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砂時計の砂が落ちきる前に、私は自由に生きることにしました~婚約破棄された令嬢は辺境で花開く~

作者: さんず

「この婚約は、本日をもって破棄とする」


エドワード王太子の声が、薔薇の香り漂う大広間に響き渡った。


私、リディア・クレストフォールは、その言葉を聞きながら内心で小さくガッツポーズをした。


(やっと……やっと終わる)


表面上は悲しげに睫毛を伏せ、か弱い令嬢を演じる。十年間磨き上げた演技力は、こういう時にこそ発揮されるものだ。


「リディア嬢には王太子妃としての資質が欠けている。代わりに、セレナ嬢を新たな婚約者として迎えることとなった」


エドワード様の隣で、異母妹のセレナが勝ち誇った笑みを浮かべている。蜂蜜色の巻き毛を揺らし、わざとらしく私を見下ろす翠の瞳。


「お姉様、ごめんなさいね? でも、殿下のお心は私に向いてしまったの」


(いや、謝る気ないでしょ、その顔)


周囲の貴族たちがひそひそと囁き合う。「可哀想に」「でも仕方ないわ、地味すぎたもの」「妹君の方が王太子妃に相応しい」


好きに言えばいい。どうせ私は、この場所に未練などない。


「……かしこまりました、殿下」


深々と一礼する。完璧な角度、完璧な所作。誰にも文句は言わせない。


「お幸せに」


その一言だけを残し、私は大広間を後にした。誰も追いかけては来ない。当然だ。私は「空気のような令嬢」なのだから。



自室に戻り、扉を閉めた瞬間——


「っ……!」


胸が、焼けるように熱い。


ドレスの胸元を押さえ、鏡台に手をついた。息が苦しい。心臓が早鐘を打つ。


その時、視界の端で何かが光った。


鏡台の引き出し。母の遺品を入れていた、開けたことのない小箱。なぜか今、それが淡い紫色の光を放っている。


「これは……」


震える手で蓋を開けると、中には小さな砂時計が入っていた。手のひらに収まるほどの大きさ。しかしその砂は、まるで星屑のように煌めいている。


砂時計を手に取った瞬間、声が聞こえた。


『この砂時計の砂が全て落ちる時、お前の命も尽きる』


母の——死んだはずの母の声だ。


『リディア。お前の時間魔法を、決して使ってはいけない。目立てば殺される。だから隠しなさい。そして……ごめんなさい』


声はそこで途切れた。


砂時計を見つめる。上部の砂は、まだたっぷりと残っている。だが確実に、一粒、また一粒と下へ落ちていく。


私は冷静に計算した。


(この速度だと……あと一年、というところかしら)


婚約破棄を告げられた夜に、死の宣告まで受けるとは。普通なら絶望するところだろう。泣き崩れて、運命を呪うところだろう。


でも私は——


「ふふ」


笑いが込み上げてきた。


「ちょうどよかった」


窓の外では、月が煌々と輝いている。


「どうせ死ぬなら、残りの人生は自分のために生きよう」


砂時計を握りしめる。不思議と、怖くはなかった。むしろ——解放された気分だった。もう誰にも従わなくていい。もう何も隠さなくていい。


私は明日、この王宮を出る。そして残りの一年を、私だけの時間として生きるのだ。



その夜、王宮の誰も知らなかった。


捨てられた令嬢の胸で、砂時計が静かに時を刻み始めたことを。そしてその砂時計が、遠い隣国で——もう一つの砂時計と、呼応するように光ったことを。


◇◇◇


「お嬢様、本当によろしいのですか」


馬車の中で、マリーが三度目の確認をしてきた。栗色の髪をきっちりまとめた彼女の茶色の瞳には、隠しきれない不安が滲んでいる。


「よろしいも何も、追放されたのだから仕方ないでしょう?」


私は窓の外を眺めながら答えた。王都の華やかな街並みは既に遠く、今は緑深い森の中を馬車が進んでいる。


「でも、あんな僻地に……! クレストフォール家の名前だけ残して、実質的な追放ですよ!」


「マリー」


私は彼女の手を取った。


「ありがとう。ついてきてくれて」


マリーの目に涙が滲む。


「当然です。お嬢様のお母様にお仕えした時から、私はずっとお嬢様をお守りすると決めていたのですから」


(この人だけだ。私の味方は、ずっとこの人だけだった)


胸元で砂時計が微かに温かい。残り時間を知っているのは、私だけ。マリーには、まだ言えない。


「ねえ、マリー」


「はい?」


「辺境の領地って、どんなところかしら」


「えっと……荒れ地が多いと聞いております。前の領主様が亡くなってから、随分と寂れてしまったとか」


「そう」


私は小さく微笑んだ。


「楽しみね」


「……は?」


マリーが目を丸くする。無理もない。追放先を「楽しみ」と言う令嬢など、普通はいないだろう。


でも私には、ある考えがあった。


時間を操る魔法——母に禁じられ、十年間封印してきた力。もう隠す必要はない。どうせあと一年の命なのだから。


(使ってみたい。この力で、何ができるのか試してみたい)


そんな不謹慎な好奇心が、胸の奥で疼いていた。



三日後、私たちは辺境の領地に到着した。


「これは……」


馬車を降りた瞬間、マリーが絶句した。荒れ果てた大地。枯れかけた畑。崩れかけた屋敷。


「ようこそお越しくださいました、リディア様」


出迎えてくれたのは、白髪を撫でつけた痩身の老紳士だった。


「私はこの屋敷の執事、グレン・バーソロミューと申します」


深々と一礼する姿は、荒れた屋敷には不釣り合いなほど優雅だ。


「グレン。率直に聞くわ」


「はい」


「この領地、どうしてこんなに荒れているの?」


老執事の目に、一瞬だけ苦渋の色が浮かんだ。


「……先代領主様が亡くなってから五年。王都からは何の支援もなく、若者たちは皆都会へ出て行きました。残ったのは老人と子供だけ。畑を耕す人手もなく……」


「なるほど」


私は荒れた大地を見渡した。確かにひどい状態だ。だが——


(土は死んでいない)


長年培った観察眼が、そう告げている。王宮の庭園で密かに植物を育てていた経験が、今になって役に立つとは。


「グレン」


「はい、お嬢様」


「明日から、畑を見て回りたいの。案内してくれる?」


老執事の目が、わずかに見開かれた。


「……お嬢様自ら、ですか?」


「ええ。私、土いじりが好きなの」


マリーが横で「お嬢様?」と困惑した声を上げる。無理もない。王宮では「地味で無能な令嬢」を演じ続けていたのだから。


でも、もうその必要はない。


「グレン」


「はい」


「この領地を、立て直すわ」


宣言した瞬間、老執事の厳格な表情が——ほんの一瞬だけ、揺らいだように見えた。


◇◇◇


翌朝。


私は夜明けと共に起き出し、古びた作業着に着替えた。


「お嬢様! そのようなお姿で!」


マリーが悲鳴を上げる。


「畑仕事にドレスは着ていけないでしょう?」


「でも、でも……!」


「マリー。美味しい朝食を用意しておいて。お腹を空かせて帰ってくるから」


有無を言わせず、私は屋敷を出た。


荒れた畑の前に立つ。枯れかけた麦。ひび割れた土。これが、この領地の現実だ。


グレンが遠くから心配そうに見守っている。領民たちも、噂を聞きつけたのか数人が遠巻きに様子を窺っていた。


(都会から来たお嬢様が何をする気だ、とでも思っているのかしら)


構わない。見せてあげる。


私は枯れかけた麦の前にしゃがみ込み、そっと手を伸ばした。目を閉じる。意識を集中させる。十年間封印してきた力を、解き放つ。


「——巻き戻れ」


囁いた瞬間、指先から淡い光が溢れ出た。時間を、ほんの少しだけ戻す。麦が枯れる前の、まだ瑞々しかった頃へ。


「なっ……!」


誰かが息を呑む声が聞こえた。目を開けると——枯れかけていた麦が、青々とした姿を取り戻していた。


「これは……奇跡じゃ……!」


老人の声。


「魔法だ! あのお嬢様、魔法が使えるんだ!」


子供の歓声。


私は立ち上がり、次の区画へ向かった。巻き戻す。また巻き戻す。枯れた作物が蘇り、ひび割れた土地に水分が戻っていく。


体が重い。魔力を使うたびに、砂時計の砂が少し早く落ちる気がする。


(でも、構わない)


どうせ残り一年の命だ。使わずに死ぬより、使い切って死にたい。


「お嬢様……!」


グレンが駆け寄ってきた。厳格な老執事の目に、信じられないという色が浮かんでいる。


「これは……時の魔法、ですか? 伝説にしか残っていない……」


「知っているの?」


「古い文献で読んだことがございます。時を操る力——かつて大陸を治めた古代王家に伝わる、失われた魔法だと」


私は微笑んだ。


「失われてはいなかったみたいね」



「すごい……すごいですお嬢様!」


夕食時、マリーが興奮冷めやらぬ様子で蜂蜜入りのスコーンを運んできた。


「領民の方々、皆さん泣いて喜んでおられましたよ! 『神様がお嬢様を遣わしてくださった』って!」


「大げさね」


私はスコーンを頬張りながら言った。うん、美味しい。マリーの焼くスコーンは、王宮のどんな菓子より美味しい。


「大げさなんかじゃありません! お嬢様が王宮でどれだけ虐げられてきたか、私は知っています。でもお嬢様は、こんなすごい力を持っていらしたんですね……」


「マリー」


「はい?」


「この力のこと、誰にも言わないで」


「え……」


「王都に知られたら、厄介なことになるから」


マリーの顔が引き締まった。


「……承知いたしました。この口は、地獄に落ちても開きません」


「そこまで言わなくても」


思わず笑ってしまう。ああ、笑うのは久しぶりだ。王宮では、心から笑うことなど一度もなかった。


窓の外を見る。夕焼けに染まる畑は、朝とは見違えるほど生き生きとしていた。


「明日も頑張らなくちゃ」


呟いた瞬間——視線を感じた。窓の向こう。森の影。誰かが、こちらを見ている。


「……?」


目を凝らすが、もう何も見えない。気のせいだったのだろうか。でも、確かに感じた。


金色の——太陽のような、眩しい眼差しを。


◇◇◇


三日後。


私は毎日のように畑に出て、領地の再生に力を注いでいた。時間を巻き戻し、作物を蘇らせる。水路の詰まりを「詰まる前」に戻して解消する。崩れかけた橋を「崩れる前」に戻して補修する。


体は疲れるが、心は不思議と軽かった。


「お嬢様、そろそろお休みになってください」


マリーが心配そうに声をかけてくる。


「もう少しだけ」


「いけません! お顔の色が悪いですよ!」


確かに、今日は少しやりすぎたかもしれない。砂時計の砂も、心なしかいつもより早く落ちている気がする。


「わかったわ。今日はここまでにする」


立ち上がった瞬間——ふらりと体が揺れた。


「お嬢様!」


マリーが駆け寄ろうとする。でも、それより早く——誰かの腕が、私の体を支えた。


「大丈夫か」


低い声。顔を上げると、金色の瞳と目が合った。


夜闘の羽のような漆黒の髪。冷たい彫刻のような整った顔立ち。見たことのないほどの美貌の青年が、私を腕に抱えている。


「……どなた?」


「通りすがりの旅人だ」


そう言う割には、その佇まいは明らかに只者ではない。


「立てるか」


「ええ……ありがとう」


腕から離れようとすると、彼はなぜかすぐには離さなかった。


「無理をしすぎだ」


「……初対面の人に言われる筋合いはないわ」


「見ていた」


「は?」


「三日前から。君が魔法を使うところを」


心臓が跳ねた。


(見られていた? あの時の視線は、やはり——)


警戒心が一気に高まる。この男、何者だ。


「誰にも言っていない」


私の緊張を察したのか、彼は淡々と続けた。


「言うつもりもない」


「……なぜ?」


「俺にも、秘密があるからだ」


そう言って、彼は懐から何かを取り出した。砂時計だ。私のものとよく似た、小さな砂時計。


「っ……!」


私の胸元で、砂時計が熱を持った。まるで呼応するかのように。


「君は一体何者だ?」


彼の金色の瞳が、私を捉えて離さない。


「……それは、こちらの台詞よ」


見つめ合う。風が吹いて、私の銀灰色の髪が揺れた。なぜだろう。この男の傍にいると、砂時計の砂が——ほんの少しだけ、ゆっくり落ちている気がする。



「ルシアン、と名乗っている」


屋敷の客間で、彼は名を告げた。マリーが淹れた紅茶には手をつけず、じっと私を見つめている。


「名乗っている? 本名ではないの?」


「本名だ。ただ、姓は伏せさせてもらう」


「怪しいわね」


「お互い様だろう。時の魔法を使える人間など、今の世界にはいないはずだ」


核心を突かれ、言葉に詰まる。


「……あなたの砂時計は何なの」


「呪いだ」


彼は抑揚のない声で言った。


「砂が全て落ちる時、俺の命も尽きる」


同じだ。私と、同じ。


「あなたも……」


「ああ。だから君を探していた」


「探していた?」


「同じ呪いを持つ者を。この呪いを解く方法を探すために」


私は自分の砂時計を見た。彼の砂時計と、今も呼応するように微かに光っている。


「不思議ね」


「何がだ」


「あなたの傍にいると、砂の落ちる速度が遅くなる気がするの」


ルシアンの金色の瞳が、わずかに見開かれた。


「……それは、俺も感じていた」


沈黙が落ちる。紅茶の湯気だけが、ゆらゆらと立ち昇っていた。


「提案がある」


彼が口を開いた。


「この領地に滞在させてくれ。呪いについて調べたい」


「……見ず知らずの男を泊めろと?」


「対価は払う。君の領地の再建を手伝おう」


怪しい。怪しすぎる。でも——


「いいわ」


気づけば、私は頷いていた。


「ただし、変なことをしたら追い出すから」


「しない」


即答だった。


「信用していいのかしら」


「しなくていい。ただ、君を害する気はない」


そう言う彼の目は、確かに嘘をついているようには見えなかった。


(どうして、この人を信じる気になったのかしら)


自分でも不思議だった。でも、なぜか——この金色の瞳から目を離せない自分がいた。


◇◇◇


ルシアンが領地に滞在し始めて、一週間が経った。


「お嬢様、あの方はまた畑に出られましたよ」


朝食の席で、マリーが呆れた声を出す。


「また?」


「ええ。夜明け前から、領民の方々と一緒に水路の整備を」


窓の外を見ると、確かにルシアンの姿があった。黒髪を一つに束ね、土にまみれながら重い石を運んでいる。どう見ても貴族の動きではない。


「……意外と働き者なのね」


「働き者なのはいいのですが」


「何?」


「領民の女性たちが、もう大騒ぎで」


マリーが溜息をついた。


「あの顔であの体であの働きぶりでしょう? 『素敵な旅人様』『どこの貴族様かしら』『お嬢様とお似合い』って」


(お似合い?)


思わず紅茶を吹き出しそうになった。


「何を言ってるの、会って一週間よ」


「そうですよね。でもあの方、お嬢様がいらっしゃる時だけ表情が変わるんです」


「変わる?」


「普段は氷みたいに無表情なのに、お嬢様を見ると……何というか、目が追いかけるんです」


馬鹿馬鹿しい。そう思いながらも、少しだけ頬が熱くなる自分がいた。



昼過ぎ、私は畑の視察に出た。


「リディア」


ルシアンが近づいてくる。土で汚れた手を布で拭きながら。


「休憩か?」


「視察よ。あなたこそ、働きすぎじゃない?」


「これくらいは平気だ」


そう言う彼の顔色は、確かに一週間前より良くなっている。


「砂時計は?」


「ああ」


彼は懐から砂時計を取り出した。


「落ちる速度が、明らかに遅くなっている」


私も自分の砂時計を見る。同じだ。彼の傍にいると、砂の流れが穏やかになる。


「やはり、二人の砂時計には何か関係があるようだな」


「そうね」


「……グレンに聞いた」


「何を?」


「この地に伝わる古い伝承を。時の呪いは、同じ呪いを持つ者同士が契約を結ぶことで解けると」


「契約?」


「婚姻だ」


一瞬、思考が停止した。


「……は?」


「俺も驚いた」


ルシアンは相変わらず無表情だが、どこか居心地悪そうに目を逸らした。


「誤解するな。すぐにどうこうという話ではない」


「当たり前でしょう!」


声が裏返った。恥ずかしい。


「ただ、そういう可能性もある、という報告だ」


「報告って……まるで任務みたいな言い方ね」


「すまない。こういう話し方しかできない」


本当に不器用な人だ。でも——なぜだろう。その不器用さが、嫌いではなかった。


「ルシアン」


「何だ」


「あなた、甘いもの好きでしょう」


彼の動きが止まった。


「……なぜわかった」


「マリーが作った蜂蜜漬けの果実、毎日食べてるって聞いたから」


「…………」


沈黙。ルシアンの耳が、わずかに赤くなっている。


(この人、照れてるの?)


意外な発見に、思わず笑ってしまった。


「ふふ」


「笑うな」


「ごめんなさい。でも、親近感が湧いたわ」


「親近感?」


「私も甘いものが好きなの。マリーの焼くスコーンが特に」


ルシアンは私の顔をじっと見つめた。


「……そうか」


それだけ言って、彼は再び畑仕事に戻っていった。でも、その背中がどこか軽やかに見えたのは、気のせいだろうか。



夕方。


屋敷に戻ると、グレンが血相を変えて駆け寄ってきた。


「お嬢様! 大変でございます!」


「どうしたの?」


「王都から、使者が参りました!」


心臓が跳ねた。


(もう嗅ぎつけられた? 私の魔法のことが……)


「何の用かしら」


「それが……王太子殿下からの命令だと」


「命令?」


「『リディア・クレストフォールを王都に連れ戻せ』とのことです」


血の気が引いた。なぜ。婚約破棄して追放したのは、向こうなのに。


「使者はどこに?」


「応接室にお待たせしております」


歩き出そうとした時、背後から声がかかった。


「リディア」


ルシアン。いつの間にか、後ろに立っていた。


「俺も行く」


「……部外者が出ると、ややこしくなるわ」


「構わない」


金色の瞳が、真っ直ぐに私を見る。


「君を一人で行かせない」


その言葉に、胸が熱くなった。


(どうして。まだ出会って一週間なのに)


「……好きにして」


そう答えて、私は応接室へ向かった。



応接室には、見覚えのある顔があった。王太子付きの侍従だ。かつて私を「地味な婚約者様」と陰で嘲笑っていた男。


「リディア様。お久しぶりでございます」


慇懃無礼な笑みを浮かべる。


「王太子殿下がお呼びです。早急に王都にお戻りください」


「理由を伺っても?」


「殿下は『お前の力が必要だ』と仰っておいでです」


力。


(やはり、知られたか)


「お断りするわ」


侍従の顔が歪んだ。


「断る? これは王太子殿下のご命令ですよ?」


「婚約は破棄されました。私はもう、殿下の婚約者ではありません。命令に従う義務はないわ」


「しかし……!」


「それに」


私は背筋を伸ばした。


「この領地には、私を必要としてくれる人々がいます。置いていくわけにはいきません」


侍従は歯噛みする。その時、彼の視線がルシアンに向いた。


「そちらの方は?」


「旅の者だ」


ルシアンが短く答える。


「この領地に滞在させてもらっている」


侍従の目が細くなった。


「……なるほど。リディア様は、男をお作りになったわけですか」


「無礼な」


ルシアンの声が低くなる。


「事実でしょう? 婚約破棄されたばかりで、見知らぬ男と同じ屋根の下。流石は『捨てられた令嬢』ですな」


空気が、凍りついた。


「……今、何と言った」


ルシアンの金色の瞳が、鋭く光る。


「彼女を侮辱するな」


「あなたに何の権利が——」


「ある」


ルシアンが一歩、前に出た。


「彼女は——俺の大切な人だ」


心臓が跳ねた。


(え? 今、何て?)


「は? 何を——」


「帰れ」


ルシアンの纏う空気が、一変した。


「これ以上彼女を侮辱するなら、相応の対応をする」


その威圧感に、侍従は本能的に後ずさった。


「お、覚えていらっしゃい……! 殿下に報告いたします……!」


逃げるように応接室を出ていく侍従。静寂が戻った。


「……ルシアン」


「何だ」


「大切な人って、どういう意味?」


彼は無表情のまま、しかし明らかに目を逸らした。


「言葉通りの意味だ」


「言葉通りって……」


「これ以上は聞くな」


そう言って、彼は応接室を出ていった。


残された私は、しばらく呆然としていた。


(どういうこと……?)


胸が、どくどくと鳴っている。砂時計が、温かい。あの言葉の意味を考えるのが——少しだけ、怖かった。


◇◇◇


——同じ頃、王都では。


「何だと!? 断っただと!?」


エドワード王太子の怒号が、宮殿に響き渡った。


「は、はい……リディア様は『帰る義務はない』と……」


「ふざけるな!」


机を叩く。上に置かれていた書類が散乱した。


「あの女、俺を誰だと思っている!」


あの日——リディアを追放してから、エドワードの運気は坂道を転がるように落ちていた。政務は滞り、決裁を間違え、外交交渉も失敗続き。貴族たちの間では「王太子は無能だ」という噂が広まり始めている。


(まさか、あの女が……!)


考えたくなかった。認めたくなかった。だが、状況証拠が揃いすぎている。


リディアがいた頃、宮廷は不思議と平穏だった。貴族間の諍いも最小限に収まり、書類の処理も滞りなく進んでいた。全て——あの「空気のような女」が、陰で調整していたのだ。


「殿下」


甘ったるい声と共に、セレナが入ってきた。


「また何を怒っていらっしゃるの?」


「リディアだ。あの女が帰還を拒否した」


セレナの翠の瞳が、一瞬だけ鋭くなった。


「まあ、生意気な。追放された身分で」


「しかも男を作っていたらしい」


「は?」


セレナの表情が凍りついた。


「見知らぬ男と同じ屋敷に住んでいると。しかもかなりの美丈夫だそうだ」


「そんな……あのお姉様が?」


信じられない、という顔。無理もない。王宮でのリディアは、男に興味を示したことなど一度もなかったのだから。


「殿下。お姉様を取り戻すべきですわ」


「何?」


「あの人の力が必要なのでしょう? なら、強制的に連れ戻せばいいのです」


「強制的に?」


「ええ。お姉様は反逆罪で、とでも言えば——」


「馬鹿を言うな」


エドワードは首を振った。


「リディアは公爵家の令嬢だ。正当な理由なく強制連行すれば、貴族たちが黙っていない」


「でも……」


「俺が直接行く」


セレナの目が見開かれた。


「殿下自ら……?」


「ああ。あの女に思い知らせてやる。俺を拒絶することがどういう意味か」


エドワードの碧眼に、暗い炎が燃えている。それは愛ではなかった。失ったものへの執着。傷つけられたプライド。所有物を奪われた怒り。


「準備をしろ。明日、辺境に向かう」



セレナは自室に戻ると、鏡の前に立った。


「ふふ」


笑いが込み上げる。


「お姉様ったら、男を作るなんて」


あの地味な姉が。自分から全てを奪った、憎い姉が。


「殿下が直接行くなら、ちょうどいいわ」


唇を歪める。


「お姉様が殿下を拒絶した罪で処罰されれば、私の邪魔者はいなくなる」


そう。最初から、姉など眼中になかった。欲しかったのは王太子妃の座。姉が持っていたものを、全て奪うこと。


「見ていなさい、お姉様」


鏡の中の自分に、セレナは囁いた。


「あなたの幸せなんて、私が許さないから」


◇◇◇


——その頃、辺境の屋敷では。


「お嬢様、少しお話が」


グレンが深刻な顔で私を呼んだ。


「王都から使者が来た件、村人たちにも噂が広まっております」


「そう。何か問題が?」


「いえ……むしろ逆です」


老執事は、珍しく微かに微笑んだ。


「村人たちが、口を揃えて『お嬢様を守る』と申しております」


「……守る?」


「はい。『お嬢様は私たちの恩人だ。王都の偉い人になど渡さない』と」


胸が熱くなった。王宮では誰にも必要とされなかった私が、ここでは——


「ありがとう、グレン」


「礼には及びません。私も同じ気持ちですから」


老執事は深々と頭を下げた。


「お嬢様は、この地に遣わされた奇跡でございます」


その言葉に、涙が滲みそうになった。


(この場所を、守らなければ)


砂時計を握りしめる。何が起きても。誰が来ても。私は、もう逃げない。



数日後の夜。


私は庭に出て、星を眺めていた。


「眠れないのか」


背後から声がして、振り返るとルシアンが立っていた。


「あなたこそ」


「……俺は、君がいないと眠れない」


「はい?」


「いや、何でもない」


彼は私の隣に並んで、同じ星空を見上げた。


「綺麗だな」


「ええ。王宮ではこんなに星は見えなかった」


「……王宮は、辛かったか」


唐突な質問だった。


「どうして聞くの?」


「知りたいと思った。君のことを」


金色の瞳が、真っ直ぐに私を見る。この人の目は、嘘をつかない。


「……辛かったわ」


気づけば、口が動いていた。


「十年間、ずっと。『目立つな』『逆らうな』『空気になれ』って、自分に言い聞かせてた」


「なぜだ」


「母の遺言よ。『お前の力を見せてはいけない。見つかれば殺される』って」


「……」


「婚約者には蔑まれ、義妹には奪われ、貴族たちには嘲笑われて。でも、何も言い返せなかった。言い返したら、正体がバレるから」


ルシアンは黙って聞いている。


「婚約破棄された時——正直、嬉しかったの。やっと自由になれるって。でも同時に、砂時計が見つかって」


私は自分の胸元に手を当てた。


「あと一年で死ぬってわかった。最初は『どうでもいい』って思った。どうせ誰にも必要とされない人生だったんだからって」


「リディア」


「でも、ここに来て変わったの」


ルシアンの顔を見上げる。


「必要としてくれる人がいた。感謝してくれる人がいた。そして——」


言葉が詰まった。


「そして?」


「……あなたに会った」


沈黙が落ちる。風が吹いて、私の銀髪が揺れた。


「俺も」


ルシアンが口を開いた。


「俺も、君に会って変わった」


「……どういうこと?」


「君といると、時間を忘れられる」


(いや待って、それ物理的に時間止まってるからね?)


思わず心の中でツッコんでしまう。


「ルシアン、それは砂時計の効果で——」


「わかっている」


彼は小さく笑った。笑った。この人が笑うところ、初めて見た。


「わかっているが……それだけではない気がする」


金色の瞳が、月明かりに照らされて輝いている。


「君の傍では、心が穏やかになる。眠れなかった夜も、君を見ていると安心する」


「わ、私を見て……?」


「ああ。失礼だと思ったが、つい」


どういうことだ。この人は一体何を言っているのだ。頬が熱い。心臓がうるさい。


「ルシアン、あなた——」


「お嬢様!」


屋敷の方からマリーの声が響いた。


「大変です! 王都から王太子殿下が直接いらっしゃるとの報せが!」


血の気が引いた。


「殿下が……直接……?」


「明日の昼には到着するそうです!」


マリーが息を切らせて駆け寄ってくる。ルシアンの表情が険しくなった。


「……来たか」


「どうしよう。追い返すことはできないわ。王太子に逆らえば、反逆罪になりかねない」


「リディア」


ルシアンが私の両肩を掴んだ。


「俺を信じてくれるか」


「え?」


「明日、君を守る。何があっても」


金色の瞳が、真剣な光を湛えている。


「……どうするつもり?」


「君の全てを守る方法がある。ただし——」


彼は一瞬躊躇った。


「——君の承諾が必要だ」


「承諾?」


「明日になれば話す。今夜は休め」


そう言って、ルシアンは屋敷へ戻っていった。


残された私は、彼の背中をただ見つめていた。


(何を考えているの、あの人は)


砂時計が、月明かりの下で静かに輝いている。


明日。全てが変わる予感がした。


◇◇◇


翌日、昼。


蹄の音と共に、王太子エドワードの一行が領地に到着した。


私は屋敷の前で待ち受けていた。隣にはルシアン。後ろにはグレンとマリー。


「久しぶりだな、リディア」


エドワードが馬を降りる。金髪碧眼の端正な顔立ち。かつて婚約者だった男。今は——何も感じない。


「お越しいただき光栄でございます、殿下」


私は完璧な礼をした。


(本音を言えば帰ってほしいけど)


「ほう」


エドワードの目が細くなる。


「変わったな、リディア。以前より……綺麗になった」


「恐れ入ります」


「そして——」


彼の視線が、私の隣に向いた。


「その男は誰だ」


ルシアンを見る目が、明らかに敵意を含んでいる。


「領地の客人です」


「客人? 聞いていないぞ」


「殿下に報告する義務はございませんので」


エドワードの眉が跳ね上がった。


「……生意気になったな」


「追放された身ですから。少しは自由にさせていただきたく」


皮肉を込めて言う。かつての私なら、こんな言い方はできなかった。でも今は違う。


「まあいい」


エドワードは馬を従者に預けた。


「本題に入ろう。リディア、俺と共に王都に戻れ」


「お断りします」


「聞いていない。これは命令だ」


「私は殿下の婚約者ではありません。命令に従う義務は——」


「お前の力が必要なんだ!」


エドワードが声を荒げた。


「お前が王宮から去ってから、何もかもがうまくいかない! お前が何かしているのだろう!」


「……は?」


思わず素の声が出た。


(この人、本気で言ってるの?)


「お前の魔法だ! 使者から報告を受けた! 時を操る力があると!」


周囲がざわめいた。エドワードの従者たちが、私を見る目が変わる。


「その力を王国のために使え。それがお前の使命だ」


「使命?」


私は静かに問い返した。


「殿下。私を道具としか見なかったあなたに、今さら何を言われても」


「道具だと? 俺は——」


「私を愛することはないと、あなた自身がおっしゃいました」


凛とした声で遮る。


「婚約者の間、一度も笑いかけてくださらなかった。一度も名前を呼んでくださらなかった。私は——ただの『王太子妃候補』という肩書きでしかなかった」


「それは——」


「そして今、私が『使える』とわかった途端に『戻れ』ですか。随分と都合のいい話ですね」


エドワードの顔が歪んだ。


「黙れ! 俺は王太子だぞ!」


「だから何です?」


私は一歩も引かなかった。


「王太子だからといって、人を道具のように扱っていいとでも? 婚約破棄して追放しておいて、今さら『戻れ』と言う権利がどこに?」


「お前……っ!」


エドワードが私に手を伸ばした——その瞬間。


ルシアンが、私の前に立ちはだかった。


「彼女に触れるな」


低い、しかし明瞭な声。


「何だ、貴様」


「俺は——」


ルシアンが一歩前に出る。


「アルヴェリオン公国第一公爵、ルシアン・ヴェルトハイゼン」


空気が凍りついた。


「そして」


彼は私の手を取った。


「彼女は、俺の婚約者だ」



「……何だと?」


エドワードの顔が蒼白になった。


「アルヴェリオン公国……第一公爵……?」


アルヴェリオン公国。隣国にして、この王国を凌ぐ大国。その第一公爵といえば、王族に次ぐ地位を持つ最高位の貴族だ。


「馬鹿な。証拠はあるのか」


「必要なら、紋章を見せようか」


ルシアンが懐から何かを取り出す。金色に輝く紋章——時計と翼を模したデザイン。アルヴェリオン公国の名門ヴェルトハイゼン家の証だ。


「……本物、か」


エドワードの声が震えている。


「なぜ……なぜそんな人物が、こんな辺境に……」


「彼女を探していたからだ」


ルシアンが私の手を握る。


「俺と彼女には、ある縁がある」


「縁?」


「見せてやろう」


ルシアンが懐から砂時計を取り出した。私も、自分の砂時計を出す。二つの砂時計が近づくと——眩い光が放たれた。


「なっ……!」


エドワードが目を覆う。


「これは——」


「時の呪い」


ルシアンが説明する。


「俺の一族に伝わる呪いだ。同じ呪いを持つ者同士が出会い、契約を結ぶことで解ける」


「契約?」


「婚姻だ」


私は息を呑んだ。昨夜、彼が言っていた「承諾」とは、このことだったのか。


「リディア」


ルシアンが私に向き直る。


「君を守る方法は、これしかない。俺の婚約者となれば、この国の王太子といえども手出しはできない」


「でも——」


「俺は君を利用したいわけじゃない」


金色の瞳が、真っ直ぐに私を見つめる。


「君といると、時間を忘れられる。君の傍では、砂時計の砂も緩やかに落ちる。それは——呪いだけの問題じゃない気がするんだ」


「……」


「不器用で、うまく言えない。でも」


彼の手が、私の頬に触れた。


「君が必要だ。呪いを解くためだけじゃなく——俺自身が、君を求めている」


心臓が、どくどくと鳴っている。砂時計が、温かい。


「……ずるいわ」


「何が」


「こんな状況で言われたら、断れないじゃない」


ルシアンの表情が、わずかに緩んだ。


「断らないでくれ」


「……わかったわ」


私は彼の手を握り返した。


「私、あなたの婚約者になる」


その瞬間——二つの砂時計が、激しく輝いた。



「待て!」


エドワードが叫んだ。


「認めないぞ! リディアは俺の——」


「あなたの何です?」


私は冷たく問い返した。


「婚約者? それはあなたが破棄しました。所有物? 私は人間です。道具? もう使われる気はありません」


「……っ」


「お帰りください、殿下」


私は深々と一礼した。


「私は、ルシアン様の婚約者です。あなたに従う義務はもうありません」


エドワードの顔が、怒りで赤黒く染まる。


「この……この女……!」


「王太子殿下」


ルシアンが低い声で言った。


「これ以上彼女を侮辱するなら、国際問題になりますよ。俺は——あなたの国より、遥かに力のある国の公爵ですから」


脅しだった。だが、事実だ。


エドワードは歯噛みしながら、一歩後ずさった。


「……覚えていろ」


「お言葉はそのままお返しします」


私は微笑んだ。


「お幸せに、殿下」


かつて私が言われた言葉を、今度は私から返す。


エドワードは何も言えず、馬に飛び乗って去っていった。



嵐のような騒ぎが終わり、静寂が戻った。


「お嬢様……!」


マリーが泣きながら駆け寄ってきた。


「よかった……よかったです……!」


「マリー、まだ終わってないわよ」


「でも! あの嫌な王太子様を追い返せたじゃないですか!」


確かに、追い返せた。でも——


「リディア」


ルシアンが私の名を呼ぶ。


「改めて、言わせてくれ」


彼は私の手を取り、片膝をついた。


「俺の妻になってくれ。呪いを解くためだけじゃなく——君と共に生きたい」


夕日が、彼の黒髪を照らしている。金色の瞳が、真剣な光を湛えて私を見上げていた。


「……はい」


答えた瞬間、涙が溢れた。


「私も——あなたと生きたい」


砂時計が、二つ同時に輝く。呪いの砂が、金色に変わっていく。


「共に時を刻もう」


ルシアンが、私を抱きしめた。


「永遠に」


夕焼けの中、二つの砂時計は——祝福の証として、静かに輝き続けていた。


◇◇◇


——数か月後。


私はアルヴェリオン公国で、ルシアンの妻となっていた。


「奥方様、お茶の準備ができております」


「ありがとう、マリー」


辺境の領地から一緒についてきたマリーは、今では公爵家の侍女頭だ。


「それにしても」


マリーが呆れたように言う。


「旦那様ったら、また奥方様を見つめておられますよ」


「……え?」


振り返ると、庭の向こうでルシアンがこちらを見ていた。目が合うと、彼はそっぽを向いた。耳が赤い。


「ふふ」


「笑い事じゃありませんよ。毎日毎日、奥方様が視界に入っていないと落ち着かないご様子で」


「いいじゃない。可愛いでしょう」


「可愛いって……あの氷の公爵様が?」


確かに、外では相変わらず「氷の公爵」と恐れられている。無表情で無口で、社交界では誰とも話さない。


でも、私の前だけは違う。甘いものをこっそり食べるし、照れるとすぐに目を逸らすし、私が少しでも体調を崩すと大騒ぎするし。


「不器用な人よね、本当に」


「でも、奥方様は幸せそうです」


「……ええ」


砂時計を見る。金色に輝く砂は、もう呪いではない。祝福の証として、私とルシアンの命を繋いでいる。


「幸せよ」



夜。


「リディア」


寝室で、ルシアンが私を抱きしめた。


「今日も綺麗だ」


「毎日言ってるわね、それ」


「毎日思っているからな」


不器用な愛情表現。でも、だからこそ嬉しい。


「ねえ、ルシアン」


「何だ」


「砂時計のこと、グレンから聞いたの」


「……何を聞いた」


「この砂時計の砂が、代々受け継がれていくって」


ルシアンの体が、わずかに強張った。


「……ああ」


「つまり、私たちの子供にも——」


「知っていたのか」


「最近知ったわ。でも」


私は彼の胸に頬を寄せた。


「怖くないの」


「……」


「だって、私たちが証明したでしょう? 呪いは祝福に変えられるって」


ルシアンの腕に、力が込められた。


「リディア」


「何?」


「……愛している」


初めて、彼がその言葉を口にした。


「ずっと言いたかった。でも、どう言えばいいかわからなくて」


「ルシアン……」


「君がいないと眠れない。君がいないと息ができない。これは呪いより厄介だ」


(それ、愛の告白なの? 呪いより厄介って)


思わず笑ってしまう。


「ふふ」


「笑うな」


「ごめんなさい。でも——」


私も彼を抱きしめ返した。


「私も愛してるわ。不器用で、甘いもの好きで、照れ屋なあなたを」


「……照れ屋じゃない」


「今、耳が真っ赤よ?」


「……黙れ」


唇が重なる。窓の外で、月が静かに輝いていた。



——王都では。


「殿下! 大変です!」


宮殿に、悲鳴のような声が響いた。


「何だ、騒々しい」


エドワードは不機嫌に顔を上げた。


「セレナ様が……セレナ様が、横領の証拠を……!」


「何?」


「国庫からの横領と、貴族への賄賂が発覚いたしました……! 既に証拠書類が公開されて……!」


血の気が引いた。セレナの横領——それは、エドワード自身も関わっていることだ。


「誰だ……誰がそんなことを……」


「わ、わかりません……ただ、情報の出処は——アルヴェリオン公国らしいと……」


アルヴェリオン公国。ルシアン・ヴェルトハイゼン。あの男が——リディアを奪ったあの男が——


「……くそっ……!」


全てを失う予感が、エドワードを襲った。リディアがいなくなってから、全てが狂い始めた。彼女を道具としか見なかった報いが、今——



——アルヴェリオン公国、公爵邸にて。


「殿下とセレナ様の失脚、確定いたしました」


グレンが報告する。辺境領から呼び寄せた老執事は、今では公爵家の顧問を務めていた。


「そう」


私は紅茶を口に運んだ。


「因果応報、ということね」


「奥方様」


グレンが深々と頭を下げた。


「あなた様は、本当にお強くなられました」


「強くなったんじゃないわ」


私は微笑んだ。


「自由になっただけよ」


砂時計が、胸元で温かく光っている。呪いだったはずのものが、今では最愛の人との絆の証。


「リディア」


ルシアンが部屋に入ってきた。


「外を歩かないか。今日は天気がいい」


「ええ、喜んで」


差し出された手を取る。夫となった人の手は、大きくて温かかった。


窓の外では、金色の陽光が世界を照らしている。


『どうせ死ぬなら、残りの人生は自分のために生きよう』


あの日、そう決意した私は——今、誰よりも幸せに生きている。


死の宣告から始まった物語は、愛の物語として新たな章を刻み続ける。


砂時計の砂が告げる時間は、もう終わりではない。


二人で歩む、永遠の始まりなのだから——。


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