残像の記述と、無垢なる毒
王都を経済的な廃墟へと変えた私は、追っ手の怒声さえも遠のくほど深い、静寂の森へと足を踏み入れていた。
背後の空は、崩壊したシステムの断末魔のように赤く染まっている。だが、私の視界を支配しているのは、レンズが淡々と描写する、木漏れ日のスペクトル解析データだけだ。
【環境ステータス:停滞】
生命反応:希薄
魔力濃度:安定(中立)
「……ようやく、ノイズが消えたか」
私は、古びた大樹の根元に腰を下ろした。
手に入れた莫大な富も、王都を蹂躙した権能も、この孤独な森の中では一片の価値も持たない。
私は懐から、かつての世界で愛飲していた深煎り珈琲の香りを、記憶の底から手繰り寄せようとした。しかし、この肉体――ルシアンという名の器は、この世界の清冽な水を、何よりも「美味」だと判断してしまう。
細胞レベルでの同化。それは、私の精神に対する、肉体の静かな反乱であった。
森の奥に進むと、鏡のように滑らかな水面を湛えた湖が現れた。
その中心に、一人の少女が立っていた。
王都から私を追ってきたのか、あるいはこの地の守護者か。彼女の纏う空気は、以前出会った聖女のような泥臭い信仰ではなく、磨き抜かれた氷のような純粋な殺意に満ちている。
【対象:正体不明の個体】
戦闘意志:100%
生存期待値:計測不能(因果律の揺らぎ)
「……名前を。あなたが、この世界を壊そうとする理由を」
彼女の問いは、風のように実体がない。
私は、湖面に映る自らの姿を、レンズ越しに眺めた。そこには、かつての「私」の面影などどこにもない、あまりに完璧で、それゆえに虚無的な少年の美貌がある。
「理由、か。君たちは常に、事象に意味という名の装飾を施したがる。だが、私がしたのは、ただの『均衡』だ。膨れ上がった幻想を、事実という名の針で突いたに過ぎない」
「それは、多くの人を不幸にしました。あなたの知性は、毒でしかない」
彼女が細い指先を向けると、湖水が意思を持った刃となり、私の喉元を狙って飛来した。
回避の計算は、瞬時に完了する。
だが、私はあえて動かなかった。
冷たい水の刃が、私の頬を浅く切り裂く。
鮮血が、黒い外套の襟元に吸い込まれていく。
【バイタルダメージ:微小】
痛覚信号:正常
「……不純だな」
私は、指先で自らの血を拭った。
「君の殺意には、正義という名の不純物が混ざっている。私を殺したいのなら、この世界の秩序を守るためではなく、ただ、私の存在そのものが気に食わないという、純粋な嫌悪で突きたまえ」
彼女の瞳が、微かに揺れた。
論理で武装した私の言葉は、彼女たちが依って立つ「正しき世界」の地盤を、静かに侵食していく。
結局、彼女は最後の一撃を放つことはなかった。
私の瞳の奥に広がる、救いようのない虚無と、鋼鉄の理知に気圧されたのかもしれない。
「私は名乗らない。ルシアンという記号も、ここで棄てていく」
私は彼女を置き去りにし、さらに森の深淵へと歩を進めた。
空には、この世界の神が描いた、出来損ないの星座がまたたき始めている。
かつて三島が「豊饒の海」の果てに見出したものが何であったか。
私は今、その答えの片鱗を、この異郷の冷たい月光の下で、確かに掴みかけていた。
【自己保存欲求:低下】
【次なる事象:『無』への接近】
レンズが映し出す数値は、限りなくゼロへと収束していく。
その静謐な下降曲線こそが、今の私にとって唯一の、美しい福音であった。




