一章
昼なのに夜になったように暗い室内。雷がどんどん近づいてきているのか、空が光る。嵐がくるのだろう。湯の入った桶を持ちながら老婆は空を見上げた。誰が言ったのか言い伝えでは嵐の日に産まれると。
「そろそろかね」
赤子の泣き声が響いたのはその二時間後だった。
雪が降り積もるなか、結子は毎朝日課にしている朝のお浄めを行っていた。
「冷たい」
結子は身震いした。物心がついたころには毎朝している。屋敷の裏にある祠の水で身体を清めることから始まる。白い襦袢の上からかぶる水は冷たく、結子の肌に突き刺さるようだ。今日はこのくらいにしょうかと桶を置いたところで母の依子から厳しい指摘がはいる。
「結子。今日のお勤めはまだ残っているでしょう」
「でもお母様今日は特別に寒いです。今日はこのくらいで」
震えが止まらず自分の身体を抱きしめながら結子は母親に懇願した。
「寒かろうと毎日のしきたりを変えることはできませんよ」
お願いもあっさりと覆され、結子は諦めてお浄めを再開した。毎日しきたりや、なんだのとやることがたくさんあるので特別な家なのだろうなと思っているが詳しいことは何も教えてもらえずもう十五になる。あと半年で十六だ。幼いころに遊んでいた友はもう嫁にいった子もいたが、結子には縁談の話は全くこない。確かに体つきはまだ男の子のようなので縁談などまだまだ先なのかもしれない。そんなことも考えているうちに今日のお勤めも終わり部屋に戻り暖をとりながら着替えた。
白亜村の冬はとても長い。
都から馬で三日かかるこの国は、一年の半分は雪に覆われ、白い壁のようになることから白亜国と呼ばれるようになったらしい。短い夏の間に穀物を育て、魚や野菜は日持ちするよう漬けこみ、冬に入るまでの準備で忙しく過ごす。冬になるとほとんど家の中にいるので朝から水を被る結子の生活は一般の人々からかなりかけ離れていた。
何かが祀られているような社のような家屋が結子の我が家だ。
とても広く火桶がいくらあっても足りない。寒いなか繰り返される舞の練習。
毎晩の湯あみ。湯あみは結子だけ違う部屋で入る。小さいころは不思議にも思わなかったが今ならわかる。どれだけ優遇されているのか。
時折、都へ出かける母依子の体調がよくないのが原因なのか、舞の練習が厳しい気がしてならない。
都へ何をしに行っているのか聞くといつもははぐらかすのに、今回は違った。
「今晩湯あみが終わったら私の部屋へ」
いつも無口な母が更に冷酷な顔と声で言う。只事ではないのだろうと察した結子は昼前の舞の稽古が済んでから着替えもせず、深々と降る雪を見つめた。
ふと気づいた。いつからいたのか、無造作に束ねられた黒髪の青年が結子を見ていた。
青年は結子が自分に気づいたのを悟ると軽く微笑んだ。
「深兄様」
結子は外套を羽織り、ぎゅっぎゅっと雪を踏みしめて青年のそばまで歩いた。
「結子。今日の昼前のお勤めは終わったのか?」
低く響く声だ。結子が頷くと青年は頭を撫でてくれる。久しぶりに会えて嬉しかったのか結子は頬がほんのり朱に染まる。
「深兄様、今日のお仕事は?」
青年は深といい。結子より三つ年上だ。
「今日は休みだったから結子の様子を見に来た」
微笑みながら話す兄様はとても綺麗。鼻筋がすっとしていて、男性とは思えない瞳の大きさ。色白で上背も結子よりかなり高い。
幼いころは毎日のように遊んでいたのに、今では月に一回会えればいいほうだ。いつのころからか、深は結子にあまり会いに来なくなった。仕事を始めたからだと思っていたが、遠くから結子の舞をずっと見ていた時があった。しかし舞が終わるころにはいなくなっていた。大きい瞳を少し細めた深の顔を、舞を踊りながら結子は不思議な思いで見たのを覚えている。その日を境に深は、舞を見に来ることはなかった。あれから五年。
深はもう伴侶を決めてもいい歳だろうなと、ふと思った。しかし今まで浮いた話は聞いたことがない。誰か決めた人がいるのかと思った結子は、胸が少し苦しくなった気がして胸の上に手をおいた。
「どうした?」
深が心配そうに結子の顔を見てくれる。なんでもない、大丈夫と告げるとほっとした顔をして微笑んでくれる。昔からの心配性は変わってないな。小さいころちょっところんで擦りむいただけでおろおろしてくれていたのを思い出す。
「今日はおまえに渡したい物があって」
「渡したい物?」
深は風呂敷から小箱を出した。結子の好きな菫の花が彫られている桐の小箱だった。
「かなり早いけど十六歳の誕生日の贈り物だ」
結子は目を見開き、深と小箱を交互に見た。
「いいの?」
「いいもなにも、結子のために特別に作ったから。開けてごらん」