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森の癒し手  作者: S.U.Y
シェラ
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第二話 追憶と期待

 乾いたインクの匂いで、シェラは目覚めた。森へ来てからずっと、医学書を書き綴っている。自己流で、どうしようもなく主観的な文章ではあるが、読む者のいない書だ。思い定めて以来、寝る前に書くことはシェラの日課になっていた。銀縁眼鏡をかけて、シェラは大きく伸びをする。

 昨日、小鬼を助けた。白狼のヴァイスに導かれ、森を歩いていたら麻袋に入れられていたのだ。手足の腱を切られ、さらには口を縫い合わされて放置されていた。

 助けたのは、癒し手としての使命もあったがそれだけではない。麻袋を見つけたときに、シェラの胸に去来したのは期待だった。大きさから、それが人間大のものであるとわかった。もしかすると、中には人間の大人が入っているのかもしれない。そう思って、袋を開けたのだ。

 中に入っていたのは、小鬼だった。人食い鬼の幼体で、形は大きいがまだ子供のような顔つきだった。鬼は言葉を持たず、知能も低い。身体能力に優れた種である鬼は、小手先の知恵を必要としないのだ。それゆえに、知能が発達することは無かった。

 応急処置を施し、さらには白の杖による結界も張った。白の杖は森の意思に干渉することができる、魔法の道具だった。円を描けばその中にいる限り、森に棲むものからの害意を受け付けない。敵意を向けることさえ、抑制されるのだ。

 小鬼が目覚め、結界を出ることも想定していた。一度癒した存在を、ヴァイスは見捨てない。シェラの確信通り、ヴァイスは小鬼を小屋へと導いてきた。

 小屋に小鬼が入ってきたとき、シェラは息をのんだ。逞しい体躯はほとんど裸形であったが、腰ミノを身に着けていた。もしかすると、何かしらの文化を持った鬼の一族なのかもしれない。森に住みついて以来、人間に会うことは無かった。人恋しさに、気が狂う思いをしてきたのだ。

 結果的に、シェラの願望は叶えられなかった。小鬼はこちらの言葉をある程度は理解しているようだが、言葉らしきものを発することは無かった。落胆はしたが、それでもシェラは新たな希望を抱くことができた。もしも小鬼に言葉を教え、喋ることができるようになれば、シェラは孤独から解放される。

 ヴァイスとは心が通い合っていたが、狼の口は人間の言葉を話すようには出来ていない。小鬼はシェラにとって、ようやく訪れた話し相手になるかも知れない存在だった。

 シェラはもともと、町医者であった。医師の家庭に生まれ、幼い頃から医師となるべく勉学に励んできた。その甲斐あって、シェラは弱冠二十歳にして小さな町の医師となったのだ。

 人の命を救うことが、シェラにとっては何よりの生きがいであった。献身的に患者に尽くし、多くの命を救ってきた。そんなシェラに、医師生活の終わりはあっけなく訪れた。

 貴族の不興を買ったのだ。渡すべき薬を、シェラはその貴族に渡さなかった。代わりに、貧しい町の住人に分け与えたのだ。そのせいで、貴族の顔には醜い出来物ができてしまった。人の命を救う代償として、シェラは迷いなく貴族を切り捨てたのだ。貴族は王に連なる家系であった。ちっぽけな町医者を潰してしまうくらい、その権威を用いれば何でもないことだった。

 危うく処刑の憂き目を見るところであったシェラは、町を逃げ出した。助けた住民たちの協力もあり、町を脱出するまではうまくいった。だが、文字通り顔をつぶされた貴族は執念深かった。繰り出された追っ手を避けるうちに、シェラは森へと迷い込んだ。充分な食料も無く準備も出来ていなかったシェラは、深い森の中を彷徨い行き倒れとなってしまう。そこへ現れたのが、ヴァイスだった。

 森の中で倒れ伏したシェラの前に、白い杖を咥えた狼が姿を見せた。震える手で、シェラは差し出された杖をつかみ取った。それが、癒し手としてのシェラの誕生だった。

 白の杖とヴァイスは、シェラに森の恵みを与えた。代価として、シェラは森の獣たちを癒すこととなった。連れて来られた小屋に、ぽつぽつと傷を負った獣たちが現れる。シェラは、それを癒すことを使命として受け入れた。

 白の杖には不思議な力があった。森の意思に呼応して、シェラに必要な薬草の場所を教えてくれる。シェラは杖の導きに従い薬草を集め、薬を作って獣たちを今日まで癒し続けてきた。獣たちからは敬われ、杖に頼らずとも獣たちはシェラに敬意を払ってくれるようになっていた。そうして十年近くの時を、シェラは森の癒し手として過ごしてきたのだ。

 過去を思い遠くを見つめていたシェラへ、ヴァイスが短く吠える。意識を現実に戻したシェラは、小鬼が身じろぎをして起き上がるのを見た。

「おはよう。よく、眠れたか?」

 シェラが声をかけると、小鬼は寝ぼけ眼をこすりながらうなずく。手足にはまだ痛みがあるらしく、動作はぎこちないものだ。

「よし、それじゃあ、食事にしようか」

 そう言ってシェラが椅子に座る。シェラを見つめる小鬼が、所在なさげに立ち尽くしていた。

「そこへ、座れ。果実をあげるから」

 シェラの言葉に、小鬼は素直に従った。シェラの足元に侍るヴァイスの存在が、大きいのかもしれない。椅子に座った小鬼が、ちらりとヴァイスに目をやった。

「肉は無いぞ。昨日、お前が全部食べてしまったからな」

 干し肉の置いてあった皿を見てきょとんとする小鬼へ、果実を渡す。もう一つ果実をつかみ取り、シェラはそのままかぶりついた。固い果実の砕ける食感はいつも味わっているものだが、今日は新鮮に感じられた。果実の立てるしゃりしゃりという音が、しばらく続いた。

「さて、腹も満たされたことだし、今後のことを話そうか」

 腹をさすり目を細めている小鬼に声をかけると、小鬼はシェラへ顔を向けた。しわくちゃの顔にある小さな灰色の瞳が、探るようにシェラを見つめていた。

「お前の手足は、しばらく使い物にはならない。元の状態へ戻すには、長いリハビリが必要になる」

 小鬼が自分の手足を見て、ちょっと持ち上げたりしてからシェラに視線を戻した。言っていることの意味は、半分も伝わっていない。それでも、シェラは言葉を伝える。医師として、それは今までシェラが行ってきたことだった。森の熊や狼、ウサギにまでシェラは診断結果を伝えてきたのだ。

「時間をかければ、また自由に動く手足を手に入れられる。お前は、それを望むか?」

 シェラは自分の腕を軽く叩き、小鬼の腕を指して言った。小鬼は、即座にうなずいた。小鬼の反応に、シェラはうなずきを返す。

「わかった。それじゃあ、お前はこれから、ここで暮らす。手足が完全に治るまでだ。お前の面倒は、ヴァイスが見る」

 手振りを交えながら、シェラは小鬼に言葉をかける。小鬼は小さくこくこくと、何度もうなずいた。

「私は、シェラ。シェ、ラ、だ。森の、癒し手をしている」

 自分を指差して、シェラは小鬼に噛んで含めるように言う。それから、白の杖を持った。

「この先長く一緒にいるんだ。いつまでもお前、ではやりにくい。お前に、名前を付けていいか?」

 シェラの質問に、小鬼はわからない、といったように首を傾げる。シェラは小さく息を吐いて、気を取り直すように首を振った。

「グレイ。お前は、グレイ、だ」

 小鬼の瞳の色を、名前として付けた。シェラは小鬼を指差し、何度もグレイ、と呼ぶ。小鬼が自分の身を指した。シェラは、うなずく。

「そうだ、グレイ。お前の名だ」

 シェラの反応に、小鬼は喜びの表情を浮かべる。

「これからよろしくな、グレイ」

 シェラがそう言った瞬間、白の杖の先端に付いた鈴が鳴った。

「森も、お前を歓迎しているようだな。この杖は、この森の化身のようなものだ。たぶん、そうだと思う」

 小鬼は怪訝な顔をしながら、白の杖の鈴へと手を伸ばす。金属のぶつかり合う音を心地よく聞いていたシェラは、微笑んで杖の先を小鬼へと差し出した。

 小鬼の指が、鈴に触れる。ばちり、と空気の爆ぜるような音が鳴った。小鬼は弾かれるように、白の杖から離れる。

「な、何だ、どうした?」

 突然の出来事に、シェラは狼狽した。白の杖から鳴っていた鈴の音は止み、何の音も発しない。シェラの問いかけに、答えは返ってこなかった。

「グ、ウウ……」

 小鬼が、頭を押さえてうずくまる。白の杖を壁に立てかけて、シェラは小鬼の側へ寄った。

「どうした、大丈夫か?」

 両手を頭に添えて激しく左右に振る様子に、シェラはたじろいだ。その背後で、ヴァイスが短く吠える。

「ヴァイス……」

 振り返ったシェラの眼を、ヴァイスが見つめてくる。静謐な光を湛えた、穏やかな瞳だ。シェラは心のざわめきが、鎮まっていくのを感じた。大丈夫だ。ヴァイスは、視線でそう言っていた。

 小鬼の動作が、ぴたりと止まった。

「大丈夫か、グレイ?」

 シェラの問いかけに、グレイはシェラを見つめてうなずいた。

「シェ……ラ……」

 シェラを指差すグレイの口から、言葉のようなものが漏れる。シェラの瞳が、驚きに見開かれた。

「グレイ、お前、言葉を……?」

 シェラの声に応じるように、今度はグレイは自分を指差す。

「グ、レイ……」

 問いかけるようなグレイの視線に、シェラは大きくうなずいて見せる。

「そうだ、グレイだ! お前の名だ!」

「シェラ、グレイ、シェラ、グレイ!」

 喜びの声を上げるシェラに、グレイは自身とシェラを交互に指差して、言った。すっと、シェラとグレイの間にヴァイスが入り込んでくる。

「グレイ、ヴァイス、だ」

 シェラがヴァイスを指差して、言う。

「ヴァ、イス……」

 グレイの声に、ヴァイスは小さく鼻を鳴らしてグレイの胸を鼻先で軽く突いた。あっさりと尻餅をついたグレイの顔を、ヴァイスが舐めまわす。

「ははは、ヴァイスも喜んでいるぞ、グレイ」

 情けない顔をするグレイを見つめて、シェラは笑った。愉快な気持ちで、心の底から笑ったのは、シェラにとって随分と久しぶりのことだった。

「グレイ、良かったな。ヴァイスは早速、リハビリを始めてくれるらしいぞ?」

 のしかかろうとするヴァイスを押し返そうと、悪戦苦闘するグレイ。それを見守るシェラは、笑顔である。壁に立てかけられた白の杖が、その光景の裏でうっすらと光った。光は、一瞬で消えていく。だから、シェラは杖の光に気づくことは、無かった。

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