火矢を忘れた頃に
迷宮?層――。
勇者殺しの一件から、既に数月である。
混乱と悲憤に荒れ狂う人の部隊と、活気付いた魔物の衝突は苛烈さを増した。【死神】のもたらした効果は絶大、些か過分な処はあれど魔王軍の士気を高めて優勢に持ち込んでいる。
人と魔が入り乱れる戦端の烈しさは一向に鎮まらず、更なる大戦へと繋がる予想が人々の頭の端に不安の影を帯びて居座った。
今日もきょうとて、戦闘が行われる迷宮。
その悲鳴と蛮声が叩く戦場から、少し離れた静けさ立ち込める場所である。
何処かの下層へと続く一条を占有する集団の影が、一人ずつ龕灯を携えて路から陰気を吹き掃っていた。人口密度が高く、その上で相身互いに照らし合う故か、その身に纏う白装束が輝いているとさえ錯覚させる。
堅固な陣形とも言い難い態勢で構える彼らは、ひたすら路の先にある闇に目を凝らす。
光の手が届く範疇の外、依然として暗黒に鎖された傾斜路の先に、彼らは約束の人物の姿が現れるのを待望していた。
ややあって、先方の暗中に小さな影が浮かぶ。
闇よりは薄い襤褸の装束で、悠揚と白装束の集団へ歩み寄る。照明された地面に踏み込むと、その場で膝を突いて頭巾に隠した頭を垂れた。
集団の先頭が進み出て、その襤褸装束を睥睨しながら懐中より円筒状にした一巻きの書状を前の地面に転がす。
それをぱっと足元で受け取った襤褸装束は、中身を検めると、承諾の言葉の代わりに無言で首肯した。
内容の確認が澄んだ書状は、その手中で突如として発火し、灰塵に帰してはらはらと落ちる。
襤褸装束は身を翻し、闇の中へ早速消えた。
見送った白装束もまた、次々に上層に向けて歩き出した。
「ヤツは信用できんスか?」
先頭で書状を放った白装束に対し、踵を返していた集団の中から一人が外れて駆け寄る。
「ヤツは合理的な生き物だ。如何に地下世界の住人とて、現在の雇用主よりも待遇が良き方へと覆る」
「じゃあ、そろそろ……」
「ああ、年貢の納め刻だな」
龕灯の日は、上層へと登っていく。
シュートベルク旧市街地に人間の少女が来てから随分経つ。
当時は不慣れな環境に右顧左眄すること頻りであったが、献身的な三体の対応によって順応は想定よりも早い。この場合に於いてのみ、異常な闇妖精の貢献の賜物ともいうのも無きにしも非ず。
人間用の食糧についての問題は、娼館から闇妖精が自身の家宅で飼う奴隷の餌との建前で一部を徴収し、無事に少女の栄養となっている。
彼女自身が娼館でも一、二位を争う遣り手であるが故に、この行動に疑惑の後ろ指が差されることも少なかった。
闇妖精じたいは、主に物資補給及び伝達役。
その役目を《火鼠》で担っており、ゴブリンの矢などの武装も、万一に備えて彼女が後方で機を見計らって待機している。お蔭で、彼らが危地を脱したことも数多い。
その為、逆に潜んでいる敵の伏兵などからも気配を消す術に長けていたから、娼館から無断で食糧を持ち出そうとも気取られなかった。
廃屋はある程度の掃除をして快適さを幾許か取り戻したが、大きく改装すると衆目が注ぐし、与太者が寄り付き易くなって危険。
必要最低限だけの備えを設えたことのみが改善点。少女がその環境下でも不平に託ち顔をすることもなかったのが幸い。
我慢すること、即ち自制心が幼いながらに強いのかもしれない。
齢六歳を過ぎる砌の少女の名はグローリア。
特にスケルトンに対して心を開き、彼が躊躇いがちに行った事情聴取で判明した。
闇妖精の情報が正しければ、地上は北西の言語にて“栄光”を意味する名である。
ただ、聞けたのは名だけだった。
その他は頑なに話そうともせず、ただ涙を堪えてぐっと歯を食い縛っているばかり。まだ心中の生傷癒えぬ頃と合って、時機を過ったと皆が反省しながら、それ以上の追及はしなかった。
そうして、グローリアが取り敢えず魔界にて暮らせる設備は概ね整った。《火鼠》の任務中でその場を離れる際には、スケルトンの黒衣を着て人間の臭いを誤魔化す。
他にも気配を消す方策を幾らか講じて、不在時の安全も確保した。
そうして経った、最初の一月。
それからは、次の段階に移動。
残るは生存術――云わば、身に迫る害悪を退ける為の対処法の体得についてである。
如何に対策充分とはいえ、隙を衝く狡猾な連中の存在も否めない。
故に、グローリアには世話をする三人の能力を取得して貰う必要性が浮上した。
闇妖精の隠密、ゴブリンの索敵。
そして――スケルトンの戦闘術。
二月目は主に基礎体力を養った。
十全に戦闘の行える体の基盤が完成しなくては、この少女が壊れてしまう。
充分な食糧を得てから、痩せ細っていた体も年相応の体格に戻りつつあった。
初期は途方に暮れるほど体力の無さだったが、たった二週間の健康的な生活が持続すると、あっという間に基礎体力は著しい成長を遂げた。
それは人間自体の育成法の心得は無いため、躊躇と葛藤はあったものの、かなりの厳しさ訓練を施した所為もある。
そして三月目。
漸く本格的な戦闘の術を叩き込む習慣。
スケルトンとの組手などで立回りを学び、ゴブリンと共に時折危険な界隈まで足を運んでの音を聴く訓練、闇妖精から一般教養と気配を消す為のあらゆる技術講義。
幼い年とあって、疲れるとすぐ眠くなる。
ときおり船を漕ぐグローリアに、つい甘やかして睡眠を促してしまう三体だったが、健気に目を擦って「がんばる」と口にする姿に身悶えした。
この三月にて、魔物は絆されたいた。
それは、俗世に『親バカ』、場合によっては『バカ親』と称される情けない状態である。
そして今日。
旧市街地では、恐らく集会場として過去に使用されていたと思しき大きな廃救護院を舞台に訓練を行っていた。
薄闇に満ちて、邪悪な祟りの類いがうろつくとの風聞が付きそうな雰囲気の廃れた内装は、身を匿すには適所である。
スケルトンが三階への階段を慎重に上がった。
靴音を立てぬよう注意しつつ、隅々に眼光を奔らせて探る。標的が狡獪に気配を隠匿しており、目視するまで捕捉するのはかなり困難。
いつ奇襲を受けるか、その危機感に慎重さは増し、進む足先はますます鈍重になる。
上階に漸く着き、壁に寄りながら廊下へと近付く。一度だけ壁面に背を付けて、ゆっくりと顔を出して様子を窺う。
誰もいない、吹き抜けの窓から街灯の光が差す。
黒い襤褸の裾を翻して躍り出る。
進む先の廊下は、奥手の階段に続くまで三部屋ほどあった。この中に、標的がいるやもしれない。
音を立てずに進んでいたスケルトンだったが、ふと足元に何かが引っ掛かりそうになり、思わず踏ん張って靴底で床を踏み鳴らした。
爪先に何か引っ掛かっている。
触れた感触からは細い、かなり張っているがややしなやかに弾性がある……。
スケルトンは爪先を阻むそれを摑み、引き上げようとした。しかし、それは両端が壁に固定せれて持ち上がらない。
確信した、これは細長い――張られた糸だった。
スケルトンが驚いていると、奥の階段から金色の髪を揺らしてグローリアが出現する。
廊下に姿を見せるやいなや、既に番えていた矢を発射した。構えてから放つまでの体捌きに、一切の停止時間はなく流麗。
放たれた矢をスケルトンは躱した――が。
その鏃とは反対の末端に、また別の糸が仕込まれていた。
彼女の袖の中と繋がっており、その手元が引かれると後ろへと遠く過ぎ去って行く筈だった矢が直ぐ側で急停止し、鏃を残して矢軸が割れた。
避けたスケルトンの肘が当たると、糸は曲がって終端の鏃がそのまま彼の肘を支点にして何度も遠心力に従って回る。
腕に糸が絡まった。
幾重にも巻き付いて、最後に鏃の尖端が衣服に噛み付いて固定される。
グローリアは素早く袖の中で糸を摑むと、窓の外へと飛び出す、宙に放り出された矮躯は、しかしスケルトンの腕に固定されているため弧を描きながら降下していく。
その力を利用して、彼女は下階の窓へと滑り込んだ。
それに対して、引っ張られるスケルトンは窓枠に始終摑まる他になく、それが彼女の安全な着地を意図せず補助した。
一階に到着したグローリアは、袖の中で糸を切り、窓枠に結わえ付けた。
まだ糸に重みはある……よし!
手応えと共に、顔に笑みを浮かべたグローリアが再び窓の外に出る。今度は何の補助もなく着地し、廃救護院の敷地外を目指して駆ける。
彼はまだ糸に捕まっている、このまま行けば逃げ遂せる。
期待に胸を弾ませ、敷地外まで力走していたグローリア。
しかし――。
「きゃっ!?」
その前方の地面に三本の矢が突き立った。
進路を阻まれ、その場に尻餅を突く。
恐怖で涙目になりながら周囲を見回すと、廃墟の屋根上から弓を構えるゴブリンが居る。同時に次弾となる三本の矢を矢筒から抜いていた。
グローリアは腰の小振りな短剣を手にし、後ろへと引き下がりながら敷地外をまだ目指した。
打ち払い、回避しながらでも脱出すれば勝ちだ。
今日こそ勝つ!
その一念に駆られていたグローリアだったが、今度は首筋に絡まる黒褐色の腕に捕らえられ、一瞬で諦観する。
「はーい、捕まえたわよ~?」
「うぅ……お姉ちゃん狡い」
「んぐっ……良い反応ごちそうさまです!」
やや鼻血を垂れ流しながら、背後から抱き着く闇妖精が応えた。
そこへ、建物から飛び降りたゴブリンやスケルトンが駆け付ける。暴走する前にグローリアから引き剥がす。
今日の訓練は、救護院を舞台にしての籠城戦。
仮に一ヶ所に追い詰められた際を想定した。
敢えて敵を迎えて撃滅するか、それとも招いて敵を撹乱しながら自分だけ脱出するか。
今回、全員を行動不能にするのはさすがに不可能と合って、敷地外まで逃走成功となればグローリアの勝利になるはずだった。
スケルトンは拘束の糸を断ち切った後の腕を擦りながら、顎骨をかちかち鳴らした。
「いや、まさかワイヤーを使って来るとは」
「骨さん筋肉ないし有効けるかなって!」
「そんな可愛い顔で言われると立つ瀬ない」
スケルトンは己の細い……筋もない、骨だけの右腕を見て嘆息する。
片やゴブリンはやや怒り気味にグローリアの額を指で小突いた。
「小娘、ワイヤーは良い筋だが、筋力じゃお前が圧倒的に不利なんだぃ。スケルトン以外にゃ、逆に引かれてお陀仏、絡めるのぁ建物だけにしときぃ」
「うっ……はい、気を付けます」
「それと骨ぃ」
「何だ」
「実戦想定なんだぃ。丸腰の敵なんざぁいねぃ。糸を切らずにコイツ泳がせるなんざ教育者として甘ぇぞ」
ゴブリンは訓練という観点で物事を見て、二人に厳しい指摘を送る。
確かに、筋力のある魔物と糸を介して繋がれば、必然的に相手に主導権を握らせてしまう悪手にもなりうる。まだ幼く、体の小さい彼女にはかなり不適合な策。
スケルトンならば、途中で糸を斬るのも容易かった。
悄然とするスケルトンとグローリア。
ゴブリンは腕を組んで冷たく見下ろしていたが、眦に涙を溜めて泣くまいと堪える後者の姿に嘆息すると、その肩を軽く叩いた。
「発想は悪かない。寧ろ動揺させるにゃ良策の場合もあらぁ。ま……立派になったぃ」
「目隠しさん……」
グローリアの視線に居心地悪そうにして背を向ける。
その二人の後ろでは、スケルトンと闇妖精がくすくすと笑っていた。結局は彼もまた甘い、教育者を努めんと必死な親である。
仕事以外で関わる事の少なかった三名が、グローリアで繋がり、私生活で共有する時間が長くなった。
スケルトンの胸骨が再び疼く。
覚えたことのない喜び、叶うはずのない期待と失望の連続、淡々と仕事をこなしていた時期には得られなかったモノだ。
なるほど、これが世に言う――親愛なのか。
スケルトンはグローリアを抱き上げる。
「さ、今日はもう帰ろうか」
「あ、ちょっと待って」
帰途に着こうとしたスケルトン、ゴブリン、グローリアが振り返る。
闇妖精は先刻の鼻血を拭わぬ面にやや落胆の色を滲ませていた。
「実はさ、これから《火鼠》の仕事」
「入っていたのか」
心底意外とスケルトンの眼窩の中の光が瞬く。
闇妖精の表情は、少しいつもと違う。
「今回の仕事、ちょっとおかしくてさ――」
訝る面々の前で、戸惑い声の彼女が告げた。
ゴブリンの耳に、不吉な足音がする。
スケルトンの胸骨に、不快感が燻る。
闇妖精は背後に、不穏な影を感じる。
三者三様に何かを察知していたが、その正体を把握できぬまま、彼らは任務に応じることとなった。
読んで頂き、誠に有り難うございます。
次回、ああ……始まっちゃうかも。