二章の三
「結子。話しておかないといけないことがあるわ」
いつになく沈んだ声音だった。
「はい」
「母はもう舞えません」
「え?」
「この肩の傷が癒えるかもしれないけれど、今回の祓いの舞はできないわ」
医事は治るとは言わなかった。
「本当であれば手本を見せたかったけれどそれも叶わない」
「では私が舞うことになるのですね」
母が怪我をした時点で思っていたことではある。幾度となく重ねてきた舞の稽古。しかしそれはあくまで稽古でしかなく、本番の緊張感などはやってみるまでは到底分かるものではないのだろう。
「いきなりのことであなたには申し訳なく思っているわ。こんなことなら昨年から都に連れてきておくのだったと、今さら後悔しても遅いけれど」
「今回のことは母様のせいではないわ。誰かが私たちを狙っていた。殺そうとしていた。おそらく祓われたくないからこんなことを」
怒りがこみあげる。今までこんな感情を持ったことがない。
「結子。怒りの感情を前面に出してはいけません」
結子はどうして?という顔を母に向けた。
「舞の巫女はいろいろな感情を抑えていないといけないと教わってきたわ」
「なぜ?」
そんなことができる人がいるのだろうか。
「分からないわ。ずっとそうしてきたと私も母から教わっただけだから」
「では嫉妬や妬みなどは問題外なのですね」
「そうでしょう」
それで極力人に会わないよう暮らしてきたのだろうか?寂しいという感情は結子の心には常にあるというのに。父親がいなかったという寂しさだ。
「舞の儀式では心を無にして、厄を身体に受けることに専念せねばなりません。他のことに心を奪われてしまうと厄に身体を喰われてしまうわ」
「喰われる?」
「もし呪詛だとすると、その呪詛に身体が蝕まれてしまう。失敗して亡くなった巫女もいると聞いたわ」
「どうして今それを話すの?もっと前から話せていたでしょう?」
「ずっと十六になってから話すことにしてきたのだそうよ。もう少しだった。まさかこんなことになるなんて思わなかった」
母の手が震えている。感情を抑えているのがあたりまえの母が、取り乱しているのが分かる。確かに。一度も本番を経験していない結子が祓いの舞をしたとして、失敗したら死ぬかもしれないのだ。そうなれば深とは結ばれることもない。深が他の人を娶ることになるかもしれないと思ったらいてもたってもいられなくなった。
今すぐにでも深に会いに行きたい。しかしこれから帝との謁見も控えている。どうしたらいいの。行き場のない気持ちばかり先走って母の存在を忘れてしまっていた。
「結子。深に会いたいのね?」
結子ははっとして母の顔をまっすぐに見た。
言葉にするのも何故か憚られて小さく頷いた。
「夜の湯浴みのあとに会えるようにしておきます。帝の御前ではそのような落ち着きのない姿を見せてはいけません」
母もこのような気持ちになったことがあるのだろうか。いや、すでに妻子がいたのだ。自分よりはるかに救われることのない心持ちだったはずだ。比べようもない。結子の方がまだとても幸せだ。たとえ思いを通わせることができなくても、今夜深に思いを伝えようと心に決めた。