あの時、伝えたかったこと
「原口さーん、郵便です」
「はーい、ご苦労様です」
私は玄関で受け取った手紙の差し出し人を見て、目を見張った。
ーーーーあの人からだ。
慌てて自室に駆け戻る。震える手で封を開け、中から便箋を取り出すと、一度大きく深呼吸した。
『多恵さんへ』
彼の意外に几帳面な字に鼻の奥がツンとした。
『お元気ですか。前の手紙では毎日、女学校の友人と工場へ出向いて励んでいるとありましたねーーーーこちらはいよいよ戦火も激しくなりーーーー』
彼からの手紙を何度も何度も読み返す。
ーーーーあぁ、よかった。生きていた。
この手紙が書かれた日は二週間前。前回の手紙は一月半かかった。今回はよくこんなに早く届いたものだ。
手紙を胸に押し抱き私は目を閉じる。
まだ暑い夏の昼間。外からはむっとあつい風が入ってくる。戸締りが心配になり、昼休みに戻ってみてよかった。こんなに嬉しいのはいつぶりだろうか。
手紙を抱きしめたまま縁側から庭に出ると、真夏の日差しにくらりと目眩がした。
※ ※ ※
気がつくと、私はバスに座っていた。
車内はとても静かで、運転手の他には二人がけの椅子に座る私だけーーーー正確には私と私の横に座る男の子しか乗っていなかった。
こんなに空いているのになぜ私たち並んでるいるのかしら?
ちょっと不思議に思ったが、私は男の子を見て納得した。最初は知らない子だと思ったが、なんのことはない。あの人じゃないか。
ただわかるのはそれだけ。不思議なことに、自分のことがまるで霞ががったようにぼんやりしている。
なぜこのバスにのっているのか。そもそも私は誰なのか。そこからして、なんだかあやふやで、でもちっとも怖くも不安でもないというのも不思議だった。
「ねぇ、このバス、私たちだけね」
私はなんだか大きな声を出してはいけない気がして、こっそりと囁いた。
「そうだね」
彼も小さく頷く。
「どこ行きのバスか知ってる?」
「…知ってた気がするんだけど…」
「あら、忘れちゃったの?」
私は自分が知らないのも棚にあげて驚いてみせた。
彼は素直にごめんと言い、気まずそうに目をそらす。
「いいわ、私が聞いてくるから」
私はそう言うと、運転手のところへ向かった。
彼は口下手だから、昔からこういうのは私の役回りなのだ。
「あの、運転中、ごめんなさい」
「はい、どうしました?」
「あの、このバスは、どこ行きなのでしょうか?」
「あぁ…このバスは今お客さんたちの貸し切りなので、降りたいところで教えてくだされば結構ですよ」
そんなことを言う運転手にますます疑問を覚えながら、彼の元へ戻る。
彼も聞こえていたようで、難しい顔をしていた。
幼い顔に似合わない眉間の皺を私は指で伸ばす。
彼の目の中に移る幼い女の子は、悪戯そうな顔をしていた。
私は再び彼の横に座り、二人で窓の外を眺める。
外には涼やかな小川が見えた。
バス停が見えたので、なんとはなしに降車を知らせる。
バスは私たちを下ろし走り去った。
「覚えてる?」
「ああ」
彼は小川をみて眉をひそめた。
「そんな怖い顔しないで」
私はいつもそうしていた通り、彼と手を繋いで小川沿いを歩き出す。そうしながら咲いてる名も知らない小さな花を摘んで歩くのが、あの頃のお気に入りだった。
今回も同じようにいくつか摘みながら歩く。やがて彼が靴を脱ぎ小川に足を浸すのをみて、私も真似てみる。冷たい川の水が、歩き火照った体を冷ましてくれるのが心地よかった。
と、がさりと音がする。
あぁ、あの日もこんな様だった。
振り返ると、はたして前と同じ様に、大きな野良犬がすっくとそこに立っていた。
すると彼はおもむろに、近場に落ちていた木の枝をさっととり、犬にむかい振り回した。
犬はくるりと向きを変え、走り去っていった。
「すごい!あなた、犬が苦手じゃなかったの?」
「苦手だよ。今でもね」
そう言うと彼はぽいと枝を投げてしまった。
「でも、前みたいに君に守られてたらカッコ悪いだろ」
憮然とした顔でそんなことを言う。
私は思わず笑ってしまった。
前回、半ベソかくあなたを守るため木の枝を振り回したのは私だったのに。
「あら…私はあなたを守れて嬉しかったのに」
「…俺は男だから、守られるより守りたい」
そう言うと彼は私の手を掴み、来た道を戻り始めた。
私の手を掴むその手が少し大きくなった気がした。
バス停まで戻ると、遠目に次のバスが来るのが見えた。
停留所に止まったそれに私たちは乗り込んだ。
またしてもバスは私たちの貸し切りだった。
二人がけの椅子に、また並んで腰掛ける。
二人とも、なんとなしに無言で乗っていると、トンネルに差し掛かった。
トンネルの中は真っ暗だが、なぜかぼんやりとした明かりに照らされて、停留所がある。
私は嫌な予感がしたが、彼が降車を告げてしまった。
「私、ここは降りたくないわ」
そう言ったが、彼は私の手を引き強引に降りてしまい、無情にもバスは走り去ってしまった。
トンネルをバスを追いかける形で抜けると、すっかり夜になってしまっていた。
「もう!嫌だって言ったのに!」
「…覚えてる?」
「覚えてるに決まってるでしょ!」
私はぎゅっと彼の腕にしがみついた。はしたないとか、そんなことを言っている場合じゃない。
私は野良犬は怖くないが、幽霊は大嫌いなのだ。
少し歩くと小さなお社が見えてきた。私はますます彼にすがりつき、顔もあげられなかった。
「なぁ、大丈夫だから見てみろよ」
先ほどより幾分低くなった彼の声がそう言う。私は恐る恐る顔をあげた。
小さなお社は以前の寂れた様とはことなりきちんと手入れがされていた。そしてお社の周りには、いくつもの提灯がつるされ、なんだか幻想的な雰囲気だった。
「綺麗…」
昔私は少し年上の子たちと遊んだ折に、山の中で迷子になってしまったのだ。
日も暮れ夜に歩き疲れ途方にくれて、このお社で泣いていたところ、彼が現れ、すぐな彼のお父さんも現れ私は助けられた。
帰り道、彼は私の手をずっと握っていてくれた。
後から聞いた話。少し大きくなった私たちは、あまりに仲が良すぎるとからかわれることも増え、だんだん共に過ごす時間が減っていた。彼は私が行方不明なことを、私と山に入った子たちから聞かされ、一緒に行かなかったことをとても後悔したそうだ。居ても立っても居られず、日暮れる前から自分の親に頼み山を探していたのだという。
「こんだけ明るけりゃ、もう怖くないだろ?」
そう言うと彼はちょっと得意そうに笑った。
私も素直に頷き、二人でしばしの間、宵闇の明かりを楽しんだ。
どちらからともなく、来た道を引き返しトンネルのバス停に立つ。
程なくして、次のバスが来たので乗り込んだ。
「次はどこかしら」
私たちはまた並んで座る。
前まではゆとりのあった座席がすこし窮屈になった。彼がまた成長したのだ。
彼は姿勢がいいから、もう並んで座っても少し上を見なければいけない。
バスはまた昼間の道を走り始めた。
いくつもの懐かしい景色を眺めたり、時に降りて楽しんだ。
「お客さん、終点です」
不意に運転手が言った。
私はついにこの楽しい旅が終わってしまうのかとがっかりしながら、でもはたして終点とはどこなのかしらとドキドキしながら彼に連れられバスを降りた。
降り際に彼が運転手に問う。
「このバスはここから折り返すだろうな?彼女を乗せて行ってほしいんだが」
すっかり大人の男の人のような口を彼は運転手にきいた。
私は不思議に思う。
私だけ?あなたは乗らないの?
運転手がくぐもった声で彼に何か言い、彼も頷きドアが閉まった。
「さぁ、行こうか」
私は大きな手で包まれた自分の手を不思議な気持ちでみる。いつの間に彼はこんなに大きくなってしまったの?
手を引かれながらついたのは砂浜だった。
青い青い、見たこともないほど澄んだ海が目の前に広がっていた。
「すごいわ!」
私は彼の顔を見上げ、興奮して言った。彼はとても優しい顔をしていて、じっと見つめられ私は急に気恥ずかしくなった。
「多恵」
彼が名を呼ぶ。多恵。私の名。私は全て思い出していた。
「多恵」
ぽろりと涙が前触れなく流れた。
「や、やだ。私なんで…」
「多恵」
優しい低い声。大きな掌が私の頬を包む。
「泣くな。俺は多恵に泣かれるのが一番苦手なんだ」
「……犬よりも?」
私が問うと彼は苦虫を噛み潰したような顔をした、
「そうだ」
ふふっと、私は自然に笑いをこぼした。それに彼も安心したように笑う。
着込んだ軍服に砂がつくのも構わず、彼は座り込んだ。私も座らせると足の間に私を囲い込み、私はその体勢に赤面した。
「多恵にどうしても伝えたいことがあるんだ」
私ははっとして振り返った。
「ま、待って!私もあなたにいいたいことがあるの!」
私はどうしてか、彼からの話を聞いてはいけない気がしていた。
むしろ私の方こそ彼にどうしても伝えたかった事があったのだ。
「あの日、赤紙が来た日、出征の日、私、通り一遍のことしか言えなかった…口を開くと、言っちゃいけないこと、言っちゃいそうで…」
「多恵…」
彼はわかってる、というふうに私の髪を撫でてくれた。彼が昔褒めてくれた髪。今は前のように艶やかではないのに、変わらずに撫でてくれる。
「…行かないでって。お願いだから死なないでって」
「………」
「だから、あなたにちゃんとお別れ、できなかった…ごめんなさい」
彼の肩口に顔を埋め、あがる嗚咽を押し殺す。泣き顔が苦手なあなたのために。
子供のように泣きじゃくり、ようやくそれが落ち着いた頃。彼が口を開いた。
「多恵…俺はずっと後悔してた。何度も機会はあったのに、恥ずかしいとか、言わなくても伝わってるとか思って言わずにいた。その事を今になってずっと後悔してる」
私は顔をあげ彼を見た。
柄にもなく顔を真っ赤に染め、彼は決心した様子で私をみつめている。
「多恵、好きだぞ。愛してる」
「…私もよ」
突然の告白に、半ば呆然としながら答える。
「そうか!…知ってたけどな」
「私もよ」
にかりと、私の好きな笑顔を浮かべる彼。
だんだんその輪郭がぼやけていく。
「待って!行かないで!」
「多恵、お前より俺のが好きだからな」
「待って!お願い!行かないでー!」
取りすがる私にお構い無しに、彼は蜃気楼のように立ち消えてしまった。
あっという間のことだった。
どれだけだった頃だろうか。呆然と砂浜に蹲る私にそっと手がかかられる。
びくりとしてみると、それは先ほど乗ってきたバスの運転手だった。
「そろそろ、出発時刻ですので」
「…彼と同じところに行きたいの」
「あのお客さんから、元のところまで乗せるように頼まれていますんで…」
運転手は申し訳なさそうな顔で言い、私を促した。私は促されるままに砂浜を踏む。
バスに乗り込む前にもう一度彼といた海を目に焼き付けた。
「お嬢さん、目的地についたらお知らせしますから、少し眠られた方がいい」
運転手がそう進めてきたが、とてもそんな気分にはなれなかった。
彼は行ってしまったのだ…。
ともすれば溢れそうな涙をこらえ、私は座席につく。さっきまでは二人で座っていたそこ。
私は座席へ伏し、ついに涙をこらえるのを諦めた。
そして気づくと意識を手放していた。
※ ※ ※
「多恵!多恵!しっかり!」
激しく肩を揺さぶられ私は目を覚ました。
辺りは夕方。私はなぜか庭に寝ていた。
「あぁ、よかった!帰ったらお前が倒れていて…」
母は顔を真っ青にしてそう言う。なんだかわからないが、心配をかけてしまったようだ。
「ごめんなさい、私…手紙をうけとって、庭に出たとこまでは覚えてるんだけど、そこでくらっときて…」
「…こんな時だから、貧血かねぇ…今日はもうゆっくり休みなさい」
「はい…」
部屋に戻った私は、握りしめたままだった手紙を机に置いた。
「孝人さん…行かないで…。私をおいて行かないで」
※ ※ ※
「それでそれで?!ひーじいちゃんは、ひーばあちゃんの声が聞こえたの?本当に?」
「そう言ってたわよー」
「ほんとかなー?だって海の上で死にかけてたんだろ?ゲンチョーってやつじゃね?」
「さあ、本当のことは本人たちにしかわかんないわよ。でも、同じ頃に曾祖母ちゃんも曾祖父ちゃんの声を聞いて、死んじゃったんだって思って泣いたって言ってたからね。そういう、不思議なことも世の中にあるんじゃない?」