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54 誤解の糸をほどく

「おかえりなさい、藤乃ちゃん」

「ただいま、お母様」


 食堂に入ると、既に母は、いつもの席に座って待ち受けていた。私と兄が席につくと、スープが運ばれてくる。トマトの冷製スープ。暑い夏にはぴったりの、さっぱりした味わいだ。

 パンにオリーブオイルをつけて食べながら、メインの料理を待つ。


「夏休みが始まるわね。藤乃ちゃんは、夏休みの予定はどう?」

「今年は……慧先輩と、たくさん出かけることになりそう」


 母のタイムリーな質問に、私は早速、本題に入ることにした。


「そう。藤乃ちゃんにそういうお友達ができて、嬉しいわ」

「……うん」

「高等部は楽しそうね」


 何も疑わない、母の笑顔。母は慧のことを、女性だと勘違いしたままである。

 男性と出かけるなんてわかったら反対されるかもしれないという、私の自分勝手な心配。それによって、母の誤解を、そのままにしている。

 嘘をついているのと同じだと思うと、良心がちくりと痛む。


 慧が男性だとわかったら、どんな反応が来るのだろう。


 緊張しつつ、私はひと息置いて、「それでね」と切り出す。


「慧先輩と妹さんが、うちのプールを見てみたいって。今度、お招きしようかと、思うのだけど」

「いいじゃない。私も会ってみたいわ、藤乃ちゃんのお友達に」


 少女のように両手を合わせ、微笑む母。言わなければ、と心が急く。


「それでね……お母様は、たぶん勘違いしていると思うの」

「勘違い?」


 母が首を傾げると、私と同じストレートの髪が、さらりと揺れる。


「うん。慧先輩って、男の人なの」

「あら……」


 軽く息を呑んだ母の指先が、口元に添えられる。細くてすらりとした、綺麗な指は、兄によく似ている。ぱちぱち、と幾度か繰り返される瞬き。


「男の人なの? 慧先輩、って?」

「そう」

「あら? ……でも桂一くん、あなた何も言わなかったじゃない」


 戸惑う母の視線は、兄に注がれる。

 兄が、既に慧に会ったことを、母は知っている。

 兄は「まあね」と余裕のある表情を見せた。


「悪い人じゃなかったから、藤乃に任せていたんだよ。海斗とのことも、あの頃はまだ、いろいろと決まっていなかったからさ」

「そう……そうね。なんだ、そうだったのね」


 母は急に、腑に落ちた顔をする。


「もう今は、千堂家の方とも、話がついたものね。隠す必要がなくなったのね」


 ぽん、と手を打つ母の頬は、妙に上気していた。


 海斗の家と話がついた、というのは初耳だ。あのときはまだ、「伝えてみる」という段階だったはず。

 親を通して婚約破棄が成立していることを、私は、頭に入れておく。これで少なくとも、「婚約破棄を宣告される」エンディングは、完全に回避できた。


「それで、慧先輩……が、今度妹さんと一緒に、うちに来るのね?」

「そうなの。……いいかしら」

「もちろんよ!」


 私が心配していたのは、「嘘をついていたから駄目」という、至極真っ当な反対を受けること。それが、思いの外、好意的に受け止められた。


「お父様にも言っておいた方がいいかしら?」

「うーん……まだ、いいと思うわ。とりあえず先に、私に会わせて」


 母はにこにこして、どこか嬉しげだ。何がそんなに楽しいのかわからないけれど、嘘をついていたことを咎められなくて、私は安堵する。


「……ねえ、藤乃」

「なあに、お兄様」

「お母様に、言うことがあるだろ?」


 そうだった。兄に促され、私は母に「嘘をついていてごめんなさい」と伝える。


「嘘? ううん、勘違いしていたのは、私だもの。藤乃ちゃんが言いにくかったのも、わかるわ。あの頃は、いろいろ大変だったものね」

「藤乃、もうひとつあるでしょ」

「え……?」


 そう言われ、兄と先程交わした会話を、思い返す。


 何を言うように、言われたんだったかな。


「……あ、あのね、お母様」

「うん、なあに?」

「別に、婚約の挨拶とか、そういうのではないのよ。慧先輩は、ただ、本当に、良くしてくれる先輩なの」


 誤解のないよう、伝えろと言われていたのだった。兄は、僅かに頷く。これが、正解だったらしい。


「そんなこと、わかっているわ。いきなり婚約だなんて、早すぎるものね」

「え……だけど、海斗様とは」

「あの婚約のことは……ごめんね、藤乃ちゃん」


 母に謝られ、私の方が、虚をつかれてしまう。


「私も、こういう家柄だから、親が決めるものなのかしらと思って、口を出さなかったのだけれど……やっぱり、本人同士の意思を重んじるべきだったわ」

「ええと、それって……?」


 後悔めいた口調が続いて、私は、戸惑った。


「千堂さんの息子さんがいいんじゃないかって言ってたのは、お父様なのよ。今も彼は、女の子は親が見つけてあげないとって、新しい相手を探そうとしているけれど……やっぱりそれは、違うわよね。私は、藤乃ちゃんが、自分の好きな人と、きちんと気持ちを育むべきだと思う」


 母は、きっぱりと言い切る。


「そっか」


 それで私も、なんとなく、母の言葉を理解する。

 親が決める婚約を望んだのは、父。一般家庭から我が家に入った母との、感覚の対立が、そこにはあるらしい。

 そして母は、最初こそ父の言う通りにしていたけれど、今は私自身の思いを尊重してくれようとしている。


「……ありがたいわ」


 私が目指すのは、自分自身のハッピーエンド。父の選んだ相手が、私にとって本当に良い相手とは言い切れないことは、海斗で既に実証済みである。

 悪役令嬢は、行動力。行動した結果、得るものがあったり、新しい発見があったりすることを、私は今まで何回も経験してきた。

 婚約者のことも、そう。ちゃんと自分で「恋愛的に好きになれる人」を見つけて、報告するのが、慧との約束でもある。


「ただ、まだ説得しきれてないから。慧先輩をお父様に会わせるのは、もうちょっと待ってね」

「……? わかった」


 この文脈で、なぜ慧が出てくるのだろう。慧と凛の訪問について、母の了承を得られれば、私は構わない。

 私が頷くと、兄が話に割り込む。


「そうそう、お母様。今度僕も、家に樹くんを連れてくるよ」

「樹くん……ああ、生徒会の?」

「そう。久しぶりに、連絡が来たからさ」


 自然に話題が移り変わり、生徒会の懐かしい話や、兄の近況で食卓は盛り上がる。

 メインの魚料理は、あっさりとした味付けで、夏にぴったり。レモンの、爽やかな香りがしていた。


 慧と凛を家に招待することは、叶いそうね。


 私は、胸を撫で下ろす。良くしてくれる彼らのために、せめてそのくらいは、報いたいと思っていたのだ。

 我が家のプールは地下にあって、天井から光の射し込む、贅沢なつくりをしている。

 きっと、凛が大喜びするだろう。彼女の無邪気なはしゃぎっぷりを想像し、私はひそかに、頬を緩ませた。

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