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    酉(トリ)の道    ――自分を盗まれた男の話――

作者: 堀本廣







              奇妙な話


 平成19年4月、変な話をする男がいる。会ってみないかとの話が舞い込む。

――俺は自分を盗まれてしまった――会う人にそんな話ばかりしている。キ印じゃないか、そんな噂も立っている。

「自分が盗まれたっていう、そういうお前は誰なんだ」

 当然の疑問が投げつけられる。

「俺は俺じゃないんだ」訳の分からない答えが返ってくる。仕舞いに聴く方もうんざりしてくる。近頃は皆そっぽをむいてしまう。

・・・面白そうだ・・・

 私は紹介者に会わせてくれるよう依頼する。

――自分を盗まれたと称する男――服部留吉、40歳。

 昨年12月に旅に出ると言って行方知れずとなる。今年3月上旬、ひょっこりと帰ってくる。

 彼の住所は常滑市白山町。御嶽神社の東側。


 約束の日、私は御嶽神社の広場に車を置く。朝10時。桜が満開だ。神社の右手に道路がある。左手の高台に神社の社務所や神殿がある。神社の裏手、東側は尾根伝いに4,5軒の民家がある。畑もある。右手、南側は常滑市樽水町、下の方まで段々畑が拡がっている。高さはおよそ2百メートル、左手北側も畑や雑木林が段々畑のようになって、下の方まで続いている。

 晴天。気持ちの良い日だ。2百メートル程歩く。振り返って西の方を見る。伊勢湾の青々とした海が眼下に広がっている。津、伊勢の山並みがかすんで見える。

 しばらく歩くと4軒の家が尾根の道の両側に並んでいる。それを過ぎてさらに百メートル程歩く。一軒の家がある。築50年は経っているだろうか、服部留吉の家だ。

 この家の更に東側、百メートル先に住宅が密集している。服部留吉の家は、尾根の西側の家と、東側の住宅地のほぼ中程に位置している。

 服部の家は道の北側にある。道より2メートル程低い。自然石の階段を降りる。玄関はドア。ポーチがない。ドアを開ける。

――こんにちは――紹介者の名前と自分の名前を言う。

「上がって!」奥の部屋から声がする。玄関は畳半分の大きさ。上がり框に幅3尺、長さ1間の廊下がある。左手は6帖の和室が2部屋。廊下の奥がトイレや風呂。その隣に台所。台所の奥は襖で仕切られた部屋がある。

「上がらせてもらいます」

 私は和室に上がり込む。家の中を見渡す。台所の北隣のガラス戸が開け放しだ。台所のキッチンは洗い場と調理場、ガスコンロがあるだけの簡素なものだ。小さな冷蔵庫がある。

 待つ事3分程、奥の部屋の襖が開く。

「ごめん、ごめん」逞しい体をした男が飛び出してくる。日に焼けて浅黒い。髪はボサボサ、無精髭が見苦しい。

 眉が太く、眼が小さい。口が大きい。面長だ。柔和な表情をしている。紺の作業ズボンに半袖シャツだ。

 彼は冷蔵庫からサイダーの瓶を取り出す。畳の上に胡坐をかく。サイダーの王冠を抜く。瓶ごと私の前に置く。

「飲んで」言いながら、もう一本のサイダーをラッパ飲みする。私は彼の一気飲みを見ている。飲み終わるのを見計らって、名刺を渡す。

「不動産屋さん?」怪訝な表情で私の顔を見入る。

――趣味で、不思議な体験をされた方の話を集めている――

 私の言葉に納得したように頷く。

「自分を盗まれたとか・・・」私は余計な挨拶はしない。直ぐに話題に入った。

「わし、自分を盗まれちまってなあ・・・」服部は私の顔色を伺う。しばらく間をおく。私は無言で頷き、先を促す。

「今のわし、自分であって、自分じゃねえんだわ」

 彼の話は理解に苦しむが、あえて無視する。にこやかに大きく頷いて、興味を示すフリをする。

 彼の顔がほころぶ。大きな口が開く。黄色い歯が見える。小さな眼が余計小さくなる。

 自分の話をまともに聞いてくれる。そんな表情だ。

「さあ、飲んで」サイダーを飲め飲めと勧める。礼を失してはならぬと、私はラッパ飲みする。

「わしはなあ、酉の道を通ってなあ、不思議な世界に行っただわ」

 服部留吉の世にも奇妙な話が語られようとしている。


                酉の道


 ・・・酉の道?・・・私はオーム返しに尋ねる。初めて聞く道の名前だ。

 服部は破顔する。自分の受け答えに私がビシビシと反応する。気持ちが良いのだろう。

 酉と言ったって、わしが勝手につけた名前だという。得意そうな顔つきだ。以下彼の話。


 昨年の秋、常滑市の道路地図を見ていた。

 自分の住まいは御嶽神社の東側にある。目をずっと東側にずらす。本宮山がある。ここは常滑市内でも高い山だ。もっとも山と言ったところで丘に等しい。

 試しに御嶽神社と本宮山を定規で線を引いてみる。きれいに東西の線上に並ぶ。さらに御嶽神社から西に線を引く。距離にしてわずか百メートル西に津島神社が鎮座している。この2つの神社の間は、今は南北に幹線道路が走っている。昭和30年頃は1つの山だった。御嶽神社の南側を通る道が、津島神社の北側を通っている。

 その道を3百メートル程西に行くと行き止まりとなる。その向こうは高さ15メートル程の断崖絶壁となる。南に下る小道がある。明らかに人の手で山を切り崩している。

 崖の下、西側は山を切り崩して、住宅が密集している。その西側に県道34号線が南北に走っている。県道の西側は伊勢湾台風以後に海岸を埋め立てた住宅地が拡がっている。

――つまりですね――

 服部は興がのりやすいのか、口角沫を飛ばして喋る。

県道までは、昔は山だった。明治以後、開拓が進み、山が削り取られて道路となる。

「私ね、崖下の民家の周囲を丹念に調べたんだわ」

 崖下に祠が見える。人1人が通れるよな道に階段がある。その階段の上に石造りの段がある。その上に小さな祠が鎮座していた。

 本宮山、御嶽神社、津島神社を通る一直線上にある。方位は西。

 服部は念を入れて、伊勢湾を通り越して三重県まで目を向ける。三重県鈴鹿市の千代崎海水浴場の南、原永を起点とする。そこから鈴鹿サーキット場を横切る。伊勢自動車道の関町に入る。

 鈴鹿郡関町の国道25線の板谷を通過。なおも西に線を引く。

「わしの眼を引いたのはね・・・」三重県阿山郡の雨乞山、標高268メートル。

 試しに、ずっと西に線を引いてみる。大阪湾に入ってしまう。それ以上西に眼をむけても仕方がないと思って調べるのをやめる。

 本当は西の道にしようかと考えた。それでは芸がなさすぎる。十二支の子は真北、午は真南、卯は真東、酉は真西になる。

――酉の道――ちょっとした遊び心だ。

 服部は得意げに大口を開けて笑う。

・・・傾聴している私は、少々興醒めしている。酉の道というからに何か特別な意味があるのかと期待していた。やっぱりただのキ印か・・・

 しかし私は忍耐強い。黙って拝聴する事にした。


              雨乞山

 

 ・・・雨乞山・・・この名前にわしは興味を覚えたんだわ。普通に考えりゃ、山の上で雨乞いしたとなる。

 雨乞山の周囲を調べてみる。この山は阿山郡に属している。鈴鹿郡関町の板屋にアマタノ川が流れている。酉の道の上にある。

 鈴鹿市の千代崎海水浴場の原永、酉の道の線上に朝日ヶ丘がある。鈴鹿サーキット場から約3キロ西に愛宕山がある。JR紀勢線亀山駅の南約1キロに天神町がある。やはり酉の道にある。天神は古くはあまがみと呼んだはずだ。

 古代には、あま、あるいはあめと呼ばれる人々がいた。

 伊勢神宮に祀られている天照大神も、あま族の神だ。今は女神として祀られているが、古代はニギハヤヒと呼ばれる男の神様だ。スサノオの子供として知られている。


 私は驚きの眼で服部留吉を見ている。話は少々強引すぎるきらいがある。髪はボサボサ、無精ひげ、頼りなさそうな顔、外見で人を判断してはならぬのかもしれない。

 だがどう見ても学識のある顔ではない。その彼が滔滔と喋っている。大和王朝以前に存在したと言われる天の王朝をまくしたてているのだ。


 私は服部留吉に会う前に、彼の人物像について紹介者から聞いている。

 彼は10年前に常滑に来ている。生まれは九州。元々体力に恵まれている。1つ所に縛られるのが嫌だという。職を転々とする。主に工事現場で働く。

 現在は御嶽神社下にある田中組で働いている。田中組は常滑市の指定工事業社だ。主に市の入札で工事を請け負っている。道路舗装、排水管工事、擁壁工事等を主業としている。

 仕事は平日、祭日を含めて晴天の日のみ。雨天は休日。服部は酒が飲めない。好きな飲み物はラムネやサイダー、休日は家でテレビを観たり、ゴロゴロしている。

 以上が紹介者の服部観だ。

 目の前にいる服部とは落差がありすぎるのだ。

「ずいぶん、詳しいんですね」私の正直な感想だ。

「わしね、休みの日に図書館で本を借りるんだわ」

 テレビで観る番組は主にニュ―ス、娯楽番組などバカバカしくて見たことがない。借りる本も主に歴史物。

――それに――服部はサイダーをぐびぐび飲む。

 晴れだからと言って、毎日仕事がある訳ではない。そんな時には1人でドライブする。それが楽しみだという。


 ――雨乞山ですがなあ――

 服部は言葉を改める。

 変わった山名だから目に付いた。図書館へ行って、改めて百科事典で調べてみる。調べて驚く。

 全国至る所に雨乞山が存在する。山名の謂れは旱の時、山頂で雨乞をしたとある。

 だが――よく調べてみると、以下の共通点がある。

1、山の形は概して円錐形が多い。太古日本のピラミッドとも言われている。

1、雨乞神社に磐座がある。巨石が点在している。神の降臨する岩と言われ 

  ている。

1、近年まで雨乞という名で祭祀が行われていた。

1、磐座に祠が祀られていて、石神という地名が多い。

石神信仰は古くは”あま族と深い関係があった。


 ――わしね、こんなことを調べて、余計に行ってみたくなったんだわ――

服部は酉の道と名付けた雨乞山に行く事になる。

 平成18年12月上旬、山登りに適した季節ではない。春が秋が最適である事は百も承知している。だが仕事の関係上、冬でないと4~5日の休暇をとる事は困難である。

 幸いにも服部は頑強な体をしている。それにそんなに高い山ではない。重装備で用意万端整える。1週間の天気予報も良好。

 中古のカローラバンに荷物を積み込む。

 12月5日、朝8時に出発。常滑から知多市東海市の工業地帯の産業道路を走る。四日市インタージャンクションに入る。御在所サービスエリアで朝食を摂る。腕時計を見る。午前9時。

 亀山ジャンクションから国道25号線に乗り換える。名阪国道だ。伊賀町に入る。御代で県道に降りる。JR西日本、関西本線の踏切を渡る。そのまま約3キロ北上する。野田川の橋を渡る。道はTの字型になる。前方に聳える小山が雨乞山。標高268メートル。きれいな円錘形をしている。

 車を止めたところが下友田。部落がある。喫茶店に入る。

10時半。店内の席は5つ。客はいない。初老のマスターが所在なさそうにテレビを観ている。

 服部がドアを開けて入る。

「いらっしゃい」小さな声だ。座席に腰を降ろすと、マスターがおしぼりと水を持ってくる。コーヒーを注文する。

 コーヒーがくる。

 服部は雨乞山について尋ねる。

 マスターは雨乞山とあるように、昔は旱の時に雨乞の儀式が行われた山だと答える。

「わし、あの山に登ってみたいんだわ」

 登山口を尋ねる。しばらく車を駐車場におかしてくれないかと頼む。握り飯も注文する。

「お客さん、この真冬に山に登るの」マスターは呆れた顔をする。

 もっとも登山と行ったところで、山は小さい。天気も良い。時間も早い。ハイキングのようなものだ。

 服部の予定では、今日は雨乞山に登る。明日以降、約1週間は、行き当たりばったりで温泉地に泊まる。

「わし、夕暮れまでには帰ってくるわ」笑いながらマスターに応える。

 元気いっぱい、喫茶店のドアを開けて出発する。


               磐座いわくら


 服部の留吉が行方不明になったのは、この日の2~3日後に判明している。

喫茶店のマスターは、夕方までには戻ってくるはずの客が帰ってこない。キャンプが出来るような山ではない。1日たち2日過ぎる。客の車が駐車場に放置したままだ。心配になったマスターは警察に通報、雨乞山周辺一帯を捜索する。服部の姿を発見出来ない。

 服部のカローラバンに免許証がある。常滑警察署に通報。彼の住所を調べる。田中組にも連絡が入る。服部の行方は杳として不明。

 田中組の同僚の話から、服部は九州からの流れ者。職を転々として常滑まで来ている。常滑での仕事に飽きが来て、どこかへ行ってしまったのだろうとの返事。

 警察もこれ以上の捜索は無駄と判断して打ち切っている。

 服部の住まいは、田中組の社宅である。給料の支払いも未納。ひょっとして、帰ってくるかも、こんな淡い期待で、田中組が電気、水道料金を払っている。


――私が服部留吉を訪問した時は、田中組に復帰していたときだ――


 服部は喫茶店のマスターに教えられた通り、雨乞山の南東方向から山に入る。山の周辺は灌木が生い茂っている。遠くから眺めると道があるようには見えない。

 県道を降りて草むらの中を10メートル程ほど歩く。幅1メートル程の小石混じりの道がある。昔はこの道から雨乞山の山頂まで歩いたのだろう。今は歩く人も絶えて獣道のようになっている。ゆっくり歩いても1時間もかからぬとみる。

 腕時計を見る。午前11時を過ぎたばかりだ。正午までには山頂に到着するとみた。周囲は背の高い樹木が繁殖している。緩やかな登り道だ。

 しばらく歩く。道は堆積岩を並べた階段状の山道になる。

 石段を登るにつれて、周囲が開けてくる。南の方、約5キロ前方に名阪チサンカントリークラブが遠望できる。

 服部はゴルフをやった事がない。スポーツには興味がない。彼にとって、スポーツも肉体労働も同じことなのだ。お金を出して肉体労働をするなんて、到底理解できない。

 広大なゴルフ場だ。その手前に野田川が流れている。その前方は山また山だ。

 石段は葛折りだ。石積は大昔の人の手によるものだ。山の地肌は岩石だ。雨乞山は遠くからみるときれいな円錐形をしている。石段が樹木の枝に覆われている。それを払いながらの行進だ。

 1時間登りつめる。忽然として空が開ける。

 山頂には大きな岩石が鎮座している。その下に小さな祠がある。服部は祠の前で両手を合わせる。柏手を打つ。

 祠の後ろの巨石を観察する。山の地層は堆積岩と思われる。なのに巨石は花崗岩なのだ。卵型の巨石を真っ二つに割ったように、きれいな岩肌をさらしている。

 鏡石と言われる。大昔は太陽光が反射して、想像を絶する美しい光りを放っていたのだ。

――これが磐座――

 日本は太古に巨石文明が栄えていたと言われる。

 服部はしばらく磐座を見上げている。祠の周囲は10帖程の平地だ。ご神体は磐座。天から降りてくる神の依り代と言われている。祭儀の場所なのだ。

 鏡石の後ろに回ってみる。

巨大な長方形の岩がある。一辺の長さ約4メートルと3メートル程。自然石ではない。どう見ても人工的に加工したものだ。その周囲におむすび型をした岩や棒状の自然石が無造作に散乱している。


 ――わしね、しばらく茫然と立ち竦んどっただわ――

 どの岩も巨大なものだ。圧倒的な大きさだ。自分が小さくて卑しい者に思えてくる。

 山頂は思ってよりも広い、丘のような小さな山なのに、天に届くような広大な広がりを見せる。スカッとして気持ちがいい。

 喫茶店で作ってもらったおにぎりをほうばる。水を飲む。急に疲れが出る。横になる。


 服部は急に無口になる。サイダーをラッパ飲みする。小さな眼で私を見る。大きな口からサイダーの水滴がしたたり落ちる。無精髭に垂れる。その滴を半袖のシャツで拭く。ボサボサの髪をゴシゴシこする。

――わしなあ、1時間や2時間の山登りなんか、へこたれんだわ――

・・・体力に自信があると言いたいのだろう・・・

――そんなわしがなあ、えらい疲れちまってなぁ。ものすごい体が重たくなっただわ――

 物の怪に取りつかれたみたいに体の自由が利かなくなる。腕時計を見る。まだ正午を過ぎたばかりだ。

 体がえらいだるい。それにものすごく眠い。幸い防寒コートを着ているから、寝すぎても体が冷える心配はない。

――ちょこっと、寝よ――

 服部留吉は奈落の底に堕ちるような勢いで睡魔に襲われる。


             不思議な光景


 前後不覚に寝入る。木偶坊のように巨石の間に横たわる。山頂を冷たい風が吹きつける。服部留吉はそれすら感じない。死人のように身動きしない。

 鏡石の頂上から太陽が顔を出す。服部の全身を照らす。


 ・・・私は服部の大きな蛭のような口を見つめている。彼の眼は私に注がれている・・・

 服部は大量の睡眠薬を飲んだように寝入っているのだ。冷たい風が吹く。日の光が全身に当たる。その光景がどうしてわかるのか。

 私はハッとする。彼は自分を盗まれたと言っている。だとすると、今、目の前で喋っている男は・・・、私に全身に戦慄が奔る。部屋の空気が凍りついたようになる。私は瞬きもせず、服部の口元に吸い寄せられる・・・。


 私の心の内を知ってか知らずか、服部の口調はたどたどしい。


 ――その時だったなあ――服部の声が高くなる。私は全身をピクリとさせる。 

 熟睡中の服部は氷水をぶっかけられたように、全身をぶるっと震わす。

「わっ!」声を上げるとと同時に眼を覚まして上半身を起き上がる。

・・・一体なんだ・・・完全に眠気が吹き飛んでいる。

――酉の道か。当たらずとも遠からずだな――男の声がする。びっくりして周囲を見回す。巨石の周りには誰もいない。

――酉とは悦び、結婚、飲食、遊びを意味するからな――

 服部は立ち上がる。熟睡していた筈だ。長い間横になっていたと思っている。

 太陽は頭上にある。腕時計を見ようと、腕を前に突き出す。時計がない。慌てて自分の服装を見る。来ている筈の防寒コートがない。作務衣のような白衣だ。

・・・これは一体・・・よろける様にして、鏡岩の方に歩く。

 鏡石の前に出て、思わず絶句する。

 前方に町がある。野田川沿いに伸びる道路はない。川の流れが蛇行している。遠方にある筈の名阪チサンカントリークラブがない。街並みが延々と続いている。屋根は瓦屋根。電柱も見える。道路沿いにあったはずの喫茶店もない。

――これは一体――

 自分の服装も一変している。腕時計も無くなっている。顎に手をやる。無精髭もない。

・・・降りてこい・・・心の中で男の声がする。

 山肌を覆ていた灌木はない。堆積岩が剥き出しの岩肌だ。少し降りる。後ろを振り返る。きれいに磨かれた鏡石に日光が反射している。眩しいほどの荘厳な輝きだ。

 山を下るのに、ものの30分もかからない。山裾まで降りる。赤い鳥居がある。それを下って2百メートル程歩く。町の中に入る。

 雨乞山に登る前は、この一帯は宏大な森林だった。何百年あるは何千年と人の手が入った事のない地域なのだ。

 それが今――幾千とも知れぬ家並みが密集している。服部留吉は町の中をゆっくりと歩く。ある種の違和感に襲われる。

 昭和の中頃から平成の時代、建物の外壁は不燃材を使用している。色や模様もカラフルだ。屋根瓦もカラーベストが一般化している。瓦屋根も少なくなっている。窓もアルミサッシが普及している。

 服部は一軒一軒眼を凝らしてみる。窓ガラスは木の枠だ。1枚の窓ガラスは一尺四方の大きさのガラスを縦に5枚、横に2枚はめ込んである。

・・・このガラス戸は戦前から、昭和30年前半まで使用されていた・・・やがてアルミサッシの普及で消滅していった。

 服部の幼い頃は、どの家もこんなガラス戸が一般的だった。懐かしさに、足がゆっくりとなる。それの家の外壁、杉板を横に並べて貼っていく。その上にコールタールを塗り付ける。電柱も木、高さも3メートル程しかない。電柱にも防腐塗料としてコールタールを塗りつけている。道路も狭い。舗装もしていない。

・・・どこかで見た事のある風景だ・・・

 服部は喉の奥でアッと叫ぶ。九州の生まれ育った田舎町の風景そのものなのだ。服部は中学を卒業後、故郷を出ている。以来故郷に還っていない。人気もない。真昼というに閑散としている。

・・・不思議な光景だ・・・

 どこまで歩いても同じ家が続く。平屋ばかりだ。大きさも20坪から25坪くらい。南側に玄関の引き戸がある。ガラス戸だ。玄関の左手が掃き出し窓、右手が肘掛け窓。庭がある。竹の柵で囲ってある。門はない。判で押したように、どの家もほぼ同じ通リだ。

 服部は茫然と立ち竦む。

「竹彦、こっちだ!」後ろで声がする。振り返って「あっ!」思わず声がでる。

 そこに立っていたのは、白の作務衣姿だが、服部留吉本人なのだ。


              奇怪な事実


 服部は驚愕の眼差しを向けたまま、次の声が出ない。

服部本人に似た男は、ニコニコして近づいてくる。

「よう戻った」服部の肩をぽんぽんたたく。

「あんた、一体・・・」服部の口からようやくこれだけの言葉が飛び出す。

「何だ、俺の事、忘れちまったのか、ほれ若彦だよ」

 男はさあおいでとばかりに服部の腕を引っ張る。一軒の家に入ろうとする。

 その時だ。雨乞山の山頂に鎮座する鏡石、日光に反射し照り輝いていたが、急速に反射光を喪失していく。

 それと同時に、家の中から人々が飛び出してくる。

男、女、子供、服装もまちまちだ。だがカラフルな洋服姿は見当たらない。作務衣、野良着姿、地味な服装ばかりだ。

「よう、竹彦、帰ったんかい!」声がかかる。

 振り向いて見る。見覚えのある顔だが、思い出せない。

「竹さん、久しぶりだね」中年の女の声。よくみると見た顔ばかりだ。

「ほれ、俺を見忘れたか、ガキの頃からの付き合いじゃねえか、千吉だが・・・」

 服部はあっと声を立てる。懐かしい顔がそろっている。故郷に還ってきたのか。一瞬、そんな錯覚にとらわれる。

「みんな、竹彦はなあ、今帰ってきたばかりでなあ」

 後で挨拶にいくわあと、若彦は服部の腕を掴む。強引に玄関の方に引っ張り込む。

「まあ、上がれや」ここがお前の家になるからと、若彦は部屋に上がり込む。

 家は小さい。玄関は畳半分の大きさ。左手に和室2部屋。玄関の右手がトイレ、汲み取り式のようだ。玄関の奥に洗面室と風呂がある。その西奥に4畳半の台所がある。

 玄関の右手の壁に丸い鏡がついている。

 服部は顔を写して驚く。歳の頃は30前後。太い眉に切れ長の眼、筋の通った形の良い鼻。薄く締まった唇。顔全体が精悍な表情をしている。本当の自分の顔より良い。

・・・俺は一体誰なんだ・・・一抹の不安を胸に抱えながら部屋に上がり込む。

 部屋の中には何もない。

「まあ、お茶でも飲めや」服部の姿をした若彦は備前焼の赤褐色の茶碗を持て来る。飲めと言いながら、若彦はぐいっと喉に押し込んでいる。

 服部はそんな若彦を呆然と見ている。尋ねたい事は山ほどある。何から話してよいものやら・・・。とにかく声をかける。

「若彦さん・・・」声が小さい。

「何だ!」若彦はいかつい顔で睨む。

 おかしな気持ちだ。自分が目の前にいる。その自分に叱られている気分だ。

「何だ、帰ってこられて、嬉しくないのか」渋い声だ。

「ここは一体・・・」

「まだ言ってるのか」本当に怒り出す。


 服部留吉はサイダーの瓶をぐびぐびとラッパ飲みする。飲んでは私の顔を見る。重たそうに口を開く。

「わしなあ、雨乞山のてっぺんで、まだ夢でも見ているのかと思っただわ」

服部はボサボサの髪の毛をかく。頭垢が落ちる。私は顔をしかめる。

「目の前にわしがおる。そんでわしは・・・」

――本当にここがどこか判らないと答える――

 奇怪な事実が語られる。


 若彦は呆れたように服部の顔を見ている。ふっと溜息をつく。判った、教えたるわ、どっと足を投げ出す。

「1つ言っておくぞ。お前は昔のことを忘れとるかもしれんが・・・」

 若彦は服部の顔をじっと見る。

「10年前、ここを出ていく時、わしの身体を貸してやったんだわ」

 服部は驚いて声も出ない。若彦はそんな服部を無視する。昔を懐かしむように話を始める。


 この世界は雨乞山を中心とした四方10キロの小さな部落だ。雨乞山の南側に住居が密集している。その他は田や畑が続いている。野菜や果物、萱、綿など生活に必要な物資が採れる。雨乞山の東側を流れる野田川からは川魚が捕獲できる。

 住居に必要な資材やエネルギー、木材やガラス、瓦、畳や調理台、電気などは服部の住む世界から貰っている。

 欲を言わなければ、この世界で安穏な生活が出来る。

どの世界でも若者は好奇心が旺盛だ。服部の住む世界に憧れる者がいる。この世界を飛び出して行く。

 だが、ここに奇怪な事実が横たわる。

自分の肉体を、この世界に置いていかねばならぬことだ。代わりに他人の身体を借りることになる。借りた肉体に自分の魂が乗り移る。自分の身体は、肉体を借りた者の霊が支配する。

「何故そんなことを?」服部は問う。

 若彦は頭を振る。そんな事も忘れたのかという顔付になる。

「いいかな?」若彦はじっと服部を見る。

 この世界で生まれた者は、何処へ行こうとここに帰ってこなくはいけない。ところが、この世界を出てしまうと、忘れてしまう者が多い。お前がそうだとばかりの顔になる。

「だから、わしの身体を貸してやった」


 もともと、自分の身体だから、どこに居ようとも肉体に乗り移ることが出来る。

「時期がきたから、呼び戻したって訳だ」

 若彦は安堵したように哄笑する。すぐに真顔になる。

「竹彦、わし、いくつに見える?」

 自分の顔をぬっと目の前につきつける。服部は面食らう。いくつって・・・

口ごもる。40歳と言おうとした。

「わしはなあ、今百20歳なんだ」

「まさか!」服部は驚く。

「わしだけではないで」若彦は部落の者、大方は百歳を超えているというのだ。

 服部は開いた口がふさがらない。自分が今”着ている”肉体を、若彦は30歳だという。

 服部のいる世界に長くいると、歳をとらないから、廻りの者が訝る。だから呼び戻す事が必要になるのだという。


 若彦はホッと息を地区。

・・・酉の道か・・・思い出したように呟く。

「竹彦も隅のおけんなあ。面白いことを考える」

 服部の肩をポンポンたたく。

「帰ってきたからには、酉の道の気分を味わえよ」

 ここは悦びに溢れているという。食うに困らない。お金を稼ぐためにあくせくしなくてもよい。うまい酒もある。女も抱きたい放題だ。まさに酉の道だ。

――生きることを楽しめよ――若彦は愉快そうに笑いながら玄関を出ていく。

 一人残されて服部は茫然とする。

 改めて自分の顔を鏡に写す。奇妙な気分だ。これがお前だよと言われても、しっくりこない。

 それに――。ここがお前の故郷だと諭されても懐かしさが湧いてこない。部落や家々の造りは九州の生家の面影がある。家から飛び出してきた住民の顔にも見覚えがある。

 だが――。違和感がある。何かが違う。

 しばらくは茫然とする。

・・・ここを出て、元の世界に還る方法はないのか・・・

 心に秘めて、しばらくは腰を落ち着かせようと考えた。

・・・お腹すいたあ・・・部屋にべったりと腰を降ろす。

 何か食べ物があるかな。台所の方へ向き直ろうとする。

玄関の引き戸が開く。

「竹彦ちゃん、お腹すいてると思って、おにぎり、持ってきたよ」

 隣に住む”さえ”だと自己紹介する。

 よく帰ってきたとか、もうどこにも行っちゃあいかんよとかよく喋る。困った事があったら声をかけてねと言って、そそくさと帰ってしまう。

 お茶を沸かそうと台所に入る。目ぼしいものは何も無かった筈だ。隣の和室から一瞥していた。

 今、台所の内には、テーブルがある。調理台には鍋がある。まな板や包丁もある。食器もある。茶碗や皿もある。冷蔵庫もある。もっとも一昔前の小さなものだ。冷蔵庫を開けて驚く。野菜や肉類、果物まで入っている。米櫃に米まで入っている。味噌や塩、醤油まである。

・・・これは一体・・・

お茶を入れるのも忘れる。呆然と立ち竦むのみ。


 ――奇怪な事実――はこれだけではなかったんだわ。

 服部は大きな眼をむける。怒っているような顔だ。

サイダーを飲み飽きたのか、しきりにしゃっくりを繰り返す。

 服部は九州の生まれ故郷を出てから各地を転々としている。1つ所にしばらくいて、町の大きさや特産物、商店街や工場などを見て回る。好奇心が旺盛だ。とにかく歩いて見て回るのが好きだ。

「わしなあ、ほんとにもう、どえらいびっくりしただ」

 服部は眼をまんまるにして喋る。

 雨乞山を中心とした町は約10キロ四方の大きさだ。町並みは雨乞山の南方に位置している。その他は田や畑で構成されている。

 服部は隣町まで行ってみようと歩く。

 雨乞山の東側を流れる野田川は蛇行して南の方へと流れている。川の流れに沿って歩く。本当ならば野田川の源流には阿山町がある筈なのだ。

 川幅が狭くなると同時に、町並みのまばらになる。

 約10キロ程歩く。急に周囲が静かになる。風の音や川のせせらぎの音も途絶える。何の音もしない。死のような静けさとはこの事を言うのだろうか、気味が悪いほどの静寂さ、明るさもだんだんと消えていく。薄暗い濃霧のような帳が降りてくる。右も左も判らなくなってくる。歩いている足でさへ、大地を踏んでいる感触が無くなる。

 急に眠たくなる。その場に倒れる。気が付いた時は、雨乞山の鏡石の下に横たわっていた。西に行こうと東に行こうと同じ結果だ。

 それにもう1つの奇怪な事実――。

服部が与えられた家を出る時は真昼。太陽が中天にある。物の影が一番短い時だ。

 歩く速度は1時間で約4キロ。10キロあれば2時間半。濃霧に巻かれて気を失う。鏡石の下で眼を覚ます。太陽は幾分西に傾いている筈だ。

 だが事実は家を出た時の時刻のままだ。家を出る時は人に会う。声もかける。鏡石の下で眼を覚ます。家に帰る。会った人に「先ほど、会ったなあ」と声をかける。

「あんたとは今日初めて会うわ」言われて呆然とする。

・・・この世界は一体・・・奇怪な事実に息を飲むばかり。

 同時にもう元の世界に戻れぬのかと、途方に暮れる。


              雨乞山の秋祭り


 服部がこの世界に入り込んだのは平成18年12月。厳冬の季節だ。雨乞山に登るために防寒服を着用している。

 ところが、この世界は寒くない。若彦やその他の住民に聞いても”冬”だという。冬場で暖かいと、夏の季節はどんなだろうと懸念する。

 この世界から抜け出すことが出来ないと判った。元々服部は一か所に定着した事がない。その土地に飽きると、さっさと他へ移ってしまう。執着心がないのだ。

 ここから抜け出せないと諦観する。住民の1人になりきる。そうでなくても、10年前に失踪した若者がひょっこりと帰ってきたと信じている。皆親切だ。食べ物が無くなると、いつの間にか冷蔵庫に必要な物が入っている。魔法の玉手箱みたいだ。野菜や米なども差し入れしてくれる。

 一日中、家の中でゴロゴロしていても誰も文句は言わない。服部の肉体が入れ替わっても心はそのままだ。日向ぼっこをして1日を過ごすのは性に合わない。バリバリ働いて汗をかくのが好きだ。

 冬場は田や畑の草刈りに精を出す。春になる。田植え時は皆と一緒に働く。肉体が若返っている。それにハンサムだ。若い女にもてる。きつい労働は苦にならない。他の者よりの2倍も3倍も精を出す。人気者になる。春の暖かさは冬とほとんど変わらない。雨も降る。風も吹く。労働を厭わなければ極楽だ。

 この世界にはラジオやテレビはない。電話もない。あるのは電燈と冷蔵庫ぐらいなものだ。都市ガスもある。どこから供給しているのか不明だ。人に聞いても、電気と同じで、あっちの世界から盗んでいると答えるだけ。

 1日の仕事が終わる。風呂に入る。――宴会やるから来いよ――ご近所から声がかかる。服部は賑やかな事が好きだ。喜んで参加する。若彦もいる。

 当然酒が出る。服部は飲めないので辞退する。若彦は湯水のように酒を浴びている。

・・・おやっ・・・といぶかる。服部が酒を飲めないのは好き嫌いではない。体質なのだ。酒の匂いを嗅ぐだけで悪酔いする。

・・・あんなに飲んで、俺の身体は何ともないのか・・・

 若彦は笑いを誘っては、ぐびぐび飲んでいる。

・・・そんならこの体も・・・

 服部は宴会が好きだ。談笑しながら料理を口に運ぶ。日頃口をきかない人とも軽口を叩いている。実に愉快だ。

 1つ残念なことは酒が飲めない事だ。宴会の席で誰彼となく酒を勧めてくれる。飲めるものなら飲みたい。

 飲めないからと手を振る。その時、酌をする相手は醒めた様な顔になる。その表情を見ると、自分が情けなくなる。酒は飲めるにこした事がないのだ。

 お猪口に酒を注いでもらう。ぐっと引っ掛ける。途端に喉が焼ける。喉の奥に熱いものが引っかかったような気持ちだ。思わず咳き込む。頭がくらくらする。目の前がぐるぐる回る。気持ちが悪くなる。どっと仰向けになる。息が苦しい。

「おい、竹彦、大丈夫か」若彦が抱き起す。

「気持ちが悪い、帰る」服部は若彦に抱きかかえられながら家に帰る。寝具にもぐりこむ。前後不覚のまま眠り込む。


 翌朝「大丈夫かいな」と近所の人達が見舞いに来る。あまりの大袈裟な見舞いに、服部は照れ笑いするだけ。

 お猪口一杯の酒なのに、ぶっ倒れたのに驚いたのだ。

・・・竹彦はこんなに酒に弱かったのか・・・たちまちのうちに、部落中の評判になる。以来誰も酒を勧めなくなった。


 夏が過ぎる。10月に入る。秋の収穫が始まる。11月、雨乞山の麓で秋祭りが行われる。

 村の代表は若彦だ。雨乞山の鏡石に向かって祭壇を築く。初穂、川魚、酒、果物などを奉納する。

 秋祭り――服部の小さい頃、神社の境内で屋台が軒を並べる。親から小遣いをもらう。綿菓子や飴玉を買う。村中総出のお祭りだ。大人は酒に酔う。女達は料理を作る。若い男女は逢引の宴を楽しむ。

 この部落は服部の生まれ故郷の村よりの大きい。人口もはるかに多い。さぞかし雨乞山の麓は人の波でごった返すと想像する。

 服部は賑やかな事が好きだ。

 常滑に来て知ったのは、秋祭りはないが、4月中旬に2日間のお祭りがある。常石神社に集合する山車の群れ。山車は各地域を回る。2日目の夜は市役所に集合、笛や太鼓をかき鳴らす。御神楽の奉納。屋台が軒を連ねる。山車を引く子供の喚声。酒気を帯びた大人の喧嘩。服部は童心に還って、お祭りの輪に入る。

 服部は酒は飲めないが、食う方は人一倍旺盛だ。朝10時ごろ恋心を抱いた男のようにいそいそと出かける。

 雨乞山の鏡石が朝の日を浴びて燦然と照りかえる。その神々しさに思わず敬虔な気持ちになる。が、服部の目に写った光景は・・・。麓にたむろする数人の男女の姿。

 竹で編んだ祭壇、その上に新米、酒が奉納されている。

数人の男女――中心人物は若彦だ。彼は服部の近くに住んでいる。拍子抜けして呆然と佇む服部。

「竹彦,早うこっちへ来んか」若彦はにこやかに言う。服部は仕方なく祭壇の近くまで歩く。

「これで全員集まったな」若彦は雨乞山の鏡石の方に向かう。

全員それに倣う。若彦が地面に膝をつく。両手をつく。皆、無言のまま従う。額を地面につける。しばらくその状態が続く。若彦が立ち上がる。

「秋の収穫祭は無事終わった」若彦の声と同時に祭壇の上の新米が各人に振舞われる。酒は服部を省いた全員が土器に注いで飲み干す。

「さあ、帰るぞ」若彦が服部を促す。

・・・これで終わりか・・・味も素っ気もない。こんなお祭り見たことない。憤然として家に帰ろうとする服部。

「今夜俺の家に来いよ」若彦がにんまり笑う。

 服部は頷くが釈然としない。デートをすっぽかされた男みたいだ。家にじっとしているのも腹立たしい。服部は家を飛び出す。部落に中を目的もなく歩く。晴れない気分を発散しないと、やりきれないのだ。


              嫁盗り神事


 太陽はまだ中天に至っていない。雲1つない。清々しい空気が充満している。速足で歩く。少し気分が落ち着いてきた。

 この時服部は奇妙な事に気付く。

 部落には人の気配が全くないのだ。いつもなら、田や畑で草を刈る人の姿が見える。服部と眼が合う。

「やあ・・・」とばかりに挨拶する。子供がまとわりつく。

 昼時には、家の中に招かれる。放り飯を振舞われる。どの家も造りはほぼ同じだ。20坪から25坪程、瓦屋根にガラス戸、玄関の引き戸が開け放たれ、掃き出し窓も解放されている。

 ・・・誰もいない・・・猫も犬もいない。部落の者全員が忽然と姿を消してしまった。

 この世界に来て、こんなことは一度もないのだ。むしゃくしゃ気持ちも何処へやら・・・服部は背筋の寒くなる思いにとらわれる。急いで自分の家の方に行く。若彦の家に飛び込む。今見た事実を話す。

 若彦は大笑いする。今日は秋祭りだ。雨乞山に酒や新米を奉納する者以外は隣町に行っているという。

――隣町?――服部はオウム返しに聞く。隣町があるとは聞いた事がない。この部落をどこまでも歩いていくといつの間にか雨乞山の山頂に来てしまう。

「まあ、詳しい事はいずれ話すから、とにかく今夜、俺んとこに来い」若彦に追い払われて、仕方なく自宅に引きこもる。

 夜、若彦が呼びに来る。若彦の家に行くのかと思った。若彦は子供の手でも握るように、服部の手をぎゅうっと握る。速足で歩く。雨乞山の麓、鏡石の下に走る。今朝、秋の収穫祭を行ったところだ。秋祭りに参加した者全員がそろっている。

・・・何事か・・・服部は訝る。松明が一本、あかあかと燃えている。皆、厳しい表情をしている。炎のゆらめきで夜叉のように見える。

「竹彦、今夜、嫁を盗れ」若彦のきつい声。

・・・嫁を盗れ・・・服部は心の中で反芻する。

――嫁を迎えろというなら判る。盗れとは穏やかではない。――服部は不審な気持ちで尋ねようとする。

 竹彦を含めた数人の男女は白の作務衣姿だ。服部をその場に座らせる。服部を中心に輪になる。皆正座する。

 服部は瞑目する。急に眼の前が明るくなる。

 見渡す限りの部落の屋根が拡がって見える。その家々の中に10人程の年頃の娘の姿が見える。その家もはっきりとわかる。

――あの娘たちの誰でもよい。盗んで来い。家の者に見つからぬように、ここに拉致してくるのだ――若彦に声。

・・・そんな・・・無理だと服部は否定する。家の大きさは20坪程しかないのだ。狭い家の中で、4~5人の家族が寝起きしているのだ。

それに拉致すると言っても、大声を出されたらおしまいだ。服部は手を振って尻込みする。

 若彦は大口を開けて笑う。

「心配するな、行ってこい」服部の背中をどんと押す。

服部はよろめく。倒れまいと片足を前に出す。

「あっ!これは」服部は声が出ない。一瞬の内に部落の中にいる。

・・・よいか、これぞと思った嫁の家のみを狙え、他は顧みるな・・・心の中に若彦の声が響いてくる。

10人の娘の顔や容姿がはっきりと目の前に浮かぶ。皆器量よしだ。明るくて、はち切れんばかりの若さに溢れている。力仕事にも精を出し、子供の沢山産めそうだ。

「おや?」服部の眼が1人の娘に注目する。器量は良いが眇めなのだ。

・・・器量の良い娘は、その美しさを鼻にかけて、夫をないがしろにする。嫁をもらうなら、少し不器用なのが良い。情が深い・・・

 服部は長年、職を転々としている。住所も不定だ。冷めた目で世間を見ている。情の深い女にこした事はない。

 服部は眇めの女に眼をつける。彼女の家は部落の南の外れにある。両親と3人暮らしだ。家は25坪の平屋。小さな庭がある。垣根で囲まれている。家の間取りは服部の家とほぼ同じ。

 暗闇なのに、家の中が透けて見える。両親は奥の8帖の部屋。目的の娘は南側の8帖の和室。3人とも熟睡している。南側の和室は掃き出し窓。スリガラスが木枠にはめてある。鍵はかかっていない。

 服部は掃き出し窓をゆっくりと開ける。布団をはねのける。寝間着姿の娘を抱きかかえる。外に出る。一目散に駆ける。あっという間に雨乞山の麓に到着する。

「竹彦、良い娘を選んだな」若彦は呵々大笑する。

 松明の下に竹で編んだ寝台が置かれる。その上に娘を横たえる。娘は眼を覚まさない。娘の側に服部が添い寝する。寝台の横に若彦が膝を屈して、両手を地面につける。その後ろに数人の男女が正座して頭を垂れる。

 誰一人として声を発しない。十数分して、若彦と男女が立ち上がる。松明の灯を消す。足音を忍ばせて退散する。

 服部は緊張している。これから何が起こるのか不安がよぎる。死のような静寂が大地を支配している。星や月も出ていない。真の闇だ。

 その時だ。服部の胸に、娘の腕が伸びる。懐に手を差し入れてくる。

――抱いて――いつの間にか、娘は眼を覚ましている。甘い声で囁く。

 服部は欲情をたぎらせて、娘を抱擁する。


               雨乞山の怪異


 服部留吉はボサボサの髪の毛をかく。小さな眼で、私をじっと見る

「わし、眇めの娘を貰っただわ」

 案に相して情が深い。体が丈夫なので肉体労働にも耐える。かいがいしく仕えてくれる。4~5年の間に3人の子宝に恵まれる。幸せな家庭・・・

 服部の表情には憂いが漂う。

・・・嬉しくないのか・・・私は黙って耳を傾ける。


 5年6年と年月が過ぎる。子供が大きくなる。

 新婚当初、服部を”かまって”くれた妻は3人の子供に掛かりきりとなる。性交渉もご無沙汰となる。

幼い頃は服部に甘えていた子供達、大きくなって母親の腰について回るようになる。妻の実家は農家だ。田植えや草むしり、稲刈りと多忙を極める様になる。猫の手を借りたいほどの忙しさだ。妻と子供達は1年のほとんどを妻の実家で過ごす様になる。

 結婚して3~4年、服部も田植えや稲刈りも手伝う様になる。5年6年と過ぎる内に、自分だけが疎外されているような気持になる。農作業を手伝わなくなる。手伝わなくても誰も文句は言わない。自然に力仕事から遠ざかっていく。

 結婚して10年目。妻と子供達は服部の家に寄り付かなくなる。会いたいと思えばいつでも会えるが、久し振りに会いに行っても、妻たちは嬉しい顔をしない。服部も面白くない。ますます足が遠のいていく。

 若彦に勧められて、3~4年目から雨乞山に行く。

 雨乞山の麓では季節の変わり目にお祭りが行われる。その他に農業に関するお祭りも催される。春祭りもある。何やかやと1ヵ月に1~2度はお祭りや行事が開かれる。その準備に人手が足りないので、服部の足がその方に向く事になる。

 夏の盛りの事だ。暑いが肌に心地よい風が吹いている。

 早朝、若彦が真剣な表情で家に入ってくる。服部は若彦を見る度に不思議な気持ちにとらわれる。

 小さな眼、大きな口、ボサボサの髪、どこから見ても自分の顔なのだ。時々鏡を見ているのかと錯覚してしまう。

 普段は軽口を飛ばす若彦。この日は表情が厳しい。

「朝飯、食ったかや」開口一番声を出す。

 服部は頷く。若彦の顔が尋常ではない。

「何か?」思わず反問する。

「今から雨乞山に行く。一緒に来てくれ」服部の手を取る。速足で歩いていく。

 服部や若彦の住まいは部落の北側山の方にある。雨乞山にも近い。雨乞山の麓まで徒歩で10分位だ。若彦は服部の手を握ったまま、雨乞山の山頂に登る。鏡石の裏に回る。

 長方形の巨岩がある。その周囲を棒状の岩が屹立している。長方形の巨岩は高さ4メートルはある。その下に腰を降ろす。

「地震か!」山全体が震動しているのだ。

「そうではない」若彦は諭す様に言う。以下若彦の話。

 明日昼頃、日の光で鏡石が照り輝く時、男が1人還ってくる。昔部落を飛び出した者だ。

「竹彦、頼みがある。お前のその体をわしにくれ」

 服部は驚く。この体は自分の本当の身体と聞いている。それをくれとはどういう事か。

 若彦は言葉を続ける。

 15年前に部落を飛び出した男の名は若菜。今あちらの世界の雨乞山にいる。お前の体を若菜にやる。

 お前は若菜の体を貰ってくれ。服部は若彦の顔を見る。

「嫌だと言ったら・・・」服部の抵抗に若彦は怖い顔をする。

「死んでもらうしかない」冗談を言っている顔ではない。

 服部は諦めて首を縦に振る。が、最後の抵抗を試みる。

「わしなあ、この体が気に入っとるんだわ」

若くて精悍な顔。太い眉に切れ長の眼、筋の通った形の良い鼻。体も若い。

「竹彦、まあそう言うな」体なんて魂の容れ物だと言って、服部を慰める。納得できないが、服部はこの世界の居候だと思っている。しぶしぶ承知する。

「竹彦、この世界に戻ってきた時の事を覚えているか」

 若彦の言葉に、服部は在りし日の事を振り返る。

 平成18年の事だった。12月上旬、真昼だったと思う。晴天で、鏡石の裏で横になっていた。急に疲れが出て眠くなった。気がついたら、雨乞山から見下ろす風景が一変していた。

「竹彦、今晩な、鏡石の裏手で一夜を明かしてくれ」

 決して寝るなよという。暗闇が怖ければ松明を灯してもいい。お腹も空くだろう。飯をたっぷり用意する。

 言うべき事を言うと若彦は服部を残して帰っていく。


 山頂の夜は物の怪が徘徊するようで怖い。風もなく森閑としている。雨乞山が地響きをたてている。恐怖を増長する。松明を燃やす。少しは心が安らぐ。夕飯にありつく。

 夜空には星が瞬いている。月は出ていない。

 疲れていないので眠くはないが、山が微動しているので、不安と緊張で眠れないのだ。何もすることがない。山頂の周囲を歩き回る。不安が紛れる。

 夜が深くなる。時計がないので時間が不明だ。夏の盛りとは言え深更は少々肌寒い。歩き回ることで体が暖かくなる。松明もある。夜食を口に入れる。じっとしていると、不安と恐怖で苛まれそうになる。

 若彦は寝るなという。何が起きるというのだ。

 山頂で深夜だ。何が起こってもおかしくはない。恐怖が想像力を逞しくする。

・・・物の怪でも出るのだろうか・・・

 歩き疲れる。松明の側に腰を降ろす。突如、狼の遠吠えのような唸り声が響いてくる。四方八方から鳴り響くような感じだ。

・・・なんだ、これは・・・

 人の叫び声のようにも聞こえる。求める物が見つかった時の嬉々とした声のようだ。安堵と喜楽、勝ち誇った声の響き、それが狼の遠吠えのようになって、服部を包み込もうとしている。

 雨乞山の微動はその声と共に大きくなる。山全体が活火山のように揺れ出す。声の響き――山全体が発しているのだ。松明が倒れる。服部は岩にしがみつく。

 やがて――、狼の遠吠えは小さくなり、消滅する。山の微動も止む。服部は松明を起して、かがり火を入れる。

・・・決して眠るな・・・若彦に言われるまでもない。緊張して眠るどころではない。


 白々と夜が明けてくる。東の空に朝日が昇る。

・・・夜が明けた・・・安堵が全身を押し包む。緊張が萎えていく。太陽が登るにつれて、全身から力が抜けて行く。急激に無の世界に墜ちていく。夢も見ない。


雨乞山の正体


 服部は冷や水をかぶせられたような感覚で眼を覚ます。全身にぞくっとした、生々しい感触を感じている。睡魔から生還して、ぱっと立ち上がる。

 太陽は中天にある。松明はすでに消えている。寝すぎたか。服部は鏡石の前に出る。山の麓の方に部落がある。見慣れた光景だ。鏡石は中天の日を受けて眩しいほどに反射している。

・・・言われた事はやった・・・もう帰ってもいいだろう。服部は石段を降りる。体が少々重い。息が切れる。手足を見ても普段と変わりない。白い作務衣姿だ。帰りは下り坂だから速い。それでも体中がズキズキする。

 部落に入る。森閑として人気がない。部落から人が消える。若彦は隣の部落に出かけているという。部落の者すべてが移動することは考えられない。

・・・もう15年にもなるのか・・・初めてこの部落に入った時も森閑としていた。鏡石の反射光が消えると同時に人が姿を現した。

 雨乞山を振り返る。鏡石はまだ光輝を放っている。部落に入った服部は、若彦の家に入る。”体がどえらいえらい”少し休ませてももらおうと思っていた。

 隣の部落に出かけているそうだから、留守に違いないと思っていた。玄関の引き戸を開ける。

「ごめんよ」声をかける。案の定、反応はない。玄関に入り、引き戸を閉める。

 その時だ。目の前が暗くなる。明るい場所から突然暗闇に入りこんだ感じだ。

「あっ」服部は叫ぶ。

 玄関は畳半分の大きさしかない。動けば上がり框に足がつく。なのに服部は数歩前に歩いている。足が地面についた感じがしない。宙に浮いて、勝手に足が動いているようだ。

 何も見えないのに、騒がしい程の人の気配がする。何百、いや何千という人の声が飛び交っている。

――おい、そこに居るのは竹彦じゃないのか――

 若彦の声だ。

・・・何だ、ここは・・・服部は恐怖のあまり叫ぶ。

 声がピタリと止む。息苦しい静寂が服部を襲う。つき刺すような視線を感じる。数千の眼が服部を見ている。それがはっきりと感じられる。

 服部は息苦しさに耐え切れない。次第に感覚が麻痺していく。意識が遠のいていく。


 意識を回復した時、服部は雨乞山の麓に横たわっていた。太陽が少し西に傾いている。鏡石の光は消えている。

「竹彦起きろ」若彦が覗き込んでいる。彼の顔は本来は服部のものだ。その側に、太い眉の、切れ長の眼の男がいる。まだ若い。薄く締まった唇、筋の通った形の良い鼻が印象的だ。精悍な顔付で、仰向きの服部を覗き込んでいる。

・・・これは俺じゃないか・・・服部はパッと起き上がろうとする。体の節々が痛い。力を込めて、ゆっくりと起き上がる。

「わしは?・・・」服部は精悍な男を指さす。

「竹彦、こいつはな、今日帰ってきたばかりだ。若菜、挨拶しろ」

「竹彦さん、よろしくな」若菜と名乗る男はにやにやしながら軽く会釈する。

「わしは・・・わしの体は・・・」服部はようやくの事で、これだけ口にする。

「竹彦の体は若菜にやった。代わりにな・・・」

 若菜は手にした手鏡を見せる。そこに写った姿を見て、服部は茫然とする。年の頃70、落ちくぼんだ眼、たるんだ肌、髪は白いものが混ざるものの、ふさふさしている。

「悪いなあ、俺、あっちの世界でな・・・」

 贅沢三昧の生活をしていたので胃腸を悪くしたという。歳の割には老けてしまった。体力もない。歩くのも難儀だ。

「まあ、大事にしてくれや」若菜はにやついている。

 服部は怒る気力が失せている。

「竹彦心配するなよ。そんな体でも、この世界では病気はせん。まだ百年は持つ」若彦は慰めるような言い方をする。

 すぐにも厳しい顔付になる。

「それよりか、竹彦、大変なものを見てしまったな」


 服部は若彦の言葉を理解する。家に入った途端、暗闇になった事だ。

見てしまったからには本当の事を言おう。

 若彦の話は驚愕に満ちたものだ。


 太古日本に巨石文明が存在していた。現在の歴史よりもはるかに長い時間、数万年という歳月を送っている。現在人のように機械を持たない。武器もない。縄文以前に存在した文明だ。石器時代、現代人と比較して物質文明の程度は低い。だが、精神文明においては現代人を凌駕している。

 ピラミッド型の山頂に鏡石を配置する。この構造は日本各地に点在する。太古において、人々は現在人が想像するよりも遙かに活発な交流があった。

 だが――数万年の歳月が過ぎると、縄文人の登場により文明は衰退していく。人口も減る。巨石文明は滅亡する。


 ここ雨乞山の、数千の部落民は、気の遠くなるような時間、生死を繰り返す。1つの大きな集団となって別の世界に移り住む。そこは闇の世界だ。

 雨乞山の鏡石に太陽光線が反射する。その強烈なエネルギーが彼らの世界に供給される。彼らの”生きる糧”だ。

 時折、服部のような、別の世界の人間が迷い込む。

 闇の世界の住民は、迷い込んだ人間の深層の意識を読む。

服部の場合、生まれ故郷の光景が強烈な思いとなって心の奥底に眠っている。

 若彦は言う。

服部の深層意識を現実の世界として出現させる。服部の肉体を変化させる。それは表面的な幻影でしかない。幻影をはぎ取れば服部の肉体は元のまま。

・・・だから、姿形が変わっても、酒が飲めなかった・・・

 服部は頷いて若彦の声に耳を傾ける。

「お前の体はもらった」若彦の厳とした声。これからは若菜の心の深層をこの世界に出現させる。

 出現した世界に来るか来ないかはお前の自由だ。

――わしはもう1度、自分の世界に戻りたい――

 服部の希望だ。若菜はにこやかに頷く。

「竹彦は我らに3人の子供を授けてくれた・・・」

そのお礼として元の世界に帰してやろう。しかも服部の体で・・・

「1つ付け加えるぞ」若彦の眼は優しい。

 ここに帰りたくなったら、いつでも戻って来い。


               酉の道


 服部は私の顔をじっと見ている。

話が終わったのだろう。小さな眼に真摯な光りが宿っている。

「わしの話、信じんでもええよ」どうせ信じてはもらえないだろう。諦めにも似た寂しい表情になる。ボサボサの髪をボリボリかく。

 私はどう答えたらよいのか判らない。話としては面白い。

「1度、その雨乞山に行ってみたいのですが・・・」

 信じるにしても、物的証拠が欲しい。服部の大きな口が笑う。表情が柔和になる。

「一緒には行けんが、行ってみて、雨乞山の側の喫茶店のおやじさんに、わしの事、聞いて見て」


 私は深々と頭を下げる。

「もう帰るかな」服部は軽く会釈する。

私は外に出る。日は中天にある。時計を見る。もうすぐ昼か・・・

 伊勢湾の青い海面を眺める。御嶽神社の方に歩きかける。

・・・そうだ、今の話、信じますよ・・・服部に言おう。

 私は服部の家に戻る。玄関を開ける。

「服部さん!」私の大きな声。家中に響く。

森閑として反応がない。2度3度叫ぶ。私は不安になる。部屋に上がり込む。台所と、奥の部屋を開ける。6帖の間の部屋は万年床が敷いてある。部屋の北側に肘掛け窓がある。内側から鍵がかかっている。台所には勝手口がない。

 私は背筋が寒くなる。私が服部の家を出て、戻るまで1~2分の間だ。服部が家を出たとするなら、玄関から出る事になる。服部の家の西側に、家の裏手、北に降りる小道がある。もし、服部が家を出ているなら、私の眼にふれる筈なのだ。

 私は服部の家を出て、近所を尋ねる。今日は仕事休みと聞いている。家を出た気配はないとのこと。小道を降りた道路際の広場に服部の軽四が駐車してある。家を留守にすれば、車に乗っていく。


 1っか月後、私は雨乞山の側の喫茶店にいた。

喫茶店のマスターは服部留吉の事を話す。マスターは服部の事を覚えていた。昨年の12月にやって来て、今から雨乞山に登る。車を置かせてくれ。

 そう言って姿を消す。警察に捜索願を出す。常滑の田中組にも連絡を入れる。警察は雨乞山一帯を捜索するが成果なし。捜索は打ち切られる。

・・・多分、何処かへ行ったんだろう。人騒がせな・・・

 春先になる。服部が忽然と姿を現す。びっくりしたのは喫茶店のマスターだけではない。

 服部はマスターの顔を見るなり、今、何年だと聞く。おかしなことを聞くなと思いつつ、あなたが行方不明になって、3ヵ月ぐらいだと答える。

「そうか、浦島太郎とは時間が逆だな」妙な事を呟く 

 マスターは面倒なことに関わりたくない。警察に通報して、身柄を警察に預けたという。


 私は喫茶店のマスターに礼を謝す。遠くから雨乞山を眺める。

・・・服部さんは、あの世界に戻ったのだな・・・

 深く一礼した。


                            ――完――


お願い――

 この小説はフィクションです。ここに登場する個人、団体、組識等は現実の個人、団体、組織等とは一切関係ありません。

 なおここに登場する地名は現実の地名ですが、その情景は作者の創作であり、現実の地名の情景ではありません。 



















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[良い点] 後半から話に引き込まれ一気に読み上げてしまいました。 こういった作品は私は好きです。
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