幽霊作家(ゴーストライター)
「昔に戻りたい」と、そう思った事のある人は多いだろう。
でも、僕はそう思わない。
辛い現実と対峙しなくてはならなくなった時、昔に戻れたらなあ、なんて思ってしまうのは、現代を生きる人として、ごく当然の事かもしれない。でも考えても見て欲しい。
今には今の苦悩があるように、昔にも、それなりの苦悩があったはずだ。
現在抱える苦悩と共に数年前に克服したはずの苦悩までを一気に担おうなんて、正気の沙汰とは思えない。
ましてあの頃、僕が作家を目指し、一人で孤軍奮闘していたあの下積み時代に戻るなんて、考えただけでも死んでしまいそうだ。
死んでしまいそうだと言ったが、決して例え話なんかではない。下手うったら本当に僕は死んでいたかもしれない。いや、断言できる。死んでいた。
あの頃を懐かしく思う事もあるが、それはそれ。
やはり戻りたいとは思えない。
神はいた。
そう思えたのは僕が二十歳の頃。暑かった夏が終わろうとする秋口のことだ。
高校卒業後、すぐにフリーターとして気高きハングリー精神を養うにはうってつけの境遇に身を投じ、日夜バイトに勤しみながら合間を縫って執筆活動を続けていた。
そんな生活をしていて親は何も言わないのかと心配する方もいらっしゃるだろうが心配には及びません。
当方、孤児にて専らの施設育ちです。
人様に迷惑をかけなければある程度の自由は約束され、また、どう生きようが自分の責任。進路で親との諍いが絶えない友人達を目の当たりにしていると、これもまた一つのアドバンテージであると考えてもよいのだと、そう思ったりもしました。
限りない自由がここにあるのです。
とは言え、生きて行く限りは、やはり幸せになりたい。
一体いつになれば小説家になれるのだろうかと疑心暗鬼になったり、いやいや、まだこれからだろうと自分を勇気付けてみたり、そんな最中に書き上げた作品を手当たり次第にコンクールに送りつけては「落選」の二文字に枕を濡らした。
気晴らしに遊びに誘った進学組みの友人からはサークル活動が忙しいと断られ、就職組みの連中とつるんでは見たが終始職場の愚痴を聞かされる羽目になり、まったく持って気が晴れなかった。
そんな凄惨たる日々を繰り返しているうちに、あっという間に二年の歳月が過ぎ去ったのだ。
こんな救いがたい生活の中でどうして神の存在を信じえる事が出来たのか、疑問に思われるだろう。
事の始まりは春先にとある出版社のコンペに原稿を送った事に端を発する。
これぞ二年目の集大成と言える作品を書き上げ、意気揚々と出版社へ原稿を送った。
がしかし、投函してまもなく、この作品がコンペの字数制限をオーバーしている事に気がついた。およそ半年の歳月を費やして書き上げた自信の大作は、自らの過ちにより、一瞬にして無用の産物と化したのだ。
作家にあるまじきミスに、今度こそ僕は自信を無くし、その後しばらく筆を取る事は無かった。
「文字数を削って、また別のコンテストに応募すれば良いじゃないか」とおっしゃられる堅実な方もいらっしゃるだろうが、僕は作品云々より、こんな基本的なことに気が回らない自分自身に腹が立ち、愚か者と罵倒し、やがて怒りを通り越し呆れる他無かったのだ。
何が作家志望だ、それ以前に人としての何たるかを欠いている。そんな自分が人を喜ばせるような作品が書けるはずが無い……
まもなく夏がやってきた。
同年代が浮かれてはしゃぐ真夏の陽気に僕は背を向け、あれほど精を出していたバイトにもほとんど行かず、わずかな貯金を切り崩して、可能な限り家の中で過ごした。
「誰にも会いたくない」
そして蒸し暑い1LDKのアパートの一室で一人、二十一歳の誕生日を迎える事となった。
前にもまして救いがたい日々を過ごす羽目になったが、転機はこの数日後に訪れた。
その日も連日同様、太陽の光を恐れる吸血鬼が如く、日当たりが悪く薄暗い自室に引きこもり、夏休み恒例のアニメの再放送をぼんやりと見ていた。
する事も無くやる気も無い。執筆もしなければ本も読まない、活字なんて見たくも無いと思っていた。そして数日前に自分がまた一つ歳を重ねたのだと気付いた瞬間でもあった。
来年も同じように不毛に歳を重ねるのかと暗澹たる気持ちになっていると、バイト先で化石と揶揄され笑いものにされている、かわいそうな携帯電話が十六和音のメロディを高らかに響かせた。
バイト先からのクビ宣告かと思い、恐る恐る開いてみると、見慣れない番号からの着信であった。
一体何者かとためらったが、暇なので出る事にした。
「……もしもし?」
「あっ、どうも!」と、妙に明るい女性の声。誰だろうか?
声の女性は、自らを「浅見ユカリ」と名乗った。なんでも僕が春先に送ったコンペを主催している出版社の、とある部署の長であるとか。
さらりと自己紹介を済まし、彼女は本題に入った。
曰く「貴方の作品を読んだ上で、一度会って話がしたい」だそうだ。
新手の詐欺かと思った。爪弾きにされると思われた僕の大作は、どう言う訳かお偉い方の目に止まったというのだから無理はない。
会話の主導権は終始この浅見ユカリなる人物が握り。僕はただ「はい」を繰り返し、途中からこれが返答なのか相槌なのか分からなくなった。
走向している内に、会う日取りが決まり、「よろしくお願いします」と言うと電話は切れた。
怒涛の如く訪れた青天の霹靂。
暗い部屋に西日が差し込み、小さな窓から僕は天を仰ぎ、こう言葉を綴った。
そう、「神はいた」と。
小説家になりたいと思ったのは十七の夏だった。
高校に入学してまだ間もない頃、電車通学の暇つぶしに、当時流行っていた小説を読んでみたのが始まりだ。
今の今まで活字には何の興味も示さない、むしろ読むことに苦痛を感じるほどだったが、通学中の時間はそれすらも凌駕するほどの暇地獄。何かしていなくては頭がおかしくなりそうだった。
そりゃ、たまには窓の外を眺めてぼんやりするのも悪くは無かったが、思春期真只中、何かにつけて思い悩む事など無数にある。
そういう考えたくも無い事がこの暇な通学中の時間に、ここぞとばかりに襲い掛かってくるのだ。
「なんと恐ろしい事か!」
そんな事を呟いていると、友人が「うるさい、これでも読んでいろ」と差し出したのが、その小説であった。
かといってすんなり僕がこの小説を読んだわけではない。今思えばいったい何をそんなに思い悩む事があったのかと思うが、当時の僕には余程手に余る深刻な事柄であったに違いない。そうでもなければ活字に逃げ道を見出すなどありえない。
どんな悩み事だったかなんてこの際どうでもいい、思い出したくもない。
とにかく、それからというもの小説ばかり読むようになり、貴重な高校生活の大半を本と共に過ごす事になった。
そして十七歳になった夏。そろそろ進路について考えなければと思うようになった時、ぱっと頭に浮かんだのが小説家であったわけだ。
高校卒業と同時に施設を追い出され、一人暮らしを宿命付けられていた僕は、進学よりもまず就職という進路を考えていて、やりたいことに邁進する友人知人を羨んでいた。
でもこうして自分もやりたいことがある。そう思えたことはとても嬉しかった。
嬉しいついでに僕は「小説家を目指すぜ!」と豪語した。
当然、教師からは反対されたが、そこは若者らしく、情熱と青臭さで強引に逃げ切った。
若さとは振り向かない事である。今となっては頼まれても振り向きたく無い、目も当てられない若かりし頃の思い出だ。
その後の僕の生活は知っての通りである。
だが後悔はしていない。そんなことしても何の役にも立たない。
今までやってきた事が無駄だった。自分の決断が間違いであった。
そんなこと認めてどうなる。後ろめたくなって悲しい思いをするだけだ。
認めて楽になれるものか、そうすれば誰かが優しく肩を叩いてくれるとでも言うのか。
もしそうなのであれば、僕は今すぐにでも認めてしまいたい。
だがしかし、苦節二年、早々に白羽の矢はたった。今更なにを認めるというのだ。僕はもう己が道を邁進するのみだ。
「人生、一寸先は闇」と言う言葉がある。
この言葉は可能性に満ちている。決してネガティブだけが取り柄な言葉ではない。
不明瞭で見通しの聞かない道であったにせよ、悪い事ばかり待ち受けているわけではないという事だ。
闇と聞けば恐ろしいと思われるかもしれないが、それこそが可能性を示唆している。
その先で新しい何かを手に入れる事が出来るかもしれないし、同じように迷える仲間に出会えるかもしれない。もちろん一歩踏み出したとたん地面が無くなり、奈落の底にまっ逆さまなんて事も存分に有り得るだろう。
大事なのは踏み出す勇気である。先に何があるかなんて恐れてはいけない。
まして自分の人生。他人の言葉を信じて進んだ先で痛い目を見ても誰のせいにも出来やしない。だからこそ、自分の意思で前に進むのだ。
いざ行かん、ごういんぐまいうぇい。
美味しい話には裏がある。
これは僕が今後の人生を生きる上で最も心得ておかなくてはならない言葉だ。どんな過酷な状況にあったにせよ、安易な救いは大抵が罠だ。
今回のこれは、果たしていかなる事か、神の救いか、悪魔の罠か。
とは言え先方が会いたいとおっしゃっているのだから会わない手は無いし、こんな生活が続くのであればいっそ悪魔の罠ですらはまってみたいものだ。
約束の期日になり、僕は指定された場所へと出向いた。
そこは間違いなく大手出版社のオフィスであり、疑う余地は無かった。だがしかし、ここまで来て糠喜びという事も存分に有り得る。あまり浮かれる無かれ自分。その不適な笑みをやめろ。
「先日お電話を頂戴した者です」そう言うと奥のブースに通された。
隣では本格的に次回作について話している方々。失礼とは分かりつつも聞き耳を立てずにはいられない。僕の夢見る世界が隣に存在するのだ。
「ぬふふ」と僕は溢れ出る笑みをぼたぼたとこぼした。
まもなく「お待たせしました」と電話越しで聞いたのと同じ声が聞こえ、一人の綺麗な女性が表れた。浅見ユカリその人である。
その後ろから四十台半ばと思われる男性が現れ、書類を差し出そうとする。すると「ごめん、後で」とユカリさんは男性を軽くいなした。男性は僕に気付くと「失礼しました」と一声発し、そそくさとその場を後にした。
僕が今対峙しているこの人物はただ者でないという事は分かった。僕も心してこの件に当たる事としよう。もはや懸念される糠喜びは消えてなくなった。やはりどんな時も踏み出す勇気さえ忘れなければ道は開けるのだ。
こんな偉い人のお眼鏡にかかったとすれば、もはやデビューは決まったも同然。
ユカリさんは茶色がかったロングヘヤーをかき上げ、テーブルに僕が送った原稿を置いた。
「あなたの原稿読ませてもらったわ、基本的に私は送られてくるものに目を通す事はあまり無いのだけれど、今回は特例としてね」
「あ、ありがとうございます。読んでいただけて光栄です」
「まあ、そう硬くならずに。リラックスして聞いて頂戴ね」
「は、はい」
「ちなみに、これって実体験を元に書いたのかしら?」
「その通りです、多少の色付けはしておりますが、実体験に基づいた内容となっております」
「なるほど、じゃあ…ご両親が亡くなったっていうのも……」
「はい、自分はまだ幼い頃の事ですので、あまりよく憶えてはいないのですが」
「そっか……」
ユカリさんはそう言うと、小さな声で「にてるねぇ」と言った。
僕の容姿が誰か知人の方に似ているのか、もしくは内容がよく煮詰まっているという褒め言葉なのか。
ユカリさんは僕に目もくれず、原稿に今一度目を通している。
「じゃあ、率直に。感想を言わせていただきます」
「よ、よろしくお願いします」
ゴクリと生唾を飲んだ。
だが期待とは裏腹にユカリさんは予想外の言葉を口にした。
「話はつまらないけど、文章はもっとつまらない」
「……」
僕は言葉を失った。なんて笑えない冗談だろうと思ったが、ユカリさんは眉一つ動かさず何処までも真面目な顔で僕を見据えている。
そして続けざまに、さらに予想外の言葉を言い放った。
「そこを見込んで頼みたい仕事があります!」
悲しみとも喜びともつかぬ凄まじい衝撃が電流のように全身を突き抜けた
浅見ユカリという女性は大変美しく、美声の持ち主であり、また大変優秀な人材でもあった。そんな人に上げて下げて、また上げられヨーヨーのように弄ばれ、彼女から比べれば幼子同然の僕の精神はもはや限界である。
がくがくと震える顎を強くかみ締め首を垂れるほか選択の余地は無かった。今になって思えば、これこそが彼女の常套手段であったのかもしれない。キャリアウーマンのなんと恐ろしい事か。
悪魔のように僕を罠にはめた罪は重い、だからといって彼女を責めても始まらない。
だがしかし、こうして僕の物語が始まってしまうのだ。
ユカリさんが僕に頼みたい仕事とは。
とある作家の代筆作業であった。つまりはゴーストライターだ。
「お願い、他に適当な人がいないのよ」
「でも、僕の実力では相応しくないのでは?」
「だ・か・ら、いいよ」
つまりは、なんの特徴もない、まるで素人のようなつまらない文章が良いのだとか、酷いことをさらりと言う人だ。
「作家志望なら損な仕事にはならないでしょう?お給料だってちゃんと出るし」
「本当ですか!?」
「もちろんよ、もし上手くやってくれたら他に仕事だって紹介できるわ。それに出版社との繋がりだってできる。あなたにとって損な事なんて何一つ無いのよ」
「やります!やらせて頂きます!」
安易であったと今更ながら思うが、こうして僕は小説家ならぬ、ゴーストライターとして、作家業の記念すべき第一歩を踏み出したのだ。
溺れる者、藁をも掴むと言うことわざがある。この時の僕がまさにそれであった。
皆様忘れるなかれ。安易な救いと言うのは、その殆どが罠である。
後日、僕は、僕が代筆を勤める作家さんに会いに行く事になった。
代筆を必要とするくらいの作家さんなのだから、きっと売れっ子に違いない。
果たして僕なんかが代筆を勤められるだろうかと、早々に不安な気持ちになり、吐きそうになった。
僕の最寄りの駅で待ち合わせをして、そこからユカリさんの運転する車で向かう手筈だ。
ユカリさんの車は黒塗りのマニュアル車であった。ずいぶん渋いご趣味で。
「運転する?」
「いえ、オートマ限定なもので……」
「あはは、ダサいねえ」
ユカリさんはさも愉快そうに笑い車に乗り込んだ。
きつい事を平気で言う人であるという事は初対面から了承済みであるが、なまじ美人さんなのでダメージは相当な物だ。
この人の前で何人の男がプライドをズタズタにされてきたのだろうか。
超多忙な人気作家と言えば、僕のイメージでは都内某所の超高層ビルに自宅を構え、執筆に疲れると大きなマッサージチェアに横になり、夜はガウン姿で猫を抱き、ワイン片手に夜景を見渡す。そして「はあ、虚しい」と高みに上り詰めた者のみが味わうと言う孤独に苛まれ、ある種独特な危うさを漂わせている。
そんなイメージ。
大変だ!そんな人と上手くやっていけるだろうか?
その前にその御仁とは男性だろうか、それとも女性だろうか?そんな事すら聞いていなかった。
代筆家業たるもの、その人の素性を知らなければ書けるものも書けないではないか。
「あの、その作家さんは、どんな人ですか?」
「うーん、まあ、変人かな」
「……そうですか」
ユカリさんは車をびゅんびゅん飛ばし、あっという間に都心に行き着いた。
高々とそびえる超高層マンション群の間を走りぬけ、さらに車を飛ばしあっという間に都心部から離れて行った。
一体何処へと向かうのか?
僕のイメージしていた都心部でブルジョワジー極まる生活を営む作家さんではないようだ。案外、多忙な作家とは最近デビューした主婦の方だったりして、真新しい一軒家に住んでおられるのかもしれない。
法廷速度ギリギリで、時にそれ以上で車は走り。「わあ、風になったみたい」と僕は心の中で叫び、恐れおののいた。
あっという間に景色は変わり、華やかな繁華街から寂れた街角へ、さらに住宅地、一線越えると辺りはもう田んぼしか見えなくなった。
寝ていたわけではない、ほんの一時間ほどでおよそ田舎と言って相違ない場所へとやって来ていた。ユカリさんがいくら車を飛ばしたからとは言え、どこか遠くに行き着いたというわけではない。
この場で車を停めて「うひょー、ど田舎村だぜぃ」と叫んでも誰も文句を言わないだろう、むしろ頭がおかしい若者として哀れみの目で見られる事この上なしだ。
その前にまず人がいない。ここを行き交う車は多いが、誰一人歩いている人はいないのだ。だから車から降りないし、叫ばない。
メインストリートの交通の便が良いからと言って必ずしもその街が栄えるとは限らない。ここはその事を、身を挺して証明していた。
いったい誰が為に……。
いくら大都会東京と言え、少し離れればこんなにも素晴らしい田園風景が広がっていようとは、まったくもって知らなかった。東京の半分は山で出来ていると言うにわかには信じがたい都市伝説もあながち嘘ではないように思えた。
車は整備されていないでこぼこのコンクリートロードをひた走り、このまま海を越えどこか遠くの国へ飛んでいってしまいそうな勢いであったが、特になんの前触れのなくすんなりと停車した。
「着いたよ」とユカリさん。
着いた場所は見上げるほど大きい総合病院の駐車場であった。
ユカリさんはどこか体の具合が良くないのだろうか?それとも早々に僕の健康診断を実施するのか?
はっ、そうか。
多忙極まる売れっ子作家と言えば、その忙しさのあまりに体を壊す事もしばしば。
つまり、僕が代筆を勤める作家さんはやんごとなき理由から体調の不便を抱え、ただいま休養中である訳か。
急ぎの締め切りがあるにもかかわらず、執筆する事これかなわず、誰かかわりに書いてくれと頼み込み、頼まれたなら仕方ないと男気たっぷりに胸を叩いたユカリさんは、悪魔の罠にもはまりたい藁をも掴む僕を見つけ出し、その役割を課したと。なるほど、合点がいく。
ふふん、なるほど、なるほど。お困りでしたら仕方ない。お力になりましょう。
そう思うと不思議と力が湧いてきた。病院へ向かう足取りにも力が入る。どしん、どしんと足を踏み鳴らす。すると背後からユカリさんの声がした。
「どうしたの、車に酔っちゃった?」
「いえ、そういう訳では……あれ?」
「こっちよ、ここから少し歩くの」
僕達は駐車場を出た。
「ここからは少し歩く」この言葉はジャングルクルーズを嗜む冒険家ご一行様に、現地のガイドがよく言う言葉である。この場合の「少し」とは、往々にして一日かけて一山越える事であり、不動産屋の駅から徒歩何分と言う情報と同じぐらい当てにならない。
ユカリさんも同様だ。少し歩くなんて言っていたが、ここに来るまで民家らしきものなど微塵もなかったではないか。田んぼと畑のはるか向こうにちらほらと新築したのかリフォームしたのか、真新しく見える家が数件あったのは確かだ。だが少しと言う距離ではないし、そのまま車で横付けしてしまえば済む話だ。あの辺の家でないとするなら何処にあるのだ、作家大先生のお家は。
病院の駐車場を出るとひときわ目を引く巨大な木が、ふてぶてしく突っ立っていた。
その横には小さな御社がポツンと立っていた。まるでここだけ別世界だ。
僕が大木を見上げていると、ユカリさんがそれに気付いたらしく。
「大きいでしょ?戦前から立っているらしいわ」
「へー、詳しいですね」
「まあね、この辺は地元みたいなものだから、いいところでしょ?」
「え?あああ、まあ……のどかな場所ですね」
「そうでしょ、もう、どうしちゃったの?てくらい何もないわよね。これで不動産屋は都心近郊なんて触れ込みで土地売ってるんだから、詐欺みたいよね」
ユカリさんは地元自慢を始めた。昔はこうだった、とか、こんな場所で遊んだとか。
でもそれはニコニコと嬉しそうに話しているユカリさんの表情がなければただの悪口にしか聞こえないから不思議なものだ。
無邪気に人を傷つける事のできる人なのだ。ユカリさんという人は。
話に夢中になりながらもユカリさんの足は進み、僕はついて行く。
どういうわけかユカリさんの足はすぐ近くにある森へと向かっているようだ。話に夢中になりすぎて道を間違えてはいないか、僕はすぐ聞こうとしたが、聞こうとした時にはすでに森の中であった。
病院の向かい側に陣取っているこの森は、きっちりと病院の影にはまり込み、昼間だと言うのにやけに薄暗かった。
薄暗い森と言うのは不気味である。病院の手前に存在すると言うものそこはかとなく不気味だ。不気味な森だ。
なぜこんな森を通るのか?近道なのだろうか?
いくら作家という家業に変わり者が多いと言え、こんな不気味な森に好き好んで住み着く人はいないだろうに。いたとしたらそれはもう人に在らず、きっと毛むくじゃらの怪物に違いない。
陽気にお喋りしていたユカリさんはいつの間にか黙り込んでしまった。
ひょっとしたらユカリさんはその毛むくじゃらの怪物なのかもしれない。上手い話で僕を誘い出し、この森で頭から一飲みにしてしまうつもりなのでは!?
僕は恐ろしくなった。
灯台下暗しとはよく言ったものだ、こんな人気のない薄暗い森なんぞに誰が好き好んで足を踏み入れるだろうか。ここで殺され埋められたとしても発見される可能性は限りなく少ない。うん十年後の区画整理でこの森が伐採された時、運がよければ発見されるだろうが、その時には証拠も何も残ってはいないだろう。身元不明の白骨死体として処理されるのが関の山だ。そんな死に方は嫌だ。浮かばれない。化けて出るほか道はない。
なんて事を妄想しながら僕はユカリさんの後をついて行く。
森は何処までも果てしなく続いて行く様に思われたが、しばらく歩くと一軒の民家が見えてきた。
瓦屋根の大きな門があり、古い木製の塀が森の向こうまで伸びている。
「ここよ」とユカリさんは言った。
本当に少し歩いただけで着いてしまった。
門と塀はだいぶ年季が入っており、その向こうの日本家屋も同様に思われた。
ユカリさんは門に手をかけ、開けようとするが、向こうで何かが邪魔をしているらしく、戸は開かない。
「あいつまた鍵掛けたな」そう呟くとユカリさんは近くの木にするするとよじ登り、塀の向こうへと姿を消した。
僕も後に続くべきかと木に手をかけたが、生まれてこの方木登りなどした事がなく、どうしたものかとしどろもどろしていると、戸が開き、ユカリさんが顔を出した。
「なにしてんの?」
「いえ、別に……」
塀の向こうには立派な日本家屋がどっしりと構えており、その風体たるやお屋敷を呼んで過言はないだろう。
こんな立派なお屋敷様に住んでおられる作家様は、きっと着物を着こなし、白髪交じりのオールバックで、眉間に深く皺を刻んだご老公であるに違いない。
お茶の入れ方一つで機嫌を損ね「出て行け!小童が!」とどやされる。
そんな人と上手くやっていけるだろうか?やはり僕には荷が重い……。
「大丈夫よ、緊張なんかしないで。こんな家住んでいるけど、大した奴じゃないわ」
「そうは言いましても、やはり……」
「代筆なんて頼む奴なんて大した奴じゃないわよ。やってやるんだから金払え!くらいの心持でいて頂戴。まともに遣り合っちゃダメよ」
「すごく変な奴だから」とユカリさんは言った。
僕が代筆を勤める作家さんは「五十嵐カオル」と言う人物であるらしい。
失礼ながらその名を聞いた事はない。
読書家であり、自らを文学青年と名乗ってきたが、まだまだ未熟であるようだ。
どんな作品を書いている方なのだろうか。
ガラガラとガラス戸を開けるとなんとも懐かしい匂いがした。古い家屋の匂い。
年に一度くらいご挨拶に行く父方の親族の方がお住まいになる家が、ちょうどこんな匂いをさせていた。施設を出てからは会いに行っていないなあ、と寂しく思うと余計懐かしく思えた。
玄関から垂直に伸びる廊下は薄暗く、平行に横へ向かう廊下は縁側になっているらしく日が当たっていた。病院の影もここまでは届かないらしい。
「来たわよー」とユカリさん。
すると廊下の暗がりから小さい何かがぬっと現れ、「にゃあ」と鳴いた。
黒猫だった。
「やあ、来たわよぉ」とユカリさんは猫なで声で挨拶をして猫を撫でた。
その黒猫はユカリさんに良く懐いているらしく、ごろごろと喉を鳴らしながらユカリさんの手に自分の額を擦り付けていた。その嬉しそうな顔ときたら、犬派の僕も頬を緩めるほどだった。
「なんだ、早かったな」縁側から声がした。
五十嵐カオル氏だ。そう思って振り返ると、いつのまにかずっと近くにその人は居た。
その風貌は予想と大幅に違い、おそらく歳はユカリさんと同じくらいだと思われるが、見ようによってはずっと若いように見えるし、どことなく孤独な創作の日々に明け暮れる危うさを感じさせるようであり、狭き門をくぐるのだと言うストイックさを感じさせる。
またワイシャツにジーパンと言うラフな服装からはどことなく質素倹約と言う、所帯染みた感じがしなくもない。さらにその小奇麗にまとまった端整な顔立ちからは繊細さや神経質さを感じられ、どこか気難しい人物であるように思われた。
要約すると良く分からない人物だ。ユカリさんが変人と言う所以はこういった見た目にあるのかもしれないと思った。
しかし何故だろう、僕はこの人物と、以前どこかで会っているような気がしてならない。
それは遠い昔ではなく、つい最近の事の様に思う。
この家が放つ懐かしい匂いがそう思わせるのだろうか?
「早くないわよ、時間通りよ」
「そうかな……。それで、君が噂の幽霊君かい?」
幽霊と聞いて僕はギョッとした。慌てて振り向いても誰も居ない、何もいない。
ほっと胸を撫で下ろし、そこでようやく言葉の真意に気がついた。
「あ!はい。ゴーストライターを勤めさせて頂く事になりました。よろしくお願いします」
「こちらこそ。まあ上がってくれ」
「はい、お邪魔します」
「なによ、偉そうに」
自らのゴーストライターを「幽霊君」と呼ぶとは、なかなかステキなセンスをお持ちのようだ。
僕らは客間に通された。
畳張りの広い部屋で、真ん中には艶々と黒光りする長方形のテーブルが居座り、座布団が敷かれ、僕はそこにちんまりと座っている。
縁側から風が入り、部屋の中は思いのほか涼しかった。
風になびく風鈴が障子に影を落とし、その影に黒猫が嬉々としてじゃれついていた。
やがてビリッと嫌な音がして、ユカリさんが「こらこら」と嬉しそうに黒猫を抱っこした。僕は年寄りのように目を細め、その微笑ましいやり取りを見ていた。この部屋はどこか眠気を誘う雰囲気に包まれている。
見たところそんなに歳はいっていないだろうに、どんな話を書けばこんな豪邸に住む事が出来るのか?自分の住んでいる部屋を思い出し、僕は少し悲しくなった。
そして「どのくらい稼いでいるのだろう」と下衆な事まで考えた。
そうこうしているとカオルさんが麦茶をもってやってきた。
「すまないね、遠くまで来させてしまって」
「いえ、とんでもないです」
「まあ、飲みたまえ」そういってカオルさんは麦茶を注いでくれた。
「すいません、頂きます」
一口麦茶を口に含み、ゆっくりと飲み込んだ。
冷たい感触が喉を通り抜け、コクリと音を立てる。
そういえば、麦茶を飲んだのはこれが今年初めてだと気がつき、八月も終わろうとするこの時期に、僕はようやく夏が来たのだと実感した。
思えばこの夏は自室に引きこもる日々。何一つ夏らしい事をしてこなかった。
暗い気持ちで過ごしたあの日々を思いだすと、今の状況のなんと素晴らしい事か。
僕が麦茶の味に感極まって涙ぐんでいると、カオルさんは「もっと飲んでいいよ」と笑いながら言った。
麦茶を飲んで泣いたのは後にも先にもこれっきりだ。
なんとも不思議な時間が流れていた。今が現代なのか過去なのか、はっきりしない感じがして、その中心にカオルさんがいるように思えた。
この映画のセットみたいな古い家も、その周りを取り囲む薄暗い森も、風鈴も黒猫も、ユカリさんまでもがこの人の体の一部で在るように思われた。
本当に頭から丸呑みにされてしまったような気がした。
「カオルさん」と言うと女性のように聞こえてややこしく思われるかもしれないが、そのへんはご了承願いたい。
「苗字ではあまり呼ばれ慣れていないので、名前で呼んで欲しい」というのが、仕事をするうえでの当人からの要望であり、それ以来僕は「五十嵐さん」ではなく「カオルさん」と呼んでいるのだ。
始めのうちこそ「恋人かよ」と心の中で突っ込みを入れていたが、慣れてしまえばどうと言う事はない。だから皆様も早々になれていただきたい。
「カオルさん」とは女性ではなく、小奇麗な男性であり、内面はどこまでもねじくり曲がった掴み所のない人物であり、ユカリさん曰くの「変人」と言うのは正しい表現である。
だが悲しいかな。僕がそれに気付いたのはこれよりずっと後の話。いや、厳密に言えばこの頃からそこはかとなく気がついてはいたのかもしれないが、まだ尊敬する作家先生であると信じて疑わなかったのだ。そう思っていたかったのだ。
「さて、日が暮れてしまわないうちに仕事の話を済ませてしまおう」
カオルさんは縁側で黒猫と戯れているユカリさんに声をかけた。
「そうね」と、ユカリさんは答えながらも、自身のロングヘアの毛先を摘み、それで黒猫をじゃらしていた。
よほど猫が好きと見える。
だがそこは社会人、仕事の事も忘れてはいない。空いている片方の手でスーツのポッケを探り、何かを取り出すと、こちらにそれを投げてよこした。
それはmp3プレイヤーであった。
カオルさんはそれを手に取ると、ニヤリと不気味な笑みを浮かべ、僕にこう聞いた。
「ところで君、怖い話は好きかい?」
「どちらかというと、苦手な方です……」
嘘をついた。相当苦手だ。
「そうか、じゃあちょっと厳しい仕事になるかもしれないね」
カオルさんはまたニヤリと笑った。
この瞬間、僕は自分に課せられた仕事の内容を理解した。そして、この五十嵐カオルと言う人物に感じていた即視感の訳も、ようやく理解したのだ。
僕は間違いなくこの人物に会っている。いや違うな、厳密には「見ていた」が正しい。
僕が鬱々と過ごした夏の日々に、自室でテレビを見ていると必ずと言って良いほど、画面に顔を出したのがこの人だった。その度に僕はチャンネルを変えることを余儀なくされたのだ。
「あれ?知らなかったの?」とカオルさん。
「あら、言わなかったっけ?」とユカリさん。
「何も聞いていませんよう」と僕は二人に涙声で抗議した。
この夏、お茶の間を賑わしたある人物がいる。
名を「渡月ユウゼン」といい。自らを怪談師と名乗った。
怪談師とは名の通り、怪談話を話して聞かせる事を生業とする人の事である。
そんな迷惑な仕事あってたまるかと、僕はタオルケットを頭から被りがくがくと震えながら画面に向かって抗議した。そんな夏の思い出。
ユウゼンは深夜枠の番組に出演した事を期に火が点き。次の日には各メディアから引っ張り凧で、たったワンシーズンでお茶の間の顔となった。
出演する番組は高視聴率をたたき出し、彼が話をすれば他の出演者から観客までキャーキャーと恐怖の悲鳴を上げ、一部からはキャーキャーと黄色い声援を受けていた。
「なんだ、知っているじゃないか、ユウゼンは芸名、五十嵐カオルが本名。それで仕事ってのは、このmp3プレイヤーに入っている僕の怪談話を文章にして欲しいんだ。出来るかい?」
「ごめんね、忙しくて説明するの忘れていたみたい、本当ごめん」
全身から脂汗が吹き出るのを感じた。
ご覧の通り、美味しい話には裏があり、安易な救いは大抵が罠だ。
だからと言って断る訳にはいかない。せっかくのチャンスを棒に振るようなバカなまねはしないぞ、僕は!
「かまいません!大丈夫です。仕事はしっかりやらせて頂きます!」
縁側で寝ていた猫が飛び起きるくらいの大声で僕はそう断言した。
汗でシャツが肌に張り付く、とても嫌な感じがした。
停滞からの急発進で八月が終わり、九月に突入した。
と言っても外はまだ暑く、蝉の声も鳴り止まない。相変わらず僕は部屋に篭って鬱々と過ごしている。別の理由で。
大嫌いな怪談話を永延と聞いて早一週間。
あの日に渡されたmp3プレイヤーには五分から最長で十五分の怪談話が数話収められており、それをただ文章にすれば良いと言う実に簡単な仕事であった。
名のある人に頼むには失礼に当たり、心得の無い者には少々難しく、確かに僕みたいな人材が行うには打って付な仕事だ。
ただ、怖い話が苦手な僕には多少難儀な仕事でもあった。
最初の頃はできるだけ人の多いファミレスかファーストフード店にノートパソコンを持ち込み、事に及ぼうと思ったが、悲鳴をかみ殺すので手一杯でタイプする暇はなかった。
恐怖のあまり耳を塞ごうとした結果、耳にイヤホンを押し付ける形に成り、より鮮明に聞こえる魑魅魍魎の声に飛び上がりコーヒーをひっくり返した事もあった。
やはり僕には荷が重過ぎると、そう感じていたが、何回もリピートするうちに話の流れも落ちも分かり、どうにか文章にする事が出来た。
それでも致命的な後遺症に苦しむ事となったわけだ。
家に帰り、自宅の暗がりに恐怖し、クローゼットのわずかな隙間に怯え、シャワー浴びている時は目を瞑る事が出来なくなった。寝る間も電気は点けっ放しなので電気代がかさむ。ちょっと笑えない。
どうにか仕事を終え、データをユカリさんに送信して、今に至る。
「データ受け取ったわ、ありがとう。仕事が速くて助かるわ」
「いえ、変な所があったら言ってください。すぐに書き直しますから」
「わかった、確認してみる。たぶん大丈夫だとおもうけどね。あ、それとね、もし良かったらなんだけど。文章にして欲しい話が他にも幾つかあったりして……」
僕は少し考えてから「良いですよ」と答えた。
ここまで来たら何話やっても同じ事だ。
「まかせてください」
「あら、頼もしいわね」
こうしてしばらくはこの仕事をして過ごした。
ユカリさんが添付ファイルで音声データを送り、僕が文章にして送り返す。その連続。
次第に出歩く時間が惜しくなり、家で作業する事が多くなった。
怖い話は僕の中で完全に仕事と言うカテゴリに収まり、一々恐怖する事はなくなった。
僕も小説家志望の端くれ、無意識のうちに「怪談」の話の構成を学んでいたようで、新しい話を聞くたびに「このパターンか」とか「なるほど、ここで複線が…」などと口走る様になっていた。
度々あったユカリさんからの訂正の指摘もこの頃にはほとんど言われる事が無くなっていた。
僕は心身ともに成長し、名実ともに立派なゴーストライターへと成長していったのだ。
そして充実した日々は過ぎ、寒々とした十一月になった。
「お疲れ様。とりあえずこの仕事はこれで終わりよ。ありがとね」
「こちらこそありがとうございます。お給料まで頂いて、本当に感謝しています」
「あらダメよ、そんな金額で満足してちゃ。作家志望ならもっと高望みしなくちゃ」
「はい、がんばります!」
「あ、そうそう、カオルが連絡して欲しいって言っていたわ。番号教えるから電話してみて」
「分かりました。ちょうどお礼を言おうと思っていたところなので、すぐに電話してみます」
ユカリさんから連絡先を聞き、僕はすぐにカオルさんへと電話を繋いだ。仕事のやり取り上ユカリさんと会話する事は多かったが、カオルさんと話すのはずいぶん久しぶりの事であった。
「やあ、君か。仕事終わったそうだね」
「はい。おかげさまで色々勉強になりました。怖い話も平気になりましたし」
「それは良かった。それで、次の仕事は決まっているのかい?」
「いえ、それはまだですが……」
「それは結構。では次の仕事を頼もうかな」
「次の仕事、ですか?」
「そう、次の仕事さ……」
電話の向こうでカオルさんがニヤリと笑った気がした。
ゴーストライターとは言え、作家の端くれであるからして「仕事は何をなさっているのですか?」と聞かれたら、僕は躊躇なく「しがない作家です」と答える事が出来る。
しかし「どんな話を書いておられるのかしら?」と聞かれたら返答に困る。
ゴーストライターとは影武者であり、その存在は闇に包まれていなくてはいけない。
もしばれてしまったら最後、僕だけでなくカオルさんにまで迷惑をかけてしまう。
さらにカオルさんは今や人気作家であり。人気タレントであり、人気怪談師なのだから。
僕の存在がばれたら一大事。大スキャンダル。きっと僕は怖い人たちにとっ捕まって本当に闇に葬られてしまうだろう。
作家志望の男。死亡。
つまらないし、笑えない。
「殺されたら本当に幽霊作家だね」
「笑えませんよ、そんなの」
後日、僕はカオルさんの家にお邪魔していた。
例の「次の仕事」の打ち合わせである。
どういう訳か「ユカリには内緒で来てくれ」との事だった。
「そんなに気負う事はないさ、言わば僕らは一心同体、二人三脚なわけだ。君がこければ僕もこける。逆もまた然り」
「そうは言いますけど、僕とカオルさんでは持っているものが違いますよ。僕がいくらこけたって小銭くらいしか落ちませんけど、カオルさんが転んだらいろんな人が困るんですよ、責任重大ですよ」
「いやいや、そんなに気負う事はないさ、言わば僕らは一心同体、二人三脚なわけだ。君がこければ僕もこける。逆もまた然り」
「またそれですか」
「ふふ、大丈夫さ、君は上手くやってくれているよ。だからこそ、こうして次の仕事を頼むんじゃないか」
「はぁ……それで、その仕事とはなんです?」
「んふふ」とカオルさんは微笑んだ。
「君も知っての通り、僕は怪談師だ。それ故多くの怪談話を有している。今や僕の話す怪談は一大エンターテイメントであるからして、多くの人が僕の怪談を楽しみにしている。僕は元来、人を怖がらせる事が、いや喜ばせる事が好きでね。ついサービスで予定にない話までしてしまうんだ。この数ヶ月は夢のようだったよ。本当に楽しかった……でもね、そんな僕もついに話す事が出来なくなってしまったんだ……」
カオルさんは肩を落とし、しょんぼりとして見せた。
「そんな!ご病気ですか!?」
「いやぁ、そんな大それた事じゃないんだ。つまりはね、幽霊君……」
「ネタ切れな訳だ」
僕らの二人三脚は早くも転倒寸前であるらしかった。
「そんな訳で君に頼みたい仕事はズバリ、怖い話を書いて欲しい」
「えっ!そんなの無理ですよ!」
「そんな事はない、ずっと僕の怪談を聞いていたのだから、僕の話しの構成とか、効果的な技法なんか掌握済みだろう?君なら出来るさ。本当の意味で僕のゴーストライターになってくれ」
「本当の?……」
確かに僕は既存の話を文章にするだけの事しかしてこなかった。対してゴーストライターとは当人に成り代わって話を書く仕事である。僕は何を勘違いしていたのだろうか。僕はまだまだ作家とは言えないじゃないか。
「出来るかわかりませんが……やれるだけ、やってみようと思います」
「うん、君ならそう言ってくれると思っていたよ。じゃあこれを……」
カオルさんは一枚の紙を僕に差し出した。何かしらのリストらしい。
「まずはここに書かれた住所に行って探ってきてくれ」
「探るって……何をですか?」
「無論、心霊スポットだよ」
怪談師は怪談を語るからこその怪談師であり、語る怪談がなければただの人である。
一度した話を得意げに話して回るのは信条に反すると言う事で、カオルさんは書入れ時の夏場が過ぎると地方を回り、営業をしたり、観光をしながら恐怖体験をして、時にでっち上げ、怪談話としてストックし、また来年の為に備えるのだとか。そして今年もその地方を回る時期が来たのだとか。
「例年に比べて仕事が増えたからね、今まで通りじゃダメなんだ。もっと数を増やしたいし、もっと怖いやつを取り揃えなくては。良いか悪いか人間はどんな事柄にも慣れてしまうからね、君がそうであったように、お客もそろそろ恐怖慣れしてしまっただろうに。まったく困ったものだ」
「それで僕にも協力を?」
「そうさ。君も作家志望ならいい勉強になるだろう」
「でも、僕は別に怖い話を書きたい訳じゃ……」
「何を言う!いいかい、怪談っていうのはね、短い時間で人を怖がらせなくてはいけないんだ。いかに人の心を掴み、操り、陥れるか。それが良い話を作るうえでの鍵となるんだ。もし君がこの方法をマスターできたなら、今後どのような話を書いたとて、人々の心を鷲掴み出来るはずだ。違うかい?」
「言われてみれば、そんなきがします!」
怪談に学ぶ、話の起承転結。
「そうだろう、じゃあ、後のことは頼んだ!」
「はい!」
こうしてカオルさんはそそくさと地方巡礼の旅に出た。
幾つか僕に言付けを残して。
一つ、家に帰るべからず。
「心霊スポットに出向いてすぐに自宅に帰るのはお勧めできない。良くない者を連れ帰り居座られてしまっては一大事。君に害が及ぶとなると僕も心苦しい。だからしばらくの間はこの家を拠点として活動してくれ。なあに僕らは一心同体、今日からここは君のお家だ」
一つ、霊能力者に頼るべからず。
「霊能力云々と言っている連中を信用してはいけない。あんなのは嘘っぱちだ。御祓いなんてもってのほかだ、大金取られるだけで何の解決にもならない。何か起きたらまず僕に連絡するように!」
一つ、作家たるもの万物に等しく最大の愛と敬意を示すべきである。
「猫ちゃんの世話をよろしく」
と言った具合である。
有体に言えば「家と猫の事お願い、なんかあったら連絡して」って事だ。
唯一救いと言えば「車は自由に使って良いよ」と言ってくれた事ぐらい。
僕の作家修行は次の工程に進んだかのように見えた。
心霊スポットを巡り、怖い思いをしてそれを話にする。これが今、僕に課せられている次の仕事だ。
なんて無茶な仕事だろう。
安請け合いしすぎたと、今更後悔しても仕方がない。しかし後悔せずにはいられない。
いくら怖い話に慣れたといえ、実際にそういった場所に出向くのはまったくの別問題だ。それにあの人の怪談話のせいで無用な知識が付いてしまい余計に怖い。
一人でそんな恐ろしい場所に行けるものか!
僕は作家だ、想像力だけでも書けるはずだ。
「行くものか!」そう心に決め、とりあえず必要な荷物をまとめてカオルさんの家に行く事にした。
悲しいかな、僕には猫の世話という仕事もあるのだ。
電車とバスを乗り継いで、昼過ぎにカオルさんの家に着いた。
家に上がるとユカリさんが居た。
「あら、どうしたの?」
「いえ、ちょっと。猫の世話を頼まれまして……」
「この子の世話?」ユカリさんは足元にまとわり着く黒猫を指差した。
「はい、ユカリさんは何をしているんですか?」
「そろそろこの子が寒いだろうと思って、炬燵出しに来たのよ。ねえ、あいつどこ行ったか知らない?」
「あれ、聞いていないんですか?」
「うん」
「カオルさんは……」
「ユカリには内緒に」その言葉が頭を過ぎった。何か言ってはいけない事を言おうとしているのではないかと思ったが、ここまで言いかけて「知りません」とは言えない。言った所でユカリさんに問い詰められ涙ながらに白状するのが落ちだ。
角が立たぬようすんなり白状してしまった方が良いだろう。
僕はこれまでの経緯を洗いざらい話した。
ユカリさんは「そう」と言い。足元の黒猫抱き上げた。
「また逃げられた」
眉を顰めたユカリさんの顔は、少し寂しそうに見えた。
僕も手伝って炬燵を出し、それから二人で駅前のファミレスに昼食を食べに出向いた。
「ごめんね、迷惑かけて」
「そんな事ないですよ。カオルさんにもお世話になりましたし、これくらいの事。それに暇ですから」
「暇があるなら自分の作品を書きなさい。貴方にはちゃんと目標があるんだから。書き上がったら見てあげるからさ」
「本当ですか!」
嬉しい反面、何を言われるだろうと恐ろしくも思えた。
「そういえば、カオルさんは今でこそ有名人ですけど、その前って何をやっている人だったんですか?」
「そうねえ……あいつ大学出てからずっとフラフラしていたから、当時私が担当していたオカルト雑誌の記事を書く仕事紹介したのよ。昔からそういう話好きな奴だったからね。そしたら数日ですんごい量の話書いてきたのよ。しかも全部オリジナルで。それで会社でも一目置かれるようになってね、本も何冊か出したし、おかげで私もトントンと出世したってわけ」
「そんな事が……」
「そう、それであいつもトントンと出世して、いつしか噺家まがいの事やる様になって、今年に入って大ブレイクよ。だから仕事のありがたみとか解んないんでしょうね。君を雇ったのだって後先考えず仕事入れるから手が回らなくなっての事だし」
「へえ、すごい人ですね、カオルさんて」
「すごくなんてないわよ、あんなやつ」
「すごいですよ。そんな素人同然のところから一気に売れっ子作家なんて。尊敬します」
「まあ、作家目指しているあなたからしたらそうかもしれないけど。私からすればいい迷惑よ。テレビばっかり出てないで本業の方をもっと真剣にやって欲しいわ」
僕はカオルさんに頼まれた「次の仕事」については、ユカリさんには黙っておこうと思った。
そして今、その判断は正解だったと思った。カオルさんがなぜユカリさんに内緒で僕に仕事を頼んだのか、その理由が分かった。
僕もこの二人の関係をこれ以上こじらせる事も憚れるので、そっとしておく事にする。
昼食を済ませ、作家の何たるかについてありがたいお話を頂戴し、僕らは店を出た。
「じゃあ猫ちゃんの事お願いね」
「はい、任せてください」
ユカリさんはしばらく仕事の関係でこちらには顔を出せなくなるとの事だった。
タイミングが良いと言えばそうであるが、少し心細い気もしなくはない。とにかくこれで心置きなく与えられた仕事をまっとう出来るはずだ………。
「それはどうだろう?」僕は僕自身に問いかけた。
その男には記憶がなかった。
ただ目の前には燃え盛る車と、その中で炭化してゆく男の家族の死体がある。
だがその男には記憶がない、目の前で起きていることすら理解できない。
記憶がないのだから、それが家族だとは気付く事はないのだ。
それで……えーと、うん。怖いなあと思った。
「ダメだっ!」
想像力で何とかしようと思った僕の目論見は早くも失敗に終わった。
カオルさんの家に戻り、出したばかりの炬燵に入りながらパソコンに向かい、すでに一時間が経過していた。
あれやこれやと試行錯誤を試みても一向に怖い話が浮かばない。
第一僕は怖い話が嫌いだ。それは単純に僕がオカルト嫌いだという理由だけではない。
僕も小説家志望を名乗る手前、自分なりの美学を持って話を書いている。
それは「物語とは次の展開が予想できてはいけない」というものだ。
サスペンス、ミステリーならトリックや犯人探しで、ラブストーリーなら破局か円満か。ジャンルでそれぞれ先の分からない展開が楽しめる。
そういった面で言えば怪談、怖い話というジャンルも話の展開や伏線、意表をついたオチなどあるかもしれない。がしかし、怖い話とはその名がもうすでにネタバレになっているではないか!
どんな事が起きようが、その先には身の毛もよだつひたすらに恐ろしい結末が待っているのみだ。
私生活にどんな不満を抱いていればこんな話を好き好んで聞こうと思うのか甚だ疑問に思う。昔の人は怪談話で真夏の暑さを凌いだと言うが、今は二十一世紀。怖い話など聞かなくてもクーラーという冷房設備が、文明の利器があるじゃないか!
しかも、もう師走間近と言うのに世間様は相変わらずオカルトフリークだ。
これ以上涼しくなってどうする!
自分の不甲斐なさを温暖化のせいにしていると、ユカリさんに「新しいの買ってあげようか?」と言わせるほど同情を引く僕の携帯電話が勇ましく十六和音のメロディを鳴らした。
あまりに突然だったので僕は驚き、膝元で寝ていた黒猫にしがみついた。
ただでさえ人の家、しかもだだっ広い旧家のお屋敷。かぎりなく心細い。
こんなタイミングで電話を掛けてくる人物などあの人しかいない。携帯を開くと、やはりカオルさんであった。
「やあ」
「ど、どうも」
「どんな調子だい?」
「えーと……ユカリさんにばれました」
「だろうね」と言ってカオルさんは笑った。でもその声は少し力がなく、疲れているように思われた。
「今、何処にいるんですか?」
「まだ関東にいるよ、このままゆっくりと北に向かう予定だ」
「すごくアバウトですね」
「まあね、それより君はどうなんだい幽霊君、ちゃんと書けているのかい?」
「それが、さっぱりでして」
「どうせ想像でどうにかできると思って、リストの場所に行っていないのだろう」
「………はい」
「やっぱりね、この道のプロから言わせてもらおう、このジャンルは想像だけでは無理さ。ちゃんと然るべき場所に行って、恐怖を味わってから想像しないと」
その恐怖を味わいたくないからこうして家に篭っているわけだけど……。
「まあ、僕も少し無理を言いすぎたかもしれない、もしどうしても無理そうだったら、せめて家と猫の事を頼むよ。一週間ほどで帰るつもりだから」
「はい」と言いかけて僕は口をつぐんだ。
カオルさんは僕と同じ無名時代に、ほんの数日で数話書き溜めたのだ。もしこの時「はい」と答えてしまったら、僕は作家にはなれないような気がした。
この人に出来て僕に出来ないはずがない。なんて、そこまでは言わないけど、たったの一話すら書けなくては、なんとも情けないじゃないか。
「一週間ですね」
「うん」
「やってみます」
僕は答えた。
そう言っては見たが、一向に話は思い浮かばず、作業は深夜に及んだ。
と言っても頭の中で想像するだけで、ちっとも書き進んではいない
しばらくして膝元で眠っていた猫を抱き上げ、横になり炬燵にもぐった。胸元でくつろぐ黒猫を撫でながら僕は目を瞑り、考える。
黒猫はごろごろと喉を鳴らす。
そうやってその日は眠りについた。
翌朝。
炬燵で寝ているとユカリさんが現れ「垢すりしてあげる」と言い、手に持った紙やすりで僕の顔をゴシゴシとこすり始めた。あまりに楽しそうな顔をしているので無下に断る事も出来ず、僕はしばらく耐えることにした。あまりの痛みに全身から汗が噴きだした。
ざらざらとした痛みと暑さに耐えかね、目を覚すと、僕の顔を黒猫がしきりに舐めていた。
「うわ!何してんだ」
僕が目を覚ましたと分かると黒猫は一歩後退し
「なあーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーうぅ」
と一切の不満を物語るように長々と鳴いた。
もし猫の言葉が理解できたなら、あまりの酷い言われように思わず涙していたかもしれない。
執拗に舐められた箇所に汗が染みてひりひりした。炬燵で寝るのは考えものだ。
台所で猫に餌をあげ、僕はやかんでお湯を沸かしてコーヒーを淹れた。
フガフガと慌てて餌を食べる猫に「ゆっくりお食べよ」と言ってそっと背中を撫でたら「フー」と威嚇され、僕は悲しい気持ちになった。
黒猫はいそいそと食べ終え、そそくさと勝手口の脇にある猫用の出入り口から出て行ってしまった。
昨夜はあんなに仲良くしていたのに、勝手な生き物だなあ、猫ってやつは。
ご飯を頂くときにほんの少しだけ食べ残してごちそう様をする人のことを猫食いと呼ぶらしい。間違っても猫を食べてしまう人の事ではないので安心していただきたい。
あの黒猫も、あれほどがっついていたにもかかわらず、お皿にはほんの少しだけ食べ残しがある。まさに猫食いである。
しかし、こうして見るとお皿の周りの食い散らかしのほうが気になる。どういうわけか猫は食べ物を口に運ぶたびに、まるで邪念を払うかのように首を横に振るのだ。そのせいで口に運んだ物の幾つかはお皿の周りに飛び散ってしまう。その飛び散ったものをお皿に戻したら食べる前と変わらないのではないかと思ってしまうほどだ。
猫はちゃんとご飯を食べているのだろうか?
食べ方が汚い人の事を猫食いと呼ぶべきではないだろうか?
飛び散らかった餌をティッシュで拾い集めて、ついでに残った餌も捨て、一度お皿を洗ってもう一度餌を入れておいた。これでいつ帰ってきてもご飯を食べられるだろう。
これでもう怒られる心配はない、猫に。
僕はコーヒーを飲み終わると、戸締りと火の元を確認し、家を出た。
外は寒々しく、冷たい風が木々の葉を揺らしていた。思えばここに初めて来たのは夏のことで、鬱蒼と茂った木々が日の光を求め枝葉を伸ばしていた。おかげでこの森は薄暗く不気味であったが、今はどうだい。あるものは赤く色づき、あるものはわずかに残った枯葉を風にさらわれ酷く寒そうだ。空を見上げれば薄っすらと白くぼやけた冬の空が垣間見える。なんとも味気のない風景だ。
これから冬本番になり、この森も丸裸にされてしまうだろう。
僕は冬が苦手だ。この寒い空気に包まれる度に憂鬱な気分になる。
空は白く薄ぼんやりとし、眼下にはコンクリートとアスファルトの無機質なコントラストだ。上も下もモノトーンで酷く味気ない。
「いっそ雪でも降ればいいのに」
森を抜けて通りに出ると、あの大木が僕を出迎えた。相変わらず堂々たる佇まいでそこに立っていた。その横には小さな祠がある。その前に人が一人居た。こんな小さな祠に参拝客かな?と注意深く見てみると、その人と目が合った。
それは白衣を着た男性であり、背が高く、どこか知的な感じのする人だった。
すぐ横に病院があるので、お医者さんがこの辺りまで来ていても不思議ではない。僕は軽く会釈をして先を急いだ。
「自由に使っていいよ」と言っていたカオルさんの車は病院の駐車場に停めてあるらしい。あの人の事だ、なんの許可も取らず近いからという理由で不当に駐車しているのではないか?だとしたら怒られやしないかと少し怖くなった。
言われた番号のスペースには真新しいワンボックスが停めてあった。
オートマだ、良かった。
「それ、君の車かい?」
振り返るとそこには先ほど見かけた白衣の方が居た。
「え、えっと……これは僕のじゃなくて、その、つまり……」
「うん?」
「すいません!勝手に停めて。本人には僕からきつく言っておきますから!」
「いやいや、そこに停める許可はしてあるから大丈夫だよ。見ない顔だから気になってね。そうか、君が噂の幽霊くんか」
「え!」
何ゆえご存知かと尋ねてみると、なんてことはない。
この白衣の方。もとい、秋野ケンジ先生はこの病院の院長であり、カオルさんとは旧知の仲で、今でも仲良しさんであるとの事だった。
「小学校からのお知り合いなんですか」
「うん、あいつが転校して来てからね」
「へー、小さい頃のカオルさんってどんな感じだったんですか?」
「んー、まあ、変人って感じかな」
「……そうですか」
秋野先生はとても気さくな方で「困った事があったら」と連絡先を教えてくれた。やはりこれくらい包容力のある人か、ユカリさんのように平気で他人を突き飛ばす人でないとカオルさんとはやっていけないのではないかと思われた。
僕も見習わなくては。
車に乗り込み、秋野先生に見送られながら僕は病院を後にした。
昨晩、色々と僕なりに考えた。
嫌だ嫌だと駄々を捏ねていても状況は変わらない。時は常に前進をしているわけで、現状維持とはつまり後退を意味する。
いくらあの家で想像を膨らましていてもちっと書けやしない。猫ちゃんとにゃんにゃん楽しく過ごしていれば一週間などあっという間に過ぎ去るだろうが、それでは僕はただのペットシッターだ。
せっかく掴み掛けたチャンスを棒に振り、現状に甘んじて事が過ぎ去るのを待つだけなんて絶対に嫌だ。
もう十分に待ったじゃないか、あの鬱々として過ごした夏の日々を思い出せ、またあの停滞した日々に戻ろうと言うのか。絶対に嫌だ。怖い思いをするのは嫌だが、あの生活に戻るのも絶対に嫌だ。
覚悟を決めて僕はカオルさんに渡されたリストに載っている住所へ出向く決心を決めたのだ。
この恐怖を克服すれば、僕は新たなステージに登る事が出来るだろう。だがいかんせんこの恐怖を乗り越えるのは至難の業に思えて仕方がない。暗闇に怯え一歩も進む事が出来ず、尻尾を巻いて退散する可能性も捨てきれない。
いや待て、なぜ暗闇に怯える必要があるのか?カオルさんは何も夜に決行せよとは言っていないではないか。つまり明るいうちに行けばさして怖い思いをする事もなく現場を見て回れる!
そして今、覚悟を決めて僕は車を走らせているのだ。
道中コンビニに立ち寄り、サンドウィッチとコーヒーを買い、さして食べるつもりのないお菓子と、念の為に食塩と酒を買った。
食塩と酒の心霊的因果関係についてはよく知らない。カオルさんの怪談話から得た浅知恵である。いざとなったら塩を盛り、酒瓶でぶん殴る。もしくは車を飛ばし家に帰り、塩を舐め、お酒を飲み嫌な事を忘れて寝てしまえばいい。
後者になる可能性の方が高いだろう、お菓子はその場合のおつまみ代わりである。
ご丁寧にもリストは上から近場順になっているようで、僕は一番上の住所をカーナビに入力した。
カーナビが地図上に目的地を割り出す。すると思いのほか近くにそれはあった。
渡されたリストには住所と共に軽い説明書きがされている。今から向かう場所にはこう書いてあった。
「飛び降り病院」と。
久しぶりの運転で多少どぎまぎしたが、対向車も少なく道は何処までも閑散としていた。これなら問題ない。
カーラジオを聴きながら車を走らせる。もとより田舎道であったが、目的地はここよりさらに都心から離れた場所にあるらしく、走るごとに民家も畑も田んぼも全て遠のき、ただただ物寂しい木々に囲まれた山道へと変貌していった。
白く霞んだ空は太陽を隠し、全体がぼんやりと光っている。道は最近舗装されたらしく間新しいアスファルトで、そこに引かれた白線は空と同じくらい鮮明な白色だった。
相変わらず対向車は居ない。平日のこんな時間にこの辺りを走っているのは僕だけのようだ。流れて行く景色の中、すれ違う木々の合間に時折民家のような建物が見えたが、人が住んでいるのか怪しいものだ。
そう思えばここらに点在する全ての家々が廃屋のように見え、それらは全て同じように思える。今から僕が向かう先と何が違うのか、疑問に思うところだ。
結局、幽霊なんて噂に過ぎないだろう。なんとなく怖いから幽霊が出るんじゃないかと噂しているうちに面白がって訪れた輩が何かを見間違ったりして幽霊が出たのだと触れ回っているに違いない。そうに決まっている。
ただの廃墟だ。何を怖がる事がある。
ためしにどう見ても廃屋であろう民家らしき建物の近くに車を止め、果敢にも僕は足を踏み入れた。
車道から木々の合間に見えていた茶色い木造の家。これが家であると判断したのはその外壁に曇りガラスの窓が見えたからだ。その窓も風雨か人為的な要因で反面が割られていたので、僕は廃墟であると確信を持っていた。
近くまで寄って窓を覗いてみると、室内はもはや室外であった。
天井は見当たらず、床は草や何かしらの植物の蔦で足の踏み場もない。外壁はこの一面を残して朽ち果ててしまったようだ。もはや家ではない。ただの壁だった。
かつてこの場にも人が住み、もしかしたらすぐ近くにも家が軒を連ねていたのかもしれない。失われた生活の痕跡を見出そうと、その場から辺りを見渡してみたが、木々が生い茂り枯葉が載積しているだけ。
でも、確実にここには昔、人が住んでいたのだ。
ギリシャの古代遺跡に対し、研究者達がロマンを感じ、かつての生活に思いを馳せるが如く、僕はしばらくここに残された生活の断片を愛でていた。
「忘れ去られた痕跡に感じるノスタルジーとそれを見つけた喜び、そしてこの場を離れる感傷の念と、その後も誰にも知られる事なく、朽ちてゆく寂しさ」
いつだったか廃墟好きの友人が酔って熱く語っていたのを思い出した。
「不治の病の床に就き、次第に弱ってゆく美女を見ているようだ」と変態的なことまで言っていた。
車に戻り、妙な気持ちのまま先ほど買ったサンドウィッチとコーヒーで腹ごしらえをした。
あと二十分足らずで目的地についてしまう。所要時間一時間にも満たない。
「こんな近場なら自分で行けばいいじゃないか」と僕は不満を口にした。
するとそれを聞きつけたかのように携帯が鳴った。カオルさんだった。
「おや、車の中かい?」
「ええ、まあ」
「ふふふ、買い物に出かけたという訳でもあるまい」
「ええ…まあ」
「どちらに?」とカオルさんは楽しそうに聞いた。
「これから飛び降り病院です」
「ほう、近場から攻めるとは、なかなか策士だなあ」
言い知れない悔しさに、僕は「ぬう」と唸った。
「因みになぜ飛び降り病院と言うか知っているかい?」
「いいです、知らないままで」
「そう言うな、相手を知らねば見えるものも見えんよ」
「いいです、見えないままで」
「つれないなあ……」
そしてカオルさんは頼みもしないのにそれについての説明を始めた。ひょっとしてこの人はただ僕を怖がらせたいだけではないのだろうかと遺憾に思った。
飛び降り病院とは知る人ぞ知る有名な心霊スポットである
知る人ぞって時点で有名ではないだろうに。
かつて、定かではないが云十年前、その建物がまだ病院として機能していた頃。ある女性患者が謎の飛び降り自殺を図った。それ以後、深夜に屋上から飛び降りる人影を見かけたり、病院内を徘徊する謎の人影が目撃されるようになり、恐ろしくなった病院関係者はは他の場所に病院施設を移転したのだとか。それ以後もその病院は取り壊される事もなくその場に残されているという。そして、そこには今でもその女の幽霊が出るのだとか。
「うううう嘘に決まっているじゃないですか、そんなの……」
「どうだろうねえ、それを確かめるのは君だから」
「いひひ」とカオルさんはわざとらしく笑って見せた。
「もう!余計なこと言わないでくださいよう」
「いいじゃないか、朝っぱらから心霊スポットなんて行っても楽しくないよ、これくらい知っておかなきゃフェアじゃないよ」
「何をどうフェアにするんですか!?」
「文句を言わない。いい話を書くためさ。がんばってくれ」
「健闘を祈る」と言ってカオルさんは電話を切った。
余計な置き土産だ。もしさっき見た廃屋が落ち武者の幽霊が出る曰く付きの場所ですと言われたら、僕は今すぐ漬物になる覚悟で塩をかぶるだろう。
本当に余計な事をしてくれるな、あの人は。
人生、逃げ出したくても戦わなくてはいけない時がある。
でも別に今日じゃなくたっていいじゃないか。そう思いながら僕は車を走らせた。
目的地周辺につく頃には天候は良くなり、薄い雲の切れ間から青い空が垣間見えていた。
山の中服にそれはあった。
不自然に生えそろった木々の合間を縫うようにひび割れたコンクリートの道が左右に分かれ、それぞれが半円を描いている、その向こうに異質に見える大きな石の建物。一見観光ホテルのようにも見える。
ことごとく窓ガラスは割れ、長い時を刻むように概観は薄汚れていた。これが噂に名高き「飛び降り病院」である。
凄まじい戦慄が走る。
ただ見るだけなら柔らかな冬の日差しに照らされた廃墟というだけなのに、余計な事を聞かされているので、ごく普通の風景すらそこはかとなく不気味に思える。
カオルさんの怪談話にもこういった廃墟探訪に出かけ、絵にも描けない地獄絵図を垣間見るものが幾つかあった。それは大抵夜に行われるものなので、午前中に訪れた僕には係わり合いのない事だ。そう願う。
その話の中で印象深かったものは、心霊スポットの近場には乗り捨てられた車が置きっぱなしになっているという話だ。それはどれもまだ新しく、そう日も経っていない。捨てられたのではないとしたら、この車に乗ってきた連中は何処に消え去ったというのか。
そういう怖い話。
そんな馬鹿な話があるものかと馬鹿にした馬鹿な僕だった。
近場に車を停め。外へ出ると、これまた近場にニ、三台。真新しい車が停まっているではないか。
ゾゾゾっと背筋が寒くなる。いやいや冬場だから寒くてしかるべきだと僕はその車たちから目をそらして歩いた。
昨晩来た連中がその辺で眠っているのかもしれない。もしくは僕同様に取材か何かで訪れている人が居るのだろうと思う事にした。
先ほど目に付いた半円状のひび割れたコンクリートの道を歩き、建物正面へと出た。
正面には大きな出入り口が、扉を閉める事も忘れて僕を出迎えた。
その中は日の光が届かない深海のように暗く静まり返っている。
一人で入れる気がしない………。
まだ外は明るい。しかも心霊とはどうやっても結びつきそうにない麗らかな午前中だというのにこの怖さだ。夜中に訪れ中に押し入る連中の気が知れない。
しばらく突っ立って中の様子を覗いていた。どうにも視線を感じ、上を見上げ各部屋の様子を伺ってみるが、誰か居るはずもない。居たら怖い。
別に中に入らなくたっていいじゃないか、と僕はとりあえず辺りを散策することにした。
怖いと思うから怖いのだ。さっきの廃屋で味わったようなノスタルジックな感傷に浸ればここだってそんなに悪い場所ではないだろう。
ここはかつて病院だったのだ。ここで人々が泣き笑い、痛みに苦しみ、病魔を克服し笑顔でこの場を去った。あるものはここで亡くなり、あるものは屋上から飛び降り自殺した。
「ぬおおおおお」と心の中で絶叫した。
怖いものは怖い。
建物の脇にはちいさな庭園のようなスペースがあった。今はもうかつての風景を垣間見る事は出来ないが、わずかに残った花壇の跡や、緑色でドロドロとした水が溜まった楕円形の池などがあった。きっと綺麗な庭園であったに違いない。
色とりどりの花が咲き乱れる花壇を片隅に腰を下ろし、点滴を持ったまま日向ぼっこをする老人、その脇を通る車椅子の少年とそれを押す少年の母親の朗らかな笑顔。池のほとりで談笑する若い男女の溌剌とした表情。
ここもかつて人で溢れていたのだ。
白い雲が風で流され太陽が顔を出した。あたりを柔らかな日光が照らし、僕の心から恐怖が少しずつ消えてゆく。
冷たい風が頬をかすめ、花壇跡の脇に群生している枯ススキの茂みをざわざわと揺らした。
するとその茂みからぬっと何かが出てきた。
それは長い髪の女性であった。白い頬を日に照らされ、じっとこちらを見ている。
永遠とも思しき長い沈黙が一瞬で過ぎ去った。
この時僕が味わった恐怖と、それに準じて出た悲鳴を文章で表現するのはとても難しい。「びゃー」であったかも知れないし「ぎゃー」であったかもしれない、ひょっとしたら「ごびびびび」だったのかもしれない。
あまりの驚きと恐怖に腰を抜かし、その場でひっくり返った。
すると「あっはははは」と、さも愉快そうな笑い声が聞こえてきたので、僕は狐にでもだまされたのかと思った。
前に目をやると、その女性が僕を指差し、腹を抱えて笑っていた。
そうしてようやく「これは人ではないか?」と気が付いた。
彼女はうずくまり、地面を叩きながら笑い転げた。
そんなに笑うことないだろうに。
「なにをしているのか」と聞きたかったが、上手く言葉が出てこない。彼女はしばらく笑い続けていたので、その間僕はじっと彼女の事を見つめるほかなかった。
その後五分くらい彼女は笑い続けた。
その間、ただ腰を抜かしていただけではない。僕はこの人物が何者なのかしかと見極めていたのだ。
恐らく年のころは十七、八。高校生くらいだろう。服装は派手というわけではないが、もこもことして可愛らしく、化粧気のない顔は透き通るように白く美しかった。
「き、君は?」
「君?私のこと?私は、えーと……なんだっけ?」
「あ、そうだ」彼女は廃墟の上を指差し、こう言った。
「私ね、あそこから落ちたの」
彼女が指差したのはまぎれもなく廃墟の屋上だった。
そんな所から落ちたなら大変だ。そう言って僕は彼女に病院へ行く事をお勧めした。だが彼女は断固としてその提案を拒み「死んでも嫌」と言い放った。
「本当に死んでしまうよ」
「大丈夫よ、ほら」そう言って彼女はくるりと回って見せた。
「でも」
「いいの、それに病院に行ったら殺されてしまうわ」
「誰にさ?」
「切り裂き魔に」
「切り裂き魔?」
この病院の廃墟は少なくとも四階建てに相当し、その天辺から落ちたらひとたまりもないだろう。しかし彼女は助かった。落ちた場所が柔らかい土だったからだろうか、そんな奇跡が起こりえるだろうか?
「嘘をついているのでは?」そう考えるのが妥当だろう。僕をからかっているのかも知れない。何より疑問に思うのは、なぜこの時間からこのような場所に来て、枯れススキの茂みに潜んでいたかだ。
「切り裂き魔」については聞かなかった事にしよう。きっと気が動転しているのだ。
「で、きみはこんな所で何してんの?」
「だから、落ちたんだってば」
「いや、だから、その前とか」
「落ちる前……んー」
「憶えていないの?」
「そうみたい……」
「えっと、名前は?」
「リサ、だったと思う……」
僕はリサと名乗った少女に「家はどこか?」「誰と来ているのか?」と幾つか質問を投げかけてみたが、彼女は「思い出せない」の一点張りであった。
彼女が憶えている事と言えば自分の名前と、切り裂き魔の事だけであった。
もし本当に屋上から落っこちて頭を打っていたとするなら、これはひょっとして記憶喪失という症状ではないか?だとしたら一大事。僕はとりあえず彼女を車に乗せこの場を離れた。
「送って行ってくれるの?でも私、家の場所思い出せないよ」
「家はあと、兎にも角にもまず病院だ!」
教訓として言っておこう。見知らぬ女の子をいきなり車に乗せてはいけない。
ましてそれが枯れススキの茂みからひょっこり出てきた子で、自分の事を憶えておらず、切り裂き魔の幻影に取り付かれ病院を毛嫌いしているのであればなおさらだ。
「目立った外傷は無いみたい。骨も大丈夫そうだし」
「そうですか、ありがとうございます」
「できれば病院で診察したいんだけどね、転落って後々怖いから。まあ、それだけ暴れられたなら大丈夫そうだけどね」
そう言って秋野先生は僕の顔の引っかき傷を見て笑った。
僕はリサを病院に連れて行こうと試みたが、少女の全力の抵抗に僕はくしくもそれを諦めた。病院がダメならせめて家に送っていこうと思いきや、彼女は自分の住む家を記憶していなかったのだ。
その辺に捨て置く訳にもいかず、しぶしぶカオルさんの家まで連れ帰ってしまった訳だ。病院の敷地に入る事すら拒むリサのおかげで車を病院の駐車場に停める事も出来ず、今は森の入り口に停めてある。その際、またしても巨木わきの祠にたたずんでいた秋野先生に出くわし、僕は「助けてください」と泣き付いた。
「しかし、驚いたよ。傷だらけで助けてくださいなんて頼むのだもの」
「すいません、本当にどうしたものかと困ってしまって」
「しかしながら君もずいぶん変なものを連れ帰るね。カオルといい勝負だ」
「カオルさんと?」
「昔ね、似たような事があったんだ。もう何年も昔の話だけど。ユカリさんが言っていたけど、やっぱり君達良く似ているよ」
そう言えばユカリさんは以前、僕の小説を読んで「にてるねえ」と言っていた。
「ひょっとしてカオルさんのご両親って……」
「なんだ、知らなかったのか。あいつが小さい頃事故でね。助かったのはあいつだけ、それでこの家に養子に貰われて来たってわけさ、俺がカオルと出会ったのはそれからかな」
「そんなことが……」
「ねえ、ちょっと」
振り返るとリサが部屋から出てきた。
カオルさん宅の二階の部屋を特設診療室と命名し秋野先生に診察してもらっていたのだ。
「トイレどこ?」
「階段を下りて突き当たり、風呂場の手前だよ」と秋野先生はさらりと答えた。
「あ、ありがとうございます」そう言ってリサは階段を下って行った。
「さて、どうしたものかね」
「何がですか?」
「君達のことだよ。あの子、記憶がないっていうじゃないか、そんな子拾ってきてどうするの?警察に届ける?」秋野先生は少し意地悪に言った。
かと言ってそれは実に確信に迫る言葉だった。至極当然の疑問。リサと名乗るこの子を今後どうするべきか。このままカオルさんの家に定住させる訳にもいかない。さらには彼女が嘘をついていたとしたらどうするか。出会いの場所はとにかく、ただの家出少女である可能性も否定できない。
「どうしましょう…」
「とりあえず家主に相談してみなさいな」
ほどなくして「それじゃあお大事に」と医者らしい言葉を残して秋野先生は帰って行った。リサは炬燵に入り猫と戯れている。今のうちにとばかりに僕は台所でカオルさんに電話を掛けた。
「やあ、どうした」とカオルさんが電話に出ると、妙なノイズのような音が聞こえてきた。よくよく耳を澄ましてみるとそれは波の音であるという事が判明した。
「今どちらに?」
「聞こえるだろ、浜辺にいるんだ。冬の海っていうのはステキだね」
「それより、ちょっと困った事になりまして……」
「うん?」
僕が事のあらましを説明すると、カオルさんは「ナンパしに行ったのかい」と聞いてきた。僕は「違います」と断言し、「すません」と謝った。
「僕はどうしたら良いのでしょうか?」
「さあ、成るようにしかならないよ。別に良いと思うけどね、そういう出会いも」
「ふざけないでくださいよう」
「んふふ、さてどうしようかな」
僕の必死の頼みに、やれやれとカオルさんは声のトーンを一つ下げ、真面目な語り口で話し始めた。
「君も小説家志望なら少しは頭を捻ってはどうだい。記憶の無い少女を拾ってしまったなら、その子の記憶を取り戻して御家に帰すのが、主人公たる君の使命だろう」
「記憶を取り戻すって言ったって、そんな器用な真似できませんよ」
「たしかにそうだ、だがヒントくらい見つけられるだろう。彼女がもし本当のことを話していたのなら、記憶を無くす以前、つまり転落前に何かしら身に着けていたかも知れない。彼女が何も持っていないとすれば、その場所に鞄くらい落ちていそうなものだよ」
「確かに今、リサは携帯すら持っていません。何も持たずあんな場所で一人でいるなんておかしいですよね」
「そうだろう。もし、ただの家出娘だとしたら、何も持たずってのは考えにくいんじゃないかい?」
「じゃあリサは本当に記憶が?……」
「さあ、どうだろうね。それは君が確かめなさい」
「はい、明日にでもまた飛び降り病院に行ってみます」
「よろしい。それじゃあ……」
「あ、あの、もうひとつ聞いていいですか?」
「なんだい?」
「病院に出る切り裂き魔って聞いた事ないですか?リサはそれを怖がって病院に行くのを拒んでいるんです。何かの都市伝説のようなものだと思うのですが」
「切り裂き魔……なんだろう、昔そんな話があったような」
カオルさんはしばらく考え込んで「思い出せない」と言った。
「気になるなあ、なんだったかなあ」
「それでしたらいいです。自分で調べてみます」
「そうかい、もし思い出したら知らせるよ」
電話を終えて居間に戻ると、リサは炬燵でうつらうつらしていた。
僕は二階の和室に布団を敷き、リサにそこで眠るように諭した。
「はあい」と眠そうに返事を返したリサは二階に上り、その日は下りてこなかった。
翌日、指先の痛みで目を覚ました。
見ると黒猫が僕の指をかじっていた。加減してくれているようで傷は無かったけど、もし起きなかったら朝食代わりにむしゃむしゃと食べられてしまったかもしれない。
怒る猫をなだめつかせながら餌をやり、僕もコーヒーを飲んだ。
リサはまだ寝ているようで、ひょっとしたら万が一と思い、部屋を覗きに行った。
決していやらしい気持ちで動いた訳ではない。あしからず。
ドアをノックし少しだけ開いて覗いて見ると、布団に包まったまま寝ているリサの姿があった。息をしている。大丈夫、生きている。
起こしてしまうのも申し訳ないと思い、そっとしておく事にした。昨日コンビにで買ったお菓子を部屋の入り口に置き、ドアを閉めた。
お腹が空いたら食べるだろう。
僕はそっと家を出た。いざ再びの飛び降り病院へ。
リサは一体何者か?何故あのような時間にあのような場所に居たのだろうか?
嘘をついているとも思えない。かといって本当に屋上から落ちて記憶喪失と言うのは信憑性に欠ける。だとしたらただの家出少女だろうか?しかしその家出少女がなぜ人里離れた廃墟に居たのだろう?もしかして住んでいたのか?
分からない。とにかくそれを確かめに行くんだ。
もちろん僕の仕事も忘れてはいない。
車を走らせ昨日通った道をなぞる。
もう二度とこの道を通る事は無いだろうと高をくくっていたが、まさか翌日に通る事になろうとは……。
前日とは違い、今日の空は晴れ渡っていた。冬の澄んだ空気が窓の隙間から入り込み、日差しが山道を照らす。なんだか気分が良い。億劫な気持ちにならないのはありがたい。
程なくして目的地に着く。さすがに二日目ともなると幾分恐怖も和らぐ。
昨日停まっていた持ち主不明の車は姿を消していた。なんだ、やっぱり持ち主が近くにいたんじゃないかと少し安心した。
アーチを描く、ひび割れたコンクリート道を通り、建物の真正面へ。辺りはひっそりと静まり返っていて、僕の足音だけが響いた。
とりあえず昨日リサが倒れていた辺りから探す事にしよう。
リサが倒れていたあの庭園は建物正面より西側に位置し、建物の側面に面した場所にある。何かしら落ちているとしたらあの辺だろう。
もし無かったら、建物の中で落としたという事になる。そしたら中に踏み込まなくてはならない。それは御免こうむりたい。頼む、有ってくれ。
その願いは虚しくも潰えた。何処をどう探してもそれらしいものは見つからない。
「中か……」
枯れススキの中から見上げた空は晴れ渡り、日の光を遮る様に廃墟の屋上が目に留まった。
正面玄関に戻り、いよいよ踏み込む覚悟を決めた。
目の前が光のとどかぬ暗闇であろうとも、踏み込まなくては。大切なのは踏み出す勇気だ。しかしながらまだその勇気が湧いてこない。リサを連れて来れば良かったと少し後悔した。
仕方が無い、それならばと、僕は携帯を取り出した。
「……なんだい?」
「寝ていましたか、すいません」
「ううん」
カオルさんは前日遅くまで起きていたらしく大層眠そうだった。
「朝から動く事も無いじゃないか。昼下がりからでもゆっくり動き出せばいいんだよ」
「それでは日が暮れてしまいますよ。冬は暗くなるのがはやいのだから」
「だからって早過ぎないかい?」
「猫ちゃんに起こされてしまったので」
「そうか、なら仕方ないか」
特に内容の無い会話をしながら僕は廃墟に足を踏み入れた。
ここが本当に病院であったのなら、ここはさしずめ待合室辺りだろうか?もはやなんの痕跡も残ってやしない。移転する際に何から何まで綺麗さっぱり持って行ったようだ。
入り口付近は薄暗く、不気味に思えたが、入ってみると窓穴から光が差し込んで辺りは思いのほか明るかった。
「心霊スポットに足を踏み入れたの初めてですよ」
「そうかい、それはそれは……」
「思ったより怖くないですね」
「そりゃあ、朝だからね。怖いのが良いのなら何か怖い話でもしてあげようか」
「遠慮します」
少し奥まった場所に階段を発見したので、よく足場を確認してから上の階へと足を進めた。
「それより君、リサちゃん一人にして平気なのかい?」
「ええまあ、見つけたらすぐ帰るつもりなので、大丈夫かと」
「ふーん、しかし女の子と一つ屋根の下と言うのは君には厳しくないかい?」
「……悔しいですけど、おっしゃるとおりです」
「やっぱり、そんなこったろうと思って昨日ユカリに様子を見に行くように頼んでおいたよ」
「さすがです。でも、怒られませんでした?」
「まあ、いつもの事だから」
「怒られたんですね」
「まあ、いつもの事だからね……」
階段を上り、二階にたどり着いた。
長い廊下の左右に連なる出入り口があり、たしかに病院の風景に似ている。ドアがはめ込まれていたであろう出入り口から光が漏れ、明かりがついているように明るい。外からも確認できた窓はここについているのだ。部屋の中は砕けた窓ガラスの破片と埃に埋もれて確認が取れない無数のゴミや崩れた天井のパネルなどが散乱しており。壁にはスプレーで落書きがしてあった。ここまで来たぞと言う記念のそれであろうか。
足早に各部屋見回って見るとしよう。
「秋野先生からカオルさんも昔同じ事があったと聞いたんですが、その時は一体何があったんですか?」
「さあどうだったろう。昔の事でよく憶えていないなあ」
「そんなもんですか?」
「僕を誰だと思っている。そんな事日常茶飯事だよ」
「大変なお仕事ですね」
「ふふふ、そうでもないさ。趣味の延長だからね」
二階の廊下は思ったより長く、角を曲がってさらに奥へと続いていた。その先は妙に暗く足元も覚束ないので、少し怖く思えた。
とりあえず二階の探索はここで打ち切り、次の階へ上がる事にした。
三階も同じような造りで、同じように各部屋を回って歩いた。
どうにも亜空間へと迷い込んでしまったような感が否めないので、現世との唯一の繋がりであるカオルさんとの電話を重宝した。
途中電波が途切れかけて泣きそうになったが、カオルさんの手前、なんでもないように強気に振舞って見せた。
「カオルさんは、僕の両親についてご存知なんですよね」
「ああ、知っているとも」
「僕がカオルさんのゴーストライターに選ばれた理由ってそういった類似点があったからなんですか?」
「さあ、そういったことは全部ユカリに任せてあるから、僕にはわからないよ。でも、僕らは似ているのかもね」
「僕もカオルさんみたいに立派な作家になれるでしょうか?」
「なれるさ、僕よりもっとすごい作家に。がんばればね」
「はい。がんばります!」
こんなところで励まされるのは妙な気がした。
三階探索が終わり、残すは屋上のみだ。
ところが階段は三階で終わっていた。屋上へ続く階段は別にあるらしい。
部屋は大抵回って調べてしまった。となると、残りは廊下の突き当たりを曲がった薄暗い辺りか……。
「カオルさん、これからちょっと恐ろしげな場所に足を踏み入れます。なにか楽しい話を頼みます」
「楽しい話って、そう言われると困るなあ。じゃあ、幽霊はなぜ怖いかという話をしようじゃないか」
「わ、わあ!幽霊なんて単語の出る話はしないでくださいよう」
「なんだ、だめか。恐怖の元凶が解れば怖がることもないだろうに……しかたないな。君と似ているといわれている僕の両親の話でもするか」
「はい、そうしてください」
カオルさんも僕と同様に、幼い頃事故でご両親を亡くしている。秋野先生が言った通りであった。
「その事故で軽傷を負って入院したのが、ケンジの親父さんがやっているあの病院だった訳だ。そして僕はそこで仲良くなった老夫婦に養子に引き取られた」
「そこで秋野先生とお知り合いに?」
「その後、通い始めた小学校でね」
「ではユカリさんとは何処で知り合ったんですか?」
「ユカリか。ややこしいのだけど、僕を養子に引き取ったのがユカリの祖父に当たる人で、血縁的に言うと、ユカリは僕の姪って事になるのかな?年上なのにね」
「ややこしいですね」
「うん、ややこしいんだ。関係的には姉弟って感じだけど」
暗い廊下の一角にライトアップされたように光が差し込む場所に階段があった。
その光は踊り場の窓から差し込んでいるらしく、なにやら神々しくさえ思えた。
天に続く階段だ。
「君はご両親の事、覚えているのかい?」
「いえ、幼いころの事でしたので、あまり」
「そうか」
屋上に出ると日差しが眩しかった。この廃墟は山の中腹にあるため、屋上まで上ると辺り一面を見渡せた。
「僕も憶えていないんだ。事故以前のこと一切」
「一切?それはつまり……」
「察しがいいな、そう、記憶喪失ってやつだ」
「……リサと同じってことですか?」
「どうだろうね、違っている事を祈るよ。僕の記憶は今も戻らずじまいだからね」
「今もって、ずっとですか?」
「そう、本当の家族の事も、元の自分がどういった人間だったとか……一切ね」
「そんな……」
屋上に柵はなく、鉄のポールがその痕跡を残していた。
西側の側面、リサが落ちたと指差したあの場所に、水色の携帯電話が落ちていた。
「何かあったかい?」
「ええ、ヒントが見つかりました」
携帯電話を拾い上げようとした瞬間、背後に何者かの気配を感じ、振り向いた。
誰も居ない……。
リサはここから落ちたのか?
端から下を見下ろした。眼下にはあの庭園が見える。間違いなくこの場所だ。真下に枯れススキの茂みもある。今でも誰かあの茂みに横たわっているような気がした。
そうだ。ここは悪名高き飛び降り病院。ひょっとしたら飛び降りた女性とはこの場所から飛び降りたのではないだろうか?
そう思った途端怖くなった。
「どうした?」
「なんだか嫌な感じがします」
「それはいけないな。早く出たほうが良い」
カオルさんの真面目なアドバイスに余計に肝を冷やした僕は駆け足でその場を後にした。
「電話越しというのはなんとももどかしいな」
「だったら自分で来て見ればいいですよ」
「それではなんの為に君を雇ったのか解らないじゃないか。頼むよ幽霊君」
「もうダメかも知れません」
「そう言うな、手がかりも見つかったのだし、厄介ごとはこれにて終了だ。明日からは全力で仕事に向かってくれたまえ」
「僕にしたらこの仕事も十分厄介事ですよ」とは言えなかった。
来た道を駆け足で降りる。帰り際に何かしら起きるのはよくある話だ。ここでおかしな事に巻き込まれるのは御免こうむりたい。
いやしかし、そういった経験をするためにわざわざここまで出向いたのではなかったか?否、本日の目的はリサを親御さんの元へ返すための手がかりを探しに来たのだ!
階段を駆け下り暗い廊下を走りぬけ表に出た。やった!
「無事外に出られました。寝ていたところすいませんでした。もう大丈夫です」
「わかった。また困った事があったら遠慮なく電話してくれ。我々は運命共同体だ」
「ありがとうございます」
電話を切り、車へ向かおうとした刹那、「おい」と声をかけられた。
「おい、ここで何している」
帰り際に何か起きるのはセオリーだ。しかしこのタイミングで呼び止められるとはいかがな事か。「ここで何をしている」と聞かれ「廃墟に来ました」と言うと「そんなもん何処にあるのだ」と返され、僕が振り向くとさっきまで在った筈の廃墟が忽然と姿を消しているのだ!ってそんなに怖くないな。
再度「おい!」と言われ僕は声の方へ向いた。
そこには男が一人立っていた。年のころは初老と言うには若く、中年と言うには少し老けて見えた。地味な服装に地味なニットキャップを被って、やつれた険しい顔で僕を睨んでいる。あまり友好的ではなさそうだ。
「えっと、僕はその……忘れ物を取りに来まして……」
「忘れ物?おとついの晩に来た連中か!」
「いえ…………一昨日の晩に、来ていた連中がいたんですか?!」
僕が驚いて質問を投げると、男は少したじろいでから再び眉間に皺を寄せ言葉を返した。
「ああ、車ニ、三台で乗り付けて、朝までぎゃーぎゃー騒いでいた。いい迷惑だ。知り合いなら言っておけ!ここは病院なんかじゃないってな!」
「え?あ?」
病院じゃない?!
「ここは病院だったんじゃないんですか?」
「やっぱり、おまえもその口か。いいか、よく聞けよ。ここは建設途中で投げ出された観光ホテルだ。幽霊の出る病院跡地なんかじゃねえ」
「なんと!」
飛び降り病院は結局噂でしかなかった訳だ。
これはカオルさんもがっかりするだろうなあ。
「しかし、どうしてまたこんな場所に観光ホテルなんか」
「バブルの遺産だ。ここら辺の連中は皆、建設業者とグルになった詐欺師に騙され大枚はたいてこの石屑立てたんだ。ここらにテーマパークが出来るとか何とか言われてな。馬鹿な奴等だよ」
「詳しいですね、あなたは一体?」
「ここら辺で住んでいるのは、もう俺だけだ。爺さん供は金残はさず、こんな石屑の始末ばかり押し付けやがったんだ……もういいだろ、帰れ。ここに来ようとしている連中にはいました話をしてやれ、ここには何も出ないってな」
散々怖がっていた自分が馬鹿みたいに思えた。どんな怖い話にもやはり裏がある。一度裏返してしまっては、なんとも馬鹿げた一夜の夢だ。
結局、現実なんてのはこんなものか。
怖い話は嫌いだが、少し寂しい感じがした。不思議なものだ。
リサの言う「切り裂き魔」もきっと同様に裏があるだろう。
ここの事情に詳しいこの人物なら、もしかしたら何か知っているかもしれない。裏が取れればリサも病院を恐れなくなる。
「あの、ひょっとしたら、切り裂き魔について何か知っている事はないですかね?」
我ながら阿呆な質問をしてしまったなあと言ってから気がついた。
男は非常に怪訝な顔をして僕を睨んだ。
「さっきから変な質問ばかりするなぁ、お前、何者だ……警察か?」
「いえ、僕はあの………」
男はいっそう険しい顔で僕を睨む。
「た、ただの廃墟マニアですっ!」
一礼して僕は車へと走った。
車で廃墟前を通りすぎる刹那、植え込みの木とコンクリート道の合間から、じっとこちらを見ている、あの男の姿があった。
おいしい話には裏があり、怖い話にも裏がある。
世の中に蔓延る怪談話は消化不良のまま、適当な落とし所におとされ怖いまま終わる。
だが僕はこの度、一つの怖い話の真実のオチにたどり着いた。
「飛び降り病院」の真実は、建設途中で投げ出されたバブルの遺産だった!
どうです!すごいでしょう?ねえ、カオルさん!
「……………………」
「寝ていましたか、すいません……」
「………うん」
「これは新事実ですよ!」
「それは良いとして、君はまた女の子を連れ帰るきかい?」
「なに寝ぼけてるんですか、一人ですよ」
「じゃあ、さっきから隣で笑っている女の子は誰?」
「!?…………………やめてくださいよう」
「んふふ、一矢報いてやった」
カオルさんは眠たげな声で「あっははは」と高笑いしやがった。
「でもさあ、不思議だとは思わないかい?」
「何がですか?」
「噂だよ、飛び降りた病院って。そんな話が何処から湧いて出たものか。気にならない?」
「なりません」
「そう?煙の無い所に火は立たないって言うじゃないか」
「それじゃ逆ですよ」
「うん?煙の立たない火は無い?何を言っているんだ君は……」
「ボケているのか寝ぼけているのか、どっちですか?」
「うん、火事には気をつけてくれよ……」
「起こしてすいませんでした。ゆっくり休んでください」
話にならないので電話を切ろうと携帯に手を伸ばすと「幽霊君」とカオルさんに呼び止められた。
「幽霊君、手がかりが見つかったのならあの子は今日中に親元に返してやってくれ。それが無理なら警察に預けてもいい。その方が早いだろう。とにかくこれ以上あの子、リサ君に深入りするのはよした方がいい」
「それはまた、どうしてですか?」
「勘だ」
「……勘ですか」
「そうだ、長年の勘だ」
そして「うふふ」と可愛らしく微笑むとカオルさんは電話を切った。
寝ぼけていたにしては、ずいぶん真面目な口調であった。
あの廃墟に一昨日の晩に来ていた連中がいるそうだ。
リサは恐らくその一員であったと考えて間違いないだろう。そして朝方僕が来て彼女を拾った。そう考えると合点が良く。
いや待てそう考えると、昨日の朝来たときに停まっていた車とは、ひょっとしたらリサの友人達が姿を消した彼女を探しに来ていたのではなかろうか?だとしたら………。
だとしたら、僕はとんでもなく面倒な事をしてしまった事になる。
人助けのつもりが途方もない二度手間に、親切心が仇となってしまった。正直者が馬鹿をやらかす、困った時代の到来か……。
カーナビが目的地周辺と告げた。
それに負けじと僕の携帯が着信を告げた。
ユカリさんからであった。
「ちょっと!今、何処にいるの!?」
「すいません、私用でちょっと外に」
何やらとり急いでいる様だった。
「カオルに言われて様子見に来たんだけど、あ!ちょっと、危ない!」
ドタンと大きな音がして電話が切れた。
何事だろう、そう思った瞬間。僕の脳裏に「切り裂き魔」という言葉が過ぎった。
森の入り口に車を止めて、走ってカオルさんの家まで行った。
門を開け、ガラス戸を開けて縁側を通り客間へ。リサとユカリさんはそこに居た。
泣いているリサをユカリさんが抱きしめて宥め付かしている。
その後ろには客間と仏間を隔てている襖がくの字に拉げている。
「何があったんですか!?」
僕の声を聞くとリサはユカリさんの手を振りは払って僕の元へ駆け寄り、抱きついた。
「あらあら」とユカリさんは驚いた顔をした。
「どうしちゃったの?」
「僕にもわかりません」
リサは何も言わず僕の胸元に顔をうずめている。
「ああ!血が出てる」ユカリさんが言う。見るとリサの足から僅かに出血していた。拉げた襖から折れた木材が突き出ていた。おそらくそれで切ってしまったのだろう。
「大変、救急箱取ってくる」そう言ってユカリさんは台所の方へ行ってしまった。
さあ困った。どうしたものか。
「何があったの?」とリサに聞いてみたが返事がない。
困った。まずこの状況に困った。女の子に泣き付かれる事なんぞとんと無かった。胸がドキドキする。もしこの胸の高鳴りがリサに聞こえてしまい「うわ、何こいつ興奮してんの。気持ち悪っ!」とか思われては致命的だ。
困り果てて僕は「何か食べた?」と意味のない質問をした。
困惑する僕の事などおかまいなしリサは押し黙ったまま。嬉しくないと言えば嘘になるが、こちらにも心の準備と言うものがあるわけで………。
赤い十字のついた木製の救急箱を小脇に抱えて、ユカリさんが戻ってきた。
「うふふ」と微笑み、僕らを見ている。足元には黒猫。魔女みたいだ。
ユカリさんは僕らの足元に腰を下ろすと、救急箱から消毒液と脱脂綿を取り出し、リサの手当てをし始めた。
「どうしたんですか?」
「いやあ、ちょっとね。懐かしいなって思って」
「救急箱が?」
「うん、カオルがこの家に来たばかりの頃ね、転んで帰ってくるとおばあちゃんに泣き付いたきり離れないの。だから私がこうやって傷の手当てしてあげたのよ。本当にこの家は何も変わらないわね」
「ここカオルさんの家じゃなかったんですね」
「元はね、今はあいつが管理しているけど」
「人に歴史ありですね……あ、そうだリサ、君の携帯を見つけたよ。これで御家に帰れるよ」
僕がポケットから携帯を取り出そうとすると、リサはぎゅうと僕を強く抱きしめ、いやいやと首を横に振った。
「ええっ、どうして?」
「不安なのよね、独りぼっちにされて」とユカリさんが言う。
「そうか……」
リサの気持ちが少しわかった気がした。
携帯を取りだそうとした手をポケットから引いて、リサの頭を撫でた。
「わかった。落ち着くまで、もう少し一緒にいよう」
リサは何も言わず、少しだけ首を縦に動かした。
僕が施設にいた頃、代わる代わる子供達が入居してきた。
僕のように両親を亡くした子、家庭の事情で親元を離れなくてはいけなくなった子。
割とすぐに親元に帰る子もいたし、親戚や里親に引き取られる子もいた。僕のようにずっと施設で暮らす事になった子も、当然いた。
それでも皆、僕も含めて最初のうちは、みんな似たような感じだ。部屋の隅で一人遊びをしたり、ずっと泣いていたり、年上の子や先生にべったりくっついて離れなかったり。 どうしようもない孤独の寂しさに、幼いながらどうにか折り合いを付けようする。
リサもそうだろう。今は不安で仕方ないんだ。
自分が誰か、ここは何処か。帰る場所も分からず、何の因果か信用できるのは僕一人だけ、そりゃ不安にもなる。
「よかった、ただのかすり傷で。棘も刺さってないし、すぐ治るわ」
ユカリさんは仕事の合間を縫ってここに来ていたようで、またすぐ職場に戻ってしまうらしかった。
「夜にまた顔を出すわ、その子の着替えとかも用意しないとね」
「着替え?」
「しばらくここに居るんでしょ?それとも君が買いに行く?」
「いえ、お願い致します」
「それじゃあね、えーと…リサちゃん!」
ユカリさんは「バイバイ」と手を振り、いつもより優しい素振りで家を後にした。
ユカリさんが帰って、リサはしばらく僕にくっついたまましくしくと泣いていたが、やがて泣き疲れて寝てしまった。
リサを隣で寝かせながら、僕は炬燵で今日の事を書くことにした。
キーボードを叩くたびに、パソコンの横に陣取った黒猫が面白がって僕の指に手を伸ばしてくるので何だか楽しかった。
「何処に行っていたの?」隣で寝ていたリサが言った。
「起きたの?」
「うん」
「君が居たあの廃墟に行ってきたんだ」
「そう」
「君の携帯電話を見つけたよ、コートのポッケに入ってる。電話してみたら?」
「ううん、止めとく。急に居なくなって、きっとみんな怒ってる」
「そうかも知れないけど、みんな心配しているはずだよ」
「………やだ」
「ぬう」
リサはまた泣き出した。
「みんな怒ってる。殺されちゃう」
「またそれか……切り裂き魔なんて居ないよ」
「居るもん。さっきだって……」
ドキッとした。くの字に拉げた襖が目に留まる。
「いいいい居る筈ない!」
ぐすんぐすんとリサは泣く。こういう場合どうしたらいいものか。
「な、泣くなよう」
「だって、怖い」
「僕だって怖い」
リサが黙り、僕も黙った。
黒猫は僕の指を追う事に飽きたらしく、毛づくろいをしてから台所のほうへ行ってしまった。
「ねえ」とリサが言う。
「なに?」
「私、どうしたらいいのかな?」
「僕には分からないよ。でも、元居た場所に戻ったほうがいいと思う」
「元居た場所かぁ、どんな所だったのかな」
「何も憶えてないの?名前と、その……切り裂き魔って奴以外」
「さっきね、寝ていたときに思い出したの。私ね、皆から逃げてたみたい」
「みんな?」
「そう、元居たところの皆。詳しくは…まだ分からないけど…だから、落とされちゃったのかも……」
「えっ!それって殺人未遂じゃないか!」
「うう…どうしよう。私殺されちゃう…」
三度リサは泣き出した。勘弁してくれ……。
「君、一体何したのさ?」
「そえが分かったら苦労しないわよ!」
「あーはいはい」とリサの頭をわしわしと撫でて落ち着かせた。落ち着くと同時にリサは寝る。
「子供か!」
しかし困った。彼女は何者かに命を狙われているらしい。それが切り裂き魔なのか、はたまた彼女をあの場に置き去りにした連中なのか。リサの記憶がもう少し明確にならないと家に返すのは危険かも知れない。
暗くなってからユカリさんがリサの着替えを持って来てくれた。
「あら、また寝ているの?」
「そうなんですよ、よく寝る子で」
「手間がかからなくて結構ねえ」とユカリさんは笑った。
「さっきカオルに聞いたけど、その子、記憶喪失なんだって?」
「そうみたいです。嘘か本当か、まだ定かではありませんが」
「ふーん、病院には行った?」
「いえ、どうにも行きたがらないので、秋野先生にここまで来てもらいました」
「ケンジ君か、後でお礼を言いに行かなくちゃね」
「すいません、お手数をおかけして」
「いいのよ、いつもの事だから」
「カオルさんも言っていましたけど、本当にこんな事がいつものように起こっているんですか?」
「まあね、あいつが余計な事に手当たり次第首突っ込んで面倒を起こすのよ。今回はたまたま君がそうなっただけ、と言ってもどうせあいつの差し金でしょう?」
「んんん?」とユカリさんは僕に詰め寄った。こうなっては成す術無し。
「お察しの通りです」と僕は素直に白状した。
「やっぱりね、それで、この子はどうするつもりなの?」
「ええと、カオルさんは明日にでも、リサを家に帰すか、警察に預けた方がいいと言っていました、でも……」
「でも?」
「でも、僕はなんて言うか、もう少しだけリサと一緒に居てあげたいんです」
「ふーん………惚れたな?」
「ち、違いますよ!……ただ、なんて言うか、今のこの子の気持ちが、少しだけ分かるような気がするんです。僕も、同じような境遇でしたから……」
「そういうものかしらね?私には分からないけど。まあ、急ぐ事もないか。携帯はあるし、御家に帰そうと思えばいつでも出来るしね!」
「ありがとうございます、そう言ってもらえると嬉しいです」
「いいのよ、かわいい子の為だもの」
目頭が熱くなった。ユカリさん、そんなに僕のことを思っていてくれたなんて……。
「本当にかわいいわよねえ、リサちゃん」
「……そうですね」
ユカリさんはリサの頭をやんわりと撫でながら、幸せそうに目を細めた。
ほどなくしてリサは目を覚まし、ユカリさんはリサに、お風呂に入るように進めた。
リサは寝ぼけた様子で返事を返すと、むくりと立ち上がり、ふらふらと風呂場に向かった。
「あー、着替え、着替え!」とユカリさんが慌ててリサの後を追う。
僕は一人になり、少し寂しい気持ちになった。
静まり返った部屋にキーボード叩くカチカチという音が響き、風呂場のほうからはユカリさんの声が聞こえる。一緒に風呂に入ったのだろうか?ユカリさんはそういう趣向の人なのか?リサは大丈夫か?
「まあ、いいや」
朝早く起きたためか、急激に睡魔に襲われ、僕は執筆を中断し、そのまま横になった。
炬燵で寝るのはあんまりよろしくはないが、まあ、少し横になるくらいなら問題ないだろう。
そう思い、うつらうつらしているうちに、いつしか深い眠りについてしまった。
妙な夢を見た。
酷くぼんやりとしていて鮮明には思い出せないが、それはとても恐ろしい夢だった。
その夢の中で、僕はリサを殺した。
夢の中でリサは悪い連中に追われていて、僕はそいつらからリサを守ろうと、あの廃墟の一室に彼女を閉じ込める。
そこで一緒に暮らそうと、僕はリサに言うのだ。
でもリサはそれを拒む。
泣いて、帰りたいと繰り返し僕に頼む、でも僕は彼女を手放したくは無くて、ずっと一緒に居ようと言うのに、リサは逃げ出してしまう。
僕がリサを追い詰めたのは、廃墟の屋上。そう、リサが落ちたと言ったあの場所だ。
僕はリサを追い詰め、そして、リサをそこから突き落とした……。
「ドタドタ」という音で目が覚める。
全身寝汗でびっしょりだった。
部屋は暗く、今が何時なのか分からない。いったいどれくらい寝ていたのだろうか?
さっき見た夢のせいでリサの事が気にかかった。この部屋には居ない。
再びドタドタと足音がする。それは二階からする音だった。
全身から血の気が引き、僕は二階へと走った。
「リサ、リサ!」
部屋のドアを開けると、リサが飛びついてきた。
恐怖に全身を震わせ、声を上げて泣いていた。
僕は力いっぱい彼女を抱きしめ、頭を撫でてやりながら「大丈夫だよ」と何度も言い聞かせた。
リサはまた切り裂き魔が出たと言う。でもそんなものここには居ない。
彼女は夢を見ていたのだ。それは恐らく、僕が見た夢と同じものだろう………
泣き止んでもリサは僕から離れようとせず、僕も彼女を離したくなかった。
自分でも良く分からない、あの夢を見てしまってからこの子の事が気がかりでしょうがない。
リサは夢の中で切り裂き魔に追いかけられる。そして最後にあの場所から突き落とされてしまう。そして僕が見た夢。その中では僕がリサを突き落とす。もし僕らの見ていた夢が同じものだとしたならば、切り裂き魔は僕自身である事になってしまう。
嫌な感じがする。
カオルさんはリサに深入りするなと言った。それはひょっとして、この夢の事を言っていたのではないだろうか?
離れないリサを強引に布団に押し込めたが、リサも強引に僕を布団に引きずり込む。
「一人にしないでよ」
「でも、なんて言うか、これは色々と問題が……」
僕の気持ちを知ってか知らずか、はたまた気にも留めず、リサは僕の懐に顔を埋めた。
「ありがとう」
「うん?」
「さっき、ユカリさんに言ってくれた事」
「聞いていたの?」
「うん」
「そっか……」
自分が何を言ったか、思い出して顔が熱くなった。
「ユカリさんいい人ね、私がお風呂に入っている間、ずっと脱衣所に居てくれたの。私が怖がらないように。いろいろお話してくれたし」
「へー、女の子には優しいんだなあ、あの人。どんな話したの?」
「カオルさんって人の事とか、この家の事とか。あなたの事も聞いたよ」
「えっ!変な事じゃないよね?」
「たぶん……あなた家族いないの?」
「うん……まあ、昔は居たんだけどね、もうよく憶えてないや」
「そう……」
僕は自分の家族の事を話すのが苦手だ。
話すこと自体には苦を感じはしない。ただ、話した後の相手の反応に困る。
大抵みんな「ごめん」と言う。それで僕は「気にしないでいいよ」と返す。「昔の事だし良く憶えてない」と言葉を続ける。
自分の生い立ちのせいで、他の人に気を使わせてしまう事が心苦しいのだ。
だから僕は家族の話をするのは、あまり好きじゃない。
かといって「へー」や「そうなんだあ」とやんわり返されても気に障る。親が居ない事で少なからず、人知れぬ苦労はしてきたつもりだ。なにも分からん奴にさも当然のように返されてはどうにも平静を保てない。
親が居ない。だからなんだ。こう言っていいのは僕と同じような苦労の中、甘えず頼らず一人で生きてきた者のみの特権である。
だがこの事をひけらかすような真似は絶対にしない。そんな事ひけらかしても得は無い。不幸自慢ほど不毛な行いはこの世には存在しないのだ。
でもたまには誰か褒めてくれてもいいのに、そう思うこともある。
僕はこんなに頑張って来たのだから。
黙ってしまったリサに、僕は「気にしないでいいよ」と言った。
「まだ子供の頃の話しだから、あんまり憶えてないから……」
「一緒だね」
「え?」
「私も、今は一人ぼっちだし」
「ああ、そうか」
「うん、一緒だね」
リサは顔を上げて、嬉しそうに笑った。月明かりに照らされた彼女の顔は、なんとも美しかった。
「家族になろう!」と唐突にリサが言う。
「えー、それはどうだろう?」と僕が返すと、リサは「おいで」と言って強引に僕の頭を自分の懐に押し付けた。
「ちょ!ちょっと!」
「いいの、いいの」
リサは僕の頭を優しく撫でた。
「なんだよ」
「よしよし」
「まあ、いいけどさ」
観念して目を閉じ、されるがままリサに身を託した。石鹸の匂いがして、頬に軟らかい感触が伝わり、彼女の細い指が幾度と無く僕の髪を梳かした。
ふと何かが頬を伝い、汗かと思い手でぬぐうと、それは次々に流れ、僕は自分が泣いていたのだと理解した。
小刻みに肩が震え、呼吸が歪になる。
「もう、もういいだろ?」
「だめ」
「満足しただろ?もう止めよう」
「だめよ」
「もう……やめてよ」
「だーめ」
リサは僕の頭を抱きかかえ、もう一方の手で優しく背をさすってくれた。
「やめてくれ」と言いながら、僕はリサの細い腰に手をまわし、彼女が離れてしまわないようにそっと抱きしめた。
「大丈夫よ、一緒にいてあげるから」
彼女の手が触れるたび、僕の心の中にある何かが崩れ去り、押し込めていたものが激流となってあふれ、涙となって体外に流れ出た。
ずっと一人で生きてきたつもりだった。でも僕はリサの優しさに母の面影を思い出してしまった。
忘れていた、とっくに記憶なんて無くなってしまっていると思っていたのに。こんな単純なコミュニケーションであっけなく思い出されてしまう。
一人で居る事に慣れて、強くなれてつもりでいたのに、あっという間に幼い頃の僕に引き戻されてしまった。
弱くなってしまう、また一人でいる事が恐ろしくなる。一刻も早くこの子から離れなくては。そう思ったところで、僕の体は彼女を抱きしめて離さなかった。
僕は泣き疲れ、そのまま眠りについた。
翌朝目が覚めると、隣にリサの姿は無く、僕は血相を変えて下に降り、家中を走り回った。リサは台所にいた。
「あ、おはよう」
「お、おはよう」
リサの足元で黒猫がガツガツと餌を食べていた。
「指かじられなかった?」
「そんな酷い事しないよね」
リサが黒猫の背中を撫でると、黒猫は不思議そうにリサを見上げた。
なんか不公平な気がした。
「ねえ、お腹すいた」
「そうだね、でもこの家何もないんだ。後で買い物に行こう」
「うん!」
一時間ほど、僕らはコーヒーを飲みながら談笑した。
僕は自分の事を話した。高校での小説との出会い。卒業後の鬱々とした日々の事。引きこもって過ごした夏に架かってきたユカリさんからの電話。カオルさんとの出会い。
そして、飛び降り病院で、リサと出会った時の事。
古い作りの台所、壁は油汚れで少しくすんで、アンティーク調の食器棚とテーブル。少し寒い部屋を暖める石油ストーブ。
テーブルには二人分のコーヒー。マグカップから立ち上る湯気は窓から差し込む朝日の中に消えていく。
僕が話すとリサが笑った。それが嬉しくて僕は話を続ける。
とても幸せだった。
お店が開く時間になり、僕らは車で出かけた。
カオルさんの家から十分ほどの場所に新しいショッピングモールがあると、昨日リサがユカリさんから聞いていたらしく、僕らはそこに行く事にした。
果てしなく田園風景が広がり続けると思われたこの街も、駅前から少し離れた地価の安い辺りから再開発が進んでいるらしく、巨大なショッピングモールを中心に広い真新しいアスファルトの道が広がり、辺りは工事中の看板で溢れかえり、建設中の高層マンションがにょきにょきと伸びていた。
ショッピングモールには幾多の店舗が軒を連ねていたが、開いているお店はまだ少なく、人影も疎らで辺りは閑散としていた。
お腹を空かせた僕らは開いていたパン屋に立ち寄り、焼きたてのパンを買って、ベンチのある広場で食べる事にした。
寒かったけど、ほんのり暖かいパンをかじって、湯気の立ち上る熱々のミルクティーを飲んだ。
リサは何も話さず、ただ目の前の風景を食い入るように見ていた。
記憶のない彼女には、この風景はどう見えるのだろう。
僕がリサを見ていると、それに気づいたリサがこちらを向き、しばらく見詰め合ってからどちらからともなく笑った。
風は冷たかったけど、日差しは暖かく、じっとしていると少し汗ばむくらいだ。
やがて閉まっていたお店のシャッターが開き、人も増え、ここにもいつもと変わらない日常がやってきた。
僕らはそこに溶け込むように、開店したばかりの慌しいお店を見て廻った。真新しい物や、珍しい物。可愛い物、美味しそうな物。
リサは目をキラキラさせながら見て廻った。
唐突にリサが「お昼ご飯、作ってあげる」と言ったので、僕らは食材を買い込んでからカオルさんの家に帰った。
家に着いてから、リサは休むまもなく台所に向かい。買ってきた食材で料理を始めた。
「手伝おうか?」
「いいの、待っていて」とリサはニコニコして言った。
リサは台所に立ち、手馴れた様子でてきぱきと調理を済ませ、僕の予想をはるかに上回るとてもおいしい料理を作ってくれた。
「おいしい?」
「うん、驚いたよ。料理上手なんだね」
「えへへ、そう見たい。さっき思い出したの」
「へー、他には何か思い出した?」
「うん、なんかね、私家事全般得意みたい。これ食べたらお掃除と洗濯してみる。洗物あったら出しておいて」
「うん…なんか、本当に家族みたいだね」
我ながら変なことを口走ってしまった。家族の何たるかを知らない僕だったが、きっとこんな感じなんだろうと、そう思えた。
リサはただ嬉しそうに笑っていた。
昼食を済ませて、僕が皿を洗い、リサは洗濯機を回してから家中の掃除を始めた。
夕方、駅近くの小さなスーパーに夕飯の買出しに行き、一緒に夕飯を作った。
それから居間のテレビでボクシングの中継を見て、交代で風呂に入った。
二階の部屋に布団を二つ引いてそれに入りながら、明日は何をしようかと話あっている内にリサは寝てしまった。
僕も眠りに着こうかとした時、携帯が鳴った。
カオルさんからの着信だった。
そっと部屋を出ると、入れ替わりに黒猫が入っていくのが見えた。
階段を下りて、底冷えのする廊下で通話ボタンを押した。
「もしもし、どうしました?」
「どうしったって、君が丸一日連絡を寄こさないからどうしたものかと連絡をしてみたのだけれど、それでどうなった?」
「いや、それがどううにもこうにも……」
僕はリサをしばらくこの家に置いて欲しいとカオルさんに頼んだが、案の定カオルさんは反対した。
「まったく困ったものだな、君には失望したよ」
「すいません……」
「まあいい、でも、明日すべき事は分かるだろう?」
「わかりません!」
「おい!」
「リサは一人なんです。僕が居てあげないと。カオルさんにだって理解できるはずですよ」
「確かに、リサ君の今の状態はかつての僕らに似ているかもしれない。でもね、根本的な面で違う。あの子には帰るべき場所がある。明日にでも彼女の携帯で誰かに連絡を取って家に帰して上げなさい」
「嫌です!あの携帯、僕が拾ってから一度も鳴ってないんですよ!そんな薄情な連中にリサを任せるなんて」
「携帯の確認はしたのかい?」
「……いいえ」
「壊れている可能性もあるかもしれない、ただ充電が切れているだけと言う可能性もあるだろうに……」
「でも、でもやっぱりダメです。そいつらがリサを殺そうと廃墟の屋上から突き落としたのかもしれないし、置いてきぼりしたのだって、きっと……」
「おいおい、もう少し冷静になってくれ。今日の君は少しおかしいぞ。とにかく明日、連絡をしてみること。それで迎えが来るようであればそれでいい。もし本当に事件性をはらむ事があるなら警察にまかせろ。それこそ君の出る幕じゃない」
「でも……」
「わかるだろ?」
「………」
「それじゃ」
通話が終わり、暗い廊下に静寂が戻る。
僕の足元には黒猫が擦り寄ってきて、僕は驚いた。
「どうしたの?」
振り返るとリサが不安げな目でこちらを見ていた。
「電話、誰から?」
「……カオルさんから、明日、君を家まで送っていけって……」
もし、もしリサがこの時少しでも「イヤ」と言ってくれたら、僕はこの仕事を捨ててでもリサと居る事を選んだだろう。
それなのにリサは、ただ悲しそうに「わかった」とだけ言って、部屋に戻っていった。
黒猫がその後を追い、僕はその後ろをとぼとぼとついて行った。
リサは頭まで布団を被り、何も言わない。
怒っているのかもしれないし、泣いているのかもしれない。別に今生の別れと言う訳でもない。元居た場所に帰ったって、会おうと思えばいつだって会えるのに……どうして。
どうして僕は何も言えないのだろう。
出会った時と同じように、僕はただ彼女の事を見ているほかなかった。
ほんの短い間、僕らの家族ごっこはこの日で終わってしまった。
翌日。外は雨だった。
薄灰色をした雲が空を覆い。大粒の雨がつむじ風に煽られて右往左往しながら降りそそぎ、バタバタと雨粒が部屋の窓をノックする。
リサを帰せと言われているような気がした。
白い頬をぼんやりとした朝日に照らされたリサの顔は、いつもより白く透けて見えるようだった。
僕はリサの顔を目に焼き付けるように眺めていたが、リサは一向に起きる気配が無く。また雨脚も強まる一方で、なんだかひどく居心地が悪く思えたので僕は下に降りることにした。
黒猫はリサの横で丸まって寝ている。おかげで今朝はゆっくり眠れた。
コーヒーでも淹れようと台所に向かうと、すでにコーヒーの匂いが立ち込めていた。カオルさんが帰ってきたのか?
恐る恐る覗き込むと、ずいぶんとラフな格好をしたユカリさんが居た。
「あら、おはよう」
「おはようございます、どうしたんですか?」
「雨で濡れちゃってね、カオルの服借りたの。掃除しようと思ってきたのに随分片付いているわね。あなたがやってくれたの?」
「いえ、昨日リサがやってくれました」
「そう、若いのにしっかりしてるわねえ」
「なんか色々思い出したみたいで、料理まで作ってくれました」
「いいな、便利な子拾ってきたわね」
「そんな、道具みたいに言わんでくださいよ」
「今夜何か作ってくれないかな」
「それが…今日中にリサを家まで送っていけって言われてしまいまして」
「……そっかあ、仕方ないわね」
「…でも、やっぱり少し心配です」
「あいつに雇われたのが運の尽きよ。諦めなさいな」
「うーん、何か良い手だてはないものでしょうか?」
「それならリサちゃんと怖い話書けばいいじゃない。ほら、切り裂き魔どうこうって言ってたじゃないの」
「そうか!その手が!」
「あーでも、ちょっとネタが古いかなあ」
「怖い話に新しいとか古いとかあるんですか?」
「ほら、昔流行ったじゃない。切り裂き魔の噂」
「え?」
ユカリさんはキョトンとした目で僕を見た。
「あーそうか、知る訳ないわよね。私が高校生くらいの頃の話だからね」
「ジェネレーションギャップかー」とユカリさんは苦笑いした。
「ちょっと待ってください。昔、切り裂き魔の噂ってあったんですか!?」
「そうよ、だからちょっとキツイかなあ、でも最近なんでもリバイバルブームだから、ひょっとしたら……」
「ユカリさん、その噂話詳しく聞かせてください!」
フロントガラスに大粒の雨がぶち当たる。次の瞬間にはワイパーが根こそぎそれらを拭い去るが、雨粒は途切れず振り続ける。
蜂蜜のようなねっとりとした水滴が景色をぼんやりと濁らせ、ワイパーが不毛な反復運動を重ね、僕の頭の中同様、何もかもが無意義に、しかし激しく突き動かされていた。
僕はカオルさんの車で自宅に戻った。
カオルさんの家にはインターネット回線が無いからだ。
「ユカリさん、リサの事頼みます」
「あら、どこ行くの?」
「家に帰ってその噂について調べてみます」
「噂の事書くの?」
「いえ違います。でも、少し思い当たる節がありまして」
「そう、じゃあ私はリサちゃんと一緒に寝る事にする。やる事無くなっちゃったしね」
「すいません、よろしくお願いします」
「はーい、行ってらっしゃい」
駐車場の契約はしていないけど、ほんの小一時間くらいいいじゃないか、自室のまん前なのだから!
カーテンを開き、車がある事を目視する。いくら違法駐車と言え、すぐさまレッカー移動されるはずはないと思いつつ、不安なので一応確認してしまう小心者の僕です。
ノートパソコンに回線を突っ込んで起動させ、立ち上がるとすぐさま「切り裂き魔 噂」で検索をかけた。
ネットの海は膨大で、関連する文字、単語まで含めるととんでもない件数がヒットしたが、臆することなく一から虱潰しに探す。
「あった!」
大分古いオカルト関係のホームページにその記事はあった。
もう何年も更新される事無く、訪れる者もいないネット廃墟と化していたサイト。この話を読むにはお誂え向きな場所だ。
ユカリさんから聞いた「噂」。
それは病院に切り裂き魔が出るというものだった。
当時、高校生であったユカリさんはその噂に大層恐怖したと言う。病院とは縁の無い健康優良児であり、カオルさん曰く武闘派であるユカリさんがなぜ病院に出没する変質者を怖がるのか?
それは入院中の祖母を気遣っての事だった。
ユカリさんの祖母とはつまりカオルさんの義母にあたる人である。
彼女は元来体の弱い方であったようで、大寒波にさらされたその年の冬に体を壊し、病院に入院していたそうだ。
もちろんその病院とは、カオルさん宅のまん前にある、秋野先生が統べるあの病院の事である。その当時はまだ秋野先生のお父上様が総ていたそうだ。
そしてその冬に、交通事故でその病院に運び込まれた幼いカオルさんとユカリさんの祖母さんは出会ったのだとか。不思議なめぐり合わせもあったものだ。
話は戻って切り裂き魔の話。
何故、切り裂き魔と毒々しい名前で呼ばれつつ、その変質者は病院に現れるのか?
「どうしてですか?」
「しーらなーい」
ユカリさんは無邪気に答えた。
故に僕は困り果て、しかし妙に気にかかるとそう思い、噂の真相を調べるため自宅へ舞戻る事にした訳だが、早くもその成果が上がったようだ。
「切り裂き魔の真相」と大々的に掲げられた記事を見つけた。
全国津々浦々の病院施設に出没しては「人をさらう」と言われる切り裂き魔であるが、この噂には元になった事件が存在した。
切り裂き魔事件。当然と言えば不謹慎かもしれないが、事の発端は一軒の通り魔事件
路上で女性が何者かに切りつけられたのだ。
これではただの通り魔事件。しかし恐怖の根源はこの後の事件にある。
切り付けられた女性はその後入院。傷はそれ程深くなく事なきを得た。抜糸が済み退院を間近に控えたある日。その女性は突如として病院から姿を消す。
深夜何者かが廊下をうろつく姿を見たという目撃証言があり、その人物が女性を連れ去ったのではないかと憶測された。
ナースでも医者でも患者でもない。あいつは誰だ?
切り裂き魔だ――――
こうして人を切りつけては連れ去る「切り裂き魔」の噂が出来上がった。
そしてこの記事はこう締めくくられていた。
「連れ去られた女性は未だ発見されていない」と。
画面をスクロールさせていくと、この話は本当ですと言わんばかりに、当時の新聞記事の写真が貼り付けられてあった。
その画像には、その連れ去られた女性の顔写真まで載っている。当然その女性の年齢も実名も載っている。
記事によればその女性は十八歳で、名を「リサ」と言う。
「そんなはずがない」「ただの偶然だ」僕は頭の中で何度もそう繰り返した。
画像を拡大しなくても記事に載っている写真の女性が、僕の知っているリサではない事がわかる。確認できる。
画面をスクロールさせていくと、さらに驚くべき画像が表示された。
僕が見たものより少しだけ綺麗な「飛び降り病院」
僕がリサと出会ったあの場所の画像だった。
「飛び降り病院」はこの「切り裂き魔」の噂の派生系である。
切り裂き魔事件が起きた街と同じ町内にあったことから、ここが渦中の病院跡地であると噂され、他の何かしらの要因と相まって飛び降りる女性の霊が出ると噂されるようになった。
「飛び降り病院」「切り裂き魔」そして「リサ」と言う名の女性。
もう答えは出ていた。いや、そう考えるほか道がない。
「リサは、幽霊?」
僕は頭を抱えて仰向けに横になった。
落ち着こう、そんなはずはない。リサは人間だ。喋って泣いてよく寝る女の子だ。優しくて可愛い僕の家族だ。
幽霊であるはずがない。
「リサ………」
僕はリサの事を考えた。
昨日の事、怒っているだろうか?
目が覚めて、僕が居なくて泣いていないだろうか?
リサに会いたくなった。でも、この事実を知って、僕は今まで通りに接する事ができるだろうか?いや、考えるまでもない。リサが幽霊だったとしても、僕はリサに会いたい。
そう考えると、どうして僕は幽霊が怖いのだろう?
「なぜ幽霊が怖いか」と以前カオルさんが言っていたのを思い出した。
大切な人の幽霊なら怖くない。
じゃあ父さんや母さんの幽霊が出てくれたら、僕は怖がらないだろうか。
顔も声も、はっきりとは思い出せないけど。
どうだろうな?
どうして怖いのか……。
数日振りの我が家で吐く息は白くかった。上着を着たままだったので寒く感じる事はなかったが、長居してしまいそうだったので暖房をつける気にはなれなかった。
妙に落ち着かない。調べられる事は調べたはずだったが、まだやるべきことが残っている気がする。
冷たくなった手をコートのポケットに突っ込んで暖めようとした刹那、冷え切った手にこつんと滑らかな物が触れた。
「リサの携帯……」
これか…僕の遣り残した事は……。
携帯を取り出して開いてみる。画面は暗く、電源ボタンを長押ししても反応がない。やっぱり電源が切れているみたいだ。どうしてこんな単純な事に気がつかなかったのだろう。
違うか、気づこうとしなかっただけだ。僕は自分の希望的観測で物事を決め付けて考えるのを止めていたんだ……。
僕の携帯電話は古すぎて、充電器の型が合わない。パソコンの電源を切って僕は再び車に乗った。
コンビニで電池式の充電器を買って、車に戻ってすぐそれでリサの携帯を復旧させる。
カオルさんの言ったとおり、リサには帰る場所がある。
復旧した携帯電話の画面には、十数件の着信の知らせが表示されていた。
僕はいつしか夢の中の切り裂き魔みたいに、リサを閉じ込めようとしていたのだ。
僕は途方にくれた。カオルさんの言うとおり、僕はどうかしてる。まるで本当に切り裂き魔になってしまうような気さえした。
カオルさんがあまり深入りするなと言ったのはこの事を危惧してのことだろか。申しそうなら、あの人には全て予想できたというのか?
とにかくこのままリサと一緒に居たら、僕はどうかしてしまう。それこそ、リサを殺してしまうのかもしれない……もしそうだとするなら、それは恐ろしい事だ。
僕は携帯の着信履歴を調べて、一番着信件数の多い番号にリダイアルを掛けた。
この行動は、理沙に対する裏切りになるのだろうか。でも、こうする事が一番良いに決まっている。僕は切り裂き魔にはならない。
リサをしかるべき場所に帰し、リサが元の生活を取り戻したら、そこからが僕らの本当のスタートだ。
あ、でも…リサには家族が居るんだっけ。じゃあ、やっぱりこれで終わりか……。
しばらく経っても電話は繋がらない。このまま切ってしまう事もできる。でもそうはしなかった。
僕はリサと一緒に居たいはずなのに、こうして自分で別れを選択している。これが本来僕がすべき事だと分かってはいる。でも、本当にそうなのか。僕は自分が人殺しになることを恐れているだけではないか?リサを殺したくないと言って、自分を擁護しているだけじゃないか?
頭の中でいくつもの考えがぐにゃぐにゃと交差し、僕自身、何をどうすれば良いのか分からない。ただ、電話のダイアル音が虚しく車内に響いていた。
しばらく掛けては切り、間を取ってまた掛けなおす。どれくらい掛け続けたのか。車の窓向こうのコンビニのカラフルな看板に明かりがともり、小雨だった雨は再び勢いを取り戻した。
ダイアル音が切れて、通話に切り替わる。
「もしもし!」
女の子の声だった。リサの友達だろう。声の感じもまだ若い。
「あっ、えーと……」
どうしよう、なんて言うかまったく考えてなかった。
「もしもし?」
「あの、えーと。この携帯を拾った者です。それで、なんて言ったらいいか」
「あの!その携帯ってどこに落ちていたんですか?」
「飛び降り病院って、言えばわかるかな?」
「やっぱり……私の友達が、その携帯の持ち主なんですけど、行方が分からなくなちゃって」
電話の向こうの女の子の声が涙声に変わっていく。僕がリサと楽しく過ごしていたあの時もこの子はこうして友人の事を気に掛けて泣いていたのだろうか。
「うん…………大丈夫だよ。リサは僕の知り合いの家で保護しているから」
「リサ………リサって?」
「えっ!?」
「私の友達はユキコって言うんです。他にもいなくなった人がいるって事ですか?」
「もういやだ」と言って声が遠ざかる。泣き崩れてしまったのだと直感で分かった。
「ごめん、僕はてっきりリサの携帯だと思って…かえって事をややこしくしちゃったみたいだ」
電話向こうの彼女が落ち着くのを待ってから、その晩の事を詳しく聞いた。
彼女たちが飛び降り病院を訪れたのは、間違いなく僕がリサと会う前日の晩のこと。
何かの集まりの帰り道に、近くにある心霊スポットに立ち寄ってみようという運びになったらしい。
車三台の大所帯での移動だった為、帰る際に誰がいなくとも他の車に乗っているだろうと、そう思ってしまい、ユキコという子が居ないと気づくのが遅れたらしい。
「すぐに戻って探そうって言ったのに、みんな怖がって、探しに戻るのが遅れちゃったんです」
「友達が居なくなったのに?ひどい奴らだな」
「初めて会う人とかも居ましたから、それに、みんな酷く怯えていましたし」
「何か、その……見たの?」
「私は見てないんですけど、何人かが人影を見たって言うんです、手に刃物を持った真っ黒な。それで逃げるみたいに帰ったんです」
刃物を持った人影……切り裂き魔の事だろうか?
「そしてユキコちゃんが居ない事に気づけなかったと」
「はい、もうどうして良いか……」
「その晩って君たちの他にもそこに来ていたグループとかいなかった?」
「私たちが着いたときに、一台だけ他の車が停まっていたのは憶えています。でも誰か居たかは、ちょっと……」
「そっか」
携帯電話を帰すついでに、お互いの情報を交換しようという話になり、翌日会う約束をした。
彼女の住む地域は車を使えばそう遠い距離ではなかった。
僕はもう一度自宅へ戻った。
カオルさんの家を離れてから大分時間がかかってしまったが、ユカリさんが居てくれるのなら問題ないだろう。結局、唯一の手がかりだった携帯もリサのものではなかったのだから、どうあがいても今日中にリサを家に帰すのは無理だ。
嬉しい気もするが、反面恐ろしくも思えた。
僕自身、自分の事が分からなくなりそうだ。リサと一緒に居られる事は嬉しい。でもそう思う事で、あの夢が現実に起きてしまいそうな気がする。
だから今すぐにカオルさんの家に帰るは少し億劫に感じてしまうのだ。
得体の知れない力が大きな歪みを作り出している。
携帯電話の彼女はあの晩、刃物を持った人影を見たと言っていた。それなら同じ夜に飛び降り病院を訪れていたであろうリサが、切り裂き魔を知っていて怖がるのは合点がいく。
「切り裂き魔」と「飛び降り病院」の関係はインターネットサイトで調べた通りだが、なぜ切り裂き魔は飛び降り病院に出没したのか?第一にいるかいないかも分からない切り裂き魔がなぜ目撃されたのか?それに、切り裂き魔の噂は十数年前に流行ったものだ。ユカリさんの言うようにどこかで記事が取りざたされてリバイバルしたのか?
うーん分からない事だらけだ。
あの晩何が起きたのか。もし本当に切り裂き魔。ないしそれに扮した何者かがあの廃墟に潜伏していたとする。その存在に気づき逃げ出す若者たち、取り残されたリサとユキコ
リサは屋上から飛び降り、ユキコは行方不明。切り裂き魔に捕まったのだろうか。
いや待て、リサは突き落とされたと言っていたっけ、みんな怒っているとも言っていた。ひょっとしたらリサは切り裂き魔の仲間だったのか?
切り裂き魔……。
切り裂き魔事件は実在した。リサという子が現在も行方不明。
その切り裂き魔が、リサという子を病院から連れ去り、飛び降り病院と呼ばれている廃墟に閉じ込めたとするなら……。それはまさしく、僕が見た夢と同じだ。
あの廃墟は建設中で投げ出された建物。つまりずっと前から廃墟だった。人を閉じ込めていても見つかりっこない。
こう考えれば切り裂き間が飛び降り病院に出没する理由も筋が通る。でも、それはあくまでうわさ話の筋書きだ。あの夜何が起きたかとは直接関係ないはず。
もし、あの切り裂き魔事件の犯人が今もなお健在で、あの廃墟に連れ去った少女を監禁し続けていたとしたら………。
「そんなわけないか」
ちょっとオカルトに毒されすぎたみたいだ。こんな馬鹿なこと本気で考えるなんて。あの夜、廃墟を訪れていたグループは少なくとも二組は居たんだ。もう一組の誰かを見たのかもしれないし懐中電灯や携帯電話を刃物と見間違った可能性だってある。
何でもかんでも怖い方向に考えていては駄目だ。どんな話にだって裏があるんだから。
気持ちを落ち着けようとmp3プレイヤーを取り出してイヤホンを耳につけた。
この部屋は日当たりが悪い上に壁が薄い。スピーカーで音楽を聴こうものならボリュームを最小にしなくてはご近所迷惑になってしまう。
だがしかし、隣人の気配を感じ取れるからこそ、怖い話を聞き、それを文章にするなんていうとんでもない仕事をまっとう出来たのだ。今こうして自宅で切り裂き魔や飛び降り病院の事を考える事ができるのもそのおかげだ。
あの蒸し暑かった夏もこうしてイヤホンを耳の穴にはめてがくがくぶるぶると恐怖に震えながら仕事をしたものだ。
と、ひと夏の思い出に思いを馳せていると、どこからともなくカオルさんの声が聞こえてきた。
幻聴とは思いがたい鮮明な声。野郎ついに化けて出たか!と飛び上がって身構えると「ブツッ」という音と共に声は消えた。
僕の足元にはmp3プレイヤーが転がっている。飛び起きた拍子にイヤホンが外れたのだろう。カオルさんの声はプレイヤーから再生されていたらしい。
そういえば自分のプレイヤーにも怪談話のデータを入れておいたっけ。消し忘れていた。
一瞬でもカオルさんを妖怪と決め付けてしまった事を恥じていると、僕の携帯が鳴った。もちろん相手はカオルさんだった。
「って事があった所です。だから驚きましたよ」
「酷いな、人を妖怪みたいに。そのデータは消しておいてくれよ」
「はい、すぐに消します」
「それで、仕事の方は進んでいるんだろうね」
「ええまあ………」
僕は「飛び降り病院」と「切り裂き魔」の接点についてと、廃墟で拾った携帯がリサの物ではなかったという事、僕がリサと出会った前日に、もう一人ユキコという少女が行方知れずになっている事を話した。
「それで、君は自分が見た夢の中では切り裂き魔だったと」
「はい、なんて説明したら良いか分からないんですけど。このままだと僕は本当にリサを殺してしまうのではないかと思えて……」
「なるほど……でも、もうその心配はいらないみたいだ。今しがたユカリがリサ君を家まで送っていったそうだから」
「えっ?」
「記憶が戻ったそうだよ。何でも急ぎの用があるとかで、急いで送っていったそうだ」
「そんな……僕に一声掛けてくれたって……」
「リサ君の頼みだそうだよ、会うと別れが辛くなるからって。まあ良いじゃないか、家はそんなに遠くないらしいし、会えない距離じゃないだろうよ」
「どの辺ですか?」
「んふふ、君ならもう道も憶えたんじゃないか?」
「だからどこですか?」
「町の名前は忘れてしまったけどね、飛び降り病院からそう遠くない町だよ」
「やっぱり、あの辺の子だったのか」
「それより仕事だ。その話、纏りそうなのかい?」
「それが、少し難航していまして。事実関係を調べて色々考えるともう何が現実でどこまでがオカルトなのか分からなくなってきました。ちょっと前までリサは本当に幽霊なんじゃないかと思っていたくらいですよ」
「馬鹿だなあ、幽霊なんている訳ないだろう」
「そうですよねぇ……ってええっ!」
「幽霊なんて居ないよ。死んだ人間が夜な夜な現れて取り憑いたり呪ったりなんてばかばかしいとは思わないか?」
「いやまあそうですけど………ええ?」
「祟りだとかで念仏唱えたり、非科学的だとプラズマで証明したり。僕はそんな連中の言う事は信じないね」
「そこまで言うなら、なぜ怪談師となんて仕事をやっているんですか?」
「楽しいからさ」
「……でしょうね」
「しかし惜しいなあ。この話、もっと怖くなるだろうに……」
「本当ですか?ぜひ指導をお願いします」
「うむ、まあ初めてにしてはよくやってくれたよ。特別に教えてあげよう」
「ありがとうございます!」
「ただしヒントだけだ。聞いた後は君の判断にゆだねるよ」
「はい!」
カオルさんのくれたヒントはmp3プレイヤーの事だった。
さっき僕が音楽を聴いていて、消し忘れた怪談話の音声ファイルに切り替わった時、予期せぬ事にカオルさんが化けて出たかと思ってしまった。
その話しをした。
「つまりはそう言うことだよ」
「という事は……………………どういうことですか?」
「あれ?難しすぎたかな?」
「つまり消し忘れた音声ファイルが………えーと」
「あーごめん、ごめん。ちょっと突飛すぎた。率直に言おう。あの晩、行方知れずになった少女が一人だったとしたら?」
「一人だとしたら…リサが幽霊って事ですか?」
「君は本当にそう思うかい?」
「いいえ、そんなわけないです!」
「キーワードは全て出揃ったよ。少し考えれば答えは出るはずだ」
僕は少し考えた。音声ファイルと一人の少女………。
「リサが帰ったのは何時くらいだったんですか?」
「夕方ごろだと聞いている」
時計を見ると二十二時を廻っていた。
「僕はこんなに悠長にしていて良いのでしょうか?」
「さあね、それは君が判断する事さ」
僕は再び考えた。沈思黙考。部屋は静まり返り、隣の部屋からリズミカルな重低音が響いてくる。
「行きます!」
「そうかい」
僕はドタバタと家を出て、車に乗り込んだ。
もう二度と行くまいと思っていたのに、二度あることは三度ある。
いざ三度の飛び降り病院へ。
雨は上がっていたが、外は酷く寒かった。
「今年一番の寒さだそうだよ」
「そうですか、雪にならなければいいですけど」
カーナビに頼らなくても、もう道は分かる。そんな複雑な道でもないし、何せ田舎道だからなあ。
「無理をして事故を起こすなよ」
「分かってますよ、でも急がなくちゃ」
「どうしてそう思う?」
「分かりませんよそんなこと!電話切りますよ」
「あっ、ちょっとま――――――――」
暗い山道を走っているのは僕だけだった。この道はいつも閑散としている。あの廃墟に向かう為の専用道路なんじゃなかろうか、そう思うほどだ。
正直、これから向かう先で何が起きるかなんて分からない。酷く悲しい思いをする事になるかもしれない。
ひょっとしたら、あの夢で見たとおりになってしまうかもしれない………でも、リサが待っている。僕は行かなければならない。
たとえ向かう先が、真っ暗な暗闇でも。
僕は法廷速度ギリギリで、時にそれ以上で車を走らせた。
どこまでも続いてゆくように思われるこの真っ暗な山道に水中で走るようなもどかしさを感じ、酷く苛立った。
このまま行くと本当に事故ってしまうと思い、気を落ち着けようとmp3プレイヤーを車のオーディオに繋げて再生ボタンを押す。するとカオルさんの声が聞こえてきた。
「またか!」と、僕は声を上げたが、そのままカオルさんの怪談話に聞き入った。
飛び降り病院に着いて、僕は車を降りると、鍵もかけずに走って廃墟の中へ入った。
どの部屋にいるか、そんなことは少しも考えず階段を駆け上がり屋上へと向かった。
廃墟の中は真っ暗だったはずなのに、後になって思い返せば明るかったように感じる。それに少し新しく小奇麗に見えた。思い過ごしと決め付けてしまえばそれまでだが、僕はこう思っている。この時、僕は間違いなく「記憶」の中に居たんだ。
屋上に上がると冷たい風が頬を切りつけるようになぞった。黒い雲の切れ間から歪な形の月が覗き、屋上を照らしている。リサはそこに居た。
「リサッ!」
じっと遠くを見据えていたリサは僕の方へ振り向いた。
「どうして…」
僕がリサに駆け寄ると、リサの表情は見る見る崩れ、泣き出した。
僕はリサを抱きしめて頭を撫でる。リサの体は冷たく、長い事この場所に居た事が分かる。どれほど辛かっただろうかと思うと僕まで泣けてきた。
「ごめんね、もっと早く来るべきだった」
「ううん」リサは首を振って、僕から離れた。
「ごめん、私、勝手に帰ったりして……でも顔見たら、離れられなくなりそうで」
「離れる事なんてないよ、ずっと一緒にいればいい」
「うん、ありがとう。でも…でも……私もう」
「死んでるの」とリサは言った。
「違う!違うんだよ。それは君じゃない、これ以上間違った記憶を思い出しては駄目だ!」
風が吹いた。
その瞬間、リサが取り乱したように走り出す。向かった先は屋上の隅。嫌な予感がしてすぐ後を追って走る。
「危ない!」僕がリサの手を掴んだのは屋上の末端、あと一歩で落ちそうなくらいだった。しかもこの場所は、リサが飛び降りたと言っていたあの場所。
「あいつが来る!逃げなきゃ」
「大丈夫、君は死なないよ。僕はその為に来たんだから」
「だめ、あなたまで殺されちゃう」
「殺されないよ。僕の事信じて」
恐怖に震えながらリサは「うん」と言った。大層大口を叩いていた僕だったが、その足はがくがくと震えていた。寒さにではない。さっきから背後に感じている、おぞましいほどの恐怖にだ。
「リサはここに居て、絶対に動いちゃ駄目だ。いいね」
リサは両目に大粒の涙を湛えながら頷いた。
リサの手を離し、僕は振り返った。
今さら驚くこともない。思ったとおり、そいつはそこに居た。
辺りの暗闇よりいっそう暗い、ぼんやりとした輪郭。真っ黒な人型。それでも、リサにはこいつの姿がはっきり見えているような気がした。
だた僕にはっきりと見て取れるのは、月明かりに反射しててらてらと光る、手に握られた果物ナイフだけだ。
そいつは「リサ」「おいで」と言葉を繰り返す、ナイフを持った手をだらりとたらし、もう一方の手を、リサへ差し出している。
底知れない恐ろしさに、僕は「死」を意識した。
「リサ、おいで」
「いや」とリサが答えた。
僕は振り返り、リサの名を呼ぶ。
リサは僕を見て、ゆっくりと頷いた。
もし僕が間違った答えを出していたら、もし思い違いをしていたら、きっと二人とも死んでしまっていただろう。いや、三人か。僕とリサと、ユキコ。
でも僕は運良く正しい答えを導き出した。というより、カオルさんにそうなるよう誘導されただけかもしれない。
そいつはじわりじわりと歩み寄ってきている。僕の後ろでリサが恐怖に耐えながらその場に踏みとどまっている。
目の前の男からはすさまじい恐怖を感じる。それは黒い霧となって僕らを包んでいるようだった。
でも、これも違うんだ。これは僕の感情じゃない。
これは…リサという子が死の間際に、感じた恐怖だ。
こんなに怖い思いをして、こんな寒い日に殺され、今も見つけてもらえず一人どこかで眠り続けている。その断末魔の記憶の中に僕らはいる。
足の震えは収まった。体を支配していた恐怖は消え去り、怒りに変わる。
僕は拳を強く握り締め、そいつに向かって走りより、大きく振りかぶって。
思い切りぶん殴った。
「パチン」と肉と肉がぶつかり合う音。
そいつは後ろ向きに倒れ、ドサッっと音を立てた。それと同時に黒い霧となりあたりの暗闇に溶けていった。そいつの姿は消え去り、その代わり誰かが横たわっている。でも暗くて顔までは見えない。
生まれて初めて人を殴ってしまった。冷え切った拳は上手く開く事ができず、殴った時に手首を捻ったらしくズキズキと痛んだ。
さっきまで一帯を覆っていた黒い霧のような恐怖は消え去りもとの風景に戻っていた。
僕の後ろでリサが何か言った。
振り返ると、倒れている少女の姿があった。
全てを見取ったかの様に月は雲の合間に姿を消し、屋上は暗くなった。
どうやって真っ暗な廃墟から人一人抱えて脱出したかはよく覚えてない。
僕は後部座席に彼女を乗せて、車を走らせた。
再び降り始めた雨が粉雪に変わるころ、少女は目を覚ました。
「あれ………」
「あまり動かないほうがいいよ、頭を打っているみたいだから」
「え?私………」
「憶えてない?廃墟で倒れている君を見つけてね、病院に連れて行くところだよ。これ、君の携帯だろ?」
「あっ!そうです」
「友達に連絡してみるといいよ」
「あ、ありがとうございます。私、友達と心霊スポットに行って…………それで、えーっと……」
「名前は?思い出せる?」
「はい、村瀬ユキコです。でも何があったのか、思い出せなくて……」
「そっか……」
「えっと……あなたは?」
「僕?僕は…………あの……………」
「通りすがりの、しがない作家です」
僕は秋野先生に電話をして、ユキコちゃんの診察を頼んだ。ついでに僕の手首も。
秋野先生は何も聞かず、その子をユキコと呼び、初対面のように接してくれた。
その日は病院に泊めてもらい、そして翌日、彼女の友人が待つ場所へと、彼女を送っていった。
「なるほど、そういう結果に落ち着いたわけか」
「はい……」
「ちょっと切ない終わり方になってしまったね」
「いいんです、元はといえば僕がカオルさんのいう事を聞かなかったのが悪いんですから。でも、これでよかったと思います」
「どうして?」
「最後にリサが言ったんです『ありがとう』って」
「そうか、それはよかった」
「カオルさんには初めから分かっていたんですね。リサが、ユキコちゃんだって。昔殺されたリサという子の記憶を、ユキコちゃん間違って思い出しているだけだって」
「さあ、どうだろうね。僕をあまり買被らないほうがいい。僕にだって分からない事はたくさんあるさ。反面、君にしか分からないことだってある。正直、君じゃなかったらここまで色んな事は分からなかったはずだ。本当に君は良くやってくれたよ」
「カオルさん………ありがとうございました」
「うん、お疲れ様」
それからカオルさんは一週間経っても帰ってこず、僕が次にカオルさんの姿を見たのは一月後の夜。世間ではクリスマスイヴであった。
聖夜だというのに、どんな酔狂か深夜に心霊怪奇特番が放送され、その番組に着物姿で、顔に怪しい笑みを貼り付けた渡月ユウゼンことカオルさんの姿があったのだ。
幾多の新しい怪談話を淡々と語り、その中には僕が書いた「飛び降り病院」と「切り裂き魔」の噂話も含まれていた。
でもそれは僕が書いたものよりずっと怖かった。
僕は部屋を暗くして、頭から毛布を被り「話しが違う!」とがくがく震えながら抗議した。涙がとめどなく溢れ、番組が終わってもちっとも止まらなかった。
こんなに悲しい怪談話を聞いたのもの、それで泣いたのもこれが最初で最後だ。
その数日後、あれは晦日の事だったかなあ。
僕はカオルさんに呼び出されて、家まで足を運んだ。
何でも「地方でお世話になった方に上等な肉を頂いたから食べに来い」という事だった。なんだかんだカオルさんなりの気遣いであるようだ。
夕方、電車を乗り継いで、駅からは病院前に直通しているバスで移動した。
病院前で降りるとちょうど秋野先生と鉢合わせた。この人とはいつも鉢合わせだ。
「やあ、久しぶりだね」
「その節はお世話になりました」僕は深々と頭を下げた。
「まあ、いつのもことさ」と秋野先生は笑った。
「今日も御参りですか?」
「いや、今日はお礼を言いにね」
「お礼?」
「うん、ようやく峠を越したからね」
そう言って秋野先生は病院を見上げた。
大木は木枯しにも負けず、いつもどおり堂々とした佇まいでそこに立っている。
秋野先生は白衣のポケットから饅頭を一つ取り出すとお社に供え、手を合わせた。
「カオル、変な奴だろう?」
「ええ、すごく」
「でも悪い奴じゃないから」
「それは………分かっています」
「そうか、それは良かった」
「ここにはどんな神様が奉られているんですか?」
「さあー何だったかなあ」
「わ、分からないで拝んでるんですか?」
「かもね、でもご利益はあるよ。これを拝んで医者になれました」
「ほ、本当ですか!?」
「嘘に決まっているだろう」
そう言って笑う秋野先生は少しカオルさんみたいだった。
後日談を少しだけ。
クリスマスイヴの放送後、カオルさんの話した怪談は瞬く間に世間に広がり、名を伏せて話したにもかかわらず、あの怪談の舞台が飛び降り病院である事がバレてしまったからさあ大変。
翌日にはどこからともなく人がやって来て、あわや人気観光地の様相を呈したらしい。
そこを訪れたグループ同士の揉め事や、暗闇で躓いて怪我人が出るなど不祥事が続いたため、事態を重く見た行政が重い腰を上げてついに取り壊しが決定された。
しかし、それだけでは終わらなかった。
早々に始まった解体作業中、庭園の池の底より白骨死体が発見された。
すぐさま警察が動き、数日後に付近に住む男が逮捕されたらしい。詳しくは知らないけど、あの辺りに住んでいる人はあの人しか居ない。
そう、僕があの晩ぶん殴った切り裂き魔の正体。僕は一度会っていた。
その事を受けてか、僕が切り裂き魔事件を調べたあの古い心霊サイトは数年ぶりに更新され、新しい記事にはこう書かれていた。
「切り裂き魔事件の真実」
とある町のそばにテーマパークができると噂が立った。しかしその噂は建設業者とグルになった詐欺師のデマだった。
しかしそれを見破れなかった町民は詐欺師に言われるがまま土地を売り、僅かな資産を集め、町はずれの山中に観光ホテルを建てることにした。
建設が進むにつれ資産は嵩み、ついに町民の資産は底をついた。それを見越して詐欺師は姿をくらませる。そこで町民はようやく騙されたと気づいたが、時すでに遅し。
抑えきれない怒りは身内へと向けられた。初期段階で建設に賛成していた人たちは嫌がらせを受け、その町を出てゆく事を余儀なくされた。
被害者の少女もこの一件で町を去ることになった一家の一人であったが、これが悲劇の始まりだった。
その少女に思いを寄せていた男がいた。彼は何度も彼女に想いを伝えたが、彼女は首を縦には振らず、町を去ってしまう彼女をどうしても繋ぎ止めたい男は、ついに実力行使に出る。ナイフで彼女を脅す。しかし、それでも彼女は男に従わず、ついには切りつけられてしまう。
入院先の病院で、彼女は犯人の名を言わなかった。彼女がどんな心境でそうしたのかは僕には分からない。
そして、男は闇に紛れ無抵抗の彼女を連れ去る。
幽閉したのは町民が忌み嫌う負の遺産である、建設途中で投げ出されたあの廃墟だった。どれくらいの間、二人はどんな生活をしていたのか、それは誰も知らない。
噂では、少女は屋上から飛び降りたという事になっているが、真相はもはや闇の中である。
後に逮捕された男の供述で、白骨死体は行方不明になっている少女のものである事が明らかになった。
それ以上のことについては、皆様の予想通りだろう。
あの日リサが「みんな怒ってる」と言っていたのには、こういう裏があったんだ。
もっと早く気づいてあげればよかった。そう思ったところで後の祭り、もう取り返しのつかないことだ。
取り返しのつかないことと言えばもう一つ。
怪談話の舞台で死体が発見され、世間を恐怖の坩堝に落とし込めたカオルさんはいつ警視庁から捜査協力の依頼が来てもおかしくないと噂されるほど高みの存在へと昇華されていった。
ますます僕の存在が危うくなる。
「ふふふ、いいじゃないか。怪談話専門のゴーストライター」
「僕はもう、いつ殺されてもおかしくないです」
「そんなわけないだろう、僕は現状で満足だ。さらには手一杯だ。これ以上面倒ごとに突っ込む首は持ち合わせてないさ。さあ、暗い顔してないで肉を食べなさい」
カオルさんは鉄板からジュウジュウと油を滴らせる上質な肉をぽいぽいと僕の小皿に放り込んだ。
「はい…いただきます」
「じきにユカリが来るからな、その前にあらかた片付けてしまおう。あいつは食うからな。肉ばかり食うからな」
和室で男が二人、黙々と焼ける肉を食べている風景はまさしく「食事」と言って過言ではないだろう。
しばらくしてユカリさんが来て、残り少ない肉を巡ってカオルさんと争い。ユカリさんが持参したお酒で乾杯した。
ユカリさんの仕事の愚痴を聞いて笑って、カオルさんの旅の話に驚愕して、楽しい夜だった。あと一人、この場に居てくれたらなあと思ってしまうのは、欲張りってものだろうか。
その晩はカオルさんの家に泊まり、結局翌日の大晦日もこの家で過ごす事になった。
聞けば毎年、年末はこうして過ごすのだとか、いつもならユカリさんのご両親もいらっしゃるらしいが、今年は円高の波に乗っかって海外へ出かけたらしい。
しかしながらそんなプライベートな空間に僕なんぞが同席していても良い物だろうか?
「なに言ってんだい、そのために君を呼んだんだよ。どうせ狭い部屋で悶々と年を越すはめになるのだろう?そんな不憫な若者を僕がほおって置くわけないだろう。遠慮するな。僕らはすでに一心同体だ」
勝手な事を言われて、普段なら怒るところだろうが、実際カオルさんの言うとおり。僕はまだ心に残った虚しさから離れられずにいる。
「すいません、気を使わせてしまって……」
「気にするな!さあ、始めよう!」
「おう」とユカリさんが気合の入った返事を返す。
「何が始まるんですか?」
「大掃除に決まっているだろう!」
「今年はお父さん達いないし、本当助かるわ」
僕の感傷の念は音を立ててどこか遠くに飛んでいった。
昨晩散々飲んだのに二人とも元気一杯で、午前中から見た事もない海外の洗剤やら掃除機が投入された最新式の大掃除に参加させられ、昼ごろには僕はへとへとに疲れてしまった。広いお屋敷ではあるが、カオルさんの一人暮らしであるから物が少なく、出入りする部屋も少ないので暗くなる前にはあらかた掃除し終わった。
「はー、ようやく終わった。もうお腹ぺこぺこ」
「しかし凄い勢いで掃除しましたね」
「まあね、嫌な事はさっと終わらせて楽をしようってのが我が家の本文よ。さて、一息つこうかしら、お茶入れるからカオル呼んで来てちょうだい」
「はい」
朝からフル稼働で僕もお腹が空いていた。一息ついたら買い物ついでに何か食べに行こうとユカリさんが言っていたので、カオルさんを呼んで早く出かけたい。
一階には居ないようだったので、僕は階段を上って二階へ。
「カオルさん?どこですかー?」
二階は一階に比べて広くはないが部屋数が多い。僕はリサ、違った、ユキコちゃんを泊めた和室を皮切りに、その他の部屋も覗いてみたがやはり姿がない。
どうしたものか?カオルさんの事だから一人で食べ物を買いに行ってしまったのかもしれない。そう思って引き返そうとしたとき、どこからともなく物音が聞こえる。
「カオルさん?」
音のする方へ足を進めると、ダンボールなどが放置されている廊下の端っこに行き着いた。見る限り物置にされていると思われたこの場所に、手の込んだ彫刻が施されたドアがあることに気がついた。おかしいな、こんな特徴的なもの見過ごすわけないのに……。
ドアをノックしてみると、中から「どうぞ」とカオルさんの声がした。
「失礼します……」
部屋の中は本や書類、それらを収納する本棚や棚机など、この屋敷のどの部屋より物で溢れていた。やはりここは物置だろうか?
「やっぱり、ここには入れなかったみたいだね」
カオルさんは窓際で、僕に背を向けたまま話した。その傍らには古く大きなアンティーク調の机。その上にも本や書類が山積しているが、どれもまだ新しい様で今でも使われているようだった。
「ここ、カオルさんの書斎ですか?」
「僕のじゃないよ、義父の物だ」
「なんと!義父様はご健在でしたか!?」
「いや、とっくに死んでるよ。いわばここは義父の残した遺産だね」
「こんな沢山の本や書類…………研究か何かですか?」
「鋭いね」カオルさんは相変わらず僕に背を向けたままだ。何をしているのだろうと覗き込むと、一冊の古い本を読んでいるようだった。
「君、テレパシーって知ってる?」
「え?何ですか急に」
カオルさんは振り返り、僕を見るなりニヤリと微笑んでみせた。でもその目は真剣なまま、じっと僕を見据えている。
「えっと…テレパシーですよね。あの映画とかで超能力者とか、宇宙人が使う」
「そう、それ」
「で、それが何です?」
カオルさんは椅子に腰掛けて本を閉じた。
「もし、人が本来テレパシーを使える生き物だとしたら、どうなると思う?」
突拍子のない事を言う人だ。幽霊の次は超能力か……。しかしこれはひょっとしたら僕の作家としての素質を見極めるための質問であるかも知れない。
僕はできる限りの想像力を駆使して、そうであった場合のことを考える。
もし有史以来人がテレパシーで意思の疎通を行なっていたとしたら、きっとみんな無口になるだろう。頭で直接会話ができるのだからどんなに騒ぎ立てていてもそれは脳内での事だから傍目には映らない。なんだか味気ないな。
さらに考えれば脳での直接的なコンタクトだから言語の違いで言葉が通じないなんて事も起きないかもしれない。いや、待てよ。そうなってくると………。
「言葉が要らなくなります」
僕がそう言うとカオルさんはニヤリと笑う。どうやら正解だったみたいだ。
「でも待ってください、言葉が無いんじゃ、一体どうやってテレパシーで意思の疎通を図るんですか?」
僕は自分でこう口走っておいて、ああしまったと思った。
「記憶、ですか………」
カオルさんは何も言わず、ただ「ふふ」と鼻で笑うだけだった。結局僕は最初から最後までこの人の手のひらの上で踊らされていたようだ。
「人がもし記憶を共有する生物だとしたら。「言葉」が進化の段階で発生したイレギュラーであるとしたら。記憶を共有しているにもかかわらず、言葉に頼ってきた僕らはその力を使いこなせない。だからたまに勘違いをするんだ。自分の記憶と他人の記憶の境界線が分からなくなってしまう」
「それはつまり、残留思念のようなものですか?」
「そんな大げさな事じゃない。もっとシンプルだ。思い出の場所を訪れて、あの時こうだったとか、ここで何をした。なんて事を思い出すのと同じ事だよ。初めて来たはずなのに妙に懐かしく思う場所ってあるだろ?デジャブを見たりさ」
「確かに…そう言うことはありますけど、じゃあ幽霊って」
カオルさんは待ってましたと言わんばかりに立ち上がり、言う。
「幽霊がなぜ怖いか。それは幽霊が怖いんじゃない。死んだ人が、死の直前に感じた恐怖を僕らが思い出しているだけなのさ」
「死んだ人の記憶、それが……幽霊の正体?」
「どうかな、なにせまだ研究途中だからね。まだまだ分からない事なんて無数にある」
カオルさんは静かに部屋を見渡した。
「これもまた義父の遺産な訳だよ」
ユキコちゃんがそうであったように、僕も自分のものとは違う記憶を思い出していたのかもしれない。
それはまぎれもなく切り裂き魔と呼ばれた人物のものだ。リサをあんなにもいとおしく思い、自分の傍に置いておきたいと思ったのも、あの人がそう願っていたからなのかもしれない。だとしたら、リサが僕に優しくしてくれたように、あの二人の間にも似たような事があったのかも…………。
カオルさんの言うように記憶が幽霊の正体であったとするなら、過去に縛られ廃墟を守り続けたあの人も幽霊と呼べるだろう。人は生きながらにして亡霊となりえるのだ。
全ての事柄には表と裏があり、その両面がそろって初めて全てとなる。この世に蔓延する、くだらない怖い話にだってきっと、まだ誰も知らないような裏の話があるはずだ。
人は死すとも記憶は死せず。明日を生きる人達の頭の片隅に蓄積されているかぎり、この勘違いは起こり続けるだろう。
そして今日もまたどこかで新しい怪談話が誕生する。
「おーい、まだー?」と階段の下からユカリさんの声がする。思えばずいぶん話し込んでしまっていた。
「さあ、話の続きはまた今度だ。まずは何か食べよう。ユカリを待たせても良い事なしだ」
「そうですね」
「ところで君、次の仕事は決まっているのかい?」
「いえ、特には」
「そうか、それは良かった……」
「ひょっとして、次の仕事……ですか?」
「そう、次の仕事さ」
そう言ってカオルさんはニヤリと笑った。
終わり