悪い子誰だ
僕には頼れる人がいない。僕にとって唯一頼れる人だった母は、ある日を境に家に帰ってこなかった。
「じゃあお母さん、仕事に行ってくるから。お家のことよろしくね?」
最後に聞いたのはそんな言葉。馬鹿正直に頷いたかつての僕はそのままおかあさんを見送り、家で大人しく待っていた。疑うことなどせず、無邪気に、純粋に、おかあさんの帰りをただ待っていた。僕はそれを愚かだとは思わない。それは今でも、いつになっても変わらないと断言できる。小さな子供が自分の母親を信じることを、誰が叱責することができよう?
おかあさんがいなくなってからどれぐらい経った頃だろうか。なんとなく、子供ながらにおかあさんは帰ってこないのだと思い始めたとき、初めて不安に駆られた。(ここで泣かなかったのは、今でも僕の密かな自慢だ)住人が僕一人になってしまったこの六畳一間の狭いアパートは、不気味なくらい静かなものだった。元々このアパートは住人も少なく、空き部屋が目立つ。さらに三階に住んでいることから、地上の音は一階のそれに比べ拾いづらいというのもあるだろう。それが僕の不安感に拍車を掛ける。しかし、そんな状況でも僕の体は食べ物を欲しているようで、空腹感は否めなかった。仕方がないので、お腹が空いた時は買い置きのお菓子やパン、酷い時はいつ買ったのかもわからない腐りかけの野菜を調理もせずに食べて何とか生きていた。火は使えず、包丁はおろか米すら炊けない僕は、そんなもので空腹を満たすことしかできなかったのだ。
おまけに、食べれば食べた分だけ冷蔵庫の隙間は否応なしに目立っていく。至極当然のことだが、お金のない僕にはその隙間を埋めてやることができない。生きるうえで欠かせないものを失い、真っ当な手段ではそれを手に入れることなどできないとしたら?答えはすぐに出た。思えば、僕は幼いながらそっち方面の才能を持っていたのかもしれない。
きょろきょろと周りを落ち着かない様子で見渡す。誰がどう見ても怪しい挙動だ。僕が今いるここは、子供の足でも家からほんの五分程度で辿り着ける場所にある駄菓子屋。そこにあるカレー味のおせんべいのまん前に僕は立っていた。
「・・・・・」
大丈夫。ここのおばあちゃんは呼ばない限りは店の奥から出てこない。今だって、耳を澄ませば奥からテレビの音が聞こえるじゃないか。そんな風に、早鐘を打つ僕の心臓に言い聞かせても、僕の心臓はそれを無視して、うるさいほどに胸の中で暴れまわっていた。どれだけ頑張っても静まりそうもないので、諦めながら、だけど警戒心は最大に、僕の手はたしかに数枚のおせんべいを握った。それを出来るだけ静かに容器から引き抜き、僕は全力でその場から逃げ去った。
「はぁっ、はぁっ」
速度は一切緩めず、転がり込むように僕は自宅へと転がり込んだ。苦しい。苦しい。心臓はさっきの比じゃないくらいに荒れ狂っている。今にでも胸を引き裂いて飛び出してきそうなほどだ。どれだけ息を吸っても拭えない窒息感、無意識に震える手を必死に押さえ、玄関で靴も脱がずに蹲った僕には、未だ強く握り締めているおせんべいを食べることが出来なかった。
駄菓子屋で盗みを働いてから、一週間がたった。あれ以来、僕は近隣のスーパーを転々と移り、行く先々で同じことを繰り返した。生きるためだから。その為には仕方がないことだから。そう自分に言い聞かせ、僕の手はお店に陳列されているものに伸びていく。手を伸ばし、商品を掴みかけたところで僕は気付いた。僕の手は、どす黒い色に染まっていた。洗っても、皮を剥いでも、切り落としたって二度と落ちることのない色に。その色はどうしたって、もう二度と落とせない。そう直感した。
この生活にも慣れた頃には、僕の手は汚れきっていた。それはお風呂に入らなかったからというのもあるし、情け容赦なく罪人にかけられる罪の穢れというのもある。僕の目ではもう肌の色が見えなかった。汚れた手を気にするのはもう随分前にやめた。機械的に盗み、機械的に盗んだそれを食べ、その後は死んだように眠りにつく。それ以外のことは一切しないし、世界の情報は一切受け付けない。今の僕の生活サイクルだ。今日も機械的に食事を終え、残ったゴミをベランダにあるゴミ袋へ詰めた。この時、もし気付いていれば結末はどのように変わっただろうか。・・・いや、たらればに意味はない。どうしたって、このときの僕は気付けなかったのだから。慎重に、物音を極力立てないように入ってくる闖入者のことなど。
ドンっ
突然の衝撃に僕は反応することも出来ずに、為す術もなく身を任せる。結果、僕の体は柵を超え、そのまま重力に従って降下を始めた。落ちながら見た光景は、さっきまで僕がいた場所に立つ一組の男女。男の方は知らないが、女の方には見覚えがあった。
「・・・・おかあさんだぁ」
幼い僕を置いていった彼女。優しそうで、気の弱そうな印象は今では見る影もなく、そこには実の息子をまるで毒虫でも見るかのような目で落下の様子を見届ける女の姿があった。
だけど、そんなことは気にしない。それよりも、おかあさんに聞きたいことや言いたいことが沢山あった。「なぜ自分を置いて去ったのか?」そんなことはどうでもいい。
おかあさんは今日まで毎日ご飯をちゃんと食べた?
お風呂は入ってる?
僕、あれからお菓子ばっかり食べてるんだ。たまにはおかあさんの料理が食べたいや。
あ、そうそう。この前お菓子に付いてたカードでかっこいいカードを当てたんだ。後で見せてあげる。
おかあさんは僕のこと好きだった?僕はもちろん好
そんな僕の心の声は最後まで言い切れず、一瞬耳に入った"パァン"という破裂音と共にどこかへと消えていった。
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