人斬り
本書はフィクションです。史実ではありません。
古文はなんちゃってレベルです。
文語と口語を故意に入れ替えている部分があります。
壱.
山野永久ノ覚書
我此処ニ覚エルハ、剣ニ生キシ彼ノ事候
彼ノ氏ヲ山野、名ハ永久ト云フ、験斬ヲ勤メ、其ノ道デ不知者不在、剣聖ト云エバ彼ノ事候
彼ノ業ヲ見シ者、誰シモ其ノ業ニ心奪レシ事必然、美シキ事コノ上無ク候
亦咎人死ヲ不知ニ死スルヲ見ルニ、彼ノ心ニ菩薩様ノ御心不違慈愛ニ満チ候
彼ノ心技ニ尊事、我心震エシ候
我彼讃エル言葉不足ヲ知リ、筆ヲ措クモ辞ム為シト認ム也
御様御用人 山田浅右衛門貞武
弐.
今、永久は千子の祖(*1)の業物を握り直した。掌の汗が気になったのだ。この業物を手にした時から、言い知れぬ緊張が続いている。主と認めた者の心を操り、主が死ぬまで血を啜い続けると云われる刀、それが千子の祖の業物。歴史を渡り歩いたこの刀の底知れぬ力に触れたのだろうか。永久は妖刀が妖刀と云われる所以の一つを知った気がした。
永久は業物を手にしたままで腕を下ろした。刀が重く感じたのだ。珍しいことに、永久は験斬を仕切り直した。恐らく、永久が初めての験斬した時以来だ。あの時は「人を斬る」と言う行為に一瞬躊躇が入ったからだった。
どんな名刀であっても、中途半端な気合で斬ると剣筋が悪くなる。そして、剣筋が悪いと刃を痛めてしまう。それどころか最悪刀が折れる可能性がある。それでは験斬、刀の切れを吟味するお勤めが全うできない。御様御用人の名折れも甚だしい。
永久は咎人を見下ろした。
咎人は土を盛って造られた土段場にうつ伏にさせられ、肢体を括った上、目隠しをされていた。咎人とて自身の死は怖ろしいのだろう、赤子のように泣き叫んでいる。永久は一度もそのような声に心を乱し惑わされたことはなかった。
永久は手許を見やった。やはり刀が重い。
永久は腰物奉行に時を置くことを願い出た。
「心技体一ツニ為リシ時、業ハ活キ候、
今其之時アラズ、暫シ時ヲ要シ候ナレバ、
何卒、御奉行様ニ願イシ候」
腰物奉行は仕方がないという顔をして、永久の願いを聞き入れた。その間も咎人の叫びは止むことはなかった。しかし、しつこく叫び続ける咎人を不快に感じた腰物奉行は咎人に猿ぐつわ噛ませ強引に黙らせたのだった。
参.
永久は刀架に千子の祖の業物を置き、その刀を穴が開く程眺めた。永久は何故こんなに刀が重く感じるのかと自問し、その答えを見出そうとした。
やはり妖刀と言われる所以である呪いの所為なのだろうか?
それとも、ここに来て験斬にされた千を超える(*2)連中の怨みが降りかかってきたのだろうか?
どちらも正解のような気もするし、どちらも不正解のような気がする。
じっと永久は千子の祖を見詰めていた時、ふと、鎬地に薄く映る己の顔があった。その顔をよく見ると、輪郭がぼけていて判り難いが、笑っているのである。確かに笑っているのである。
永久は思わず己の頬に手を当てた。己が今笑っているのかを確かめた。鎬地に薄く映る人影も頬を手で押さえている。
「笑う?何に対して、己は笑っているのか……」
永久は思わず言葉を漏らし、ゆっくり手を伸ばし刀架にある千子の祖を手にした。ずしりと刀の重みが腕にかかる。気のせいかもしれないが、先ほどよりも刀の重みがさらに増したような気がする。刃に顔を近づけ、その刃に宿る妖の気を探るように眼を凝らす。波打つ刃文に己の心の揺れを自覚させられる。その揺れは色香を放つ遊女に惑わされている生息子のようで、他人には晒したくない心の内だった。
「己はそんなに人斬りがしたいのか……」
永久は無意識にそのような言葉を口にし、その言葉を耳にした時、自身が驚いた。そしてその言葉の意味をあっさりと理解した。
「そうか……、己自身が妖刀となっていたのか……」
何とも皮肉な話じゃなか、と永久は再び鎬地に浮かび上がる己の顔を見た。彼の顔は薄く笑ってこちらを見ている。陰陽の陰は陰同士、陽は陽同士が反発するように妖刀が妖刀同士反発したのだろう。故に千子の祖を重く感じたというのは道理に適う。永久は因果を知ると少しは気が楽になった。
肆.
永久は腰物奉行に再び刀を持つ事を願い出た。
「私事付合イ甚ク感謝シ候、
今剣ヲ持チ御勤果タシタク候、
御仁ノ命ヲ受ケバ、即御覧ニ入レ候」
腰物奉行は永久の言を聞き無言で頷いた。永久は深々と頭を下げ、
「では」
と掛け声を上げ、千子の祖を持ち大きく振り上げた。彼は今自身が妖刀であることを受け入れ、それだけなく、その手に握っている妖刀千子の祖から湧き上がる妖気に反発することなくその心身に受け入れていくのであった。そしてそれらを受け入れるだけの器が永久にはあった。その器の大きさは今まで殺めた人たちの怨念があったからこそ得たことに異存はない。とてもではないが、常人に納まるものではない。狂気に耐えうる人は、狂気を知る狂人だけである。そして二つの魂は太極図を描くように渦巻ながら融合していき、永久の精神を究極まで高める。
永久は一気に咎人の腰に目掛けて刀を振り下ろした。まるで豆腐を切るように咎人の胴が音もなく割れ、余りの剣の鋭さに血が舞う事もなく、咎人は一瞬痙攣しただけで絶命した。
「お見事」
腰物奉行はその卓越した永久の業に感嘆の声を響かせた。
永久は血と脂を拭い千子の祖を鞘に納めると、それを腰物奉行に献上するように差し出した。
「百年ニ一度知ル業物也」
永久はその切味を褒め称えた。それを聞いた腰物奉行は得心したと言う風に何度も頷いた。
それから何を思ったのか永久は空を見上げるように顔を上げ、突然大きな声を上げ笑い出した。それはまるで寄席で馬鹿笑いをするように、何度も膝を叩きながら。唖然とする腰物奉行や奉行侍を余所に永久は笑い続け、
「御奉行様、此ニテ失礼致ス」
と言い残して、尚も笑いながらこの場を去った。
この後、永久は誰にも理由を告げぬまま剣を断ち、全ての財を使い験斬となった咎人を供養する為に寺を建てると、妻も子も捨て一心不乱に念仏を唱えるのだった。永久を知る人達は「彼は狐に憑かれた」と言い、その豹変ぶりについて行けず、やがて離れていった。永久はただ独り寺を護っていた。
春が過ぎ、夏が過ぎ、幾度も季節は生と死を巡り、時は立ち止まることなく流れ、元号が変わった年に彼もその寺に眠る事となった。千子の祖を手に取って十年後の出来事であった。もう彼を知る者もなく、経を聞くものは一人としていなかった。
追記.
永久が建立した寺では、時折どこからともなく高笑い声が響き、その笑い声を聞いた刀は鍛え直しをせずとも切味が戻ると云う噂が流れた。その真偽の程が判らぬまま、廃刀令が発布されたその日に、不審火で寺は全焼してしまった。
今はその地に寺の面影など微塵も感じない。
江戸文化研究者のメモより
了
注釈
(*1)「千子派の祖」の名の方が一般的
(*2)数えきれない程多いという意味
参考資料
ウィキペディア日本語「村正」「山田浅右衛門」「生き胴」「永久寺 (台東区三ノ輪)」