐに視線を落として彼女を見ないようにする。
流石にもう、以前のような穿つような胸の痛みも、吐き気をもよおす事もないが、決して見たい顔でも、耳心地よい声でもない。
言われてみれば実家から手紙が来ていたが、あれは彼女が送っていたのか?
「お義父様がお倒れになりました」
父が?
「お医者様のお話では、病の進行が早いと。
ですからトスカ様、屋敷にお戻りに」
「お大事にと伝えて下さい」
薄情だとは思うが、そうか、としか思えなかった。
両親の愛情は常に兄に向いていた。兄が彼女と過ちを犯し、その後になってからも、オレに向き合ってくれはしなかった。
こうして学業に専念させてもらえている事には、感謝している。
「実の父が病に伏していると言うのに、まだ昔の事を根に持ってらっしゃるのですか?」
頭に血が上るのを感じた。
顔を上げて彼女を見ると、オレの怒気に怯んだ。
言うに事欠いて、貴女がそれを言うのかと、なじってやりたくなる衝動を必死に堪える。
「言葉が……過ぎました……ですが、お義父様はトスカ様にお会いしたいと」
「トスカ?」
姫の声がレティシアの言葉を遮る。
あっと言う間にオレの隣の椅子に腰掛けると、怒りを抑えようと握り締めていたオレの手を、姫が上から握る。
三週間ぶりに会ったと思ったらこんな場所を見られるとは。羞恥と怒りとで胸の奥がぐちゃぐちゃだ。
こんな所、姫にだけは見られたくなかった。
「姫、お放し下さい!」
「放さぬ。何を恥ずかしがる事がある」
「そうではなく、未婚の女性が、婚約者でも無い異性の手に触れるなど許されません」
「それについては問題ない」
何を言っているのか、この姫は。
手を離そうとすればする程、オレの手を掴む姫の手に力がこもる。あまり強く振り払って怪我をさせる訳にもいかず、護衛の姿を探すと、まぁまぁ離れた場所に立ち、のんびりとした顔をしている。
何を悠長な。早く何とかしてくれと言う目を向ければ、微笑まれた。もしや伝わってないのか?
オレを無視して、姫は正面に立つレティシアを見据える。
「そなたが、トスカの元妻のレティシアか」
戸惑いを隠せないレティシアは、オレと姫の顔を交互に見る。
「私はフローリア。フローリア・アンジェロッティ・バスターニャ」
目の前の女性が隣国バスターニャの姫であると分かり、レティシアは慌ててカーテシーをした。
「元妻、というのも違うか。そなた達は白の婚姻であるものな」
「恐れながら、子が」
反論しようとするレティシアの言葉に、姫が被せる。
「兄との不義の子を、婚約者であったトスカの子として産んだのだろう?」
「どうしてそれを……」
いくら公然の秘密とは言え、姫が知る筈もない。
真実を口にされてレティシアの顔色が悪くなる。
動揺するオレを見て、姫は困った顔をした。
「調べた。そなたに関心があったからな」
「オレに……?」
「好意を抱いた相手の事を知りたいと思うのは自然な事であろう?」
何を言ってるのか聞き取れている筈なのに、理解が追いつかない。頭が受け入れるのを拒否している。
姫は彼女の方に向き直った。
「これ以上トスカを苦しめるのは止めよ」
「わ、私は何も……」
否定する彼女に、姫は不快感を露わにした。
首を横に振って姫は言う。
「トスカ、そなたの父は病に倒れてなどおらぬ」
どちらの言葉が正しいのか、確かめようと彼女を見ると、目が泳いでいた。
……嘘、なのか。
何故こんな嘘を吐くのかは分からない。けれど決して許されない嘘だろう。
「幼き頃からの婚約者を裏切り、その兄と関係を持ち、出来た不義の子の父親にさせておいて、苦しめていないとそなたは言うのか? 更にそんな嘘を吐いてまで己の方を向かせようと言うのか?」
姫の追求に、レティシアの顔は青くなり、俯いた。震えている。
何て言う人なんだ。
「答えよ。何故そのような嘘を吐いたのか」
レティシアは俯くばかりで答えない。
思い出せば彼女はいつも、困った事があるとこうして俯いて、誰かが──以前はオレが──助けるのを待つ。
「卑怯者め」
吐き捨てるように姫が言った。
オレの知る姫は、いつも春の花のように柔らかで、夏の花のように眩しい笑顔を見せる人だった。
こんな風に激しく怒る事もあるのだと、それも、オレの事で、と思うと、不思議であり、落ち着かない気持ちになる。
「答えぬなら、私がそなたの胸の内を代弁してやろう」
レティシアが顔を上げる。
「そなたは夫となったトスカの兄 ジリアンに恋情を抱いていた。だが、婚約者であるトスカの事もまた、必要不可欠だった」
必要……?
家族への親愛、ではなく、必要?
姫はオレの手を先程より強く握った。
声には明らかに怒りが滲んでいた。
「そのように困ったフリさえすれば己の望みを叶えてくれるトスカは、さぞかし便利だったろう」
便利──もう傷付かないと思っていたのに、その言葉に胸の奥が冷えるようだった。それから、そう、とても得心がいったのだ。
これまでの彼女の言動の謎が、詳らかになったような気がした。
「今はトスカがいないから思う通りにいくまい。もっとも、そなたが裏切った時からままならぬ状況であったろうに、いまだトスカに依存しているとは、浅ましい」
まさか、その為に嘘を?
オレを屋敷に戻して、姫の言うように、己の欲求を満たす為に……?
だがオレはもう以前のオレとは違う。彼女を受け入れる事などあり得ないと言うのに。
信じられないでいるオレに、姫が悲しそうな顔をして言った。
「一度知った甘い蜜の味は、そうそう簡単に忘れられるものではない。それが十年と続いていたのだ。何とか出来ると、その場しのぎでも騙せたら上手くいくと思ったのだろうな」
レティシアの顔は色を失い、紙のように白かった。
視線を彷徨わせ、戸惑いを隠せていない。いつもの困っているのとは違う。そうか、あれは、困っているフリであったのだと、今更知った。
射抜くような視線を姫はレティシアに向ける。
「私にとって、そなたも、そなたの夫も、私の大切なトスカを傷付けた極悪人だ。トスカを幸せにするのはこの私だ。二度と近付く事は許さぬ」
姫の剣幕に恐れをなしたのか、レティシアは逃げるように去って行った。その後ろ姿を姫はじっと睨み付けていたかと思うと、ようやくオレの手を放した。手でパタパタと顔を煽ぐ。真っ赤だ。熟した林檎のように赤い。
「……姫?」
呼び掛けてもオレの方を向かない。
「あ、謝らぬぞ」
「謝る? 何をですか?」
「あの者は駄目だ。いくらそなたが望んだとしても、幸せになれぬ」
あの者とは、レティシアの事だろうか?
「いえ、そうではなく」
オレが聞きたいのは、そんな事ではなかった。
彼女は過去の人で、兄も、オレにとっては唾棄すべき存在だ。今更それが覆る事はない。
そんな事よりも先程の言葉の真意を知りたい。
──私の大切なトスカ。
「何だ」
「先程、私の大切な、と」
顔を背ける姫。
まさか、そんな、と言う思いと、本当に? と言う思いが同時にわいてきて、胸の奥が膨らむようだ。
あぁ、でも、違うかも知れない。優しい姫が、オレを守ろうと咄嗟に嘘を吐いてくれたのかも知れない。
そう思うのに、胸が、どうしようもなくうずいてしまう。
もうずっとずっと、忘れていた。
誰かを愛しいと思う、この気持ちを。
堪えきれずに、言葉が口をついて出てくる。
「姫……オレの……大切な……姫……」
そう、口にすると、姫が勢い良くこっちを向いた。驚いてはいるが、頬は赤いままで、オレの袖を掴む。その手はかすかに震えていた。
そんな、潤んだ目で見られたら、誤解してしまう。期待してしまう。
姫が、オレを、想ってくれているのではないかと。
「も、もう一度言ってくれ」
気持ちを止められなくなってしまう。
「オレの……姫……」
姫の目からポロポロと涙が溢れる。
「トスカ、トスカ……私が、そなたを絶対に幸せにするから……だから……私のものになってくれ」
姫の手に、自分の手を重ねる。
「勿論です、姫」
姫の相手になれなくても良い。
身分が違い過ぎる。そのような高望みはしない。
でも、心も身体もこの方に捧げたい。
貴女の幸せの為に、全て捧げさせて欲しい。
こんな、上手い話があって良いのか。
どうしても信じられなくて、何度も確かめたくなってくる。
オレの隣で植物を観察する姫に視線を向ける。嬉しそうに微笑まれてしまい、何も言えなくなる。
何度も聞いた。
何度も同じ答えが返って来た。
姿を見ないなと思っている間、姫は本当にオレを召し抱える為の許可を父王に取っていた。
卒業と同時にオレはこの国を出て、姫と一緒に、バスターニャに行く。それは良い。
そしてバスターニャの地でも育つ植物を育て、食糧問題を解決するという、大変重要な責務を姫と共に担う。責任重大ではあるが、姫の為に働けるのなら本望だ。
問題は、オレの立場だ。
バスターニャに向かうオレは、姫の協力者であり、婚約者なのだ。
王に召し抱えてもらうまでは脳もついていったが、それが何故、何をどうしたら姫の婚約者になるのかがさっぱり分からない。
だが、姫の側にいたいという気持ちはある。
本当に姫と添い遂げられるかは、不明だ。
分からないが、植物の事しか分からず、頭も大して良くもなく、容姿も人より劣るオレだけれども、出来る全てを持って姫を幸せにする努力を重ねたい。
親に愛されず、兄に軽んじられ、婚約者に裏切られ……人を信じる事が怖くなった。出来なくなった。
生きる事に意味が見出せなかった。そんなオレの心に光をくれた姫。オレを助けてくれた姫を信じたい。信じてる。笑って欲しい。幸せにしたい。
今は手を引いてもらうような、情けない存在だけれど、いつか、オレが引いていけるように、守れるように。
貴女の隣に相応しくあれるように。
だから、オレは、貴女の手を取る。
 




