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よろしくお願いします。

 夕食を済ませたあと、自室に帰る途中の廊下で聞き慣れた声に呼び止められた。

 その姿に先ほどのぬくもりが頭に浮かんで、全身が熱くなる。

 夜の廊下は前世ほど明るくなくて良かった。月明かりが赤くなった顔を隠してくれているだろうから。


「その……先程は、失礼しました」


 頭を下げるオーウェンに少し首を傾げて、もしかして不意に抱きつかれたことを謝られているのかと思い至った。


 どうしよう。嬉しかったなんて言ってもいいのかわからない。

 それでも、なぜだか思い詰めるような表情を浮かべるオーウェンには、少なくとも嫌ではなかったと伝えるべきだと口を開いた。


「だ、大丈夫よ。気にして、ないわ」


 嫌じゃなかったと言いたいのに、言葉がつかえて出てこない。


「そうですか……」


 私の足りない言葉にも安堵したような表情を浮かべてくれたことにホッとして、ハンプティが言っていたことを思い出した。


 ダンスを踊ったことが嬉しかったと伝えたら、と。


「あのね、オーウェン」


 抱きしめられたことには言えないけど、ダンスのことだけはどうしても伝えたい。


「この間の舞踏会で、ダンスを踊ってくれたこと、す、すごく嬉しかった」


 ぎゅうと服の裾を握りしめてしまう。オーウェンの顔が見られなくて、俯いたまま。


「それは、良かった」


 言われた言葉に一瞬体の芯が冷えたように感じた。


 なんだか、声音が。

 そっと見上げると疑問が更に膨らみ、心臓が騒がしくなる。


 オーウェンのこの表情はなんだろう。

 穏やかとも言える、遠いものを見るような、この目は。


「用事はこれだけですので、失礼します」


 頭を下げて踵を返す腕を、思わず両手で捕まえた。

 驚き振り返るこの人に、何を言えばいいのかまったく浮かばない。

 それでも、このまま行かせてはダメだと思った。


「まっ、また一緒に踊ってくれる!?」


 何か言わなければと焦る頭で出た言葉は、思いのほか私の疑問の中心を射ていた。


 ハンプティは言っていた。

 私とダンスを踊れて嬉しくない男はいないと。


 どうして私は。


「……私がお相手せずとも、あなたにはキングやクイーンがいらっしゃるではないですか」


 あんな根拠のない話に疑問を持たなかったのだろう。


 よそ行きの笑顔で言われた言葉にひどく体が冷えて、反対に目の周りがじわりと熱を持った。

 どうしてという疑問だけが、延々と頭に浮かぶ。


「ふ、二人と踊った後でも踊れるわ。体力には、自信があるし……」


 馬鹿なことを言っているとはわかっている。それでも何を言えばいいのか、どうしてこんなことになっているのか、わからないことばかりで恐ろしくて仕方ない。


 ただ私はあの日のことが嬉しくて、また一緒に踊りたいだけ、それだけだったのに。


「……わかり、ました。機会があれば、ぜひ」


 静かに言われた言葉に、動揺する心が一瞬で冷静になった。


 この言葉は、言わせた。

 私が、言わせてしまった。


「そうね。機会があれば踊りましょうね」


 顔を上げて努めて冷静に言った。下を向けなかった。

 それでも、どうしてもオーウェンの顔だけは見ることができない。


「それじゃあ今日は休むわね。おやすみなさい」


 まくしたてるように言って、今度は私が踵を返した。


 背中に「おやすみなさいませ」と小さい声がかかる。

 振り向くことが出来ずに早足に自室を目指した。


 やっと部屋に着くと扉をばたりと閉めて、その場に崩れ落ちた。

 震える膝を抱えて「ハンプティの嘘つき」と友人への理不尽な苦情が唇からこぼれ落ちる。


 立ち去れば引き止めてくれるのではという甘い考えを、一人で笑った。




 気が付いたら部屋が明るくて愕然とした。

 まさか、もう朝!?


 どうやらあのまま扉の前で寝てしまったらしい。

 今日も朝から仕事なのに!

 急いで身支度を整えて、部屋から飛び出した。


 しかし執務室に着いてから後悔し、逃げ出したくなった。

 今日も一日オーウェンと二人でいなければならない。


 昨日の会話を思い出して、普段通りにすれば大丈夫だろうかとも考えるも、どんな顔をして会えばいいのかわからない。ぎこちないのも嫌だし、かといって一切気にしてませんよというのもなんだか嫌だ。


 逃げたら、また迎えにきてくれるだろうかという考えは、すぐに捨てた。

 もう迷惑はかけないようにしないと。


 ノックの音が響いて体が跳ねた。


 返事……返事をしないと……。

 焦る私を尻目に、慌てた様子で開けられた扉に驚くと、中に駆け込んだオーウェンが私を見て「いたか……」と小さく漏らすのが聞こえた。


 ……うん。サボったと思われたらしい。


「……いるわよ。おはよう」

「おはようございます……」


 誤魔化すように頭を下げたオーウェンが書類を取り出す。

 極めていつも通りの様子に少し悲しくなりつつ、仕事をこなした。




 午後になり、オーウェンが「今日はもう休んでいただいて結構ですよ」と言い出した。


「え?」


 仕事はまだ残っているし、体調が悪いわけでもない。


「急ぎのものはあらかた済みましたから、私ももうすぐ休みます」


 なら残りも先に済ませればいいのではと言おうとしたが、やめた。

 私もこの部屋から出たいと思っていたところだったから。


「……わかったわ。お疲れ様」

「お疲れ様でした」


 部屋から出て、長く息を吐いた。


 気晴らしに、外に買い物にでも行こう。

 人通りの多い廊下で、奥歯を噛みながら歩く。


 今日は一度も、オーウェンと目が合わなかった。


 ああ、どうしてこうなってしまったんだろう。

 こんなことなら、ダンスのことなど言わなければ……いいえ、恋などしなければ良かったのかもしれない。

ありがとうございました。

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