第十五話 継承と銭奴
ベアトリスが森の小屋に訪れて、三日が過ぎた。ソテロの調合した水薬の効果は、彼女の足を完治させるに充分な効能を発揮していた。噛み千切られた傷跡は、うっすらと皮膚の上に境界線を残すのみとなり、歩行に関しては支障が無いほどにまで快復していた。
「本当に、すごいものね。たった三日で治るなんて」
ベッドに腰掛けて足をぶらつかせ、床を踏みしめてベアトリスが言う。ソテロはうなずき、神への感謝に十字を切った。
「神のご加護です。元気になられたのなら、いつでもこの森を出てもよろしいのですよ?」
少しやつれた面持ちで、ソテロは言った。ベアトリスは、首を横へ振る。
「まだ、ダメよ。お金の問題が、残っているわ」
言いながら、ベアトリスはテーブルまで自らの足で歩いて果実を手に取る。
「例えば、このリンゴの実にしても、そうよ。二日間、一日三食二個ずつこれを食べたけれども、合計十八個のリンゴはいくらになるのかしら?」
問いかけてくるベアトリスに、ソテロは浮かべかけた笑みを消した。
「……森の恵みに、値をつけよ、と言われるのですか? その果実は、小屋の側でいくらでも採れるものですが」
「労力のコストは考えなくてもいいとして、栄養価との兼ね合いから……銅貨十枚が相場かしら?」
ベアトリスの言葉に、ソテロは肩をすくめ、息を吐く。万事が、この調子だった。飲み水、包帯からベッドの寝心地に至るまで、ありとあらゆるものに値をつける。そして、決して無償の施しは受け入れない。
「無料で、と言っても聞き入れてはくれないのですね?」
そう言うソテロに、ベアトリスはこっくりとうなずく。
「当たり前でしょう。あたしがここで過ごした時間と、治療のために費やしたものすべてに、あたしは代価を支払う義務があるんだから」
ベアトリスの言葉に、ソテロはこめかみを押さえてかすかに呻いた。
「では、貴方の言い値でよろしいかと……」
ソテロの答えに、ベアトリスはまた首を横へ振った。
「それじゃあ、ダメなのよ。じいさん、あなたはあたし以外の人間がここで同じ目に遭っても、同じことをするでしょう? ほかにも、あなたの薬を必要としている人が来たとして……その人たちに無償で治療や薬を施したとしたら……どうなると思う?」
問いかけに、ソテロは顎に手を当てて考える。
「……病や怪我を抱えてここへ来る者があれば、それを癒す。それだけが、私の使命です」
「そうして、他の医師たちよりも格段に良い治療を、無償で施していけば……森の外から、大勢の患者がやってくる。お金がかからないなら、わざわざ他の医師に掛かることなんてしなくてもいいもの。そうすれば、どうなるかはわかるわね? この森の外で、医師の多くが路頭に迷うことになるの。そして、食料や木材を採りに、多くの人が森へ入って……その白狼も、危険な目に遭うわ。人間の欲は、深いのよ」
その言葉に、ソテロは黙り込んでしまう。白の杖から得られた、何代か前の癒し手の末路の記憶が、脳裏へと浮かぶ。
「……わかりました。考えておきましょう」
ソテロは言って、小屋の戸を押し開けた。ずっしりと、肩の上に疲労がのしかかっていた。
「どこへ行くの?」
ベアトリスの問いに、ソテロは振り向いた。
「礼拝の場へ。あなたの治療で、祈りの時間を取れずにおりましたので」
「あたしのせい? それは、悪かったわね。それじゃあ、その分もお金を……」
「いいえ。あなたの治療は、何より優先すべき使命ですから。もし、よろしければご一緒されますか?」
再び金銭の話をしようとするベアトリスを遮り、ソテロが訊いた。
「そうね。じっとしていてもつまらないし、あたしも行くわ」
そう言ってベアトリスが立ち上がり、ソテロへと歩み寄る。その背後へ、音もなくテーブルの下から這い出したヴァイスが続く。小屋を出たソテロたちは、熊の巣穴へとたどり着いた。
「へえ……大したものね」
聖堂となった巣穴の奥を見やり、ベアトリスが感嘆の声を上げる。壁一面に彫られた天使たちに囲まれた黒い柱の前で、ソテロは跪いた。
「大いなる神よ……奇跡の御業に、感謝を捧げます」
聖言を口にすると、清浄な風がソテロの胸中を吹き抜けてゆく。ふわり、と優しい何かに包まれるような感覚に、ソテロは一心に祈り続ける。
「この場所なら、見物料が取れそうね。天然の洞窟に、天使の彫刻……いっそ聖地として、売り出すというのもアリかしら」
背後から聞こえてくる言葉に、ソテロは己を包む聖気が薄れてゆくのを感じた。
「……祈りの場です。御静かに」
「沈黙は金なり、と言うけれど、お金の算段は重要よ。ここなら、銀貨十枚、いえ、二十枚くらいは取れそう……」
「いい加減にしなさい!」
聖堂に、ソテロの大きな声が響いた。直後、どさり、と重いものが倒れる音がソテロの耳に聞こえた。ソテロの視界が揺れて、ぷつん、と何かの切れるような感覚があった。
「ちょっと、じいさん!?」
闇の中で、ベアトリスの焦った声が聞こえてくる。身体を動かそうとして、ソテロは愕然となった。指一本、動かすことができない。
「何いきなり倒れてるのよ……起きて……ねえ……」
耳元に聞こえる声が、薄く、小さいものになってゆく。闇の中でソテロは、狼の咆哮を聞いた気がした。だが、すぐに何も聞こえなくなり、そして何も感じなくなった。
叩きつけるような怒鳴り声を上げて、立ち上がろうとしたソテロが目の前で倒れた。駆け寄り膝をついたベアトリスの背後で、白狼ヴァイスが咆哮を上げる。振り向いたベアトリスの眼を、牙を剥く巨狼の眼光が射すくめる。
「な、何? どういうこと?」
地に伏したソテロの傍らで、ベアトリスは身をすくめる。ぐっと、ヴァイスがわずかに後ろへ身を引いた。飛び掛かってくるつもりだ。そう判断し、ベアトリスは身を起こそうとする。だが、ヴァイスの速さはそれだけの動作すらも許さない。飛来する白い獣の身体を避けるために、ベアトリスが出来るのは倒れたソテロに覆いかぶさるように身を伏せることだけだった。
頭上を、ヴァイスの爪が掠めていく。ずしん、と重い衝撃があり、砕けた床のかけらがベアトリスの顔に当たる。逃げなくては、殺される。地面に手を突いたベアトリスの視界に映ったのは、一本の杖だった。ソテロの手から離れて転がるそれは、りん、とベアトリスを誘うように音を鳴らし、うっすらと光っている。
迷うことなく手を伸ばし、杖を掴んでベアトリスは身を回した。再び飛び掛かったヴァイスの咢が、杖によって受け止められる。大質量のヴァイスにのしかかられ、ベアトリスの腕がみしりと鈍い音を立てる。だが、続く激痛をベアトリスは感じてはいない。それどころか、喉首に迫る狼の牙さえも、今のベアトリスには見えていなかった。
小さな村の、教会があった。苦しむ人の、懺悔を聞いた。喜捨を受けて、神と人の心に感謝を捧げていた。病に倒れ、墓の前で力なくうなだれていた。司祭の膝で、懸命に聖言を口ずさんでいた。そして森の癒し手として、獣の傷を癒す毎日があった。雨の日も、風の日も、ヴァイスと共に森で過ごす日々があった……くだらない。一笑に付す。素晴らしい技術を持つ。溢れんばかりの恵みを、森から受ける。希少な白狼と、共に過ごす。それらは、何のためか? お金を得るために、人は生きる。そしてお金が、世界を回す。経済を、回す。だから……大きな町の、貧民街があった。全てを使い、成り上がる方法を探った。知識を持つ教会の老爺と、身体を重ねた。持たざる者から、持てる者になった。そうして、裏切りに遭い全てを失った……神の試練だ。人を信じ、愛し、共生することは、何よりも尊いものだ……いいえ、何よりも尊いもの、それは神ではない。信心ではない。愛ではない。それは、お金だ!
意識が混じり合い、そしてベアトリスの強固な自我が打ち勝った。脳内の光景、そして声が消え、現実へと戻ってくる。両肩に、激痛があった。細く白い喉首に触れるくらい近くに、ヴァイスの鋭い牙があった。だが、盾にした杖にはもう圧力は無く、ヴァイスは無念そうに唸りながらベアトリスの身体から降りた。
「う、ぐ……」
杖を手にしたまま、ベアトリスは呻いて身を起こす。だらり、とぶら下がった両腕を診て、舌打ちをした。
「両方、外れてるじゃない……まったく」
じろり、とヴァイスを見やる。だが、敵意の篭った瞳で見返され、ベアトリスは座っていたものから転げ落ちた。
「う……う……」
「じいさん? 大丈夫?」
仰向けになったまま、首だけソテロに向けてベアトリスは問いかけた。うつ伏せに倒れたソテロの頭が、小刻みに震えていた。
「か……神、よ……」
床に手をついて、ソテロが身を起こそうとする。
「じいさん!? 無茶しちゃ、ダメよ! 今、動いたら」
「おおおおお!」
ベアトリスの言葉を遮るように、ソテロが身を起こす。その顔を見て、ベアトリスはハッと息を呑んだ。開かれた口から泡と涎が流れ、眼は反転して白く濁っている。もはやそれは、生者の面相では無かった。
「あ……いや……」
微かな悲鳴を漏らし、ベアトリスは身じろぎする。外れた肩のせいで、身を起こして逃げることもできない。
「オオオオオ!」
恐怖にうち震えるベアトリスの前で、ソテロが立ち上がって吠えた。濁った眼球が、ぎょろりと動きベアトリスを捉える。
「ちょ、ちょっと、じいさん! 待って、落ち着いて、ねえ!」
呼びかけるベアトリスに、ソテロはにじり寄る。ソテロの大きな手が、ベアトリスの肩を掴んだ。半身を引き起こされ、ソテロの巨体が背中にのしかかってくる。
「あぐ!」
激痛に、ベアトリスは叫んで眼を閉じた。がくん、と肩に大きな衝撃があった。右肩、左肩と、順にすさまじい痛みが襲ってくる。
「神、よ……いま、あなたのみもとに……」
どさり、と背後で重い音が響いた。ゆっくりと眼を開いたベアトリスは、倒れ伏したソテロの身体を見つめる。
「肩……治してくれたの……?」
自分の肩を診て、ベアトリスは呆然とした顔で言った。ソテロは何も言わず、ただ全身を痙攣させていた。
「動ける状態じゃ、なかったのに……」
そろり、と歩み寄ったベアトリスは、ソテロの身体を診て呟く。口元へ手のひらを当ててみると、微かな呼吸があった。脈も、あった。
「……生きては、いるわね。ヴァイス、じいさんを小屋へ運んで頂戴」
白の杖をかざしつつ、ベアトリスはヴァイスに命じる。ヴァイスはベアトリスを睨み上げて一声吠え、それからソテロの身体を咥えて背中へと乗せた。
「絶対安静だから、そうっと運ぶのよ」
ベアトリスの指示に、ヴァイスはソテロを乗せて聖堂の出口へと向かう。長いソテロの手足が、ずるずると地面に引き摺られてゆく。それを見送って、ベアトリスは黒い柱と天使たちへ振り返った。
「助かったけれど……神様って、ろくなもんじゃないわね」
そう言って、白の杖を手にベアトリスは聖堂を後にした。巣穴から出ると、木々の上や茂みの中から数十の顔が姿を現した。
「……猿?」
茶色い体毛で全身を覆った猿の群れが、巣穴を囲んで円形に並ぶ。呆然と立ち尽くすベアトリスの前で、一匹の大きな猿が進み出てきて跪いた。
「忠誠を、誓っている……?」
恭しく首を垂れた猿が、顔を上げてうなずいた。跪いてなお、その顔はベアトリスの目線よりも上にあった。猿の顔を見上げ、ベアトリスはにやりと笑う。
「これが、癒し手の、白の杖の力……上手く利用すれば、大儲けできそうね」
ベアトリスの言葉に、猿たちもにんまりと笑った。ざわざわと、森の中を新たな風が吹き抜けてゆく。彼方から、狼の遠吠えがひとつ、森へと響き渡っていった。
ここまで読んでいただき、ありがとうございます。
これで、ソテロのお話は終わりとなります。
次の話は、また来週となります。
楽しんでいただけましたなら、何よりです。




