表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
2/2

第2章:黄金の命綱


森は、前と変わらなかった。

静かで、薄暗く、湿った土の匂いが重く漂っている。

二人の間では焚き火がまだ燃えており、その揺れる炎が周囲の木々に淡い光と影を落としていた。


ソラは火のぬくもりに近づくように、そっと身を寄せる。


しばらくの沈黙のあと、彼は意を決したように口を開いた。


「……俺の名前に、何か問題でもあるのか?」


その問いは、先ほどの会話で残された不穏さを引きずるように、宙に残った。


男――見知らぬ旅人は、落ち着いた様子でソラを見て、首を横に振った。


「ない」


ソラは小さく息を吐いた。

だが、体の芯に残る冷えは消えない。彼は両腕をさすり、寒さを紛らわせようとする。


それに気づいた男は、何も言わずに立ち上がり、革袋の中から厚手の暗色の服を取り出した。


それをソラに差し出す。


「着ろ……これ」


驚きながらも、ソラはそれを受け取った。

着替え終えて火のそばに座ると、じわじわと体に熱が戻ってくる。

呼吸も、ようやく落ち着いた。


少し人心地がついたところで、ソラは顔を上げた。


「……あなたの名前、まだ聞いてなかった」


男は視線を合わせる。


「カエレンだ」


ソラは首をかしげた。

「フルネーム? それとも……名字?」


カエレンは一瞬だけ間を置き、淡々と答えた。


「……ない。俺たちには」


ソラは眉をひそめた。

“俺たち”――?

どこから来たのか。何者なのか。問いは次々浮かぶ。


だが、彼が口を開く前に、カエレンは再び袋に手を伸ばした。


今度取り出したのは、大きな石だった。


ギザギザとした、透明な結晶。

荒削りの菱形で、焚き火の光の中でも不自然なほど整って見える。


カエレンはそれを差し出した。


「触れろ。……持て」


ソラは戸惑う。

「……これは?」


カエレンは答えない。


混乱しながらも、ソラはそっと手を伸ばし、石に触れた。


最初は、何も起こらなかった。


――次の瞬間。


結晶が淡く光り始める。

白い光が中心から広がり、やがて穏やかな青へと変わった。


一度だけ、脈打つように光り――そして、完全に消えた。


石は再び、ただの鈍い結晶に戻る。


カエレンはそれを受け取り、しばらく観察した後、別の物を取り出した。


小さく、平たく、黄金色。

硬く滑らかで、カードのような形をしている。


彼は親指を押し当て、低く何かを呟いた。

一瞬、表面に奇妙な文字や紋様が浮かび上がり、すぐに消える。


それをソラに手渡した。


ソラは目を見開く。

「……これは?」


「身分証だ」


「……俺の?」


カエレンは一度だけ頷いた。


ソラはカードを裏返し、表を見つめる。

「何が書いてあるんだ?」


カエレンは簡潔に答えた。


「名前。種別。階級」


焚き火がぱちりと音を立てる。


ソラは黄金のカードを見つめながら、なぜか確信していた。

――これが、すべてを変えるのだと。


---


火は低くなり、赤い熾火が灰の下で静かに光っていた。

森もまた、夜そのものが耳を澄ませているかのように静まり返っている。


ソラは、見知らぬ服に包まれ、重みのあるカードを握りしめたまま座っていた。


怖くはない。

少なくとも、露骨な恐怖ではない。


カエレンは脅していないし、声を荒げてもいない。


それなのに――

体の奥で、何かが動けと訴えている。


だが、体は動かない。

動いているのは、思考だけだった。


ソラはカードを見下ろし、そしてカエレンを見る。


「……身分証って言ったけど」

「それが、どういう意味なんだ?」


カエレンは少しの間、焚き火の向こうの森を見つめてから答えた。


「名前……書かれる」

「それと……種別。階級」


「階級?」


「冒険者……階級だ」

「今は……最低。E級」


ソラは目を瞬かせた。

「冒険者……?」

「でも、俺、何も選んでないし、登録もしてない」


カエレンは首を横に振る。


「身分証……未完成」

「だが……使える」

「アルドリオンで……身を……守る」


ソラはカードを強く握った。

「どうやって?」


カエレンは初めて、真正面からソラを見据えた。

焚き火の光が、その鋭い目に宿る。


「アルドリオンでは……」

「身分証……すべてだ」


「ない者は……怪しい」


「……怪しい?」


「よそ者」

「違法」

「監視される」

「……連れていかれる」


ソラの腹の底が冷えた。


「じゃあ……これがなかったら……」


言葉は、そこで途切れた。


カエレンは、黙って頷く。


森が、急に近く感じられた。

街に入った自分を想像する。

警備兵の視線。武器にかかる手。


掌の中の黄金のカードは、もはや金属ではなかった。


――命綱だった。


「……ここはアルドリオンって場所なのか?」


カエレンは首を横に振る。


「違う」

「アルドリオンは……王国」

「この森は……その一部」


ソラは少し迷ってから、尋ねた。


「さっき言ってた。ここでは、名字がないって……どうして?」


カエレンはわずかにもたれかかり、炎を見つめる。


「アルドリオンでは……」

「公平……法だ」


「家の名……許されない」


ソラは黙って聞いた。


「仕事だけが……評価される」

「何を……するか」


カエレンは、黄金のカードを指で軽く叩いた。


「これが……示す」

「生まれ……じゃない」

「価値だ」


言葉が、静かに胸に落ちていく。


過去が問われない世界。

どこから来たかではなく、何者になるかだけが見られる世界。


混乱は、まだ消えない。

規則も、階級も、王国も、現実味がなかった。


それでも――


焚き火。

そびえる木々。

見知らぬ星空。


胸の鼓動は、恐怖ではなかった。


高鳴りだった。


「……この世界、まだ何もわからない」


ソラが小さく言う。


カエレンの口元が、わずかに歪んだ。

笑みと呼ぶには、あまりにも淡い。


「それで……いい」


「生きている……証だ」


ソラは、知らぬ間に止めていた息を吐いた。


アルドリオンが何なのか。

この身分証が何を意味するのか。


それでも、ひとつだけ確かなことがある。


この奇妙で危険な世界は――

かつての人生より、ずっと生きている。


---


火は、ほとんど消えかけていた。


赤い熾火だけが残り、森は完全な静寂に包まれている。


ソラは炎を見つめながら、黄金のカードを弄んでいた。

どうしても、無視できない疑問があった。


「……カエレン」


カエレンは顔を上げる。


「あなた、俺の言葉がわかってた」

「“地球”って言葉も」


空気が変わる。


冷たくなったわけでも、敵意が生まれたわけでもない。


ただ――重くなった。


カエレンはすぐには答えず、薪をひとつ火に押し込んだ。

火の粉が舞い上がる。


「……知っている」


「どうして?」


カエレンの視線は、炎の向こうへと遠ざかる。


「……誰かが……いた」


誰か。


ソラが問い返そうとした瞬間、カエレンが先に口を開いた。


「それ以上は……ない」

「俺の……語る話じゃない」


ソラは唇を噛んだ。

「地球を知ってるのか?」


カエレンは、わずかに間を置く。


「……知っている」

「すべて……ではない」


余計に、疑問が増える。


「どこまで知ってる?」

「俺のこと。ここに来た理由。全部」


カエレンは視線を逸らし、森の闇を見た。


「十分だ」


ソラは待つ。


カエレンは静かに息を吐き、続けた。


「だが……思っている理由ではない」

「今……知るべきでもない」


ソラは拳を握った。

「じゃあ、俺は何を知るべきなんだ?」


カエレンは振り返り、無表情のまま答える。


「今は……何も」


「この世界は……説明されるものじゃない」


「……どういう意味だ?」


カエレンの口元が、わずかに動いた。

ほとんど愉快そうに。


「道が……教える」

「人が……教える」

「痛みが……教える」


彼はソラを見据える。


「生きることで……だ」


その言葉は、深く胸に沈んだ。


カエレンは立ち上がり、外套についた灰を払う。


「早く……答えすぎると」

「足場……弱くなる」


ソラは、ゆっくり頷いた。


ここは、チュートリアルのある世界じゃない。


経験する世界だ。


カエレンは森の道へ向かう。

闇は、不思議なほど自然に彼を受け入れた。


「休め」

「明日……歩く」


ソラは大樹の根に背を預け、枝の隙間から見える見知らぬ星々を見上げた。


まだ、何もわからない。


なぜここに来たのか。

カエレンが何者なのか。

地球と、この世界の繋がりも。


それでも――


混乱の下に、確かなものがあった。


期待。


旅の始まりに宿る、あの感覚。


眠りに落ちる直前、ソラは小さく笑った。


この世界は、きっと語ってくれる。


その物語を――


今度こそ、聞き逃さない。


[第2章終了]

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ