第五話 鬼縁と因縁
小屋の入口に、青年は違和感を感じた。木でできた扉は、鬼の長身に対していかにも小さい。ほとんど天井ぎりぎりにまで、扉の高さはあった。それでもなお小さいのだが、扉の上のほうの木は注ぎ足されたものらしく、色が違うように思える。
鬼が片手で開けた扉を、白狼がくぐっていく。青年も微かな疑問を抱きながら、小屋へと入った。
「……本当に、ここが君の住居なのかい?」
問いかける青年にちらりと顔を向け、鬼は黙ってうなずいた。
「君の住む場所にしては、随分手狭な気がするけれど……」
小屋の内部も、広くはない。木の寝台が置かれ、小さなテーブルと本棚がある。鬼のサイズでそれらを使うには、どう見ても無理がある。だが鬼は、青年の言葉には答えず担いだ少年を寝台へ寝かせた。
「少し、埃っぽいね」
大人しくなっていた少年が、口を開く。
「寝台、使う、久しい」
「それじゃあ、普段君はどこで寝ているんだい?」
青年の問いに、鬼は床に置かれた獣の毛皮を指した。なるほどと青年がうなずいているうちに、鬼が少年の身体をうつ伏せにする。
「な、何を、するつもり?」
戸惑った声を上げる少年の太股に、鬼は手のひらを当てた。
「怪我、気、滞る。グレイ、気、導く。お前、足、治る」
そう言って、鬼は少年の足を上から下へ、ゆっくりと撫で始めた。
「気? なにそれ……」
「体内ある気脈を通って流れる、生命力みたいなものだね。なるほど、君の治療は、気脈を整えるもののようだね」
青年が言うと、鬼はうなずいた。少年は納得したように見えない様子だったが、青年にとってはどうでもいいことだった。それよりも、青年には気にかかるものがあった。本棚に並ぶ、背表紙の無い本だ。
「長くかかりそうだし、僕はこれを読んでいてもいいかい?」
手をゆっくりと動かす鬼は、背中を向けたまま答えない。肯定の意と受け取った青年は、本棚の端にある本を手に取ってみた。
「随分、古い本だね……日記、いや、研究日誌かな?」
ぱらぱらと、黄ばんだ紙を青年はめくっていく。森で見つけた薬草になる植物と、調薬法が図入りで書かれている。文字は女のような筆跡で、目の前の鬼のものとは思えない。
「これを書いた人は……いや、聞かなくてもいいことだね、これは」
ページを繰る手を止めて、青年は本を棚へと戻す。それから次の本を手に取り、またページをめくる。
「あ……痛っ……くぅぅ」
鬼の手が少年の膝を曲げ、足先にかけてを撫でている。青年がページをめくる音と、少年の上げる呻きが小屋の中を巡っていた。
「……これで、最後だね」
次々に本を取り換え、読んでいた青年が言った。ぱらり、とページをめくる手が、本の中ほどで止まる。青年の手の中の本は、白紙のページになっていた。
「君のことについて書かれていたが……駄目だね。僕の求める知識は、ここには無い」
本を閉じ、棚に戻して青年は立ち上がった。
「お、おい、どこへ行くつもりだよいてててて!」
「お前、動く、無い。気、流れ、乱れる」
青年を見て声をかけた少年の足首を、鬼が伸ばしてかかとを膝の裏へと付ける。
「痛いだろうけれど、我慢するんだ。その鬼の治療は、確かなものだからね。僕は、お暇するよ」
立ち上がって入口の扉へ向かう青年を、扉の脇に座る白狼が見上げる。
「ああ、心配いらない。ここには僕の見るべきものは無かった。だから、出て行くだけだよ。君のことも、誰にも言わない」
青年の言葉に、白狼は首を下ろした。まるで、青年の言葉が解るような仕草だった。扉をくぐる青年が、鬼と少年に振り返る。
「君は、賢者では無かった。不老不死などは知るべくもない、ただの鬼だ」
それだけ言って、青年は背を向けた。
「どこへ行くんだって、聞いてるんだけど?」
少年の声に、青年は片手を挙げた。
「竜を探しに。安心してほしい。君の前にも、たぶん二度と現れない」
言った青年の背中が、森の木立の合間に消えていく。白狼が小さく息を吐いて、青年の開けていった扉を鼻先で閉めた。
少年の治療は、終わりに差し掛かっていた。足が暖かく、そして熱くなっていく。じんと痺れたような感覚が、足首にある。怪我は鈍い痛みを伴っていたが、それはもう堪えきれないほどの激痛ではない。
「もう、大丈夫みたいだ。ありがとう」
少年の言葉に、鬼は足に添え木を当てて布で固定する。
「足、使う、まだ。歩く、当分、無い」
言った鬼にうなずいて、少年は身を回して半身を起こす。
「わかった。それまで、世話になってもいいかな?」
少年の問いに、今度は鬼がうなずいた。
「お前、果実、食う」
鬼が差し出してきたのは、みずみずしい果肉を持つ木の実だった。少年が受け取って一口かじると、鬼もテーブルの上から新たな木の実を取って口へ入れた。
「ありがとう。俺は、プロスト。エルフなんだ」
少年が鬼に名乗り、尖った長い耳を見せる。鬼は木の実を咀嚼したあと、口を開いた。
「グレイ、癒し手、代理。プロスト、癒す」
ぐい、とグレイの口が横へと拡がる。それが鬼の笑顔だ、とプロストは少しの間を置いて理解した。
「グレイ、ありがとう。お前は鬼だけど、いい奴だね」
木の実をかじりながら、プロストが言った。グレイはうなずき、入り口の扉を見やる。
「ヴァイス……?」
グレイが、白狼に呼びかける。ヴァイス、という名前なのかと少年が考えていると、白狼は扉を鼻先で押して外へと出た。
「……人見知りなのかな?」
プロストが、首を傾げる。グレイは黙って、扉を見つめていた。
「ヴァイス、何故?」
ほどなく戻ってきた白狼に、グレイが声を上げた。ヴァイスは口に、長く白い杖を咥えていた。グレイがヴァイスを遮るように、前に立つ。背は屈めているが、大柄なグレイはヴァイスを飲み込んでしまいそうな雰囲気があった。
「ヴァイス、違う。プロスト、癒し手、無い。杖、シェラ、持つ。戻る、グレイ、待つ!」
グレイの言葉の意味の大半は、プロストには理解できないものだった。だが、グレイの必死な様子だけはプロストにも伝わった。
「あの、ヴァイス。グレイが嫌がってる……」
プロストは、途中で言葉を飲み込んだ。白狼のヴァイスから、尋常ではない気配が放たれている。そしてグレイは、まるで雷に打たれたように身をすくめ、震えだした。
「グレイ! だ、大丈夫?」
立ち上がろうとして、プロストは顔を歪めた。グレイの言うように、足はまだ治ってはいない。そうしているうちに、杖を咥えたヴァイスはプロストのいる寝台の側までやってくる。
「そ、その杖を、手に取れ、って言ってるのかな……」
咥えた杖を、ヴァイスはプロストに差し出すように押し付けてくる。
「プロスト、杖、触れる、無い! 杖、シェラ、持つ……」
グレイの言葉に、ヴァイスの全身の毛が逆立った。それだけで、グレイは身を小さくしてうずくまる。鬼よりも小さな身体の白狼が、気配だけで鬼を圧倒しているのだ。理解したプロストは、白い杖に手を伸ばした。
「ヴァイス、グレイが可哀想だから、もうやめてよ。この杖に、触ればいいんだろ?」
プロストが指を伸ばし、白の杖の先端に触れた。その瞬間、プロストの頭に強い痺れのようなものが走り抜ける。
「ぐ、あああっ!」
頭の中へ入ってきた激痛に、プロストは両手で頭を抱えてのたうち回る。怪我をした足が痛みを訴えるが、頭痛のほうがより強烈だった。白の杖、森の癒し手、という単語が、プロストの脳内を痛みを発しながら駆けまわっていく。耐えきれず、プロストの意識がぷつりと切れた。
月のほのかな光を浴びながら、グレイは墓石に白の杖を立てかける。プロストは杖に触れた直後、眠ってしまっていた。それを見届けるように、ヴァイスもプロストの寝台の側で丸くなっていた。だから、グレイは白の杖をあるべき場所へと戻しに来たのだ。
ヴァイスに威圧され、グレイは強い恐怖を感じた。だが、その威圧の残滓とは別に、グレイの胸を騒がせるものがあった。
プロストの、長い耳を見ていると、グレイの心にさざ波のような小さな感情が現れて、消えてゆく。その感情が何であるのか、グレイには理解ができない。だが、心は平静を失っていく。長くプロストといればいるほど、その感覚は強まっていくようだった。
治療の間は、グレイの心は平静になれる。足だけを、見ていたからだ。だが、その顔を、耳を見つめていると、どす黒い何かに心が覆われていくような感覚に陥る自分がいた。
「シェラ……グレイ、どうする、良い……?」
木々の間に浮かぶ満月に、グレイは静かに問いかける。返ってくるのはしかし、森の葉擦れのざわめきだけだった。