7 海斗にこだわりたい
「さよなら、慧先輩」
「藤乃さん、また明日」
また明日。教室でよく交わされている言葉を、私もかけてもらえるなんて。温かい気持ちを抱えたまま、私は図書室を出た。
「おかえりなさいませ」
「ただいま」
乗り込むと、車は滑り出す。バックミラー越しに、笑い皺のある山口の目元が見える。
「良いことがあったようですね、お嬢様」
「良いことっていうか……でも、そうね。わかるの?」
「わかりますよ」
慧と、互いに自らの汚点を晒し合ったことで、私自身は最近では一番、良い気分でいる。確かに、良いことがあった。
「安心しました」
「山口が?」
「そうですよ。奥様が、最近表情が暗いと、心配されていましたから」
「お母様が? そっか……」
母は私のことを、よく気にかけてくれる。だから、食事のときなど、顔を合わせるときには、できるだけ笑うようにしていた。
それでも何か、気づかれていたらしい。
「教えてくれて、ありがとう」
何も言わずに黙っているのは、かえって心配させてしまうのかもしれない。山口に礼を言うと、鏡越しの目尻に、さらに深く皺が刻まれた。
「ただいま戻りました」
「おかえりなさいませ、お嬢様」
帰宅すると、鞄は侍女が持って行ってくれる。私は手を洗い、食堂へ向かう。戸を開けてもらって室内に入り、引いてもらった席に座る。何でも自分でやる学校とは違って、家にいると、身の回りのことは何でも人がやってくれてしまう。
慧は、家に帰っても、自分で全部やるのだろうか。
特待生の自宅での生活なんて、何も考えたことがなかった。初めてそんなことに思いを馳せ、私は想像する。彼は、家ではどう過ごしているのだろう。うるさいと言っていた妹は、どんな子なのだろう。
「藤乃ちゃん、おかえりなさい」
「お母様」
帰宅すると、その連絡が、母に伝えられる。食堂のドアが開き、母が入ってきた。
今日の母は、上品なワンピースを着ている。今は家庭に入っているけれど、結婚前は働いていた母は、家でもきちんとした服装をしている。「今は家庭が職場だから」と、以前話していた。
席に座ると、肩にかかった黒髪がさらりと背中に落ちる。母のさらさらのストレートを、私の髪も受け継いでいる。父は癖毛だから、この髪は、母の遺伝だ。
「桂一くんは今日も遅いみたいだから、先にいただきましょう」
「そうなの? お兄様も、忙しいのね」
「大学生だもの。たくさんお勉強しているのよ」
ふわっと微笑む母の頬は、淡い桃色で綺麗だ。
母の笑顔は、花が似合う。実際、母は花が好きで、家のあちこちに手ずから活けた花が飾られている。
藤乃は、藤。兄の桂一の名は、月桂樹から。私と兄の名が植物から来ているのも、母の趣味が影響している。
「今日も美味しそうだわ」
侍女が運んできた料理を見て、母が嬉しそうに言う。お客様に料理をお出しすることもあるから、我が家の料理人は、一流だ。私も毎日、家のご飯を食べることを、楽しみにしている。
「いただきます」
順繰りに運ばれてくる料理を、ゆっくり食べ始める。美味しいものでお腹が満たされていく、幸せを感じる。
「お母様が私のことを心配していたって、山口から聞いたわ」
「そうなの。様子を聞いたのよ。藤乃ちゃんは、あの方と仲が良いでしょう?」
メインの魚をナイフで切りながら、話題を変えると、母はそう返してきた。
「……まあ」
「でも今日は、元気そうね。良いことでもあったのかしら」
本当に、私の変化をよく見ている。自分で鏡を見たって、そんなに変化を感じないのに。
「……悲しかったことを、人に聞いてもらったの。そうしたら、気持ちがすっきりしたから」
「そう、悲しいことがあったのね」
「うん……お母様、海斗様の家から、何か聞いてる?」
今までずっと、海斗との間にあったことは、ひた隠しにしてきた。だけど、今日はなんとなく、水を向ける気になった。
母は、首を傾げる。耳にかけていた髪がさらりと落ちるのを、その細い指でかけ直した。
「千堂さんの家から? 何も聞いてないけど……何かあったの?」
母は何も聞いていないという事実を知れたことが、大きな収穫である。
「ううん、何でもない」
それなら、傷は浅い。本当に婚約破棄するのなら、両親に話が来ていないとおかしい。
海斗が婚約破棄を持ち出したのは、親に言うほどではない、ほんの気の迷いなのだ。 私の目標は、「早苗ざまぁ」によって海斗が彼女に幻滅する機会を作ること。早苗から興味が外れれば、何事もなく、海斗と元の関係になれる。
「そう……?」
探るように、母が私の目を正面から見据えてくる。
「それよりもね、今日、学外活動の話をしたのよ」
見透かされる前に、私は話題を強引に変えた。戸惑っていた母も、徐々に新しい話題に関心が移っていく。
部屋に戻り、ベッドに寝転んで、本を開く。図書室で、新しい本を借りてきたのだ。
今回は、悪役令嬢とヒロインが、結果的に仲良くなるお話だった。
冒頭、婚約破棄を宣言される場面で、ヒロインが二股をかけられていたことを知る。純粋なヒロインは、悪役令嬢と揃って、愚かな元婚約者を糾弾する。
「なるほどね……」
私は思わず、唸った。新しいパターンだ。
れっきとした婚約者がありながら、ヒロインに惚れ込んだ男。互いの家には、真実を誤魔化して、良い顔をしていた。嘘がばれ、それぞれの家族と、真実を知ったヒロインが、皆揃って手のひらを返すのだ。
とにかく、愚かな元婚約者は排除された。そこからは、美しい女の友情と、共同生活が始まる。
「……こうは、ならないわね。きっと」
手を取り合い、楽しく生活している二人の女性を、自分と早苗に重ねてみようとした。無理だった。私と早苗に、重なる趣味などない。
早苗と一緒にいたら、おそらく私は彼女と自分を重ね、劣等感に苛まれるであろう。
元婚約者は悲惨な目に遭っていたが、期待した「ヒロインざまぁ」はなかった。表紙を閉じ、枕に顎を重ね、休憩する。
いつの間にかお話の中では、女同士の、赤面しそうな甘酸っぱいやりとりが繰り広げられている。
「……お嬢様」
「っ、なに?」
控え目に扉がノックされ、私はさっと体を起こした。布団の中に、本を突っ込んで隠す。
「旦那様がお帰りになりましたので、声をかけるように、と」
「ああ、わかったわ。ありがとう」
侍女の言う旦那様とは、つまり、私の父のこと。
ここ数日出張で家にいなかった父が、帰ってきたのだ。
あまり待たせてはいけない。私は起き上がると、スカートの皺を整えた。鏡を見て、乱れた髪を直す。少し乾燥した唇に透明なリップクリームを塗り、それから部屋を出た。
「おかえりなさい、お父様。あ、お兄様も」
「ただいま、藤乃」
「ただいま」
居間に向かうと、ソファに腰掛けた父が、振り向いた。その斜め向かいのソファには、まだ外出着姿の兄が座っている。軽く手を上げて微笑む姿は、高等部時代とは違って、いやに大人に見える。
「藤乃ちゃん、もう寝てた? 起こしてごめんなさいね」
「ううん、まだ起きてたよ」
「よかった。お土産があるから、皆でいただこうと思ったの」
侍女が、テーブルに盛られた果物を置く。赤くてまあるい、小粒の果実。
「さくらんぼだわ」
「頂き物なんだけどね。皆で食べよう」
父が身を乗り出し、さくらんぼをひとつ摘んで食べる。私は空いているソファに座った。母も腰掛け、皆でさくらんぼを手に取る。
甘酸っぱい、爽やかな味が口の中で弾ける。小さい粒から、驚くほどたくさんの甘い果汁が出てくる。ごくんと飲み込んでから、私は暫く、その余韻を堪能した。
「美味しいね、これ」
「だろう? ……桂一は、どうだ、大学生活は」
「楽しいよ」
兄と父は、この4月から通っている大学について言葉を交わす。兄が通うのは、父の母校。高等部から外部を受験し、合格したのだ。
勉強のこと、サークルのこと。兄の話を聞くのはいつも、未来を垣間見ているようで、心踊る。
「藤乃は?」
「私? 私は……」
兄の話すようなきらきらした学園生活を、私は語れない。
「そろそろ、学外活動の時期だよね」
口ごもる私に、兄が助け舟を出してくれる。
「そうそう。お兄様の話を思い出して、クラスで発言したのよ」
今日の教室でのやりとりを、順を追って説明する。兄が適宜話の続きを促してくれるので、海斗の発言から話し合いの終わりまで、ひと通り話した。
「海斗くんが、自分の家のクルーザーを出すって? 千堂さんは、クルーザーを自慢するのが好きだからなあ」
「どうなるか、まだわからないけどね」
「そうだな。……つくづく、藤乃の婚約者を海斗くんと決めてよかったなあ。そういう、皆のために面倒を引き受けられる性格なら、縁を繋ぐ相手として不足はない」
満足そうな父の返答に、やりきれない気持ちになる。私の話に、無論、早苗は登場しない。だから海斗は、「皆のために面倒を引き受けた」ように聞こえる。最初は皆のための発言だったかもしれないが、結局は、早苗のためにすることだ。
「何しろ藤乃には、海斗くんみたいな良い男と結婚して、小松原家の血を繁栄させてもらわないといけないからね」
「……そうね」
私は力なく、同意した。
小松原家の女子として生まれた私に、父が期待するのは、良い家柄の男性との結婚。藤の花言葉は「歓迎」らしいが、私の出生が歓迎されたのは、他家との縁を取り持てるからだ。
私が生まれたのは、海斗と結婚するため。小松原家と千堂家を、婚姻によってつなぐため。
婚約破棄なんてされたら、父にとって、私の生まれた意味がなくなってしまう。
美味しいさくらんぼを食べたのに、口の中が苦くなった。
「私、先に寝るね」
重たく感じる胃の辺りを摩りながら、私は席を立った。皿に盛られていたさくらんぼは、もう空になっている。そろそろ部屋に戻っても、角は立たない。
「おやすみ」
父に母、兄に見送られ、私は今から出た。
「そういえば夕食のとき、藤乃ちゃんがね……」
母が何やら、話し始める。その声が遠くなっていくのを聞きながら、私は部屋に戻り、ベッドに倒れこんだ。ぼふ、と行儀悪く、枕に顔を埋める。
「うー……」
呻く声が、枕に吸われてくぐもる。
あの人気者の早苗に向いている海斗が、こちらを向くには、何をしたらいいんだろう。
早苗の目的を割り出して、それを巧みに邪魔する。そうしてぼろを出した彼女を、きっちり糾弾する。
彼女の足元を早々に崩さないといけない。海斗に見放されたら、生まれた意味がないのだ。
壁は遥かに高いし、越えられる道筋はまだ立たない。目元を枕に押し付け、私は呼吸を整えた。