プロローグ
初めまして。
基本マイペース。
できる限り気長に更新していきます。
ーー長い銀髪が、風に揺れていた。
僕は、そんな誰かを見た。
00.ぼっちの必要性と不必要性について。
世間一般的に、ぼっちとはあまり良い印象は無く寂しい人間というイメージが強いだろう。
一人=独りぼっち、と捉える人の方が圧倒的に多いというのが現状である。分かりやすく言うならば、独りぼっちとはつまりは人との交流を避け、もしくは避けられて最終的には誰とも関わらなくなった人間の事で、誰かが一人で居る事に対して人はそれを独りぼっちと、要するに最近たまに耳にする、いわゆるぼっちと呼ぶのだ。
だが逆に、それとは全く正反対の人間が存在するのも事実である。
社交的な人間。
常に周囲の人々からはちやほやされ、友好関係は広く、何かと中心的存在。その人は回りの人間より一際輝かしく見え、一見羨ましいとさえ思われてしまうのだが、その反面一部の人間に疎まれてしまうという複雑さ両面を持ち合わせるある意味特殊な存在だ。
では、ここで少し考えて頂きたい。
ぼっちである人間と、そうでない社交的な人間。
どちらがより優れた人間なのか?
ぼっちというだけで、大抵の人間は嫌な顔をする。哀れみや蔑んだ目で此方をじっと見下ろす。それが、現状だ。
ぼっちは人より劣った存在なのか?
いやいや。そんな理不尽な概念があって堪るか。
そもそも社交的でいなければいけないなんていう義務なんてないではないか。学校の校則や校訓にだって、よく見かける言葉は“思いやり”だろう。とある教師も言っていた。「ちょっとの気遣いや優しさが有れば、人は変われるし救われる」と。
つまり一クラスに一人でもぼっちが居るということは、いかにそのクラスに自分は関係ないと見て見ぬフリをする連中が多いかが窺える。
まぁ、仮に手を差し伸べた人間が居たとして、ぼっちである張本人が拒まなければ、の話だが。
仮にもしそんな事があったとして、最終的には本人の気持ち次第なのだから、周りがとやかくお節介を焼く必要はないと思う。
その人にとって、一人という事が案外楽と感じていたり、もしくは完全に心を閉ざしてしまっているという事なのかもしれない。それをなにも知らない人間が無理矢理変えさせる義務なんて、何処にも有りはしないのだから。
ぼっちである必要性も不必要性も、きっと全て決めるのは紛れもない本人次第なんだ――。
次回に期待あれ。