碧の疾風
高校三年生の文化祭に出した話を、自費出版する際に加筆修正したものです。
すでに日が暮れた森の中を、息を切らしながら漆黒の装束を身に纏った少年は走り続けていた。
背後には、松明や魔法カンテラを持った兵士たちが追ってくる。
足に自信がある少年ではあったが、そろそろ体力の限界が訪れていた。
「はぁ…うっ…くっ…!」
腕を伝う大量の血。腕以外に大きな怪我は負っていなかったが、その傷は深く流れ出る血が袖や下腹部を汚していく。
すでにかなりの血が流れていた。それを意識した途端、猛烈な貧血が彼を襲った。途端に遅くなる彼の足。
追いついた兵士たちが少年の後ろ髪を掴んでせせら笑った。
「ウグッ!」
「やっと捕まえたぜ」
「てこずらせやがって」
兵士たちには獲物を捕まえたことで、余裕が生じていた。
「は…なせ…」
弱々しく抗議の言葉を発すると、彼らは残忍な笑みを浮かべた。
「いやだね」
嫌らしくひとりが言った。少年が睨み返しても、事態は悪化するだけだった。
みぞおち
いきなり少年を地面に突き飛ばすと、鳩尾に蹴りを入れた。
あまりの激痛に、少年はうずくまった。兵士たちは怪我をしている腕を重点に責め、少年が痛みを訴えると歓喜の表情を浮かべる。
心の中の鬱積を、自分よりも脆弱な存在によって晴らし、その命を自らの手で握っている優越感に男達は浸っていた。
「つっ! アウッ!」
少年はこらえきれずに何度も身体をのけ反らせた。その反応が男たちの攻撃を一層激しいものにしていく。
暫くすると少年の反応は弱々しいものへと変化していった。そうなると兵士たちの関心も薄れていく。
「何だコイツ、もう終わりかよ」
「つまんねーの。そろそろ殺っちゃおうか」
「そうだな。それが命令だし」
そう言って、一人が腰からサーベルを抜いた。
今まで血に濡れたことのない刀身が僅かな月明りと松明の明かりを反射して浮かび上がった。それは少年にとって死を呼び込む光景だった。
最初に左の太腿を刺し抜かれた。
「うああああああ!!!」
少年が激痛のあまり叫ぶと、愉快そうに笑いながら右腕にも刺された。
「うっ…ぐっ…!」
そして怪我をしていた左腕をもう一度串刺しにされた頃には少年はすでに呻く気力もなかった。
「おい、止めはおれに刺させろよ」
別の一人もサーベルを抜く。それまで少年をいたぶっていた男は、ゆっくりと離れた。
「まだもの足りないけど…ま、さよなら」
遊び飽きた玩具を壊すくらいの感覚で、男はサーベルを振り下ろした。その時、つむじ風のような何かが通り抜け、彼らの喉元を素早く切り裂いた。
「なっ…?」
兵士たちは何が起こったのか分からない顔をしたのち、自分たちが切られたことを自覚することもなく、一斉に絶命した。
「おい、そこの坊主。大丈夫か?」
たった今、四人の命を絶ったとは思えない飄々とした様子で、助けてくれた男は語りかけてきた。
「うわっ、思ったよりもひどい怪我だな」
そう言って男は少年の上半身を支え起こした。少年の傷口からは、今もなお大量の血が流れ出ていた。
「あの、あ、りがと…」
気力を振り絞って、少年は剣士らしき男に礼を言った。
「なーに、弱い者イジメが嫌いなだけだよ」
剣士がそう言うと、少年は笑おうとしたが大量の出血のためその意識は途切れつつあった。
「おい、坊主!」
剣士はがっくりと力を失った少年の身体を何度か揺すったが、ほとんど反応はない。少年はかなり危険な状態に達していた。
チッと舌打ちをした剣士の手から温かな光が少年に注がれた。その光は次第に少年の流れ出る血を止め、その傷を癒していく。
遠のいていく意識の中で、少年は茶色から翠色に変化していく男の髪を、呆然と眺めていた。
*
奇妙な夢を見た。
蒼い髪をした青年が、大きな水晶に閉じ込められて眠っている。
その傍に一人の少年が立っていた。
相手が振り向いた瞬間…言葉を失った。
「母さん?」
その人物はシャルスに良く似た顔をしていた。
だが一点だけ大きく異なっていたのは自分の母と同じ右目は水色、左目は深い碧というオッドアイと呼ばれる特徴を持っていることだった。
(俺を育ててくれた母さんと、同じ目をしている…?)
左右異なる色彩の目から静かに涙を流しながら、水晶の中で眠る青年を見つめていた。
彼をどうか…助けてあげて。長い眠りについている……ショウを、シャルス……貴方が持っている力なら、死の間際で時を止めてる彼を救うことが出来るはずだから…。
真摯な眼差しで、母と同じ顔をした少年は訴えかける。
「待ってくれ…君は、誰なんだ。どうして俺を育ててくれた母さんと同じ顔をしてるんだよ! それにショウって誰なんだよ…!」
――ショウは、貴方の……。
少年が言葉を紡ぐ、だがそれ以上の言葉は耳に届かなかった。
水晶の中に眠る青年の顔は、初めて見たはずなのに、どこか懐かしかった。
端正と形容出来る目鼻立ちで、大人しく真面目そうな印象、年は二十歳前後ぐらいだろう。
シャルス、どうか忘れないで。貴方に彼を救うことが出来る力が眠ってることを… その力で、貴方は二人の人間をすでに救ってることを。その力は大きな代償を伴う代わりに人を蘇らせることすら出来ることを…忘れないで……。
「……オレが持ってる力ってなんだよ、教えてくれよ……! すでに救ってる二人って誰のことを指してるんだよ!」
走馬灯のように、盗賊団に身を置いている仲間達の顔が浮かんだ。
最初に黒髪の…サリックの顔が浮かんだ。その次にオレンジの明るい髪をした男性の姿、グレックリールの顔が浮かびあがり、幻のように消えていく。
その考えに気を取られているうちに少年の姿が遠ざかっていくことに気づき、必死になってシャルスは追い駆ける。
けれど距離は縮まらず、焦る気持ちが湧いてくる。
――シャルス……。
透明で綺麗な声音で、誰かに名前を呼ばれた。
その瞬間、長い翠色のウェーブ掛かった髪をした誰かが優しく微笑んで見つめていた。
――シャルはね、ずっと貴方が生まれるのを待っていたのよ。とてもとても長い時間……ショウと自分の血が交わった存在が生まれるのを待ち望んでいたんだからね…。
「貴方は……?」
そして貴方には、私の血も流れてるのよ。大好きなショウと、シャルーシッドと…… 三人の血が貴方の身体に流れてるの……。
翠の髪をした美しい少女は、優しく微笑む。
慈しむように、懐かしむような、そんな顔を浮かべて……。
そして少女と、自分を助けてくれた翠色の髪をした男の顔が重なっていく。
「君は……誰……?」
私はイフィ。ずっと貴方を見守ってるわ……今も、これからも……。
そう告げる彼女の声を聞きながら シャルスの意識は浮上していった。
*
バタンという、扉が閉まる音によって少年は覚醒した。
少年はベッドの上に寝かされていた。
すえた匂いのするシーツと室内。どうやらここは無人の山小屋のようだった。かなり長い間使われていなかったのだろう。
床にはうっすらと埃が積もっていた。
「ここは…?」
起きた時身体に妙な違和感を感じた。
今までと何か感覚が違うような、まるで自分の身体じゃないような……そんな奇妙な感じだった。だが、その正体を掴むことは今の彼には叶わなかった。
辺りを見回すと、ベッドの他はタンスに机、そして簡易な調理場があるだけだった。机の上には食事と少年の荷物が置かれている。
身を起こしてみたがどこも痛まなかった。一瞬、あの出来事は夢のように思えた。昨日まで自分が送っていた日常に戻れたのだと思った。
しかし周りを探しても、仲間たちはいない。いくら待っても来ない。
「そっか、もういないんだっけ……」
自嘲めいた笑みが込み上げてきた。それが悪夢でなかったことは、右腕と左腕、そして左の太腿にうっすらと残る傷痕が教えてくれた。
「オレたちは……狩られたんだ」
溢れ出てくる涙。無残に殺されていった仲間たちの姿が脳裏に焼きついて離れない。中には自分を庇って死んでいった者もいた。
「あいつらに……『帝国』に」
少年の大きな双眸から涙がポロリ、と零れた。
話は一ヵ月前に遡った。
少年は盗賊団に所属していた。彼の専門はスリと鍵開け。
親方のハルバルト=ドーンは、身寄りのない子供や路頭に迷った者を、自分の『家族』として受け入れ結束を深めていた。
少年もその中の一人だった。彼の姓を名乗り、家族の一員として五年間生活していた。
そんな彼らの元に、ある依頼が届いた。ザウル王国こと通称『帝国』。一人の独裁者によって統治されている国家の要職にある者からの依頼。
彼らには、鉄の掟が二つあった。
一つは貧乏人からは強奪しないこと。そしてもう一つは無益な殺しはしないことだった。
その依頼は、彼らの掟には触れない内容で報酬も莫大であった。だから、請け負った。
『大地の光石』と呼ばれる宝石を、とある洞窟から取ってくること。
その洞窟には複雑な罠が腐るほど仕掛けられていて、容易にそれが持ち出されぬようにされていた。
盗賊団の中でも腕利きの者が七人総出で、二週間にも及ぶ洞窟暮らしの末、目的の品を手に入れることができた。
『大地の光石』はペンダントに加工され少年に託された。
その後、洞窟近くの拠点に自分たちを残して報告と交渉にいった親方は、予定していた日を過ぎても戻って来なかった。それから一週間が過ぎたある日、彼らがいた拠点は『帝国』の兵士たちに襲撃された。
親方を除いた六人のうち、目の前で殺されたのが三人。
(グレックリールは……グッチは、助かったのかな……必死になって、回復呪文だけは使っておいたけど。効いてるかどうか、良く思い出せない……)
襲撃された時、油断していた三人は助ける間もなく殺された。
自分とグレックリールとサリックの三人は慌てて逃げたが、グレックリールは自分を咄嗟に庇って、背中を深く切られていた。
助けようと必死になって、呪文を使ったところまでは覚えている。
その時、意識が遠くなって…気づいたら、サリックに抱えられる格好で、炎が燃え盛っているアジトを後にして……。
「逃げろ、シャルス! 俺が追手を食い止める。少しでも遠くに、逃げるんだっ!」
サリックはそう叫んで、反対方向に逃げたためにその後の安否は分からなかった。
あの状況から見て、助かったのは自分だけと見て間違いないだろう。
(下手な希望は、持たない方が良い……)
見ると、机の上に朝の陽光を受けて輝いている石があった。『大地の光石』だ。
少年はベッドから身を起こし、ヨロヨロと机に向かった。そして、そのペンダントを首に掛けた。
その石を、少年は握りしめた。
「こんなちっぽけな石のために……みんなは!」
どれほど鈍くても分かる。この石のせいで悲劇が起こったということくらいは。
「……絶対、渡してやらない」
みんなを殺した『帝国』の思い通りになんか、なってやらない。
復讐したくても、自分の存在というものはちっぽけ過ぎて、きっと太刀打ちなんか出来ない。だから生きてやる。殺されてなんかやらない。それが、少年の生きる新たな糧だった。
「グズグズしてらんないな。早くここを離れなきゃ」
そう言って少年は机の上にある食べ物を口にし始めた。
最初に口にしたスープは、すでに冷たくなっていた。刻んだ玉ねぎと燻製にした羊肉が入っているスープの味はそれでも美味だった。次に硬めに焼かれた簡素なパンにむしゃぶりつき、それを羊の乳で流し込んだ。
食事を終えたところで、少年は自分が着替えさせられていることに気がついた。
どうやら自分が昨日まで着ていた服は、すでに処分されているらしかった。
(結構あれ動きやすくて気に入っていたのに……黒一色で、軽くて闇に紛れやすかったから良かったのに…)
親方やサリックからは、お前は派手な顔つきをしているから顔を隠して過ごせと言われていたので、盗賊団にいた頃は、黒やグレーの装束を着て、顔を隠していることが多かった。
まあ、仕方ないだろう。すでに血でドロドロであったし、逃亡中に木の枝などに引っ掛けてズタズタになっていたのだから。
それに考えてみれば、これは至れり尽くせりの状態だ。身体の傷は塞がっているし、血まみれだった身体はきれいに拭かれていた。服も着替えさせられていた上に、ご丁寧に食事まで用意されていた。
名前も全く知らない人間に、ここまで親切にされると気持ち悪いが、今はあまり深く考えずにこの厚意に甘えさせてもらうことにした。
机の上には自分の持ち物が入ったザックの他にも、一着の服と手紙、そして三枚の金貨が置かれていた。
金貨に刻まれていた小さな傷の特徴で、着ていた服の裏側に縫い込んで隠してあった分であったことがすぐに分かった。
(オレが持ってた分だ。財布は確か…逃げてる最中に木の枝に引っ掛けて、ズタボロになっちまったんだよな……)
一応財布を紛失した時に備えて、愛用していた装束の内側の胸ポケット辺りに…三枚の金貨は常に忍ばせておいたからその分だろう。年季の入っているめかしい感じは間違いなかった。
手紙には、「起きたら食べろ、毒は入ってない。暖めてからゆっくり食べること」と、簡潔にメッセージが書かれていた。手紙を読む前に思いっきり食べてしまっていたことについ苦笑したくなった。
服は真っ白い貫頭衣で、袖や襟の部分に青と緑の三角形の重なり合った模様が入っていた。
助けてくれた服だった。
自分が着ていた服がボロボロになっていたから、助けてくれた人物が着替えにと置いておいてくれた物らしかった。
その服のサイズは成人男子が着たら上着になるだろうが、小柄な体格の人間が着ればスカートっぽくなってしまう。そんな感じだった。
(これ……多分、上着か何かだろうけど……着たら、多分短いスカートっぽい感じに確実になりそうだよな……)
すでに十五になっているのに、こんな足が丸見えのヒラヒラした服を着ることにはもの凄く抵抗があった。
だが、今身につけているのは下着だけの状態だったので、この格好では流石に外を歩けない。用意された服の方がまだ外を出歩けるだろう。
僅かにためらった後、少年は覚悟を決めた。そして、その服に着替え荷造りを終えると、少年はその山小屋を早足で後にした。
*
すぐに山小屋を出たのが良かったのか、例の襲撃から一週間ほど経過したが追っ手らしい者に出会うことはほとんど無かった。
何度か出くわした際には、山小屋に置かれていた服と、皮肉にも華奢な体つきに童顔、そして長い金髪をしていることによって少女に間違われ、ことなきを得たのだ。
だから、町に着いたら新しい服を買おうと決心していた彼であったが、『帝国』の領土内においては、プライドよりも身の安全を優先することにし、いまだあのヒラヒラの足丸見えの格好をしていた。
もう一週間も外でこの格好をしてきたせいか、最初の頃ほどの抵抗はなくなっていた。
それにこの姿だと、店の人間もオマケをしてくれたりするのだ。
(オレって、結構可愛い顔してたのね……)
盗賊団にいた頃は、鏡なんてほとんど見なかったので気がつかなかったのだが、まじまじと見てみると、確かに今の自分の顔は可愛らしいとしか形容しようがなかった。
(けど、オレの顔って確かフロルの証取った時はもうちょい大人っぽい感じだった記憶あるけど……こんな童顔じゃなかったはずなんだが、これじゃ、盗賊団に来たばっかりの頃のままじゃね? 背も気のせいか縮んでる気がするし……)
鏡を久しぶりに見た時、目覚めたばかりの頃に感じた違和感の正体にやっと気づいたのだが、いくらなんでも「若返ってしまっている」というのは、普通に考えたら有り得ない事態だ。特に背が10センチ以上縮んでいるなんて、そんなことがそうそう起こる訳がないのだと自分を無理やり納得させた。
しかし十五にもなる男が、何故『お嬢ちゃん』呼ばわりされなくてはいけないのか。今の自分の背の低さと異常なまでの童顔を呪いつつ、彼はザウル王国の領土を無事に抜けたのであった。
国境を越えて最初の町は、そこそこの賑わいがあった。
(今度こそ絶対、新しい服を買ってやる!)
とはいったものの、先立つものはほとんど無い。ここまでの旅路で手持ちの金はほぼ消費されていた。
地道に働いて稼ぐといった手もあるのだが、グズグズしていたらまた追っ手が現れるかも知れない。ただの下っ端であれば対処もしやすいだろうが 『帝国』が求めている肝心の品は自分が持っているのだ。油断は禁物である。
結局、彼は裏技を使うことにした。
『スリ』である。
買い物をした直後の人間から、素早く財布を抜き取り、おおよそ一割取ったらまたその人間に返す。それが彼の流儀であった。
これにはメリットが二つある。
一つは盗まれた人間の多くが盗まれたことを自覚しないこと。もう一つがそのために盗 難によって生じる町単位の警戒や対策が立てられにくいこと。
デメリットは、同じ人間に二回接触することで、実行時にバレる可能性が何倍にもなることだ。
しかし、初心者ならともかく、彼の手先の器用さは盗賊団の中でも指折りであったし、それに加えて俊足とも言える逃げ足の速さは、他に並ぶものがいなかった程だ。
スッて金を取り、元通り返すのに五分もかからない。これらの作業において一番時間がかかるのは、そのタイミングを見極めることにある。
それを何度か繰り返し、ある程度の金は溜まった。服を買ってお釣りが出るくらいに。
しかしこの時、彼の心に油断が生まれていた。
あともう一人というノルマを、自分に課してしまったのだ。
狙いは、目の前のガラの悪そうな男たちの、リーダー格らしい人間。
いつものように、獲物が財布をカバンにしまった瞬間を狙ってすれ違った。
その時、紫の瞳と視線があった。
瞳はその行動の全てを見ていたと訴えるかのように、瞬き一つしない。その目に気を取られ、弱く握っていた手から今スリ取ったばかりの財布が滑り落ちた。
シャルスは反射的に、その場を離れた。
「そのガキを、捕まえろ!」
男はちらばった硬貨を拾い集めながら、取り巻きの奴らに命令する。命令された男たちがもの凄い勢いで追ってくるが、なかなか少年には追いつけなかった。
シャルスは昨日のうちに、この辺りの地理を頭に焼きつけておいたので、隠れるポイントも目星はつけていた。
しかしそこに向かって路地に入った途端、アクシデントに見舞われた。ちょうど捨ててあった大きな置物に、足を引っかけて転倒してしまった。その僅かなタイムロスによって隠れるタイミングを失い、すぐ後ろにいた男たちに追いつかれてしまった。
しかも運が悪いことに、転倒の際に、右足を挫いてしまっている。
「やっと追い詰めたぜ、くそガキ」
体格の良い男がボキボキと拳を鳴らす。しかし、それを線の細い男が制した。
「待て。このガキ結構上玉じゃねえか。娼館にでも売りゃあ高く売れるぜ」
「……へへ、そうだな」
男は好色そうな目で、少年をなめ回すように見る。どうやら彼らもシャルスのことを幼い少女と認識したようだった。それはそれでかなりの屈辱だが、それによって男たちは油断し隙だらけとなる。
(これなら、隙をついて反撃できるかも……)
「お嬢ちゃん、もう盗みなんかしなくても、いっぱいお金がもらえる所に連れてってあげるからね」
(死んでもそんなトコ行くか! 身体を売るなんて冗談じゃねえ!)
男のねちっこい言い回しに鳥肌が立ちそうだったが、それを我慢して、隙を作らせるためにせいいっぱい脅えている演技をしてみせる。男たちはシャルスとの距離をジワジワと縮めてきた。
その時、凛とした声が響いた。
「年端もいかない少女を、二人掛かりでいたぶるのはあまりいい趣味とはいえんな」
路地の入口の所に立っていたのは、先ほどの紫の瞳……どうやら女性らしかった。
「……?」
気のせいか、一瞬だけ黒髪に赤い目をした…魔術師風の女の姿と彼女が被って見えた。
(幻か? 何で、そんなものが見えたんだろ……?)
「うるせぇ。てめぇには関係ねぇだろ」
「確かに。ただ、弱い者いじめは嫌いでね」
シャルスはその言葉に、軽い既視感を覚えた。
「いたいけな少女が、悪い男たちの毒牙にかかるのを見過ごすのは、同じ女として見過ごせないのでね」
(おーい。オレは男だよぉー! 何でみんな、ここまでオレのことを女と決め込むんだか……)
そうツッコミを入れたかったが、せっかく彼女がビシッとキメている最中に、水を差すようなことは言えない。
「やろぉ、格好つけやがって」
体格の良い男が、彼女に殴り掛かった。それを円を描くようにスルリと躱すと、彼女は男の鳩尾に細い腕を潜らせた。男はくぐもった声を上げて、地面に倒れた。
「このアマッ」
もう一人の男が彼女に向かってきたが、その攻撃もサラリとかわし即座にカウンターを食らわせて、あっさりとあしらった。
あっと言う間に二人をのした彼女の強さに、少年は感服した。
(うわ、すごい流れるような動きだ…この人、本当に強いんだな)
「大丈夫か」
「あぁ、助けてくれてありがとう」
「何、礼には及ばないさ」
そう言って彼女は笑った。まるでこちらのことを知っているような感じだった。しかし、シャルスには彼女の顔を見かけた記憶はない。もし一度でもはっきり見ていたら、容易には忘れられぬほど、彼女の容姿は印象的だった。
銀髪に鋭い紫の双眸。左耳に大きな赤い輝石のイヤリング。青い貫頭衣に銀色のプレートメイル。そして腰には一メートルはありそうな長剣を差していた。氷のように美しく整った容貌は、高貴さや威厳すら兼ね備えていた。
少年が右足をさりげなく押さえていることに気づいた彼女は、途端に目を細めた。
「足を捻ったのか?」
「あぁ」 「そうか。なら怪我した足で歩くのはきついだろ…」
「ま、そうだけど…って、うわっ!」
いきなり、彼女は少年を抱きかかえた。その突然の行動に、少年は驚きを隠せず声を上げた。
「うわー下ろせ、下ろせよ!」
ジタバタと足を振る少年に彼女は煩そうに言った。
「これ以上捻挫を酷くしたくなかったら、おとなしくしてろ。宿まで運ぶ」
「ちょ、ちょっと待て! この体制は恥ずかしいってば!」
「痛んだ足で無理やり歩くのはきついだろうと思ってやっただけだ。静かにしてくれ…」
「…分かったよ…」
羞恥のあまり、とっさに反発したくなったがとりあえず彼女は、親切心でやってくれているのは言葉と表情でわってきた。
軽々と抱きかかえられるのは正直な話悔しいが、彼女には助けてもらった恩もあるし、この場はおとなしく彼女の言葉に従うことにした。
*
「どうしよう……」
結局、自分が男だと言えぬまま宿に着いて、部屋まで向こうが手配して、しかも一部屋しか残っていなかったので、なんと彼女と同室に泊る展開になっていた。
(今更、彼女に言うのも何だし……。うう、完全に俺のこと女だと思ってるから同じ部屋になっても気にしないでサラリと流したんだろうし……すっげー言いづらい…)
彼女は下に食事を取りに行ってくれていた。足を痛めた少年に、階段の上り下りはキツイだろうと気を使ってくれたのだ。
不思議だった。何故彼女はここまで自分に親切にしてくれるのか。その理由がまったくもって思い当たらない。何か、自分は彼女に好感を持たれるようなことをしていただろうか。
「………………」
いくら考えても、カケラも答えは出なかった。
むしろ、考えれば考えるだけ、わけが分からなくなったという方が正しかった。
(というかさっき出会ったばっかりだし。それにスリをした現場見られてるはずだよな…… それで何で俺を助けたり、親切にするんだ。むしろ、普通ならそれ、悪印象持つ場面じゃ……)
ひとり部屋に残されて十数分後、大量の食料を持って彼女は戻って来た。
「早かったね」
「そうか? 結構、時間が掛かったと、私はむしろ思っていたがね…」
彼女は少年にパン三つ、分厚いハムを二枚に羊の乳が入ったマグカップとリンゴ一個を手渡した。
「けっこう量あるな」
「あぁ、お前が怪我していると言ったら、オマケしてくれた」 彼女は、椅子を向かい合うように置いて、そこに座った。
「……そう言えば、お互い名前も知らなかったな。私はカシル、カシル=ドヴィンだ。傭兵業を生業にしている」
カシル、という名は彼女のイメージによく似合っていると思った。確かそれは、険しい雪山の頂上近くに咲く紫色の花の名前だったことを記憶している。
だが、彼女のファミリーネーム、どこかで聞いたことがあるような気がした。
「オレはシャルス。シャルス=ドーン」
「シャルス、良い名だな。確か古い言葉で、シャルというのは祝福という意味があるとか聞いたことあるが……」
「ああ、そうみたいだね。名前褒めてくれてありがと」
シャルスはパンをちぎって口にほお張った。パン一個をたいらげると、シャルスはカシルに尋ねた。
「なあ、あんた……何でオレにこんなに優しくするんだ?」
カシルの紫の双眸が、こちらの意識を捕らえる。
「……興味があったから、かな」
「興味?」
「あぁ。珍しい奴だと思った」
「?」
全然答えになっていなかった。そんな彼の反応を見て察したのだろう。彼女は言葉をつけ足した。
「この町に着いて、すぐのことだった。目の前で、他人の財布をスッていった子供がいた。そのくらいなら何も珍しくなかった。だがその子供は、盗むと人気が無い所に行き、すぐ戻ってきて持ち主に返していた。そんな奇妙な光景を、私はここ二日の間に何回も見かけた。そして気づいたんだ」
「何を?」
「お前が一回に少しずつしか盗ってないということが。だから何回もそれを繰り返しているんだということが。そして、わざわざ危険を冒してまで律儀に財布を戻しているところも、私の興味を引いた」
「あんた、見てたのか」
少なからずショックを受けた。自分の仕事は完璧だと思っていた分だけ、彼女に何回も目撃されていた事実は鉛となって心にのしかかる。
「まあな。その場にいた者たち……盗まれた当人でさえ、それに気づく者は他にはいなかったがな。私は気づいてしまった。それが、さっきのお前の失敗を引き起こしてしまった」
「それでも、オレは盗っ人だぜ」
「あの男の財布も、すぐに返すつもりだったのだろう?」
「ああ、そのつもりだったよ。けど……あんた、不安じゃないのかよ」
「何が?」
「オレは盗賊だぜ。あんたが寝てるうちにあんたの持ち物盗んで、質屋に売っ払うかもしれないんだぜ」
喧嘩腰にシャルスがそう言うと、カシルはジッとシャルスの瞳を覗き込んだ。紫の双眸と碧い大きな瞳の視線が交差する。 ふいに、彼女は笑った。
「お前は、そんなことはしないさ」
「そんな保証は、どこにもないだろ!」
「しない。本当にお前がそういったことをする人種なら、口が裂けたって私にそういったことは忠告しないさ。それに少額しか取らないって辺りも根が善良な証じゃないのか?」
いわれてみればその通りだ。予め宣言する盗賊なんて聞いたことがない。
「それに…上手く言えないんだがな。お前とは何故か初めて会った気がしないんだ。どう してそんな風に感じたのか分からんが……ずっと前から知ってるような、そんな不思議な感覚を覚えたんでね……」
「へっ……」
彼女からの言葉に、とっさに言葉を失った。
(そう言われてみれば……オレも、何故かそんな風に感じたような……。もしかして、どこかでこいつと会ったことがあるのか?)
いつの間にか、食事を平らげた彼女は、自分のザックから着替えらしき服の一式を取り出した。
「私は身体を流しに行ってくる。お前はゆっくり食べていると良い」
「おい」
シャルスが返事をする前に、バタンと扉が閉まった。机の上には、彼女が使った皿が無造作に置かれている。
「……あいつ、いつの間に全部食ったんだ?」
自分はまだ、パンを一個しか食べていない。もの凄い早食いの名人である。
とりあえず黙々と食事を続け、デザートのリンゴまで食し終わると、カシルは金属の洗面器と濡れたタオルを持って戻って来た。
青い服から、ダークオリーブの服に着替え、鎧を外した彼女はガラリと印象がかわっていた。若干、柔らかな雰囲気が生じたような気がする。
「それは?」
シャルスは洗面器を指さした。
「あぁ、その様子じゃシャル、風呂に入れないだろう? 身体でも拭いてやろうと思って」
(やばい! さすがに裸見られたら、言い訳がつかなくなる!)
「ほら、服を脱いで」
「いいよ、自分でやる!」
「背中を拭くだけだ。そこだけは自分でやりにくいだろう? 何を恥ずかしがっているんだシャル?」
「いいってば、離せよ」
最初はジタバタと暴れるシャルスをなだめていたが、いい加減焦れたのか、カシルは背後から強引に上半身をはだけさせた。
「………?」
カシルは思わず、シャルスの胸元にペタペタと触れた。
「……お前、男か?」
「人の胸まで触っておいて、何を今更…」
「まあいい、背中を出せ」
あっけらかんと言い放つカシルに、今度はシャルスの方が驚きを隠せなかった。
「まあいいって……それだけか?」
「お前を女だと思っていたのは、私の思い込みだ。お前に責任はない」
確かに、シャルスはカシルに対して男とも女とも明言していないし、女言葉を使っていた訳でもない。いたって素の状態であった。
それを少女と誤認していたのは、カシルの先入観でそう思い込んでいただけだ。
理屈では分かる。分かるのだが。
「……そうだけど、普通もうちょっとリアクションがないか?」
「なら、どういう反応をしろというのだ。いいから早く背中を出せ。せっかくの湯が冷めてしまう」
薪で火を焚くのだから、お湯は貴重な物である。確かに彼女の言うとおりだった。 シャルスは仕方なくカシルに背を向けた。
彼女がタオルを腕の方まで滑らせた瞬間、シャルスはその手を取って中断させた。
「いいよ、ここからは自分でやる」
「分かった。それなら私は部屋から出ている」
「そうしてくれると、助かる」
さすがに、肉親でもない女性の目の前で身体を拭くのは抵抗があった。
身体を一通り拭き、再び服を着た頃、見計らったかのようなタイミングでカシルは部屋に入ってきた。
「終わったか?」
「あぁ、きちんと全身拭いたぜ」
「なら、食器と洗面器を戻してくる。少し待ってろ」 本当に、何とも思われていないようである。
カシルは、シャルス=ドーンという人間に興味があるのであって、男か女かということにはあまり頓着していないようだった。
(スゲー大雑把な奴……)
普通は、年頃の男女が一緒の部屋で寝るという行為は大変な事件である。問題が起こっても仕方ないともいえる状況そのものだ。
カシルはおそらく二十歳前後と思われるし、自分だって十五歳の男である。そういった事柄にまったく興味がない訳では、ない。
こういった状況で、普通あれほど淡白でいられるのだろうか。自分を異性どころか、本当に男と認識しているかどうかさえ疑わしい。
(まあいいか)
あれほど徹底されていれば、自分としてもそんな気は起こらない。
部屋に戻ってくると、カシルはシャルスに断ってから部屋の鍵を掛けた。
「シャル、そろそろ寝るぞ」
「分かった」
それから間もなく、部屋に灯されていたロウソクとランプが全て消された。暫くすると、カシルの規則正しい寝息が聞こえてきた。
彼女の方を見ると、端正な顔立ちが月明りに浮かび上がり、銀色の髪は宝石のようにキラキラと輝いていた。
無防備とも言えるその姿に、シャルスは見とれた。その姿はシャルスに安堵を与えた。
何故なら、それがカシルが自分に警戒心を抱いていないという何よりの証であったからだ。
(そういえば当たり前のように……オレのこと、シャルって呼んでるしな。出会ったばっかりなのに……それが自然のように思えるし、嫌じゃない……)
シャルスは、芽生えたばかりの信頼を心から嬉しく思いながら、間もなく瞼を閉じ、休息にその身を委ねた。 そしてその夜、彼は奇妙な夢を見ることになるのだった 。
*
――それは夢か幻か。
遠い日の出来事なのか、または幻想なのか定かではない、不思議な夢をシャルスは見た。
「はあ……はあ……。大丈夫か、カシア……」
「ああ、まだ平気だ……シャル……」
自分達はとある城内の封じられた部屋に逃げ込んでいた。
長い歴史を感じさせる石造りの城内の、最上部分に設えられた一室は……凛とした静寂と、荘厳な雰囲気を醸していた。
彼女は苦しそうに息を乱し、お腹の辺りを不安そうに抱えている。
「……カシア、君は身重なのに。こんなに走って、お腹の子に影響がなければ良いが……」
「……大丈夫さ、私とお前の子だ。これぐらいで流産するほど、ヤワではないだろ……」
長い黒髪に、整った美貌。そして何より印象的なのがルビーのように鮮やかな赤い双眸。希代の魔術師と謳われた偉大な存在。カシア=リフェン。
自分が誰よりも恋い焦がれ、愛した女性であり……妻であるその人と、自分は今……数々の組織や敵に追われている身の上だった。
最終的にたどり着いたこの部屋に入るや否や、カシアは内側から扉を閉錠して封印を施した。
「これで誰も入って来ることは叶わなくなった。その代わり私達も出ることは出来ないがな。時間稼ぎ以外の何ものでもないな…」
「それでも捕まればオレと…君は引き離されてしまうだろう。そしてあいつに、君を奪われてしまう。それだけは……嫌だ」
「私だって、お前以外を夫と認める気は一切ない! くそ、忌々しい。こんな七つの封印とか、厄介なものが無ければ、あいつらなんて国ごと吹き飛ばして消し墨にしてやれるの に! せめて炎だけでも自由に使えるなら……」
「君の力は強大すぎるからね。一つの国ぐらいは吹き飛ばせるだけの魔力を備えて生まれて来てる訳だから……。だから強固な封印を施されてしまってる訳だけど。今だけでもそれを解くことが出来れば、オレたちも窮地に陥ることはなかったんだけどね」
「せめてあの馬鹿親父が手を貸してくれれば、少しは使えるのに、今は音信不通だし、ええい役立たずめ!」
「……一応神様なんだから、自分の父親を馬鹿とか役立たず扱いしない方が良いよ…」
自分の妻の、実父の扱いに対してついツッコミ入れたくなってしまった。
「……シャル、お前と結婚したら盛大にヘソ曲げやがったからな、あの親父。私自身が選んだ男と結ばれただけなのに」
「グラフェイル様に気に食わないって思われてる自覚はあるけどね……」
ブチブチと文句を垂れながら、カシアは持っていた杖で踊るように地面に魔法陣を描いていった。
杖の先端が淡く輝き、彼女が杖の先端を滑らせる度に、光で地面に数々の模様と文字が描かれていく。
「カシア、この魔法陣は…」
「これは、異界の門を開くとされる禁術だ……」
「異界……異なる世界に行けるっていう奴か?」
「そうだ。その代わりどんな世界に旅立つか指定は出来ない。時間の流れも異なる可能性があるし、そこが人間が生きていける世界である保証もない」
「そんな危険なものを使うつもりなのか!」
「だが! もう、このままではお前と引き離される未来しか私達にはない! この世界では常に追われ、引き離される危険性がある。私は、生きたい! お前とこの子と三人で安心して生きていけるようにしたい。それには、こうするしか、ないんだ!」
「カシア……オレも同じ気持ちだ。親子三人で…平和に暮らしたい」
彼女の美しい顔が、悲痛に歪んでいる。
神の血を引く強大な魔力を持つ魔術師として……彼女は常に、多くの組織や王侯貴族に狙われて、苦難に満ちた生涯を送ってきたと聞いた。
自分とて、最初は彼女の強大な力を得るために……打算目的で近づいてきた人間の一人だった。だが、自分は彼女をいつしか真剣に愛してしまっていた。
「シャル……私と、一緒に行ってくれるか……。一度旅立ってしまったらもうこの世界に戻って来れる保証はない。それでも…」
「いいよ……カシア。君と引き離されてまでオレは、この世界で生きていたくない」
「ありがとう、シャルダン……」
封じられた部屋で、彼女が描いた魔法陣が淡い光を放っていた。
彼女としっかりと手を繋ぎ、陣の中心で共に念じていく。
「カシア……愛してる。願うなら、ずっと君と共に歩んでいきたい」
「ああ、私も……同じ想いだ。愛してるぞ、我が、夫よ……」
そして、ごく自然に二人の唇は重なり…強く抱き合った。
眩いほど、周囲は光輝き……そして、彼女のお腹が、強く光を放った。
お腹に宿る子供が力を貸してくれているのだろう。
彼女の封印はそのおかげで一時的に弱まり、魔法陣を起動させるだけの強大な魔力が解放されていった。
世界が歪み、そして門が開かれていく。
その世界がどんな世界なのか、分からない。
決意を持って、親子三人で…異界に続く門を潜る。
けれど、帰りたい。いつか自分達を追う者が誰もいなくなったのなら……その時に必ず、君とこの地に帰ってきたい…!
覚悟を決めて彼女と他の世界に旅立つことを決めたのに。
彼の胸には同時に、再び帰ってきたいという強い願いが宿っていた。
そして……その門の向こうにはどこか古めかしい木造の建物が立ち並ぶ都が広がっていたのだった 。
*
何であんな夢を見たんだろう……。
シャルスは目覚めた直後、疑問に思った。
朝食を食堂で摂り終えると、支度をしてすぐに二人は宿を後にした。
「シャル、ホントに足は平気なのか」
「大丈夫だって、さっきから何回も言ってるだろ」
「もしかしてお前、癖になっているのか?」
「そんなんじゃ、ないっつーの」
心配してくれるのはありがたいが、朝からこう何度も同じようなやり取りを繰り返していると、いい加減うんざりしてくる。
(何かこいつ……オレに対して、凄く過保護じゃないのか? 昨日会ったばかりだろ……)
それより何故、自分と彼女は行動を共にしているのだろうか。
宿を出たその時点で、お互い『それじゃ』とか『さよなら』とかを言うことは出来た。ただ、自分の方はそれを言う気が全然生じなかった。彼女もそうなのだろうか。
「あれくらいの怪我、一日経てば何てことないよ。大袈裟に反応し過ぎだよ、カシルは」
「けど、足も固定しないで本当に大丈夫なのか?」
「だから…」
そこまで言うと、何か嫌な気配がこちらに向かってくるのが感じられた。彼女も気づい たのだろう。
二人は同時にその方向を向いた。
「よお、お二人さん」
「昨日は、世話になったな」
それは昨日、カシルがあっけなくのしてしまった、チンピラたちだった。
その後ろにはシャルスが財布を盗みそこねたリーダー格らしい神経質そうな男と、その他大勢十名ほどが立っていた。
「どういたしまして」
カシルが不敵に笑った。この大人数を見ても、彼女は顔色一つ変えなかった。それが彼らの気に障ったのだろう。剣呑な空気が辺りに立ち込めた。
「俺たちは義理堅いから、お世話になったらお返ししなきゃ気が済まないんだ。うけとってくれるよな?」
「さあ、素直に受け取るかは分からんがね」
カシルの余裕たっぷりの姿に、彼らの神経は逆なでされた。
どんどん険悪なムードになっていくのに、シャルスは不思議と落ち着いていた。
彼女の静かな自信が、自分に伝わってくる。気分は高揚しているが、極めて冷静であれた。こんな気分は初めてだった。
「……やれ」
リーダー格の男が短く合図すると、彼らの背後にいた男たちが、一斉に二人を取り囲んだ。シャルスたちは形勢不利な状態に陥った。それでも、カシルは口元の笑みを絶やすことはなかった。
「観念しな」
「この大人数相手じゃ、かないっこねぇよなぁ」
彼らは自分たちが優位であることを信じて疑わなかった。
「そうかな」
カシルのこの態度も、こうなってからはか弱い女の強がりにしか見えない。
「…お前ら、『血染めのドヴィン』を知っているか」
「知ってるぜ。それがどうした?」
「そいつならこれくらいの人数、一瞬で片づけられるだろうな」
「? もしや、おまえがそいつの女だっていうのか」
ハッタリだ、という顔を皆一様にしていた。
カシルは、腰の長剣に手をかけていた。
「それは……」
紫の瞳が、残忍に光を放った。
「私だ!」
カシルがシャルスを見る。
「シャル、手を前に組め!」
以心伝心というやつだろうか。シャルスは彼女の望む形に手を組んで、カシルの方へ身体の向きを変える。
シャルスの手を踏み台に、カシルの身体が周りを取り囲んだ男たちの頭上へ跳躍した。二メートル近く上に跳んだことで、男たちは虚を突かれた。カシルはその隙に、一人の背中に大きな一文字の傷を刻んだ。
靱性に優れた細身の長剣を、彼女はまるで自らの手足のごとく使いこなしていた。
その姿は優美で、血飛沫すら彼女を飾るオプションにしか映らなかった。
彼らの命までは奪わなかったが、行動不能に陥るくらいの深手を、うまく加減しながら負わせていく。
その強さは、圧倒的であった。
それを見てシャルスは、彼女のフルネームがカシル=ドヴィンであったということを思い出した。
『血染めのドヴィン』の名は、シャルスも聞いたことはあった。最強の傭兵と呼ばれる凄腕で、銀色の髪を持つことから、別名『銀狼』とか、古代の言葉で忌まわしき異端の者の意である『フェンリル』とも呼ばれていた。一つの村をたった一人で壊滅に陥らせたとか、一騎当千の強さを持つとか、様々な噂を持っている人物だった。
まさか、カシルがその人物だったとは。
シャルスに限らず、世間の『血染めのドヴィン』のイメージは、屈強な大男とか、長い髪の優男とか、様々なものがある。それらに共通していることは、全て『男』だった。
一体誰が想像できようか。実際にそれほどの強さを持つ者が、この細腕の、氷のような 美貌を持つ『女性』だということを。
あっと言う間に雑魚の八割は片づけた。それでも殺さないように加減をしたので、彼女にしてみれば、いつもより少々時間が掛かっている。
まだ無事だった二、三人は、カシルの瞳に射られて、一目散に逃げていった。無慈悲な光を宿す、紫の双眸。それは美しすぎて、見るものに畏怖の念を抱かせる。
最後に残った昨日の男たちも平静を装ってはいたが、内心では恐怖に震えていた。しかし、ここで平謝りするのは、彼らのなけなしのプライドが許さなかった。
カシルの手にある長剣には、血の一滴すらついていない。あまりに速すぎる太刀筋で、血がつく前に次の獲物への攻撃に移るからだ。
それが、一層彼女の現実離れした強さを物語っていた。
「すげぇ……」
実際は残酷な光景であるはずなのに、何故、美しいと感じてしまうのか。例えるなら、剣の舞。それは激しくも静かな彼女の舞だ。
「次は、お前らか……」
ゆっくりと、男たちの元へと歩み寄る。
それをとどめたものがいた。シャルスだ。
「シャル?」
「カシル。こいつらの始末は、オレがつける」
「だが…」
「原因は俺が作った。これ以上カシルの手を煩わせたくない」
「分かった、シャルの気の済むようにすれば良い。見届けよう」
「サンキュな…」
碧の瞳が、強い決意をもって輝いていた。その目を見てカシルは左手に持っていた長剣をゆっくりと鞘に戻してくれた。
「お前たちの相手は、オレだ」
男たちの表情に、再び余裕が生まれる。正直な話、シャルスのでしゃばりは、彼らにとってありがたいものだった。誰があんな怪物と戦いたいものか。
「お嬢ちゃん、あんまりいきがっちゃいけないよ」
「その女が相手ならともかく、ガキに負ける気はねぇな」
「お嬢ちゃんは、町の隅っこでスリか、身体を売ってる方が似合ってるよ」
そう言って、彼らはシャルスを嘲った。
その瞬間、不快そうにカシルが顔をしかめた。
「カシル、手を出すなよ。オレが落とし前をつけてやらなきゃ気が済まない」
「……分かった」
良い眼だ、とカシルは思った。
「オレは男だ。お嬢ちゃんなんかじゃない」
「これ以上、男の真似なんかしたって無駄だよ」
「可愛い子は、いくら隠したって男には見えないんだからねぇ」
……さすがに、いい加減キレそうになってきた。
「いい加減掛かって来い!」
彼らは一斉にシャルスに襲い掛かった。たとえ相手が少女だろうが、こういう時は全力を持って挑むのが彼らのやり方である。
シャルスは左腕を翳して叫んだ。
「風よ、わが身に宿れ!」
瞬間、シャルスの姿が彼らの視界から消えた。いや、消えたのではない。素早すぎて、彼らの目には映らなかったのだ。
彼らの背後にまわったシャルスは、まず大男の首の後ろに、強烈な延髄斬りを食らわせた。大男は何が起こったか分からぬまま、脳震盪を起こして倒れた。
次に細身の男の身体が宙に舞った。
何が起こっているか把握しきれていないリーダー格の男は、鳩尾に強い打撃を喰らわされた。
そのスピードに、カシルも驚いた。今のシャルスのスピードは、決してカシルに引けをとらない。ただ、力には雲泥の差があるが 。
(シャル……なかなか、やるじゃないか)
延髄斬りを食らわせた男が、暫くするとヨロヨロと起き上がって、シャルスの背後から突進してきた。
「シャル、後ろ!」
カシルが思わず叫んだ。しかし、シャルスはゆっくりと振り向き、その顔には余裕の笑みが浮かんでいた。
「風の聖霊よ。我の望みに応え、力を貸し賜え!」
印を結び、短く聖句を唱えたシャルスの身体から、青い風が発せられた。それはうねり、鋭い無数の刃となって大男の身体に傷を刻んでいく。細かな血飛沫が、辺りに舞った。
魔法という未知の力を目の当たりにした男たちは、明らかに狼狽していた。
魔法 それは、この世界では高位学問であった。
王族や貴族といった上流階級の者にしか学べぬ、庶民とはもっとも縁遠い所にある力。
今、シャルスが使った風の魔法は、ごく初歩のものでしかなかったが、目の前で生じた竜巻は、彼らに恐怖を抱かせるのに十分なものであった。
「ひいぃ」
男たちはやっと悟った。自分たちがどれほどレベルの違う者たちを相手にイキがろうとしていたかを。己がどれほどの墓穴を掘ってしまったかを。
「に、逃げろ」
風の魔法を食らった大男も、慌ててその場から離れようとする。しかし、彼は腰が抜けていたので、ずるずると地面を這うように進むしかなかった。
「こんなものかな」
こんな風に、冷静に戦えたのは初めてのことだった。もし一週間前の自分がこのように冷静に戦うことができていたら、もしかしたら全員は無理でも一人くらいは助かったかもしれない。
そんな考えが過って、シャルスは勝利の余韻に浸ることは出来なかった。
「シャル、やるじゃないか」
「カシルこそ。あんなに強いとは知らなかった」
「……怖く、ないのか」
「何が?」
「血染めのドヴィンだと、名乗った……私のことが」
まったく怖くないと言えば、嘘だった。彼女が剣の舞を舞っていた時、その圧倒的な強さに戦慄が走った。しかし彼女は自分のために戦ってくれたのだ、直接的には、何の関係もない彼女が。
「まあ、全然怖くないと言ったら、嘘になる」
「だろうな」
「けどそれよりも、助けてくれてうれしい気持ちの方が上だった」
カシルの目が大きく見開いた。
「あんたはオレに親切にしてくれた。オレはそのあんたしか知らない。だから、あんたが例え『血染めのドヴィン』でも関係ない」
「シャル……」
シャルスは笑った。強がりでもなんでもない。それが彼の本心だった。それが分かるから、伝わってくるから、余計にカシルは嬉しかった。
どんな反応をするのか見極めたかったという意図があったのだ。
シャルスを他の人とは違うと直感した理由が分かった。シャルスは自分自身を見てくれる。最強の剣士でも呪われし者でもない、カシルという人間を 。
遠い昔、義父を失くした時……力を欲した。
その代償に、義母の命を助けることは出来たが……同時に化け物を見るような目で見られ、恐れられた過去が彼女にはあった。
だから余計にカシルは、普通に扱ってくれるシャルスのこの言葉が嬉しかった。
「シャル、私と来ないか」
こんな人間は滅多にいない。そう思ったら、自然に口に上った。
「オレも、そう言おうと思っていた」
「私は剣、お前は盗賊の技能と魔法を持っている。補完し合うとしたら、これ以上ない組み合わせだと言えるが」
パーティを組む原則は、自分にない技能を持つ者同士であることだ。
「そうだな」
「念のために訊くが、お前、回復魔法は?」
「一応、初級の癒しの術くらいは。軽い傷ならすぐ治せるよ」
「だから、捻挫も一日で治ったんだな」
「ま、そーゆーこと」
これでようやく納得がいった。
「シャル、目的は?」
「とりあえず、この大陸を出るために、港に向かうことくらいかな」
「港? ここからならザウル王国方面のものを使えば…」
そこまで言いかけて止めた。シャルスの顔が明らかに困惑していたからだ。
どうやら、彼にとってザウルは鬼門であるらしい、ということをカシルは察した。
「……ザウル以外の港は、どこも徒歩では一ヵ月以上かかるぞ。馬車でも使うか?」
「オレ、あんまり金持ってない。それに、馬車は確かに早く着くけど、一週間も乗りっぱなしは嫌だ。ケツが死にそうになるぐらい痛くなりそうだからな」
「同感だ。なら、歩いていくか」
「それが良い」
「決定だな」
シャルスは安堵した。確かに馬車を使えば早いが、そういったものを使えば足がつく可能性が高い。あまりノロノロしてもいられないが、性急に事を進めても良い結果は得られないだろう。
カシルは微笑み、手袋を外してシャルスの方に差し出した。その意を察して、シャルスも彼女にならい、手袋を外した。
しっかりと組み合わされる手と手。
「これからよろしく、シャルス」
「こちらこそ」
二人は柔らかく微笑みながら、握手を交わした。
その瞬間、何故か夢の中の赤い瞳と、黒髪の魔術師の面影と…彼女の顔が、再び重なって見えた。
(えっ……何でまた、あの女性とこいつの顔が被さって見えたんだろ……?)
もし、あの女性が…こいつなのだとしたら、あの夢の中ではオレと夫婦だったってことで…と考えた瞬間、猛烈に照れてしまいそうだった。
「シャル、お前がシャルダン……なのか?」
「えっ……?」
こちらがあの夢のことを思い出すのと同じタイミングで、唐突に彼女の唇から……夢の中に出て来た『シャルダン』の名前が出てきて、ぎょっとなった。
「いや、昨晩奇妙な夢を見たんでな。お前に似た男が夢の中に出て来て……何かに追われてて、一緒に旅立っていった……という感じの内容だったんだが。年齢こそ違うが、お前はその夢の中に出てきた男に顔立ちが似てる気がしたんでな。忘れてくれ……」
「それは……その、夢は……」
――昨晩、オレも全く同じ内容を見てるんだ……。
と言いかけたが、彼女と手を繋いだ状態のままだったので妙に心臓がドクドクと脈動していて、呂律が上手く回らず、まともに言葉にならなかった。
次の瞬間、シャルスは目を瞠った。
自分の胸元にある大地の光石が、淡い光を点滅させて……まるで鼓動を刻んでいるかのように輝いていたからだ。
(大地の光石が、輝いてる……?)
この石のせいで自分は追われているのに、こんな風に存在を主張されたら目立ってしょうがない。
とっさにシャルスは空いている方のてでペンダントトップを慌てて握って、その光を隠していった。
動揺したのと、照れてしまったせいで顔が妙に紅潮してしまっていた。
しかし二人は気づいていなかった。
カシルの赤い輝石のイヤリングと、大地の光石が……まるで共鳴するように、同じリズムで淡い光を放っていたことを。
この二つの石が持つ因果も繋がりも、現時点で二人が知ることはなかった。
「……どうした、シャル? 顔が赤いが……?」
「いやいや、なんでもない! 宜しくな、カシル!」
照れてしまったことを誤魔化すために、パっと手を離すと彼女から目を逸らすために空を見遣った。
(凄い…晴天だ。どこまでも澄んで、深い青。そういえば、空が綺麗だって感じるのも久しぶりだな…)
襲撃を受けた夜から、周囲の風景を綺麗と感じる心の余裕すら失っていたんだという事実を…今やっと、自覚出来たような気がした。
空はシャルスの瞳と同じ、深く澄んだ碧い光を放っていた。
祝福するように、 柔らかな風がそっと辺りに吹き抜けていく。
この日から、二人の運命の旅は始まったのであった。
自費出版する際に、幾つか夢という形で伏線を貼らせてもらい、追加加筆してあります。
序章に当たる話が、100年前の勇者と英雄の話のダイジェスト版です。
この話が本編の前編に当たります。
もう一つ、対となる『翠の疾風』も後日掲載予定です。