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6 劣等感の暴露

 ガラスのはめ込まれた戸を開けると、濃密な静けさが前方から吹き付ける。

 その独特な静けさにも、もう怯むことはない。私は、鞄を持ったまま、カウンターに向かう。


「こんにちは」

「あ! ……こんにちは」


 鞄を覗き込んで本を探していると、話しかけられて肩が跳ねる。

 そのままの体勢で顔を上げたら、今日も、そこには慧がいた。


「返却?」

「はい。……慧先輩は毎日、いらっしゃるんですね」


 流れるような返却の手続きを見ながら、私は言った。言ってから、失礼だったかもしれない、と焦る。まるで慧が暇人だと言っているみたいだ。

 慧は、作業の手は止めずに、ちらりと視線だけ上げる。特に、苛立ったり怒ったりしている様子はない。


「そうだね。俺、図書室好きだからさ。受付の当番を、進んで引き受けているんだ」

「へえ……」

「毎日来るくらいだし、藤乃さんも、この雰囲気、嫌いじゃないんじゃない?」


 そう言われて、私はカウンターの周りを見回す。

 柔らかな色合い。窓から射す日差しも、ブラインドで柔らかく遮られている。足元で踏みしめている絨毯も柔らかければ、慧の表情も柔らかい。

 傷つけるものが、何もない空間。


「私も、好きです」


 そう答えると、慧は目を少し丸くした後、細めて笑った。


「ここの学園の人は、図書室なんてなかなか来ないからさ。静かに本も読めるし、勉強もできるし、落ち着くんだよね」

「そうでしょうね」


 海斗に婚約破棄を宣告されるなんて事件がなかったら、この部屋に来ることもなかった。読みたい本があるなら、買ってもらう。つい先日まで、そう思っていたから、私自身も、図書室なんて来たことがなかった。


「俺は、その方が良いんだけどね。家じゃなかなか、読書も勉強もできないし」

「へえ……」


 言いながら、慧は棚に、今返した本を置く。


「その棚は?」

「ああ、これは、返却図書用の棚だよ。帰る前とかにまとめて、ここから、元あった棚に返すんだ」


 3冊しか本の載っていない棚板を、優しい手つきで慧が撫でる。1冊は、今私が返したもの。もう1冊は、青い表紙。


「海の生き物……写真集だ」


 手に取ってみると、海中の美しいイソギンチャクの写真が、表紙になっている。


「それは、俺が借りたやつ」

「慧先輩、海がお好きなんですか?」

「海が好きっていうか……そういう癒される写真って、良い息抜きになるから」


 私は、写真集を取り、中のページをぱらぱらと見た。色とりどりの珊瑚、海藻、貝。海中の光、ゆったり泳ぐ魚。


「あ、マンタ……」


 悠然と泳ぐマンタを、上から撮った写真。大きなヒレが、カーブを描いてめくれ上がっている。


「俺、マンタって好きなんだよね。海を飛んでいるみたいでさ」

「海を飛んでいる……そう言われると、素敵に見えますね」


 大きなヒレを動かし、飛ぶように海中を進むマンタ。昔見た光景を思い出し、懐かしみながら、私は言った。


「私、マンタって怖くて。口が意外と大きくて、近くで見ると食べられそうな気持ちになるんですよ」

「近くで見たこと、あるの?」

「ええ、家族でハワイに行った時に。マンタを夜に見られる体験があって、それに参加したんです」


 本格的なダイビングではなく、浮きに捕まって水中を覗くタイプの、簡単なものではあるが。浮きについている明かりを目掛けてマンタが泳いでくるので、本当に近くで見ることができた。大きく開いた口は自分を食べてしまいそうで、幼い私は、しばらく水族館でマンタを見ると恐怖に固まっていたという。

 今はそこまででもないが、マンタはやはり、苦手なままだ。


「ハワイかあ……行ってみたいな、いつか」

「中等部の修学旅行は、ハワイじゃありませんでした?」

「いや……そっか、藤乃さんは知らないんだね。俺、高等部から入ったんだ、特待生として」


 慧の指先が、とんとん、と棚板を軽く叩く。その声音にどことなく卑屈めいたものを感じて、私は彼の顔を見た。眼鏡越しの瞳に宿る色は、やはりどこか、自嘲的だ。


「図書室にいるのは、家だと妹がうるさくて、勉強できないから。本を借りるのは、お金がなくて買えないから」


 眼鏡のブリッジを押さえ、軽く俯いて視線がそらされる。長めの前髪が、さらりと落ちて、慧の目元が見えなくなる。


「……特待生って、やっぱり目立つからさ。てっきり藤乃さんも、俺のことをわかって話してると思ってた、ごめんね」

「どうして、謝るんですか?」


 いきなりの謝罪に、そう質問で返す。慧は、詰めていた息を吐き出したような笑い方をした。待っていると、「藤乃さん、どれだかわかんないや」と慧は話し始めた。


「本当にわからなくて聞いてるのか、フォローのための質問なのか、それとも、俺をからかってるのか」

「……どういう、ことです?」

「だって、特待生ってそういうものだろ、この学園では。一般生徒の皆さんとは全然違うっていうのは、俺もわかってるよ」


 ふと、私自身も早苗に対して「生意気だ」と思っていることが、想起された。家庭環境を引き合いに出したら、特待生は間違いなく、他の生徒には及ばない。


「藤乃さんは普通に会話してくれたから、喜んでたけど……知らなかったなら、そうだよね」


 慧の滔々とした語り口は、そのことに鬱屈した思いを抱いていることを示している。彼の言っているのは、私が早苗に生意気だと思うような、そういうことを言っているのだ。ちくりと、胸が痛む。

 だけど私は、彼が特待生だと聞いても、何も思わなかった。へえ、と思いはしたが、その程度だ。早苗と、彼とは、違う。


「別に、特待生だと知ったからって、何も変わりません」

「……どうかなあ」

「私にとって慧先輩は、図書室にいる優しい先輩ですから。別に特待生でもそうでなくても、そのことに変わりはないです」


 眼鏡の、シルバーのフレームの向こうに、こちらを伺う慧の瞳が見え隠れする。本心を言わないと、きっと見透かされる。私は、一拍呼吸を置いて、思考を整理した。


「あ、……嘘。特待生なら勉強できるから、勉強教えてほしいって思いました」

「そこなの?」


 ふっ、と慧が笑う。張り詰めていた空気が、柔らかくなった。知らず知らずのうちに緊張していた肩が、すっと落ちる。


「驚いたよ。そういう人も、いるんだね」

「あー……でも、慧先輩が特別なのかもしれません」


 その柔らかな雰囲気に、口が滑り始める。


「私のクラスの特待生は、人気者で。男の子も女の子も、皆周りにいて、そういうの見てると、やっぱり『特待生なのに生意気』って思っちゃいます」

「へえ……藤乃さんの周りには、人は来ないの?」

「そうですよ。私は、話すのも上手じゃないし、愛嬌もないし、お洒落でもないし」


 早苗と自分を比べて、ああでもないこうでもないと思っていたことが、口からぽろぽろ出てくる。情けない話をしていると思ったが、なぜだか、止まらなかった。

 言い続けるうちに、気持ちが重くなってくる。やっぱり私は、早苗には敵わないのかもしれない。だって彼女は、可愛いし、華やかだし、人気者だ。

 頭にぽん、と手が置かれて、私の口は止まった。


「……すみません、お聞き苦しい話を」

「いや、俺こそ、変な聞き方してごめんね。そんなに、卑下しなくていいと思うよ」

「……ありがとうございます。でも、私が至らないのは本当なんです。つい先日、婚約者にも、婚約破棄するって言われちゃったし……彼も、特待生の子のこと、好きだから」


 目を背けたいけれど、まぎれもない事実だった。山口にも、家族にも、誰にも話していないこと。口にすると、その事実が、改めて胸に突き刺さる。

 海斗は早苗にメロメロだし、私は婚約破棄すると言われた。親から話が来ていないのは確かだけれど、時間の問題だろう。それが、事実。


「え。それで藤乃さん、そういう本読んでたの?」


 驚いたような、慧の声。「そういう本」とは、勿論、先ほど返却したような本のことだ。ぼんっと、顔が一気に熱くなった。


「あの、あの……」

「あっ、ごめん、いや、恥ずかしい思いをさせたかったわけじゃなくって」

「図星ですうぅ……」


 頭から湯気が立ちそうだ。熱くなった頬を冷やすように、両手で押さえる。

 婚約者に婚約破棄されたから、同じ立場の女の子が逆転劇を披露する本を読んでいるなんて。現実逃避もいいところだ。


「何となく読んだら、特待生の子みたいな女の子が、やり返されてたりとか、私みたいな立場の子が、頑張ってたりとかして、すごい、共感しちゃって、現実逃避なのはわかってるけど」

「うん、わかるよ、大丈夫」

「私もこれを参考にして、特待生の子とか、婚約者を、見返したいなって……」


 私は、白状した。もう慧には、全て伝わってしまっただろう。今更、素知らぬ顔をする方が、ずっと恥ずかしい。


「普通に読んでて面白いし、私もこんな風に、鮮やかに破滅を回避できたらって……」

「うん、うん。大丈夫だから。藤乃さん、俺、別に全然、おかしいと思ってないよ」


 そうなの?

 漸く言葉が止まり、慧を見る。その目はたしかに、面白がるような感じではなかった。


「辛いことがあって、それでここに来たんだね。どうだった? 本を読んで、少しは気が紛れた?」

「……はい」


 ただ落ち込んでいた私は、読んだことのない本を読み、「早苗ざまぁからの婚約破棄回避」という、普通だったら思いつきもしないような目標を定めることができた。それがあるから、今日も早苗に挨拶できた。前向きな行動に移れているのだから、彼のいう通り、気が紛れたのだ。


「ここにいると、教室にある嫌なことから、離れられるよね」

「そうですね」

「なら、俺たちは似てるよ。俺だって、さっき言ったみたいに、教室では特待生、って色眼鏡で見られてるからさ。ここにくれば、そんな目で見る人はいない。藤乃さんも、俺をそんな風には見ないから、今だってそう」


 本棚に軽く寄りかかり、リラックスした姿勢で、慧は笑った。そのえくぼに、視線が吸い寄せられる。


「だから、別に君がどんな本を読んでいても、それが現実逃避でも、別にいいんだよ。俺だって、似たようなことを、してるんだから」

「……そう、なんですね」


 彼の言葉に耳を傾けるうちに、ざわざわしていた心が、静まってきた。


「すみません、取り乱して」

「俺こそ、迂闊なことばっかり言って、ごめんね」


 ふう、とひと息つく。


「あっ」


 はっとして、私は口元を押さえた。


「どうしたの?」

「図書室なのに、騒いでしまいました」


 赤裸々な話が、利用者にも伝わっていたかもしれない。また頬が熱くなり始める。


「俺たち以外に、人はいないよ。そうじゃなかったら、もっと頑なに止めてる」

「そうでしたか……!」

「今日の話は、お互い秘密だね」


 人には言えない、他者をうらやむ卑屈な気持ち。私にもあるし、慧にもある。

 私は頷いて、差し出された小指に、自分の小指を絡めた。


「約束ね。俺が劣等感を抱いてるっていうのは、誰にも言わないこと」

「はい。慧先輩も、私の婚約破棄のことと、ああいう本を見返すために読んでるってことと、早苗に嫉妬してるってことと、それと……」

「多いね」


 苦笑する慧をよそに、私はきちんと、言わないでほしいことを全て言い終える。


「……約束です」


 軽く手を上下に振って、指を離す。温かい感触が、まだ小指に残っている。


「長々と呼び止めてごめんね。本、探しておいで」

「いえ、お話できて良かったです」


 平静さを失った場面もあったが、会話を終えてみれば、清々しさすら感じる心境になっていた。

 だから、良かったというのは、私の本心。プライドが邪魔して誰にも言えなかったことも、話してしまえば、心のつかえが取れた。


 私は書架に向かい、慧はカウンターに座る。何事もなかったかのように最初の状態に戻ったものの、彼と私の間には、確かにつながる何かが生まれていた。

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