渡れない渡り廊下
そこは、とある中学校。
由緒ある歴史――凡そ100年ほど前に開校した――を持ち、地元のシンボルとも言える学校だった。
校舎は何度か建て替えられたが、二代目の校舎だけは歴史的価値があると言う事で保存されている。
現在は10年ほど前に新築された校舎が隣にあり、渡り廊下によって繋がっていた。
「――と言っても、戦争で破壊された何代目かの校舎と繋いでいたのを再利用しているだけの廊下なんだけどね」
生徒の一人が薀蓄を披露していたが、そんな事はここに通っている生徒なら、いや、この地に住む住人なら誰もが知っている。
実際、話を聞いていた生徒の一人がそう指摘した。
だが熱の入った語りに水を差された彼は反論する。
「そんな事は僕だって判っているさ、これでも地元の人間なんだ」
クラスメイトの突っ込みに、校舎の歴史を語っていた斉藤君が憮然として溜息を吐いた。
「なら、いい加減に本題に入れよ、斉藤」
クラスのガキ大将的ポジションにいる大山君が、やれやれと言った感じで先を勧めた。
この場にいる全員――斉藤君を除く――の一致した意見だった。
斉藤君は憮然とした表情を崩すことなく、話を進める。
「噂があるんだよ」
「何だよ、噂って」
「長い間、先輩から後輩へと受け継がれて来た噂……いや、警告だね」
斉藤君は突然声のトーンを落とし、まるで怪談でも語るかのような雰囲気を醸し出した。
私は、思わず声に出して問い返してしまった。
「警告?」
「そう、あの渡り廊下には不思議な伝承があるんだよ」
「だから、もったいぶった言い方はやめろって言ってるだろ」
再度、大山君から指摘されると、諦めたように斉藤君は話を進める。
「曰く、あの渡り廊下は、戻る時に限り、まれに渡れなくなるらしい、と」
散々もったいぶっていたのに、いざ告げられたら拍子抜けしてしまった。
それは話を聞いていたクラスメイト達も同じようだった。
「通行止めか?」
「あっははは、そりゃ渡れないよなあ!」
大山君の子分的ポジションにいる佐藤君と鈴木君が、斉藤君を揶揄うように言った。
「違うよ! 卒業した先輩から聞いたんだ! 数年に一度、あの渡り廊下を渡ったまま戻らない人がいるって、何人かが纏まって行方不明になるんだって!」
え?
そんな話は知らない。聞いた事がない。
「ここ10年近く行方不明者が出てないから気を付けろよって言ってくれたんだ」
行方不明者がそんな噂になるほど何度も出ていたら、事件として扱われるはずだ。
同じように思ったのだろう、気弱で普段はあまり男子と話したがらない睦子が疑問を口にした。
「でも、そんなに何度も行方不明の人が出ているのなら、旧校舎は警察に捜索されている筈だよね」
「そうだよ、立華さんの言う通りだ」
「そうだそうだ」
睦子は密かに男子に人気がある。
深窓の令嬢って雰囲気がある美少女だしね。
そんな彼女の同意を受けて舞い上がった佐藤君と鈴木君が勢い付くのも当然かもしれない。
そんな周囲に負けまいと斉藤君は熱弁を揮った。
「だからさ、これは地域ぐるみで――学校どころか町とか市とかまで含めた陰謀説まであるんだよ」
段々と怪談から離れてる気がする……って、別に怪談に興じていた訳じゃない。
と、それまで黙って成り行きを見守っていた大山君が口を開いた。
「それじゃあ、いっちょ肝試しと行こうぜ」
突然何を言い出すのか、この男は。
何を隠そう、私は怪談とか肝試しとか、怖いことが大の苦手だった。
「ちょっと、こんな時間から?」
「日が暮れそうな、いい時間帯じゃねえか。それとも西舞は怖いのか?」
ニヤニヤしながら挑発された。
これに言い返さない私ではない。
「誰が怖がってるですって!? いいわよ、やろうじゃない!」
「ええっ!?」
睦子が吃驚して私の袖を引っ張る。 でも、もう遅い。
自慢じゃないが私は気が強い。
ここで引き下がったら女が廃る。
「決まりだな」
ニヤリと笑って大山君が宣言した。
やってしまった……
安い挑発に乗ってしまうのが私の欠点だと解っているのに。
「おう、撫濫。 お前もやるか?」
「え?」
突然、教室の隅を向いて大山君が声を掛けた。
それに驚いて、つい声を出してしまった。
見れば、教室の端っこに確かに撫濫君がいた。
いつからいたんだろう、全く気付かなかった。
「いや、俺は行かない」
彼は、あっさりと断った。
「なんだよ、怖いのか?」
「だらしねえな!」
佐藤君と鈴木君が揶揄うが、撫濫君は気にも留めずに鞄を持って教室を出ていった。
「ち、薄気味悪い奴」
それは言い過ぎだと思うけど、確かに彼は人付き合いが良くない。
誰かと楽しそうに話しているところを見た事がないし、もちろん私とも接点はない。
なのに、何でだろう。 撫濫君が教室を出ていく時、彼はちらっと私を見ていた。
自意識過剰な訳じゃない。 彼は態々一旦私を見て出ていった。
「――じゃあ、このメンツだけでやるか!」
考えに耽っていたら話が進んでいた。
肝試しのルールは簡単だ。
一人ずつ順番に渡り廊下を渡って旧校舎に入り、一番奥の教室――旧校舎は平屋のため、そこが一番遠い――にある黒板に自分の名前を書いてから戻ってくること。
この学校には伝統になっている肝試しルールがあった。
今回もそのルールを使うのは、当然と言えば当然だった。
アミダ籤で順番を決める。
1番、鈴木君
2番、斉藤君
3番、睦子
4番、大山君
5番、私
6番、佐藤君
となった。
トップバッターの鈴木君が教室を出ていった。
10分もすると戻ってきた。
「どうって事ねえよ」
それはそうだろう。
古いだけで普通に建てられた校舎なのだから。
それが実感出来たおかげで緊張が少し解れた。
「ただいまー」
そんな事を考えていたら斉藤君も戻ってきた。
そして、睦子、大山君と順番は進み、私の番がきた。
「行ってきます」
私は教室を出て旧校舎へ向かった。
目の前に渡り廊下がある。
いけない、また緊張してきた。
(ええい! 女は度胸!)
内心で気合を入れて歩を進める。
入学してから一回だけ、先生に案内されて来た事があったけど、こんなにまじまじと見るのは初めてだった。
よく見ると結構悪戯書きとかがある。
貴重な文化遺産じゃなかったっけ……?
あれ? 何だろう、変な悪戯書きがある。
鳥居? じゃないよね。
鳥居にしては何か物足りない。 門かな。
昔にこんなの流行ったりしたのだろうか?
“Π”←こんなのが、廊下のあちこちに書かれていた。
(あ、でも消した跡もあるなあ)
ごしごし擦った跡もそこいら中にあった。
そんなのを眺めていたら渡り廊下なんてあっという間に通り過ぎる。
大分日が落ちて暗くなってきた。 早く終わらせて戻ろう。
足早に奥の教室まで行き、扉を開けた。
中を見ると黒板があり、先に来た四名の名前が書いてある。
「“西舞凛”っと」
そこに自分の名前を足して教室を後にした。
渡り廊下まで戻ってくると現校舎側にみんながいる。
「遅えよ!日が暮れただろうが」
「それは私のせいじゃないでしょ!」
理不尽な文句を言ってくる大山君に即座に言い返す。
元々こんな事をやろうと言い出したのは、あんたでしょうが!
そんな言い合いを横目に最後の佐藤君が旧校舎に入っていった。
凡そ10分後。
佐藤君が走って戻ってきた。
「なんだ、あいつもビビリか〜?」
“も”って、後は誰を指しているって言うのよ!
「うわぁあああああああああああ!」
佐藤君の悲鳴が私の思考を遮った。
「ちょっ!? なに?」
混乱する私を余所に佐藤君は取り乱している。
大山君は、そんな佐藤君の肩を掴んで取り押さえていた。
「落ち着け、佐藤! どうしたんだ!」
むむむ、お山の大将気取るだけあって、落ち着いてるじゃない。
ちょっと見直した。
「離せよ! 追い付かれちゃうだろ!」
そう言って佐藤君は後ろを振り返る。
すると顔は恐怖に歪み、さらに大声を上げた。
「うわあああああ!来るな!来るなあっ!」
驚いて後ろを振り返るけど、そこには何もない。
それは他の皆も同じようだった。
「離せっ!」
「あっ」
余程強く振り切ったのだろうか、佐藤君は大山君の拘束を解き、走って行ってしまった。
「待てよ!佐藤!」
大山君と鈴木君は佐藤君を追って行った。
残された私と睦子と斉藤君は恐ろしくなり、教室に戻らず、そのまま帰る事にする。
三人とも無口に、そして足早に帰宅した。
翌朝。
佐藤君と大山君と鈴木君は教室にいなかった。
ガキ大将と取りまきの三人なので、サボりとか言われていたけど、私は知っている。
小学校時代を含めて、あの三人はサボった事など一度もないと言う事を。
ホームルームが終わり、先生は教室を出て行こうとする。
しかし、出る前に振り返ると「斉藤と西舞と立華はちょっと職員室まで来い」と告げた。
職員室までと言いながら、連れてこられたのは校長室だった。
理由は明らかだった。
教室にいない三人。 ここに呼ばれた三人。
考えなくても解る。
「君達と同じクラスの三名が昨日から帰宅していないんだ。 放課後に君達三名と一緒にいた事は調べが付いている。 話を聞かせて貰えるかな」
私達と一緒にいた事はすぐに知れただろう。
撫濫君に見られているし、旧校舎の教室に名前まで書いたのだ。
だけど、あの三人が帰ってなかったなんて。
私達は事実をそのまま告げたけど、信じては貰えなかった。
当たり前だ。 私だって先生の立場だったら信じない。
「まさか伝承が本当だったなんて……」
校長室から戻る際に斉藤君が、そう口にした。
「あんたが自分で言ったんじゃない」
「そうだけど、本当に行方不明になるとは思わないじゃないか」
「怖いよぅ……」
睦子の顔は蒼褪めている。
教室の前まで来ると廊下に撫濫君がいた。
「大人達を信用するな」
彼は、一言そう言って教室に入っていった。
「何なの?」
「さあ?」
結局、その日は落ち着かない一日を過ごした。
先生達から「公開されていない事件だから口外しないように」と釘を刺されていた通り、他のクラスメイトや他の教室の人達は普通に過ごしている。
自分達だけが浮いているように感じた。
翌朝。
斉藤君が来なかった。
大山君達の席も変わらず空いていた。
先生に尋ねると「口外するなよ」と口止めされた上で告げられた。
「斉藤は昨日の放課後から行方不明だ」
目の前が暗くなった。
「りんちゃん……」
睦子が袖を掴んでくる。
お陰で少し立ち直った。
どうしたらいい?
どうすれば私達は助かるの?
必死に考えたけど、いい考えは何も浮かばず放課後となった。
帰りは、睦子と一緒に帰る事にした。 お互い、一人は不安だ。
トイレに寄ると言う睦子を待っていると、声を掛けられた。
「西舞さん」
「――佐久間先生。 あ、ごめんなさい、副校長先生」
「うふふ、佐久間でいいですよ」
佐久間先生はお歳を召した女性教諭で、去年まで数学を教えてくれていた先生だ。
今年から副校長先生に就任していた。
教えるのがとても上手で、実は副校長先生になったのを残念がる生徒は多かった。
もちろん私もその一人で、この先生の事は大好きだった。
「私に何かご用でしょうか」
「あなた先日、旧校舎に落書きしたでしょう?」
「う……は、はい」
「ちゃんと消していらっしゃい。 罰として渡り廊下もキレイにする事」
「え、えええっ!?」
よりによって、あそこにまた行けと言うの!?
「いいわね?」
「う……はぃ……」
再度念を押されると頷いた。
この先生には逆らえない……
一旦教室に戻ると、雑巾を持って旧校舎に向かった。
「あっちこっちにあるコレ(Π)消えるのかしらね……」
試しに濡らした雑巾で拭いてみる。
ちょっとやそっとでは消えそうになかった。
「うわあ、結構大変だわ」
相当力を入れているのに、一つ消すのに5分は掛かった。
一個消したところで、先に教室の黒板を掃除する事に決めた。
陽があって明るいと、そこまで不気味じゃないのよね。
奥の教室に入ると黒板を見た。
「――え?」
その黒板には私と睦子の名前だけが残っていた。
「どういう事?」
疑問が口から吐いて出た。 独り言だ。
なのに応えがあった。
「食べちゃった人のは邪魔だから消したんだよ?」
びっくりして反射的に振り向くと、そこにいたのは女の子だった。
着物を着た年端もいかない少女。
ほっとしたのも束の間。
――待って、今この子は何と言った?
「お姉ちゃんの名前はどっち?」
「え? こっちだけど、西舞凛が私の名前」
反射的に質問に答えながら、下に書かれた名前を指差す。
「ふーん、そっかぁ」
質問しておいて、余り興味が無いような素振りだった。
そして独り言のように呟く。
「昨日までのお肉より柔らかそうだよね……」
――食べちゃった
――柔らかそう
――昨日まで
「ま、まさか……」
私の声に少女は振り向くと――
「お姉ちゃんは、ゆっくり味わってあげるね?」
――ニタリと嗤って、そう言った。
「ひっ」
私は短く悲鳴を上げた。
いや、悲鳴じゃない。 空気が漏れただけだ。
本当に恐ろしいと悲鳴など上がらない。 上げられない。
“カラン、コロン”
少女の履く下駄が音を立てた。
その音に我に返った私は走り出す。
とにかく逃げるしかない。
「あれ、遊んでくれるの?」
遊びじゃない! こっちは命懸けだ。
自慢じゃないけど、私は運動が得意だ。
所詮は平屋の旧校舎。 全力ダッシュすれば端から端でもあっという間だ。
迷わず私は渡り廊下を走って現校舎へ向かった。
渡り切った。
そう思ったら、私は何故か旧校舎の前にいた。
「え、なんで……」
「そこは、もう渡れないよ、お姉ちゃん」
何時の間にここまで来ていたのか。
私の呟きに少女が答えた。 さらに続ける。 絶望の言葉を。
「だって、お姉ちゃん、自分で門を消したでしょ?」
何の事? 門? 消した?
「あ、まさかあの鳥居……?」
「うん、あれを自分の意志で消したって事は、帰る事を拒否したと言う事だから」
「そ、そんなぁ……」
絶望が私を襲った。
なぜ私は態々あれを自分で消したのか。
――佐久間先生に言われたから
撫濫君の顔が浮かんだ。
彼は言っていたではないか。
『大人達を信用するな』
彼は、この事を知っていたのだろうか。
「もう遊ばないの?」
私の思考を断ち切って少女が告げる。
死刑宣告ってこんな感じだろうか。
いけない、現実逃避していたみたいだ。
「遊ばないなら――」
言葉を続ける少女を無視して、脇を走って駆け抜ける。
物凄く怖かったけど、捕まらずに抜けられた。
手近な教室に入り、窓を開けようとしたが開かなかった。
鍵が掛かっているとか関係ない。 鍵を開けても窓は開かなかった。
“カラン、コロン”
足音が近付いて来る。
窓やドア、開けそうな所は手当たり次第に試した。
けれど、どれも開かなかった。
「はあっ、はあっ、どうしてぇ……」
とっくに息は切れ、手足が重い。
どんなに頑張っても外に通ずる扉は、ドアはおろか窓も開かなかった。
逃げ場がない。
そんな現実が私を襲う。
恐怖と疲労から逃げるように、私はトイレへと身を隠した。
(落ち着いて考えよう。 私は撫濫君の言う通り、佐久間先生に計られたの?)
信じたくはないが、きっとそうだろう。
そうでなければ、態々渡り廊下もキレイにしろなんて言わない筈だ。
(撫濫君は何故知っていたんだろう)
これは考えても解らなかった。
また、考える余裕もなくなった。
“カラン、コロン”
なぜなら少女の足音が近付いてきたからだ。
「ここかなあ」
そう言って少女がトイレに入ってきた。
ここで漸く私は自分の失態に気付く。
(ここに隠れていたら逃げられない!)
“ぎぃ〜”
個室のドアを開ける音が聞こえた。
「いないなあ」
少女の声。
“バタン”
ドアを閉めた音。
“ぎぃ〜”
「ここにもいない」
“バタン”
“ぎぃ〜”
ついに少女は隣の個室まできた。
(どうしよう、どうしよう、どうしよう……)
もはや、冷静に考えることなど出来ずに、それだけが頭を駆け巡る。
“バタン!”
(ひっ)
強くドアが閉められた音に悲鳴を上げかける。
声を漏らさなかった自分を褒めてやりたい。
だが、次はこの個室だ。もちろん逃げる方法など思い付かない。
“ぎっ”
少女がドアノブを握ったのだろう音が響いた。
(神様!)
「やっぱり、ここにはいないのかなぁ」
“カラン、コロン”
そう言って、少女はトイレから出ていったようだった。
(…………)
慎重に少女の足音が遠ざかったのを確認して、息を吐く。
「はぁ〜〜〜〜」
一先ず安心出来た。
(助かったぁ〜)
「――なあんだ、やっぱりここにいたのね」
突然、足元から声がした。
反射的に足元を見ると、足元のドアの隙間から少女がこちらを見ていた。
「ひぃっ!」
短いが、紛れもない悲鳴だった。
「お姉ちゃん、気に入っちゃった。 また遊んでくれるなら、しばらく食べないでいてあげる」
それは、暫くしたらやはり食べられてしまうと言う事だろうか。
「もう一人いるから、そっちから食べればいいし」
もう一人……?
はっと気付く。
「睦子!」
「そうそう、そんな名前だったね」
「だ、だめ! 睦子を食べるなんて!」
睦子は幼なじみだ。
あの子を食べると言われて「はい、そうですか」と答えられる訳がない。
「む〜。 でも、あっちのお姉ちゃんは遊んでくれそうにないもん」
――だから、あっちから先に食べる。
そう言って三日月のように耳まで裂けた口を開けて嗤う少女の顔は、もはや人のそれではなかった。
“カラン、コロン”
音を立てて現校舎へ向かう少女。
「待って!むっちゃんを食べないで!」
少女を追ってトイレを出たが、足がもつれて倒れてしまった。
止めなければと思いはするが、恐怖と疲労と助かった安堵から、それ以上体は動かなかった。
どれくらい、そうしていただろうか。
途方に暮れて動けずにいると声を掛けられた。
「帰るぞ、西舞」
「……え?」
声のする方を見ると、そこには撫濫君がいた。
「え、なんで? 何で撫濫君がここにいるの?」
訳が分からなかった。
「迎えに来たのに酷い言い草だな」
彼は、そんな事を言いながら私の手を引いていく。
「だ、だめなの、撫濫君。 私は、あの廊下を渡れないの」
「それなら大丈夫だ、俺が道を造る」
「え?」
「俺には天神地祇の一柱、黄泉路を司る神の加護がある。 異界に穴を通すくらい、訳は無い」
てんじんちぎ、って何だろう。
疑問が顔に出ていただろうか、撫濫君が答える。
「天神地祇って言うのは、天に住む神様と土着の神様、つまり全ての神様って意味だ」
なるほど、つまり全ての神様の中で黄泉路を司る神様ってことか。
黄泉路? 黄泉じゃなくて?
「迷ってる連中をあの世に送る役目の神様だからな、黄泉路で合ってる」
また顔に出ていたのだろうか、撫濫君は私の疑問に的確に答えてくれた。
彼は、さらに言葉を続ける。
「問題は、もうアレは誰にもどうにも出来ないって事なんだよ」
「え?」
「犠牲者が六人までなら俺でも何とか出来た。 七人までなら儀式で対応出来た」
行方不明者は数年毎に数人。
それが何代にも渡って行われてきたとしたら……
「あれはもう人の手には負えない」
それで思い出した。
「待って! むっちゃん、睦子が狙われているの! 助けなきゃ!」
「それなら大丈夫、あれはこの旧校舎からは出られない」
「え? そうなの?」
だって佐藤君は……
よく思い出してみると、あの時佐藤君とは渡り廊下で会ったんだった。
でも、その後は走ってどこかに行っちゃったはず。
「でも、大山君達三人は……それに斉藤君も」
「あいつらは大人達に言い含められて、ここに連れ戻されたんだ」
「なんで? なんで、そんなことに……」
「手に負えなくなったアレに対して、周囲に被害を及ぼさないようにする苦肉の策だったんだろう」
信じられない。
それはつまり、大人達は知っていて、それどころか率先して犠牲者を出していたと言う事か。
「肝試しがルール化されているなんて、おかしいとは思わなかったのか?」
「あ……」
「それも止むを得ないけどな。 あれを放っておけば、この町どころか街が滅びかねない」
「……そんなに?」
「あれが直接人を殺して回る訳じゃないけどな。 あれの気に当てられると人は狂う」
「え? 私、平気だけど……」
「今は人を喰って満足しているからな。 後数年は大丈夫だ」
また顔に出ていたのだろうか。 撫濫君が色々説明してくれる。
そんな話をしていたら渡り廊下に着いてしまった。
撫濫君は黙って前に出る。
「黄泉路を司る捻令の使徒、征一の名に於いて希う。 この柏手により現世へと通ず途を顕し給え」
“パンッ”
そう彼が何かの呪文……祝詞? を呟き手を叩くと、渡り廊下で何かが弾けたような気がした。
「お姉ちゃん、行っちゃうの?」
すると、背後で少女の声がした。
鳥肌が立った。
慌てて振り返ると少女がそこに立っていた。
私が身を固めていると、撫濫君が少女に声を掛ける。
「よく出てこれたな、俺の傍は苦しいだろうに」
「黙れ、お前には聞いていない」
撫濫君の言葉に少女は素気なく答える。
彼に対して少女は敵意を感じているようだった。
明らかに私に対する時とは態度が違う。
「わ、私は……」
「もっと私と遊ぼうよ」
少女は私に懇願する。
でも私は気が強い女だ。
心をしっかり持って、はっきりと拒絶した。
「私は死にたくない。 あなたに食べられるのも嫌」
すると少女は寂しそうに一歩下がった。
「……目をかけてやったのに……」
そんな言葉と共に少女の表情が徐々に変化していく。
血走った眼を大きく見開き、口は耳まで裂けた大口を開いた。
「ならば、今すぐ喰ってやる」
少女は私に襲い掛かってきた。
「きゃあああああ!」
私は悲鳴を上げて目を瞑った。
すると肩を掴まれ後ろに引かれる。
「悲鳴を上げている暇があったら走って逃げろよ……」
呆れたような撫濫君の声。
更に背を押されると、私の身体は完全に旧校舎から離れた。
「おのれぇ、捻令ごとき新参の現身風情が私の邪魔をしたな!」
身の毛も弥立つ恐ろしい顔をして少女が叫ぶ。
「だが、この地に縛られたお前にはどうにも出来まい」
そう言って撫濫君は少女の後ろを指差す。
「くっ」
見れば渡り廊下の奥、旧校舎の廊下から無数の白い手が伸びてくる。
やだっ! 怖い!
「きゃああああああ!」
「なんでお前が悲鳴を上げるんだよ……」
だって、怖い! 怖いよ! なによあれ!
「……覚えて居れ、この屈辱忘れぬぞ」
無数の手に掴まれ、ずるずると少女の身体は旧校舎へと引き摺られていった。
少女の姿が完全に見えなくなると、撫濫君が私を振り向いて笑う。
不覚にも、ちょっとキュンと来た。
だと言うのに――
「どうした? 助かったんだ、もっと喜べ」
何、この不遜な物言いは。
ええ、ただの気の迷いよ。
有り得ないから、こんな朴念仁に惚れるなんて。
これじゃ私は、ただのチョロインじゃない。
「?」
あの「どうした?」って不思議そうな顔を殴りたい!
でも、助けて貰ったのも事実だし……
そんな私のジレンマは、その後もしばらく続いた。
結局、真実は何も解らなかった。
大人達は口を噤み、決して話そうとはしなかったし、撫濫君も追及する気は無さそうだった。
旧校舎については、今後も取り壊される事はないようだった。
ただ、私と睦子が生贄になる事だけはなくなった。
そして今、私は屋上にいる。
隣には撫濫君もいた。
「なんだかすっとしない。 気が晴れない」
「…………」
撫濫君は何も言わない。
「何も言ってくれないんだ」
「言ってもどうにもならないからな」
「あっそ」
彼の言う事は真実なのだろう。
必要以上に人と話そうとしない彼だけれど、だからこそと言うべきか、彼は真実しか口にしない。
渡れない渡り廊下。
あの伝承――警告――は、生贄になる生徒達の、せめてもの反抗か。
大人は信用出来ない。
だからこそ、自分の身は自分で守れという想いが込められていたのではないだろうか。
多くを語れば、伝承そのものが大人達の手によって抹消されてしまう。
真実をぼかし、大人達のお目溢しを狙って、それでも一人でも多くを助けようとした生徒が過去にいたのではないか。
そんな気がしてならない。
ふと隣を見ると――
――撫濫君の微笑が目に入った。
〜渡れない渡り廊下 完〜