53 待ち受ける兄と気乗りしない提案
「おかえり、藤乃」
「お兄様……」
玄関ホールには、兄が待ち受けている。私よりひと足先に夏休みに突入した兄は、毎日忙しそうに飛び回っている。
「今日は、早いのね」
何かと予定があって忙しいと、夏休みでも、兄は朝から晩まで外にいる。こうして、家にいるのは珍しい。私が言うと、兄は「当然だよ」と軽く胸を張った。
「藤乃が心配だからね」
「何が心配なの?」
「もちろん、あの子がいい子なのは知っているよ? だけど、やっぱり、健全な関係であってほしいからさ」
兄と慧は、話が合うとかで、そこそこ仲が良い。そんな兄が慧のことを「あの子」なんて呼ぶのは、いささか違和感がある。
家だから、性別をぼかしているのだ。兄は、親が慧を女だと思っていることを知っていて、その上で嘘に付き合ってくれている。
それで、思い出した。
「……私、ふたりを家のプールに招待したいの」
「ふたり?」
「慧先輩と、妹さん」
兄は、はっ、と浅く息を飲む。驚いた様子だ。
「え、いいの? さすがに家に連れてくるなら、お母様たちに……」
「うん。いつまでも嘘をついていても仕方がないし、来たいって言ってくれたから、ご招待したくて」
慧が女だという誤解をそのままにしておいたことを、ちゃんと謝って、招待の許しをもらう。私の計画は、こうだった。
「……そう。藤乃、異性を親に紹介するってさ、普通は、どういう意味?」
「異性を……ああ、婚約や結婚の挨拶の時ですか」
小説などでも、そうした描写は度々ある。兄は頷いた。
「そうだよ。藤乃がやろうとしてるのは、それだってこと、わかる?」
「えっ? ……」
兄の言葉を受け、一瞬、時間が止まった感じがした。
慧を親に紹介するのが、結婚や婚約の挨拶と、同じ? そんな風に思ったことなんて、ない。だって。
「慧先輩は、お互いに、人として好きなのよ」
婚約とか結婚とか、そんなものとは無縁なのだ。ただ、互いを思いやり、人として尊敬し、好いている関係。
「うん、それは知ってるよ」
「だってそんな、婚約とか、結婚なんて……私、恋愛的な好きもまだ、わからないのに」
恋愛的に好きな人ができたら伝えるよう、慧とは約束している。その約束は、今のところ果たされていない。
恋とは、駄目だと思っても、抑えきれない感情のこと。私はまだ、そんな状況に、陥ったことはない。
兄の言葉が意外すぎて、私はしどろもどろになる。
「なら、彼を紹介するのは、まだ早いんじゃないかな」
「だけど……私、慧先輩にも凛ちゃんにも、良くしてもらっているから。凛ちゃんが来たいって言っていて、そうすると慧先輩が喜ぶなら、そうしたいの」
「へえ……」
兄はその細長い指を、顎に添える。輪郭に沿って指を動かしながら、考えている様子だ。
「藤乃には、彼はどう見えているの?」
「慧先輩が? ……ええと……」
浮かぶ言葉が多すぎて、すぐには出てこなかった。私は少し整理してから、口を開く。
「まず、慧先輩は、優しいの。初対面の頃から、図書室の使い方を教えてくれたり、親身に話を聞いてくれたり……」
「うん」
先を促すようなトーンの、兄の相槌。
「勉強も教えてくれるし、あちこち連れて行ってくれるし。他にもいろいろアドバイスをくれて、本当に、申し訳なくなるくらい優しくて」
「それってさ。彼はどうして、そんなに良くしてくれるのかな?」
「私のこと、人として好きでいてくれているからっていうのもあるし……そういう人なんだと思う。優しいの。それでいて、特待生になるくらい、自分のこともちゃんとしているのよ」
話すうちに、私の中にも、慧への感謝の気持ちがむくむくと湧いてくる。彼は本当に、いつも良くしてくれる。どうしてそんなに親身になってくれるのか、不思議なほどに。
「いつも穏やかで、笑うとできるえくぼを見ると落ち着くし、なんだか洗剤の良い香りがして……」
「何で匂いを知ってるの?」
「勉強を教えてくれるときに、隣に座っていたから」
なるほどね、と頷く兄。私は、言葉を続けた。
「だから、どう見えてるかって言うと……素敵な先輩、かな」
「で、藤乃の彼に対する気持ちは?」
「え? だから、人として好きよ」
兄は、顎をなぞる指先の動きを再開する。暫し考え、ふーむ、と吐息混じりに唸る。
「まあ、いいんじゃない。紹介しても」
「いいの?」
「藤乃の話を聞いたら、いいだろうと思ったよ。なんというか……自分の気持ちを整理するのは、藤乃の問題だからね。彼じゃなくてさ」
兄の目に浮かぶ色は、哀れみにも似ている。気のせいだろうか。
「まだ婚約の段階じゃないってことは、誤解のないように伝えるんだよ」
「ええ。そんな誤解は、慧先輩に失礼だもの」
言われずとも、その説明はきちんとするつもりだ。これ以上の誤解を与えるのは、慧にも両親にも申し訳ない。
「彼は失礼だとは思わないと思うけどね」
「そうね。先輩は優しいから……でもやっぱり、私が、申し訳ないもの」
「うん、まあ、そうだね」
兄の声には、諦めに似た色が含まれている。これも気のせい、だろうか。
「僕がちゃんと、お母様をフォローしておくよ。驚くと思うからさ」
「ありがとう」
兄の助力があるなら、安心である。
玄関ホールで、ずいぶんと話し込んでしまった。帰宅予定時刻は、もう過ぎている。夕飯の準備は、とっくに整っている頃だ。
「行こう、藤乃」
兄と共に、食堂へ向かう。夕飯を食べながら、早速、慧たちの話をしたいと思う。
「ああ、そうそう」
廊下を歩いていると、兄が思い出したように話題を変える。
「藤乃、最近樹くんと何か話したの?」
「ああ……この間、学外活動にいらしたので。そのときに」
樹は、現在の生徒会長だ。兄はかつて生徒会長であったこともあり、樹とは仲が良い。
「どうして?」
「いや。久しぶりに連絡が会ったんだよね。卒業して暫くしたから、最近はあんまり、関わりがなかったんだけど」
兄は、ポケットに入った携帯電話を、服の上から押さえる。兄と樹は、連絡先を交換しているのだ。
「生徒会の話、断ったんだって?」
「ああ、そのこと」
私は樹に生徒会役員に誘われ、そして、断っている。
「もったいないなあ。楽しいのに」
「お兄様と違って、私は柄じゃないもの」
「やってみたら案外、楽しいかもよ?」
私は、首を左右に振って拒否の意を示す。兄たちほどの華は、私にはない。人前で話すのは、苦手なのだ。
「まあ、……とにかく僕に何か相談しに、今度うちへ来るんだって」
「そうなのね」
「そう。藤乃にも、話したいことがあるみたい」
「生徒会役員のことではなくて?」
樹が私に話があるとしたら、そのくらいだ。
「まあ、良かったらその日は、家にいてよ」
「……わかったわ」
偶然、その日は慧との約束にも、重なっていなかった。私が了承すると、兄は早速、携帯で何やら連絡を始める。
「無理やり誘わないように、僕からも言っておくから」
「ありがとう」
私はそこまで、樹と会って、話したくはないんだけどな。
樹は、攻略対象だ。少なくとも、ゲームのストーリーが終わる3月までは、距離を取っておきたい。
それでも兄が言うのなら、善処しようと思う。内心のぼやきは、口には出さないで、私は「楽しみだわ」と笑っておいた。




