第一章――今度こそ、望んでいた人生を
俺の人生は、いつも退屈だった。
なぜなのか、自分でもよくわからない。
別に不幸だったわけじゃない。食べるものはあったし、家もあった。学校にも通っていて、友達だっていた。それなのに、毎日は昨日の繰り返しで――どこにも辿り着かない無限ループの中にいるようだった。
心の奥で、何かがずっと探し続けていた。
新しい場所。
新しい道。
新しい物語。
だけど、どれだけ探しても、翌朝待っているのは同じ日常だけだった。
夕焼けに染まる空の下、放課後の帰り道を歩くのは、十七歳の少年――空・ハヤテ。
鳥が空を横切り、車が通り過ぎ、建物はいつも通り変わらずそこに立っている。人々は歩道を急ぎ足で進み、それぞれの人生を前へ前へと進めていく。
すべてが……普通だった。
あまりにも、普通すぎる。
街の喧騒や人の流れを眺めながら歩いていても、それが自分の居場所だとは思えなかった。まるで、最初から自分のために用意されていない世界を、ただ通り過ぎているだけのようで。
友達と笑っている時でさえ、説明できない空虚さが胸の奥に残っていた。
人生が、狭い。
予測できて。
退屈だった。
「……何か、違うものが欲しい」
そう呟きながら、何千回も歩いた見慣れた道に足を踏み出した、その瞬間――
世界が、砕けた。
足元の地面が割れた。コンクリートが壊れるような音ではない。ガラスが内側から弾け飛ぶような、鋭く澄んだ音。歩道が裂け、その亀裂から眩い光が噴き出した。
空は凍りついた。
反応する間もなく、現実そのものが内側へと歪む。
通り、建物、空――すべてが光の破片となって砕け散り、足元に、輝くトンネルが口を開けた。
落ちた。
痛みはない。恐怖もない。
代わりに、不思議な安らぎが全身を包み込んだ。重力を失った身体は、風鈴のように静かに響く光の流れの中を漂っていく。鼓動はゆっくりと落ち着き、長い間眠っていた何か――胸の奥で燻っていた衝動が、目を覚ました。
映像が脳裏を駆け抜ける。
自分の部屋。
学校。
誰もいない帰り道。
置き去りにされる人生。
周囲の感覚は、距離を進んでいるというより、距離そのものを置き去りにしているようだった。
やがて――トンネルが開ける。
視界いっぱいに、果てしない空が広がった。
雲の海を突き抜け、空は自由落下していた。見たこともないほど深い青の空。暖かく、眩しい太陽。
その下に広がる世界を見た瞬間、十七年間で初めて、息を呑んだ。
名も知らぬ色彩で描かれた、巨大な世界。
北には、雲を突き刺す白き冠のような山脈。南には、陽光を反射して輝く大海原――そこには細身で奇妙な船が、水面を滑っていた。
(……でかい)
胸が激しく脈打つ。
(全部……でかすぎる)
青い川が光の血管のように平原を走り、すべてが地平線の一点へと集まっていく。白い石で築かれた巨大な都市。天へ伸びる尖塔の数々が、内側から光を放っているように見えた。
「……王都……」
なぜか、言葉が零れた。理由はわからない。それでも、確信だけはあった。
足元には、深く広がる原生林。平らな森ではない。塔のようにそびえる古木の海だった。
風の冷たさも、落下の恐怖も感じなかった。
代わりに、胸の奥が熱く燃え上がる。魂が、この世界に呼応して歌っているかのようだった。
あの「静かな空虚」は、もうなかった。
(新しい物語が欲しかったんだ)
枝が指のように伸びてくる。だが、彼は気づかなかった。森の中心に隠された、深く小さな蒼い円――泉の存在に。
風が唸り、世界が緑と金の筋に変わる。
――待て。
**ザブン。**
空の静寂は、水の轟音にかき消された。
冷たく、重く、容赦ない。
暗い泉の底へと沈み、太陽の光は遥か上で瞬く小さな星になっていく。視界が闇に溶ける直前、最後に見えたのは、消えゆく光だった。
――しばらくして。
空の目が、見開かれた。
そこにあったのは空ではなく、巨木の天蓋。枝が絡み合い、まるで大聖堂の肋骨のように太陽を覆い隠している。身体を動かそうとすると、手足は重く、肌は冷え、濡れていた。
起き上がって、空は愕然とした。
服が、ない。
制服のブレザーも、シャツも、鞄も――すべて消えていた。
右手から、ぱちぱちと音がした。石で囲まれた小さな焚き火。橙の光が、森の深い影を押し返している。その向こうに、一人の男が座っていた。
擦り切れた深緑の外套。革の手甲。
英雄ではない。
物語の主人公でもない。
まるで、影が人の形を取ったような存在。
空は後ずさった。「誰だ……? ここは、どこなんだ?」
男は動かない。その目は、少年ではなく、もっと奥を見ているようだった。唇が動く。何世紀も使われていなかった言葉を、必死に掘り起こすように。
「……お前……」
「……アース……?」
空の息が止まった。「な……なんで、その言葉を……?」
慌てて周囲を見る。「俺の服は? 鞄は?」
男は、焚き火を指差した。
熾火の中に、焦げたファスナーと、ネクタイの布切れが見えた。
「……燃やした」
「燃やした!?」声が森に響いた。「なんでそんなこと――!」
男の表情が沈む。前に身を乗り出し、火に照らされた手には無数の傷跡があった。
「……危険……」
「……異界の……物……」
灰を見つめる。自分の世界の名残は、煙になって消えていった。
守られているのか、脅かされているのか――わからない。
男は影の中へ身を引いた。
「……名……」
空は震える腕を抱えた。「……空だ。空・ハヤテ」
一瞬、男の目が見開かれる。
顔を背け、その名を――待ち続けていた秘密のように、呟いた。
「……ソラ……」
焚き火が弾け、火花が闇へ舞い上がる。
空は男を見て、森を見上げた。
望んでいた「違う人生」は、確かに始まった。
そして――
もう、戻る道はなかった。
[第1章終了]




