51 補佐は頑張りました
よろしくお願いします。
「ねぇ」
背後には自分が整えた資料を保管している本棚。
目の前では愛しくて愛しくて仕方ない女性が俺の胸元に手を添えていて。
「駄目です」
俺は今、追い詰められている。
「ダメ?」
唇に人差し指を当てるエルザはすこぶる可愛くねだってくる。
何を、かは当然わかっているが俺は耐えなくてはならない。
「駄目です。仕事中ですので」
「二人きりなのに?」
「…………だめ、です」
「間があったわ。あと一押しね」
楽しげにくすくすと笑いを漏らすエルザはとてつもなく可愛いが、本当にあと一押しだからやめてほしい。
なにせここは彼女の執務室で、ノックをして返事を待たずに開ける方やノックすらなく開ける方がいるのだ。
押され負けた姿を見られでもしたら、俺の首が飛ぶかもしれない。比喩ではなく。
「ねぇ、本当にダメ?」
もちろん、このまま隠れて交際しようなどとは考えていない。
今日の仕事が終われば、すぐにでも逃げたことのお詫びと、交際についてのお伺いを立てるつもりでいる。
だから、その前に恋人のように振る舞うのはあまりにも不誠実で……いやもうすでに手は出してしまったわけだが……。
「駄目です! 絶対に!」
冷静さを取り戻した俺は固辞した。
だが、きっぱりとした言い方が良くなかった。エルザはほんの少ししゅんとして、犬や猫なら耳が垂れてしまっているだろう哀愁を漂わせた。
「エルザ、その……」
あまりの罪悪感にそっと頬を撫でる。
だが、エルザは触れた手にそっと頬を擦り寄せて「一回だけ……お願い」と瞳を潤ませた。
考える間も無く引き寄せていた。
そのお願いは、反則だ。
甘い時間はほんの数秒だけで、本当に一度だけのキスでエルザは満足気に微笑んで離れようとするものだから、その離れる頭をしっかりと押さえる。
この人は男というものを分かっていない。
「一回で済むわけないだろ」
「えっ?……んんっ」
何度も何度も合わせれば、すぐに溺れて苦しげに息を漏らす。
この声が体の芯を疼かせて仕方ない。
そろそろ教えてあげないと可哀想かもしれないとは思うが、自分で気付かない辺りが本当に可愛くて、いつまでも意地悪をしたくなってしまう。
「は、ぁ……も、無理っ……」
唇を離せば苦しげに息をする。可愛かったが、仕方ないか……。
そっと彼女に指を差し出す。
「エルザ。あなたのこの可愛い鼻は何のためにあるんです?」
ふにっと鼻を押さえると、口を開けて固まった彼女があまりにも可愛くて頬が緩む。
「も、もっと早く教えてくれればいいのに……」
「……呼吸ですよ」
生まれて最初にすることだぞ。
「息継ぎの練習、しますか?」
意地悪のつもりで言ったことだったが、エルザは恥ずかしげに微笑みながら目を閉じた。
迷わず合わせれば彼女の息が顔をくすぐって心の中でほくそ笑む。
ああ、これでもう、遠慮はいらな……。
――コンコン。
目の前にいるのが愛しい人だということも忘れて勢いよく体を突き離した。
激しい動悸に立っていられず本棚に体を預け、肩で息をする。
大丈夫だ。すぐに開かなかったから侍従の誰かだ。あの方々ではない。大丈夫だ……。
俺の心など知らないエルザは跳ねるように机に向かい、扉に向けて声をかけた。
入ってきたのは予想通り顔見知りの侍従で、心の底から安堵した。
仕事の話をしている彼らの会話に耳を澄ませる。エルザは会話は忘れないが、内容を勘違いして覚えてしまうことがあるから気が抜けない。
「……では、これで進めさせていただきます」
「ええ、お願いね」
誰にでも笑顔で対応するエルザだが、今日は更に嬉しそうに微笑んでいるから慣れている侍従は気安く彼女に話しかけた。
「今日はとてもご機嫌でいらっしゃいますね。何か良いことでもございましたか?」
この質問への返答は止めるべきだった。
聞かれたエルザの頰には朱が差し、ゆっくりと唇が弧を描く。その唇に人差し指を当てて――。
「内緒」
と囁いた。
燃え広がるように顔を真っ赤に染めた侍従は、しどろもどろに挨拶して逃げるように退室していった。
閉じられた扉を無心で見つめていると、胸元を突かれる。
いつのまにか目の前に移動してきたエルザは、はにかみながら練習の続きを目だけでねだってくる。
細い体をぎゅうと抱きしめるに留めて心に誓った。
執務室では節度を保とう、と。
ありがとうございました。
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