鏡像の聖女と、肉体の檻
神殿が砂へと還り、村に「絶望」という名の静寂が訪れた翌朝。
私は、村外れの涸れ井戸の縁に座り、昇り始めた太陽を眺めていた。
レンズ越しに見る太陽は、単なる核融合の光ではなく、この世界の不透明な魔力粒子を拡散させる巨大な光源に過ぎない。その光を浴びる私の新しい肉体――「ルシアン」と呼ばれるこの器は、私の意志に反して瑞々しい生命力を謳歌している。
【個体:ルシアンのバイタル】
最適状態。細胞再生率:極大。
「……呪わしいほどに健全だな」
私は自らの白皙な腕を見つめた。
死を甘美な終焉として求めた魂が、これほどまでに強靭な肉体に閉じ込められる。これは、神が用意した皮肉な地獄か。あるいは、私の理知を試すための巨大な実験場か。
「なぜ、あのような残酷な真似をなさったのですか」
背後から、凍てつくような声がした。
聖女エルナ。昨日、私の傍らで神殿の崩壊を見届けた女だ。彼女の瞳には、昨日までの盲信的な熱狂は消え、代わりに剥き出しの敵意と、それ以上の深い当惑が宿っている。
私は振り返らずに答えた。
「残酷? その語彙は、生存確率の低下を主観的に解釈しただけのものだ。私はただ、維持不可能なシステムを、適切なタイミングでシャットダウンしたに過ぎない」
「人々は住処を失い、怯えています! あなたに力があるのなら、なぜ……!」
「力があるからといって、それを行使する義務が生じるという論理は、どこの市場でも通用しない」
私は立ち上がり、彼女と対峙した。彼女の身長、視線の角度、瞳孔の開き。すべてが計算可能なデータとして私の脳内に展開される。
私は一歩、彼女に歩み寄った。エルナは反射的に身を引こうとしたが、私の視線に射すくめられたように硬直する。
「君が守ろうとしていたのは、村人ではない。神殿という偶像に依存し、思考を停止させていた自分自身の安寧だ」
私は彼女の胸元に指を差し向けた。触れはしない。ただ、その心臓の鼓動が刻む不規則なリズムを指摘する。
「レンズには見えている。君の心拍数は上昇し、発汗が始まっている。それは、神への忠誠ではなく、未知の論理に対する『恐怖』だ。期待値から外れた存在を、君たちの狭いドグマ(教義)は許容できない」
【対象:エルナの精神状態】
信仰崩壊率:42.1%
混乱度:極大
「私は君たちの救世主ではない。この世界の不完全さを、ただ、あるがままに観測し、必要とあらば解体するだけの存在だ」
私は彼女を置き去りにし、街道へと足を進めた。
目指す場所はない。ただ、この世界の「中心」へ。魔力が最も濃密に渦巻き、この不条理な世界の設計図が保管されているであろう場所へ。
FXのチャートが、時に急激なトレンド転換を見せるように、私の出現はこの世界の運命という名のグラフを大きく歪めているはずだ。
「ルシアン様……どこへ行くのですか」
背後で、彼女の声が震えていた。もはやそこには聖女としての威厳はなく、ただの迷える羊の哀願があった。
私は足を止めず、独りごとのように呟いた。
「この檻の外側だ。数値化できない『虚無』が、どこかに残っていることを願ってな」
乾いた風が、私の黒い外套を揺らした。
レンズの端で、世界の生存期待値がまた一段と、冷ややかに下降した。




