EP.3
私の母性引き出し作戦は成功し、天の岩戸よろしくお母様の部屋の扉は開かれた。
やっぱり、母性を引き出すには赤ん坊の泣き声が1番良く効いたわね。
それが例え夜中の深い眠りについている時でさえも、赤ん坊がふぇ………と泣き声を上げただけでパブロフの犬が如く目が覚めるのだから、母性って既に人を超えた何かのような気がするわ。
自分は眠りが深くて、物音がしても絶対に起きれない、なんて言っていた人でも、我が子の泣き始めのふぇ……だけでパッチリ目が覚めるのだもの、母性って凄いわよね。
お母様は蹲るように私を抱きしめ、スゥーっと髪の匂いを嗅いでいる。
分かりますわ、それ、もの凄く。
赤ん坊の匂いって、癖になるのよね。
もう、いくらでも嗅ぎ続けていられるもの。
世のお母様方には、家事や仕事など一切やらず、ただ赤ん坊の匂いを嗅ぎ続けるだけの休日を国が定めて与えるべきだと思います。
………本当にこの国でそんな休日を実現して差し上げましょうかしら………権力なら有りますし。
う〜ん、と私が悩ましく思っていた時、ドタドタと廊下を鳴らす荒い足音が聞こえてきて、私は思案するのを一旦やめて、お母様の腕の中から顔を上げた。
ナイスタイミングですわね。
まぁ、この機会を逃すようでは、もう本当に愛想を尽かすところでしたけどね。
「エブァリーナッ!………セシル………」
私を見つけて駆け寄ってこようとしたお父様が、お母様の顔を見てピタリと足を止めた。
まったく、そういう所ですわ、お父様。
ここは勢いで私ごとお母様を抱きしめて差し上げる場面だというのに。
本当に無様ですわ………お父様………。
赤子に似つかわしくない私の侮蔑の目にも気づかず、お父様はお母様の姿を凝視して、息を呑んでいる。
久しぶりにまともに見る妻の姿に衝撃を受けていらっしゃるようね。
だってお母様、もう骨と皮だけの大変なお姿になっているのだもの。
こんなになるまで放置していたお父様にも怒りしか感じませんが………使用人達は一体何をしていたのかしら?
真実、畏れ多くも、お母様を公爵夫人として見限っていたのは、この邸の使用人達の方だったのじゃないかしらね?
まぁ………うふふ。
女主人を馬鹿にしたその態度、私が必ず後悔させてあげますわ、必ずね。
密かにお母様の胸の中で不敵に笑っていると、お母様の震える声が小さく響いた。
「………何故貴方がこんな所へいらっしゃるのかしら?」
冷え切ったお母様の声に、お父様は顔を曇らせ、またお母様から目を逸らした。
……あの、人並みに傷つくのやめて貰っていいかしら?
どう見ても貴方が傷ついて良い状況じゃないのですけど。
「エブァリーナが部屋からいなくなったと聞いて、邸中を探していたんだ……。
まさかこんな所まで1人で来ていたとは……。
ハイハイもまだと聞いていたのだが……」
お父様の言葉にお母様はピクリと眉を上げ、また冷たい声で返した。
「エブァリーナの世話係にはきちんとこの子を管理させて下さい。
ハイハイが出来るようになっている事にも気づいていなかったなんて……危険ではないですか」
声に怒りが滲み出ているのは、私を心配している証拠。
お母様に私への愛情がある事は間違いなかったようだわ。
毎日追い返されていましたが、侍女やメイドの見ていないところで、私を縋るように見つめていましたものね。
その胸に抱きしめたいと、その目がいつも語っていましたよ、お母様。
「うむ………すまない………。
キツく言いつけておこう………」
お母様に指摘されてお父様はそれだけ答えると、また黙ってしまった。
自分から目を逸らし続ける夫に、全てを諦めたかのような溜息をついて、お母様は私を抱いたまま立ちあがろうとして、うまく立ち上がれないままその場でよろけてしまった。
それを目にも止まらない速さで駆け寄って来たお父様が私ごとお母様の体を支えて、心配そうにお母様の顔を覗き込んだ。
「大丈夫か?セシル……」
心配そうに眉を寄せるお父様をその腕の中から見上げ、やっとお母様はその目と視線を合わせる事が出来た。
お父様はお母様の体を支えながら、その眉間に深い皺を作る。
「……セシル………君、なんて軽いんだ………」
悲哀の籠ったお父様の瞳から今度はお母様が目を逸らし、自虐的な笑みを浮かべた。
「……私がどうであろうと、貴方には関係ないでしょ。
離して下さい、この子も早く連れて行って。
そしてもう2度と、ここへは来ないで」
キッパリと言い切ったお母様に、私は頭を抱えたくなった。
お母様にこんなにハッキリ拒絶されては、木偶の坊のお父様にはもう何も出来ない。
今まで同様、更にお母様に近付く事すら出来なくなるわ。
そうはさせてなるものですかっ!
赤ん坊の意地にかけて、この機会をみすみす無駄にはさせませんよ。
私はお父様の服に手を伸ばし、ギュッとそれを掴んで涙目でお父様を見上げた。
赤ん坊の握力って案外強いんですのよ。
この掴んだ服は何が何でも離しません。
そして、さっきギャン泣きしたせいでまだ瞳が潤んでいますから、この無垢な瞳で見つめられればいくらお父様でもこの場から直ぐには離れられないでしょう。
大好きなお母様の異変にやっと気付いたんですから、ここが正念場ですわよ、お父様。
ここで頑張らないと、永遠に愛する人を失うのですよ。
男を見せなさい、スペンサー・ヴィー・アルムヘイム。
赤ん坊の私から放たれる圧にお父様が気付いたかどうかは分かりませんが、お父様は無言でグイッと私ごとお母様を抱き上げた。
横抱きの、つまりお姫様抱っこですわね。
お母様は咄嗟に私をギュッと強く抱きしめましたが、私達2人を一緒に抱き上げても全く揺らがない安定感がお父様にはありましたから、私は平気でしたけど。
「………セシル、すまない。
いくら君の頼みとはいえ、今回ばかりは聞いてやれない」
そう言ってお父様は私達を抱いたまま、お母様の自室に入り、寝室のベッドへと向かった。
目を見開き驚いたままのお母様と、ヤレヤレと少し安堵した私をそのままベッドに寝かせて、自分はベッドの端に腰を下ろした。
「なっ!何のつもりですのっ!
あんな体勢で、エブァリーナが危険ではありませんかっ!」
唖然としていたお母様がやっと声を上げると、お父様は困ったように眉を下げた。
「……すまない、君がエブァリーナを抱いたままでは立ち上がれそうになかったので、つい……」
ポリポリと目の横を掻くお父様を、お母様が不審な目で見ている。
安定感は十分にあったのだけど、お父様に抱き上げられている状態で、力の無い自分が私を落としたら、とお母様が恐怖を感じたのは仕方の無い事です。
お父様は背が高いし、お母様は私を抱き上げる事すら出来ないほど弱っているのですから。
「……もういいですから、この子を連れて出て行って下さい………」
全てを諦めたようなお母様の突き放した声色に、お父様が哀しげに顔を曇らせた。
「………やはり、政略結婚とは言え、嫌っている俺との子は好ましくないのか?」
消え入りそうな愚鈍なお父様の言葉に、お母様は目を見開き、憎悪をその顔に浮かべた。
「何を……貴方は何を仰っているのですか?
私に興味が無いのは、貴方の方ではありませんかっ!
私を身限り、この邸から追い出すおつもりでしょうっ!」
怒りの溢れたお母様の激しい声に、お父様は慌てて顔を上げると、信じられないというようにまじまじとお母様を見つめた。
「そんなっ!君を追い出すなんて、あり得ないっ!
君は俺の妻ではないかっ!
その君を追い出すなどっ!
俺が君に見限られるなら分かるが、なぜ俺が君を見限るのだっ!」
お父様の激しい応答に、お母様はあんぐりと口を開いて、呆然とお父様を見つめる。
そして、その2人の様子を黙って見ていた私は、瞬時にこう思った。
今だっ!と………。
私は素早く2人の指を握り、そしてとびきりのエンジェルスマイルを浮かべ、ご機嫌な笑い声を上げた。
「キャッキャッ!あ〜う〜〜」
瞬間、その私を2人がハッとして見つめると、途端に目尻を下げ、同時に蕩けるような表情を浮かべた。
……まったく……私の中身が大人の機微に聡いシニアだから良かったものの……。
本来なら子供は大人の気持ちに鋭いものですから、目の前で声を荒げて言い合うなど言語道断ですわよ?
親としてまだ初心者マークな2人ですから今回は見逃して差し上げますが、2度目はありませんよ、2度目は。
次は問答無用でギャン泣きです。
抱っこしてなければ永遠に泣き続けて差し上げますからね?
子育て中の両親が何に1番疲弊するかを知り尽くしている私を敵に回すと、怖いですわよ?
一応、心の中で釘を刺しつつ、私は2人を見上げてキャッキャッと笑い転げた。
その私の様子を目を細めて微笑ましく見つめている2人は、やっと親の顔になってくれていた。
「エブァリーナ、なんて可愛らしいの……」
「本当に、俺達のイブは天使のようだ……」
目尻を下げ、同時に私に優しく話しかける2人だったが、お母様がお父様の言葉にピクリと指先を震わせた。
「…………イブ?」
不思議げにお父様を見つめるお母様に、お父様はカッと顔を赤くして、口元を手で隠し、モゴモゴと言い訳をするように答えた。
「……この子と2人きりの時にだけ、イブ……と愛称で呼んでいるのだ……。
すまない、勝手な事をして………」
それが大罪であるかのように、申し訳なさそうに俯くお父様を少し驚いた顔で見つめていたお母様は、ややして私に目線を戻し、片手に自分の指を差し込んで握らせる(反射反応)と、クスッと小さく笑って愛おしげに私を見つめた。
「………イブ……なんてこの子にぴったりの素敵な愛称かしら……。
イブ、ふふっ、本当に可愛い………。
イブちゃん、可愛い私のエブァリーナ…………うっ、私は……こんなに可愛い娘に……今まで何を………うっ、うっ………」
ポタッとお母様の涙が一粒私の頬に落ち、直ぐにポタポタと雨のように降り注いだ。
ポロポロと次から次にお母様の瞳から涙が流れ、お父様が慌てたようにそのお母様を自分の胸にキツく抱きしめた。
「君が悪いんじゃない、全ては愚鈍な私のせいだ。
今まで君の苦しみに気付く事も出来なかった。
君がエブァリーナに会おうとしない事は知っていたが、それは出産で体を痛め、その出産が望まないものだったからだと思い込んでいた……。
私は、無理やり私に嫁がされた君に、恨まれている……とそう思っていたんだ。
君には、私に嫁ぐ前から想っている相手がいるから………」
不器用ながらも何とか言葉を紡ぐお父様。
その話にお母様は驚いたようにバッとその胸から顔を上げた。
「そんなっ!私には貴方以外に想う相手などおりませんっ!
私は恋も知らないまま、貴方と婚約して嫁いできたのですっ!
初めてお会いした貴方の美しさに心を奪われ、後にそれが恋だと気付いたくらいなのに………」
驚き過ぎて自分の胸の内を全て晒してしまった事に気付いたお母様は、みるみる赤くなって、最後は消え入りそうな声でそう言った。
そのお母様にお父様も真っ赤になって、恐る恐るといった感じにお母様の顔を覗き込む。
「……セシル……それは本当かい?
君も私を少しは想っていてくれたと、私は自惚れてもいいのかな……?」
蕩けるようなお父様の優しい声に、お母様は耳まで真っ赤にして、涙目で頷くのが精一杯といった様子だった。
はぁ〜〜〜〜っ!
やれやれ………。
本当にやれやれですわ。
この雰囲気ならもう大丈夫そうですわね。
お互い、思っている事を打ち明けられるでしょう。
はぁ、全く。
赤ん坊の私の手を焼かすだなんて、本当に困った両親だわ。
仕方のないこと。
さて、後は答え合わせの時間ですわよ、お二人さん。
お互いの会話で疑問に思う所があった筈。
そこをしっかり、原因究明して下さいましね。
それくらいなら、幼子の手を借りずともできる筈です。
やっと分かり合えた夫婦を優しく見守っていると、ややしてお母様が不思議そうにお父様を見上げた。
「……でも、貴方に私が別に想う相手が居るだなんて、誰がそんな嘘を……?」
まずはお母様が、早速答え合わせに近付く話を初めてくれて、私は密かにホッと胸を撫で下ろした。
そうですわよね?不思議ですわね。
畏れ多くも、アルムヘイム公爵にそんな根も葉もない嘘を囁き、信じさせる事が出来る人物がいただなんて、ねぇ?
信じられませんわよね?
お父様はお母様の疑問に、まるで恥いるように下を向いて、悔しげな声で答えた。
「………それは、君の妹のシャルロッテ嬢がそう言ったものだから……てっきり私は真実だと信じ込んでしまった……」
悔しさの滲むお父様の言葉に、思わず私はプッと吹き出してしまい、慌ててキャッキャッと笑い声を上げて誤魔化した。
あらあら、困りましたわね〜〜、お父様。
公爵ともあろう者が、令嬢の戯言を信じて判断を誤るだなんて。
うふふ、早めに引導を渡して私が公爵家を継いだ方がよろしいかしら?
あらでも、女の身では家を継げないのよね?
まぁ、本当に困りましたわね。
やる事が多くて。
ふっふっふっと不穏な笑いを浮かべる私にも気付かず、2人は顔を合わせて同じように眉間に皺を寄せていた。
「……シャルロッテが、そんな事を………。
あの、公爵様、最近頻繁に実家から手紙が来るのですが、読んでいただいても宜しいでしょうか?」
お母様の訴えにお父様が頷くと、お母様はベッド脇のチェストから大量の手紙を取り出し、お父様に渡した。
どれもお母様の生家の家紋が押してある。
それを慎重に受け取ると、お父様は次々と速読していきどんどんとその顔色を暗く険しくしていった。
「…………これは」
低く唸るようなお父様の声に、私はニヤリと密かに笑った。
良いですわね、その調子ですわよ、2人とも。
そうやってどんどん答え合わせをして下さいまし。
そう、貴方達がすれ違っていたのは、ただ不器用ですれ違っていたばかりじゃありませんのよ?
それだけでまさか8年もすれ違い続けるだなんて、いくらこの不器用夫婦にもそんな事出来ません。
もちろんそこには、悪意ある他者の介入があったのです。
例えばほら、今お父様の読んでいる、お母様の両親からの手紙ですが。
内容は全て、子供を産めなくなったお母様はアルムヘイム公爵家から黙って退き、公爵夫人の座を妹のシャルロッテに譲るように、というものです。
………あらあら、なんて心無い両親でしょうね?
命懸けの出産を終え、体に傷を負ったお母様にそんな酷い事を仰るなんて。
お父様の顔色が怒りで赤から既に真っ黒に変貌してらっしゃるわ。
さて、これで色々、見えてきましたでしょう?
答え合わせは、つまりそういう事ですわ。