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森の癒し手  作者: S.U.Y
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第一話 小鬼と女医

 濃密な、緑の匂いがする。木々が立ち並び、湿り気のある風が吹き抜けていく。茂みから飛び出してきたウサギが、獣道を横切っていく。陽の光が木の葉を透かし、うっすらと降り注いでいる。

 茂みを揺らして、狼が駆けてゆく。ウサギが、巣穴へ素早く身を隠す。その側を通り抜けて、狼の群れは真っすぐに走っていた。

 深い草と、木々に囲まれた空間がある。狼たちは、そこを目指していた。木々の上には、幾羽もの鴉が止まり、鳴き声を上げている。彼らの中心にあるのは、大きな麻袋だ。それは人間の、成人男性ほどの大きさと形状をしていた。

 麻袋の中から、血の臭いが染み出ていた。赤く湿った麻の繊維が、木漏れ日を照り返す。狼たちが麻袋を取り囲み、空の鴉を威嚇する。鴉たちも、自分たちの獲物であることを主張し激しく鳴いた。

 不意に、狼と鴉の声が止んだ。飛び回っていた鴉たちは、周囲の枝に止まり首を垂れる。狼たちもまた、辺りに座り身を伏せた。聞こえてくるのは草を踏む音と、そして金属のぶつかる涼やかな音だ。

 茂みを揺らし、その場へまず訪れたのは真っ白な毛並みの狼である。後ろを何度も振り返り、やがて麻袋の近くまでゆっくりと歩いていく。後ろに向きを変えて座り、白い狼は木々の間へ短く吠えた。

 次にやってきたのは、人間である。白い外套のようなものを身にまとい、革のブーツで草を踏みつつやって来る。ズボンは深緑に染められており、外套と同じく白いシャツには女性特有の曲線があった。手に持っているのは、鈴の付いた白い杖である。

「……それは、何だ?」

 朱色の形良い唇から、凛とした声が聞こえた。銀縁眼鏡の奥の切れ長の瞳が細められ、麻袋に視線が注がれる。白い狼が、もう一度吠える。

「中を、見てみなければ」

 女性が、麻袋に近づいた。もぞり、と麻袋が動く。麻袋の口を縛っている紐を、女性がゆっくりと解いた。

「人……いや、小鬼、か」

 中に入っていたのは、褐色の肌の人食い鬼の幼体だった。厳つい顔はまだ幼さが見え、その頭部には二本の小さく白い角が生えている。重い体を袋から引き出してみると、手足に深い刃物傷があった。衰弱しているが息はあるらしく、裸の胸がゆっくりと上下していた。

「酷いことをする……どのようないきさつがあったのかは知らないが」

 呟く女性の側で、白い狼が小鬼の腕の傷を舐めた。女性はその腕を手に取り、傷口を眺める。

「腱が切られているな……治療をしなければ、助からないだろう」

 白い狼に向かって、女性は言う。狼は応えるように、低く吠えた。

「わかっている。どのようなものであれ、癒すのが私の使命なのだから」

 麻袋を地面に敷き、女性が小鬼の身体を引きずってその上に乗せる。白い狼も、鼻先を小鬼の下へ差し込んで支えて手伝った。

 女性が外套のポケットから、取り出したのはピンセットと針と糸である。小鬼を寝かせた麻袋の上にそれらを並べると、女性は息を大きく吸って、吐いた。

「これより、処置を開始する」

 女性の言葉に、白い狼は恭しさを感じさせる態度で首を垂れ、その場へ身を伏せた。周囲の虫の音が、吸い込まれるように小さくなった。

 女性の手がピンセットに伸びる。細い金属の先が、小鬼の傷口へと入った。ぐちゅり、と湿った音が鳴る。小鬼の全身が、わずかにぴくりと震えたが女性は意に介さず、機械的な手つきでピンセットを操っていく。断ち切られた傷跡を、綺麗に整える。

「少々手荒だが、応急だ。多少は我慢してもらおう」

 はらり、と落ちてきた髪をかき上げ、女性はピンセットから針と糸に持ち換える。そのまま傷口へ手を入れて、切られた腱を縫い合わせてゆく。素早く精密な作業で、女性は小鬼の四肢の腱を縫い合わせ、傷口も縫って閉じた。

「処置、完了だ。鬼の回復力ならば、これで充分だろう。あとは、口の紐も抜いてやらねばな」

 疲れ切った表情で、女性は小鬼の口を縛る紐を引き抜いた。ぷつぷつと血の玉が抜いた傷口から浮かんだので、それを布で拭ってやる。それから女性は、杖を頼りになんとか立ち上がる。杖を引きずりながら、小鬼の周囲を一度、円を描くように歩いた。

「これで、いい。あとは、なるようになるだろう」

 額の汗を手で拭い、女性は言って小鬼に背を向ける。音もなく立ち上がった白い狼が、のそり、とその後へと続いた。

 森の中に、ざわめきが戻った。鴉たちは次々に飛び去って行き、伏せていた狼たちも姿を消してゆく。獣たちは誰も、小鬼へ近づこうとはしない。小鬼を囲う円の図形には、不可侵の意が込められている。新鮮な血の臭いを嗅ぎながらも、鴉と狼たちは未練も見せずに去ってゆく。そうして、森の広場にはぐったりと眠る小鬼の身体だけが残された。


 夜が訪れた。月の光に照らされた小鬼の身体が、ぴくりと動く。鈍い動作で半身を起こそうとした小鬼が、痛みに顔を歪めた。のろのろと、ひどく緩慢な動きで何とか起き上がる。震える手で、木の幹に手をかける。そうしてやっと、小鬼は立ち上がることができた。

 醜悪な顔の小鬼の鼻が、ひくひくと動く。森の獣の臭いに混じり、人間の臭いがあった。濃い緑の臭いと混じり、血の臭いの痕跡が木々の間へ続いている。鼻を動かし、猫背になった小鬼はよろけながら、ゆっくりと歩き出した。

 夜の森の中は、様々な臭いが溢れかえっていた。大きな獣の臭いもする。震える手足で、小鬼は茂みをかきわけひたすらに歩いた。

 茂みの中から、一頭の熊が顔を出した。小鬼の正面に、のっそりと現れた熊は威嚇の唸り声を上げる。風下から現れたため、小鬼は臭いでその熊に気付くことができなかった。

 のそり、のそりと熊が一歩ずつ小鬼に近寄ってくる。未だ痛みを発し反応の鈍い脚では、逃げることはできそうにもない。近づく熊の巨体に気圧されるように、小鬼は尻餅をついてしまった。

 オォーン、と遠くから、狼の吠える声が聞こえてきた。涎を垂らし、近づいてきた熊の動きが止まる。熊が狼に呼応するように月に向かって吠えた。再び、狼の声が響いてくる。熊は、しばらく小鬼を見据えていたが、くるりと背を向けて茂みの中へと消える。助かったのだ、と小鬼は気づき、全身から力が抜ける。へなへなとへたり込んだ小鬼の前へ、今度は音もなく白い狼が現れた。

 狼は小鬼に近づくと、反転してゆっくりと歩いて首だけで振り返る。付いて来い、と言っているようだった。小鬼はふらつきながら立ち上がり、何かに憑りつかれたように歩を進める。小鬼の足取りは頼りなく、覚束ないものであったが、白い狼は辛抱強く先導をした。

 小鬼が連れて来られたのは、森の中にある小さな小屋だった。ぽつん、と木々の間に建てられた家には、灯りがあった。白い狼は促すように小鬼へ首を向けて吠えると、鼻先で小屋の戸を押し開け中へと入って行った。小鬼も狼へと続き、小屋の戸を手で押し開けて中に入る。温かな空気が、小鬼の側を通り抜けていった。

「無事に、ここまでたどり着けたようだな」

 小屋の内部の明るさに目を細める小鬼へ、女性の声がかかった。薄明り程度の光量に慣れた小鬼が、声のしたほうへ目を向ける。椅子に腰かけた女性が、小鬼へ片手を挙げて挨拶をした。

 女性は立ち上がり、小鬼へ歩み寄ってくる。背の高さは小鬼より少し低いくらいで、人間ならば大人の個体だと判断できる。柔らかそうな肉は、今の小鬼の腕でも簡単に引き千切ってしまえそうだった。

 近寄る女性へ腕を振り上げるべく、動こうとした小鬼の全身が硬直する。強烈な殺気が、小鬼の身体に向けて放射されていた。気配の主は、目の前の白い外套の女性ではない。女性の座っていた椅子の足元に身を伏せていた、白い狼のものだ。ゆっくりと身を起こした狼は、小鬼の眼を射すくめるような強い視線を送ってくる。指一本でも動かせば、この狼は即座に跳躍し小鬼の喉笛に食らいつくだろう。絶望的な力量差を本能で理解させられて、小鬼はぴくりとも動けない。

「そう怯えるな。ヴァイスは、悪さをしなければ襲い掛からない」

 女性が、白い狼を見やりながら言った。白い狼の名前は、ヴァイスというらしい。小鬼はうなずきながら、恐怖とともにその名前を頭に刻み込んだ。

「言葉は、わかるか?」

 女性の声が近くで聞こえた。いつの間にか手を伸ばせば届く程度の距離に、女性が立っていた。銀色の装飾具の奥にある目が、小鬼を見つめてくる。言葉は話すことはできないが、単語を聞き分ける程度はできる。小鬼は、ひとつうなずく。

「そうか。喋ることは、できるか?」

 女性の次の問いに、小鬼は首を横へ振った。小鬼にとって話すことは必要ではなく、縄張りの主張や威嚇のための咆哮でしか自分の意思を出すことは無かった。うなずいたり、首を振って否定するということは、人間によって仕込まれたものだ。

「そうか……残念だが、仕方ないな。森での無聊の生活が続いていたから、話し相手くらいは欲しかったのだが……と、すまない。先に傷を調べなければいけなかった」

 女性の手が小鬼の腕へと伸びる。ほっそりとした指が縫合された傷跡に触れて、小鬼の身体がびくんと震える。柔らかな、指だ。意識をすると、小鬼の腹が鳴った。

「なんだ、腹が空いているのか」

 きょとん、とした顔で見上げる女性に、小鬼はうなずいた。女性は小さく笑い、少し離れた机の上にある肉片をひと切れ持って戻ってくる。

「これは、食べていいぞ」

 女性の手から、干した肉片が手渡された。長く鋭い小鬼の爪が、小さな肉片をつまみ上げる。そこで小鬼は動きを止めて、ヴァイスを見た。ヴァイスはうなずくように、小さく頭を動かす。小鬼は肉片を、大きく開けた口の中へと放り込んだ。

 小鬼の口の中に、薄い塩の味と肉の旨みが拡がっていく。溶けるように、小さな肉片は小鬼の舌の上で消えていった。

「ふむ。手の動きは、問題ないようだ。これも、食べるか?」

 女性が、机の上から木の実をひとつ手に取り、小鬼へ放り投げる。飛んできた果実を掴もうと、反射的に手をあげかけた小鬼が呻いた。果実は小鬼の胸に当たり、床を転がる。ヴァイスが、動きを見せた。小鬼は怯え、身を硬直させる。ヴァイスはそんな小鬼の前へ、転がってきた果実を押し返した。

「拾ってみせてくれ」

 女性の言葉に、小鬼は足に当たった果実を拾い上げ、丸ごと口に入れた。しゃくしゃくと音立てて口の中で砕ける果実からは、みずみずしい果汁が溢れてくる。咽喉を鳴らし、小鬼はそれを飲み込んだ。

「足りなければ、まだある。こちらへ来て、座ることができれば食べていいぞ」

 女性が指すのは、机の側にある木の椅子だった。丸太を切り出した形の椅子は、小鬼が腰掛けても問題はなさそうだった。言われるままに、小鬼は椅子に腰を下ろして机の上を見る。皿に載せられた、いくつかの肉片と果実があった。ちらり、と女性とヴァイスに目を向ける。女性もヴァイスも、うなずいて見せた。小鬼は、始めは遠慮がちに、一切れの肉片を口へと運ぶ。肉の濃い味が、口の中へ溶ける。果実をかじり、汁気を補充する。そうしているうちに、皿の上のものを小鬼は全て口の中へ入れてしまった。

「健啖でなによりだ。だが、やはり手足に不自由があるようだな……」

 空腹が少し満たされ、眠気を感じる小鬼の耳に女性の声が聞こえる。

「眠いか。身体が、傷を癒すために眠りを欲しているのだ。寝転がって、睡眠を取れ」

 女性の言葉に、小鬼は脱力して椅子から転げ落ち、床に身を横たえる。

「寝ている間に、少し傷を診る。身体に触るが、心配はしなくていいぞ」

 目を閉じた小鬼の耳に、女性の足音が近づいてくる。緩慢になる意識の中で、身体のあちこちを触れる女性の指の感触があった。だが、それは次第に遠くなり、眠りの闇の中へと消えてゆく。恐ろしいヴァイスの気配を感じながらも、小鬼は深い眠りへと落ちていった。

ここまで読んでいただき、ありがとうございます。

不定期の連載となりますが、どうぞよろしくお願いします。

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