第四話 鬼医と奇縁
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茂みを踏み分け、倒木を砕き大きな獣が走ってゆく。獣の通った後を、二足歩行の大柄な人影が追いかけていた。
獣は、熊だった。黒い毛並みに覆われた、はち切れんばかりの筋肉が躍動していた。進路の先にいる、リスやウサギなどの小動物が散ってゆく。黒い風となった熊が、木々の間を駆け抜けていく。
かなりの距離を、熊は走破した。森はどこまでも深く、静かだった。徐々に熊の動きが緩やかになり、小川のほとりで足を止め、水の流れに舌を入れる。がさり、と熊の背後の茂みが鳴った。
びくり、と熊が震え、首を後ろへ向ける。そして、背後の茂みへ威嚇の咆哮を上げた。しん、とした空気が続く。熊が茂みへの警戒を解き、のそり、と前を向いた。
直後、熊の背中に大きなものが乗った。暴れて、熊は背中のモノを振り落とそうとする。だが、熊の動きは鈍い。押し潰されるように、熊は地面へ腹をつけた。
熊の上に座るのは、追ってきた人影だった。二メートル半ほどの巨大な肉体を包むのは、白衣である。所々に草色の修繕が当てられているが、それは医師の着るもののように見えた。褐色の地肌に、厳めしい顔をした頭部には二本の角が生えている。人食い鬼、と呼ばれる種族だった。
鬼は、抵抗の無くなった熊から降りて両手を熊の腰へと当てる。ぐっと、鬼の身が沈む。ぼきり、と熊の腰骨が鳴った。熊の咆哮が、小川の周囲の空気を揺らす。鬼は構わず、熊の背中に手をやって、また押した。
鬼は、熊の全身を押し、揉み解してゆく。肩や膝にも、手を伸ばす。少々手荒いが、鬼のそれは整体のような作業だった。
仕上げに、鬼は熊の両腕を取って背中に膝を当てる。ぐいと反らされた熊の身体が、ぐっと二度動かされる。それで、処置は終わりだった。力尽きたように倒れて痙攣する熊を、鬼は満足そうに見下ろした。
小川のほとりへ、白い狼が歩いてきた。音もなく鬼に忍び寄ると、白衣の裾を咥えて引いた。振り返った鬼に一声吠えると、白狼は走り出す。どすん、どすんと音立てて、鬼は白狼の後を追った。
川のそばへ寝かされていた熊は、しばらくの後起き出した。全身をぶるりと震わせ、水を飲む。それから、軽やかな足取りで木々の中へと消えていった。
木々の開けた広場のような場所で、一人の少年が倒れた。長い耳を持つ少年は、エルフ族だ。手にした弓は折れ、若草色の衣服は所々に焼け焦げたような跡がある。身を起こした少年の端正な顔が、痛みに歪む。転倒した際に、足首を捻ってしまったようだった。少年は腰につけた袋から慌ただしく木の実の殻を取り出すと、中にあるどろっとしたものを足首へと塗り付けた。
少年の足首の晴れが、それで少し引いた。立ち上がろうとする少年の耳が、ぴくりと動く。
「追いかけっこも、ここまでだよ」
聞こえてくる声に、少年は急いで立ち上がろうとする。木々の間から縄が飛び出し、少年の足首を拘束した。
「手荒な真似を、するつもりは無い。少し、話を訊いて欲しい」
穏やかな男の声が、少年の耳に届いてくる。
「ち、近寄るな、人間!」
少年は足首に絡みつく縄を、解こうと指を動かした。だが、縄は締め付けるようにきつく結びついている。細かな細工を得意とするエルフの指でも、それは解けなかった。
「無駄な抵抗は、しないほうがいい。その縄は、普通の方法では解けないように作ってあるからね」
がさり、と茂みを揺らし、声の主が姿を現す。白衣に丸メガネをかけた、風采の上がらない人間の青年が少年の前に立つ。その手に持った縄は、少年の足首に繋がっていた。
「く、来るな!」
少年が、腰の後ろに差した小剣を抜いて青年に向ける。刃の届かぬ位置で、青年は肩をすくめた。
「わかった。これ以上は、近寄らない。君が逃げないなら、ね」
青年の言葉に、少年は行動で答える。手にした小剣の刃を、縄に立てた。きい、と耳障りな音が、木立の間に響いていく。
「それを切られるのは、まずいかな」
青年はもう片方の手で持ったカバンに手を入れた。取り出したのは、小さな陶器の瓶だ。少年の側へ、その瓶を投げる。ぼん、と小さな爆発が起きた。目の端で爆発を視認した少年が、恐怖に顔を引きつらせる。
「僕に、あまりこういう手を使わせないで欲しい。僕はただ、君の持つ薬に少し興味があるだけなんだ」
じり、と青年が少年ににじり寄る。その手には、先ほど投げたものより一回りは大きな瓶があった。
「う、うわああああ!」
少年が叫び、手にした小剣を投げつけようと振りかぶる。対する青年は、瓶を投じる姿勢だった。
二つの動きを止めたのは、不意に揺れた茂みから現れた白狼だった。雪のように真っ白な狼が、音もなく両者の間へ現れたのだ。少年も青年も、互いの武器を手にしたまま間に入った狼を見る。
「白狼だ……」
少年の口から、感嘆の声が漏れた。森の民であるエルフであっても、これほど美しく気高い姿を見るのは初めてだった。
「これは……興味深いね」
青年も、丸メガネの奥の目をきらりと光らせる。
二人の感動は、長くは続かなかった。どすん、どすんという足音とともに、最前白狼の現れた茂みが踏みつぶされ、大柄な人食い鬼が現れたからだ。
「え?」
褐色の肌に、裂けた口からのぞく牙。なによりもその大きさに、少年はまず驚いた。
「白…衣?」
青年は、人食い鬼の身に着ける白衣に目を奪われる。しかし、それも一瞬のことだ。青年は鬼に向き直り、瓶を構えた。
「う、うわ、ああ……」
耳の先まで真っ青な顔になった少年が、逃げ出そうとして転倒する。足に結ばれた縄が、ぴんと張った。
「く、食われる! 逃げないと!」
「君にはまだ、薬を貰っていない。こいつは、僕が何とかするから……」
視線を鬼から外さずに言った青年の目が、見開かれる。鬼が瞬きの間に間合いを詰め、青年の手から瓶を奪い取った。
「少し、動く、首、砕く」
鬼の指が、青年の首に触れた。その指を見た青年は、両腕をゆっくりと上に上げた。
「喋ることができるのか。ますます、興味深いね。抵抗はしない、降参だ.ああ、その瓶はあまり揺らさないほうがいい。衝撃にはあまり強くないんだ」
じっと、鬼の眼が青年の瞳の奥をのぞきこんでくる。そのままの姿勢で、鬼は少年に繋がる縄を軽く引いた。
「ひいい!」
ずるり、と少年の身体が鬼の足元へと引き寄せられる。悲鳴を上げつつも、少年には抗する術がない。
「縄、邪魔」
引き寄せた少年の足首に結ばれた縄を見て、鬼が言った。それから鬼は、白衣のポケットから白い小刀を取り出し結び目を無造作に切った。
「……それは、君の爪かい?」
青年が、手を挙げたまま聞いた。鬼が、再び青年の眼を見る。
「なぜ」
「どうしてわかるのか、と聞きたいのかい? 簡単なことだ。さっきから僕の首を掴んでいる君の指には、長い爪が無いからね」
青年の言葉に、鬼は小さくうなずくような仕草をした。それから、鬼は少年の足首を軽くつかみ、観察する。
「お、俺は食べても、あんまり肉とかないから……」
「落ち着くんだ。別に、この鬼に害意は無いようだから」
震えあがる少年に、青年が声をかけた。
「お、落ち着いていられるか! よく平気でいられるな! これだから人間は!」
「この鬼には、爪を切るくらいの知能はある。もしかすると、それ以上かも知れない。僕には、鬼が君の足首を診察しているように見えるんだけれど」
早口で声を荒げる少年に、青年は落ち着いた声で答える。青年の首には、いまだに鬼の片手が添えられている。その鬼の眼が、今度は少年の顔をのぞきこむ。
「グレイ、お前、食べる、無い。お前、足、怪我、ある。グレイ、癒し手、代理。グレイ、お前、癒す」
ゆっくりと、腹に響く声で鬼が言った。口を開いたときに見える牙の並びに、少年はただガタガタと震えるばかりだ。
「言葉、使う、久しい? お前、グレイ、言葉、判る?」
今度は不安そうな声色に、少年はこくこくとうなずいた。
鬼が、少年の足首の腫れに触れた。短い爪の指は、人族のものと変わらないようにも見える。
「痛っ!」
鬼の指に、少しの力が籠められる。びく、と少年の足が跳ねた。
「ここ、痛み、ある?」
鬼の問いに、少年はうなずいた。皮膚の腫れ自体は引いているが、少年の痛がり様は尋常のものではない。
「骨が、折れているのかも知れないね」
鬼の診察を興味深そうな顔で見ていた青年が言う。
「誰のせいだよ、人間。さっさと消えてよ」
青年を睨み付けながら、少年が言った。青年は、少し肩をすくめて困ったような笑顔を浮かべた。
「そう、嫌わないでもらいたいんだけれど」
「お断りだよ。人間と仲良くするくらいなら、鬼の餌になったほうがマシだ。とくに、あんたみたいな人間なんかとはね」
言い合っている間に、鬼の診察は終わった。
「お前、歩く、危険。グレイ、家、運ぶ。安全、休む、必要」
言うなり、鬼は少年を肩に担ぎ上げる。
「わっ、お、俺をどこへ連れてくんだ! おい!」
大股で歩き出す鬼へ、少年が抗議の声を上げる。
「暴れる、良い、無い。お前、足、悪化、招く」
もがく少年は、鬼の言葉を聞いて大人しくなった。この大柄な鬼には、害意は無い。後ろから付いて来る白狼も、鬼を警戒したりはしていない。森を友とするエルフである少年には、直感でそれを感じることはできた。
「……なんで、あんたまで付いて来るんだ、人間」
少年にとっての問題は、白狼の後ろを小走りで追従する人間の青年だ。実に楽しげな表情で、道なき道に苦労をしながら進んでくる。
「医術を嗜む人食い鬼というのは、非常に興味深いものだからね。僕の目的にも、関連するかもしれない。だから、鬼の行く先に付いていくことにしたんだよ」
ちらと鬼は青年を見て、白狼に目をやった。
「ヴァイス、あいつ、良い?」
鬼に声をかけられた白狼が、青年を振り返る。少しの間があり、白狼は興味を失ったかのように視線を前へと戻す。
「理解。お前、あいつ、警戒、無い。あいつ、害意、持つ。グレイ、あいつ、殺す」
少年にそう言って、鬼はさっさと歩いて行く。
「わかった。もう、どうにでもしてよ」
捨て鉢になった口調で、少年が言って大きく息を吐いた。
やがて、鬼に担がれた少年と白狼の後を追う青年がたどり着いたのは、小さな小屋の見える場所だった。小屋の隣には、少年の身長ほどの石が剥き出しの土に立てられている。その石の隣に、白い杖が一本、寄り添うように立てかけられていた。
こちらのお話は、週一回くらいの投稿を考えております。どうぞ気長に、お付き合いいただければ幸いです。